紫里はもう青春なんてしない
走った。ひたすら走った。
学校を飛び出した紫里は、まっすぐに、がむしゃらに走り続けた。
どこに向かうわけでも、行きたい場所があるわけでもない。ただ、学校という場所から一刻も早く遠くに行きたかったのだ。
神ヶ崎高校は少し小高いところに建っているため、高校からの道はほとんどが下り坂である。紫里はスピードを緩めることなく、走り続けた。
──いつの間にか、神ヶ崎駅の近くまで来ていた。ゆっくりと走るのをやめ、紫里は息を整えようと、バス停のベンチに座った。
「……はぁ……はぁ……」
紫里は鞄の中を覗いてみる。すると、鞄の内ポケットに二百円が入っていた。
「先週の……ジュースのお釣り……」
紫里は目の前の駅を見上げた。
「どこまで……行けるのかな……」
紫里はまた立ち上がって、駅の方へと歩き出した。
駅内に入ったて切符も買ったが、紫里は電車に乗る勇気が出なかった。どうしたらいいのか分からず、改札の前をずっとウロウロしている。
そんな紫里を心配してか、駅員が声をかけてきた。
「どうかされましたか?」
「え? あっ、いやなんでもないです! 友達と待ち合わせをしていて、あ、友達来たみたいなのでそれでは失礼します!」
早口で駅員から逃れて、勢いのまま紫里は改札を突破した。
がしかし、ホームについた途端、紫里はものすごく後悔した。だが、もうあとには引けないので、とりあえず電車に乗り込んで、駅を出発した──
『まもなく、長天町。長天町』
次の停車駅を知らせる車内アナウンスが、紫里を乗せる電車の中に響き渡る。ドアに顔をくっつけるようにして、紫里は流れ行く外の景色を見つめている。
電車が減速し始めた。紫里の身体が進行方向に少しだけ傾く。
紫里は鞄のポケットから切符を取り出して、その手をスカートのポケットに突っ込む。
(……なんでこんなことしてんだろ……)
紫里はもう自分が何をしたいのかが分からなくなってきていた。
電車はホームに入った。さっきまで目が追いつかないほどのスピードだったが、もうホームにいる人の顔がよく見えるほどのスピードまで落ちている。
電車が停車した。紫里の目の前のドアが開く。下車する人の波に押されて、紫里はホームに降りた。次々と改札へむかう人々を眺めながら、紫里は電車が発車するのを待っていた。
「扉が閉まります。ご注意ください」
アナウンスが流れ、つい一メートルほど前の扉が閉まる。
ゆっくりと電車が動き出し、あっという間に紫里の前から姿を消した。紫里の視線の先に残っていたのは、反対側のホームだけだった。
「もう……いっか…………」
ポツリと呟き、立ったまま反対側のホームをずっと、ずっと、見つめていた。ポケットの中で切符をクシャっと握った手には、少しだけ汗が滲んでいる。
何分経ったのだろうか。駅内アナウンスが紫里の耳に入ってきた。
「二番線に電車が通過します。黄色い点字ブロックの後ろまでお下がりください」
紫里ははぁーっと息を吐きだして、足を一歩前に出した。
「…………あたしが、ここで死んじゃえば……」
紫里の脳内に、いじめられていた時の光景が蘇る。
(あたし……頑張ったよね……? もう……いいよね…………)
紫里は、もう片方の足も前に出して、完全に点字ブロックの内側に入って、目を閉じた。重心を前にすれば、いつでも線路に飛び込める位置だ。電車の通過を知らせるチャイムが鳴っている。電車が近づいてくる音がした──ような気がした。
紫里の身体が前のめりに倒れる。
ゴアァァァァァァァァァァア。
スピードを落とすことなく、電車がホームに滑り込んでくる。
身体が前のめりになった紫里はそのまま──
手をホームについた。
そして、ぺたんと座り込んだ。
そんな紫里のすぐ目の前を、ものすごいスピードで電車が通過していった。
「……あはは……。あたしって、どこまでいっても優しいんだなぁ…………」
紫里の目には、大粒の涙が溢れていた。
死ぬのが怖くなったとかじゃない。ここで死んだら他の人に迷惑がかかっちゃうとかじゃない。
──なんで、死ぬ間際になってあたしをいじめてたやつらの心配なんてしちゃうんだろう。
あたしが死んじゃったら、あの人たちは一生人をいじめ殺したって罪を背負っていかきゃいけない。それは、あたしには関係ない。でも、あんな人たちでさえも、可哀想って考えちゃったんだ……。
「君! どうしたんだ! 大丈夫かっ!?」
紫里を心配して、ホームにいた人たちが周りに駆け寄ってくる。でも、今の紫里にはそんな人たちの声も聞こえなかった。
「優しい人は地獄を見るって……上手なこと言うよね…………」
駅員が到着し、駅員室に行くように促された紫里はようやく周りの状況を理解して立ち上がった。
それから約一時間半ほど経って、紫里は駅員室からの拘束を解かれた。
結局、駅員や警察にはただの貧血でしたと言い張り、希璃弥に見せた作り笑顔で誤魔化して乗り過ごしただけだった。
「……どこに、行こうかな……」
駅から出た紫里は、薄暗くなった小さな通りを行く宛もなくゆっくりと歩き出した。時刻は午後七時を過ぎた頃。帰宅する人々が行き交っている。
通りの両脇には店が並び、たこ焼きやラーメン、牛丼屋にたい焼き屋まで揃っていた。
そんな華やかで賑やかな店に入っていく人たちを横目で見ながら、紫里はその先にある薄暗い静かな路地裏へと入っていく。
(白雪も心配してたぞ)
暗い路地裏を見た途端、紫里の脳内に突然希璃弥の言葉が響いた。紫里はまた涙が零れそうになって、目をギュッと瞑った。でも、涙は止まってくれなかった。
「……なんでっ……なんでぇ……!」
悲鳴に似た声を上げて、紫里は右手を電柱に叩きつけた。ゴンッと鈍い音がする。右手をついたまま、ズルズルと電柱にもたれかかった。
次々と涙が溢れてくる目を、血のついた手で何度も何度も擦る。
「……ごめん…………きりやん……助けてよ……」
蚊の鳴くような、声にならない声で、紫里は希璃弥に助けを求めた。希璃弥が来るはずないと分かっていても、紫里の頭の中には、希璃弥とかぐら、そして晴輝がいた。
「羽澄ーー!!」
突然、声が聞こえてきた。紫里は顔を上げて、声の聞こえた方を向く。
「羽澄さんっ!」
そう言って、路地裏に顔を見せたのは、自転車に乗った希璃弥とかぐらだった。
「……きりやん? かぐらちゃん……?」
「やっと見つけた。羽澄……」