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7 貉⑤

「えっ……」


 イーはポカンと口を開いたまま、両手でぺたぺたと自分の顔を触った。そして、たった一つの大きな瞳に触れると掌についた雫をじっと見つめたのだった。ニアはその仕草が妙に愛らしく感じて、バッグからハンカチを取り出すと優しく拭った。


「…………イーは私にどう思って欲しいの?」

「でも……」

「でも、じゃない。アンタは私に信じてほしいのそうじゃないの、どっちよ?」

「だって、そんなこと言ったって根拠なんて何も―――」

「あー、これだから未来人は!?」


 ニアは頭をかきむしると目を瞠る豆腐少女の美しい一つ目に指をビシッと突きつけた。


「いい、イー? アンタと私は所詮同じ豆腐を食べただけの仲なのかもしれない。アンタが出鱈目な存在であることは何となくわかるけど、本当は何も知らないし、アンタも私がどう生きてどんなことを考えてきたかを知るわけがない」


 一旦深呼吸する。真新しい檜の匂いが妙に印象に残った。


「でもね、たとえ証明できないとしても相手に信じてほしいという気持ちは大事だと思うんだ。愛情や信頼が全部が全部、何かに紐づいていないと存在しないなんて哀しいよ。ねえ、アンタが私と恋人になりたいと思う気持ちは計算式で証明できるものなの?」


 違う、とニアは喋りながら思う。

 未来人は愛情や信頼といった情緒的、あるいは抽象的概念を決して軽んじているわけではない。むしろ逆で人間は曖昧(ファジー)なものを含む存在であることを認識している。そして、尊重しているからこそ不用意に振り回されないように制度的な枠で囲いこんでいるのだ。

 だから、自分の言っていることは極めて的外れだし、むしろニアこそがイーにどうしてほしいのかよくわかっていない。


 ―――ただ、何となくイヤだった。それだけだった。


 目を逸らしたい衝動をどうにか堪えながら睨むように見つめていたが、イーは小さなため息をつくとまるで呆れるように微笑んだ。


「殺したのはわたくしじゃありませんわ」

「じゃあ、そのスカートの汚れは?」

「『顔無し』の敷地に入るときに少々揉めましたので。そのときに仮面を2、3すりつぶしてやったときのものではないでしょうか?」

「へ、へえー、そ、そうなんだ」


 全く穏やかではないイーの言い分にニアはたじろいだが、すぐに真っ赤になった顔を背けて出口の方へとすたすたと歩き出した。


「さあ、調べるものは調べたし、次行くわよ、次! 時間がないんだから!」

「ああ、お姉さま! 置いていかないでくださいまし!」


 しかし、イーの踏み出しは一歩だけ遅かった。その僅かな間、イーはニアの小さな背中を愛おしく見つめると小さく呟いたのであった。


「(…………まったく。お姉さまがそれを言いますか)」



 時山の車は山裾の駐車場で停車されていた。赤いボディを埋め尽くすように貼られたラリー用のデカールは無個性なEV車のなかでひどく目立つ。鍵は既に開けられており、フロントドアは難なく開いた。ひどく窮屈な車内を検分したが、やはり手がかりらしいものは何一つなかった。


「そういえば、イー。あんた、ムジナと顔見知りなの?」

「えっ?」


 スポーツカー特有のおまけ程度に作られた後部座席に潜り込んだ尻から素っ頓狂な返事が返ってきた。


「えっ?、じゃない。さっき楽しそうに話していたじゃない」

「お姉さまにはあれが楽しそうに見えるのですね…………ああ! もしかして妬いていらっしゃるのですね! そんなあ、わたくしはお姉さま一筋ですわ!」


 情熱的な台詞も尻を向けられては台無しである。


「はいはい、ありがと。それで実際のところどうなの?」

「うう、つれないですわー。ええと、アイツとは昔、トラブルになったことがあって、そのとき一回ぶっ殺してやったんですわ。まあ? お姉さまには劣りますが、わたくしでわたくしでちょっとレアな人間なんで記憶を狙われたんですわ。アイツ、記憶コレクターですから」


 グローブボックスの点検書類を調べる手が止まり、思わずかいてもいない汗を額から拭った。


「…………ちょっと情報量が多くて追いつかないわ。というか、そもそもアンタ何物なの?」

「ふええ? ただの一つ目がチャームポイントの豆腐が好きの美少女ですわ♪」

「(一応、自分が可愛いという自覚はあるのね)…………まあ、よくはないけどいいわ。それで記憶コレクターって?」

「はい、人の悪夢を蒐集するのが生き甲斐なんですわ。元々はシドニーでカウンセラーをやっていたのですが、その性癖で裁判沙汰になって半ば逃げ込むように来日したんですの。そして、どういう因果かその当時はまだ研究施設だったこの場所に流れ着いたんですわ」


 それは18年前のことだという。

 その頃には施設の運営母体は宗教法人に移行しており、初代代表を筆頭に世俗の学会と関わりを持たない独自の理論や技術を追求するユニオンを形成していたという。


「…………ミザントロープ(人間嫌い)

「そうそう、それですわ! そういう変人(天才)たちが世界中から集まって施設利用者を治験者にして好き勝手に研究していたというわけですわ」


 施設の研究テーマは「人にとっての本当の幸福」。

 そんな新興宗教(カルト)さえ建前にすぎない表題をミザントロープの研究者たちは本気で研究し、治験者となった利用者たちはその研究の恩恵を受けていたという。

 施設は秘密裏に運営されていたが、漏れ伝わった伝聞が一般社会に伝わる頃には「まほろば(理想郷)」と呼ばれたそうな。現在の「顔無しの郷」の至れり尽くせりな施設の充実ぶりもその頃の名残だという。


「記憶は人間にとって幸せに直結する要素ですわ。おそらくムジナのヤツはミザントロープたちの研究を手伝いながら、記憶操作のベースとなる技術を何らかの方法で掠め取ったんですわ」


 しかし、最後の入所者を見送ったことで保護施設としての役割は終わり、研究施設も解散が決定した。その頃には主だった研究者(ミザントロープ)はこの地を去っていたが、残った51名で粛々と施設閉鎖の事務作業をしていた。そして―――。


「―――13年前、最後の入所者が旅立った直後、施設職員を含む団体関係者51名が巻き込まれる”事故”が起きた」


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