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5 世界で一番美しい名前①


 5 世界で一番美しい名前


 豆腐少女があの夜と全く同じ姿で目の前にいた。


「よかったらお食べになりませんか?」

「ひいっ」


 一歩踏み出してきたので反射的に飛び退いてしまった。


「はい?」


 しかし、目の前の美少女は血塗りの棍棒は持っていない。あれはニアの妄想の中での話で現実は豆腐の載った小皿を持って不思議そうに小首を傾げている。


「どうかされましたか? もしかして…………お豆腐がお嫌いでしたか?」

「いやいや! 全然! そうじゃなくて! 好きだから!」

「まあ、嬉しいですわ! それでしたらぜひお召し上がりくださいまし! このお豆腐はわたくしがお豆から作ったのですの。そうですかそうですか、お豆腐がお好きなのですのね」


 そう言うと少女は風呂の縁から例の絶対水平ボックスを取り出すと、喜々とした表情で豆腐を掬うのであった。半年前の記憶のそっくりそのままの再現。身体の芯が共鳴するようなこの感覚は既視感(デジヤヴ)をはるかに超えて、自分自身が舞台装置になったかのようだ。


「どうぞ、お召し上がりくださいませ♪」


 小皿が風呂の縁に載せられる。

 そこにはやはり立方体そのものの豆腐とスプーンとフォーク。


「まあ…………なんておきれいな食べ方…………」


 前回とは違い、豆腐は1ミリたりとも揺れることなくニアの小さな口に入った。あの夜の後、豆腐少女を探す過程で何度か古典料理の店を訪れて食べていたのだ。

 だから、全てがあの夜と同じというわけではない。

 そして、豆腐の味は記憶にあったものとは少し違っていた。


「美味しい」


 少女の作った豆腐はあの夜よりも更に美味しくなっていた。清らかさの純度が更に上がり、豆のタンパク質の構造が舌に感じるかのようだ。

 そして、あの夜と違うのは豆腐だけではなかった。


「…………はうぅ」

「ねえ」

「はうぅ、わたくしのお豆腐がお姉さまの中に一つになってきますぅ…………」

「ねえ、ちょっと」

「は、はい! 何でしょうか? お姉さま」

「ちょっと近くないでしょうか?」


 近いどころではない。少女は肌が密着するような距離でニアが豆腐を食べるのを1フレームたりとも見逃すまいと覗き込んでいたのである。お湯の中だというのに少女の温もりと絹のような肌が―――。


「お姉さま、急に水風呂に飛び込んでどうされたのですか?」

「私もお豆腐の気持ちになりたくなったの!?」


 実際は湯豆腐であったが。本当に頭がどうにかなりそうだった。水風呂にあと数秒飛び込むのが遅れていたら、襲っていたかもしれない。


「(でも、それだと本当に仮想空間のときと変わらないじゃない!?)」


 奥多摩に来たそもそものきっかけになった己が痴態を思い出して、ニアの体温は下がるどころかますます上がるのであった。


「さすがお姉さまですわ! それでは私もお姉さまを見習って自分がお豆腐になった気持ちになりますわ!」


 少女はそう言うとじゃぼんと水風呂に飛び込んできた! ここの水風呂は他の湯舟と違って極端に小さく、少女2人でも息と息が触れあうぐらいの密着だった。


「ちょ、ちょっと狭いってば!?」

「はあー、冷たくて気持ちがいいですわー」


 全く話が通じない。このディスコミュニケーションぶりは記憶と何一つ変わらない。


「まったく……ホント変わらないわね……」

「わたくし、本当に嬉しいですわ。こんなところでお豆腐好きの方にお会いできるなんて。甘くないお豆腐を好きな人はあまり多くはありませんから」

「…………えっ?」

「どうかされましたか?」


 不思議そうに首を傾げると少女の濡れそぼった前髪が垂れた。左目があるはずの場所は消しゴムで消されたかのようになだらかだった。


「いや、別に…………」

「もしかしてどこかでお会いしたことがありますか?」


 吸い込まれそうな虹色の瞳に継ぎ接ぎされた顔が映る。

 他人の空似なんて絶対に考えられない。

 その存在が、その記憶が、この世界の何処にも同じものが在ることを許しはしない。

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