此れから
月日が経ち、あの不思議な春の夜の出逢いと別れから、一ヶ月以上が過ぎた。季節は皐月を迎えたが、今日は初夏並みの気温だ。
楓の耳にそろそろ聞こえてくるのは、大抵が薔薇や菖蒲だが、去年の薔薇の声が、まるで火炙りにされている乙女の悲鳴のようで、自分まで気が滅入ってしまった事を思い出す。今年もそんな感じかな……と、今から憂鬱になっている。
サクヤの声は聞こえなくなってしまったが、祠に通う習慣は変わらないでいた。頻度は減ったが、気持ちが辛くなった時に訪れ、話しかけるように、一人呟いていた。
返事はなくとも、こんな時、彼ならどんな風に答えるだろうか……と考えながら、独り言のように口にすると、次第に気持ちが落ち着き、慰められていく。そして、帰る時……彼女を見送るように、空から細かい霧雨が降り注ぐ瞬間が、何よりもたまらなく嬉しかった。すぐ近くに彼がいる事を、確かに感じられるからだ。
とある休日の暮れ時。学校の同じグループの子と、人気だというカフェに行った帰りだった楓は、あの祠に向かっていた。
最近は友達との交流も意識し、少しでも自分のことを話すようにしている。今日は皆と、人気だという、苺と桜の和風タルトというのを食べてみた。甘い物や可愛らしい物は、楓も好きだ。けど、生の苺のみずみずしい甘酸っぱさと白餡の桜の味……いや、香りが口の中で混ざり合う様は、奇妙な感覚にさせた。合わなくは無い。まろやかな優しい味で、『おいしい』と思った。
だが、『ハル』という名の模造品を食べ、『春』の気分だけ味わうような…… そんな風に感じてしまう自分の心が、哀しく嘆くのだ。
――『春』って、こういうんやないよな……
だが、そんな事を口に出来る訳がなく、皆と同じように『美味しいなぁ』と合わせて、楽しげに振舞った。友達の一人は、連休に藤の絶景スポットにわざわざ行ったのに、大雨で最悪だった……と、食べながら愚痴っていた。
楓が認識している季節とリアルな景観がズレて、脳内がバグを起こす。皆は気にならないのだろうか……なんて感じて返答に困り、『残念やったな』と無難に返すしかなかった。本当の気持ちは、やっぱりなかなか言えない……
そんな顛末に気疲れて落ち込んでしまい、サクヤに会いに行く事にしたのだ。
――そう言や、雨やない日って、どうしてはるんやろ……
今日もだったが、最近は暑いぐらいの晴れが続いている。そんな時は何をしているのか聞いていなかった事に、ふと寂しさを感じた。
おしゃれな流行りのカフェに行くのならと、張り切って履いて来た慣れないサンダルが、疲れた足にダメージを与え出していたが、気にならない。頭上からそよいで来る涼しい風が、少し汗ばんだ身体に心地よかった。石段の最後の段を上がり、夕闇に染まりかけた目印のソメイヨシノに向かう。
今はすっかり新緑にあふれた大木に、あの薄紅の可憐な花の面影は無い。四月上旬にやって来た長雨で、元々、葉桜に変わった彼らは完全に散りゆき、薄紅の花弁が地面の土にまみれ、痛々しかった。
来る途中に通り過ぎた一軒家や公園には、五月の花が咲いていた。ツツジもデイジーもポピーも、花は皆美しく、生きている。世界には他にも沢山の花がある。ソメイヨシノという種類が、近い未来、雨の季節の花と認識され、たとえ絶滅危惧種になったとしても…… 皆、直に忘れて、気にしなくなる。
……いや、元々気にしていないか、心にとめる事を避け、過ごしていくのだろう。だが……
『――楓は、季節で何が一番好きなん?』
『……春。春が好き!』
まだ自然に笑えた頃の幼い自分。一番遠ざけていたのは、実は、彼女かもしれない。
『何で? 夏も秋も、お花とか景色きれいやん』
『お日さん、ぽかぽかしてるし…… 桜、チューリップ、タンポポとか! 春のお花が、いちばん好きやから!』
父もいたが、実質の二人暮らしを始めた頃の、そんな他愛ないやり取りすら未だに切なく、哀しくて、痛々しい。
――あの頃とは、ほんま色々変わったよなぁ……おばあちゃん……
うちは……あんま笑えんくなった位で……あんま変わってへんかも…… 変われんよ……
思い出に後ろ髪を引かれるのを振り切るように、社の方に顔を向ける。――息が、止まった。
祠の近くに人影が見える。艶やかな黒髪の――青年。宵に溶け込み、全身に藍がかかっているように見える出で立ちは、ごく普通のシャツにロング丈パンツ、というラフな服装だったが、無性に惹き付けられた。
それより、何よりも楓を揺さぶったのは、彼が纏う空気だ。ぴん、と張り詰め、背が引き締まるように凛とした、覚えのある……
忘れてない。忘れる訳がない。ひどく懐かしくて、切ないぐらいに安心する、誰よりも大好きな……
「あ、の…… こんばんは……」
考えるより先に、口にしていた。いつもの人見知りの自分なら、あり得ない行動だ。
遠慮がちな楓の挨拶に、その青年はゆっくりと振り向いた。色白で涼やかな目をした……知らない顔。だが……
「こんばんは。参拝ありがとうございます。最近、この町の管理部に就職しました。まだ新人ですが……」
ずっと、ずっと、忘れられなかった。もう一度だけでも聞きたかった。深夜のように静かだが、どこか優しさを含んだ、あの淡々とした響きの、声……
「あの…… 前に、会うた事……ありますよ、ね……?」
期待と確信が入り交じり、歓喜で上ずった声で問いかける。全身がふるふる、と微かに震えているのがわかった。膝に力が入らない。
そんな楓を柔らかな眼差しで見ていた彼は、少し照れ臭そうに微笑を浮かべた。ぎこちない仕草で、ゆるり、と右手を差し伸べ、結ばれた口を開く。
「――咲夜だ。また、これからよろしく……楓」
確かな彼の声で紡がれた言葉が、はっきりと鮮明に見えた。渇いた喉が、熱く詰まった言葉を押し出し、応える。
「こちらこそ…… 今度、水辺に行きましょうか……? 菖蒲も咲いてるとこ、ありますよ…… サクヤさん……」
差し出された大きな手を、躊躇いなく握り返し、握手する。すべやかで生温かい、人間の皮膚の感触。だが、あの雨の夜のように、彼の掌は少し湿り気を帯び、ひんやりとしていた。
目頭が熱くなり、いつかの夜と同じく、楓の両の眼が揺らいだ。いくつもの水滴が溢れ、頬に伝う。何故、ここにこうして在るのか。そんな事は、今はどうでも良かった。
そんな彼女に少し戸惑い、咲夜はもう片方の手で、その滴を拭い取る。
「……水、というのは、こんな温いものなのか?」
ふは、と思わず笑みがこぼれ、泣き笑いみたいな顔になった楓は、握手した方の手に力を込める。ふっ、ふっ、と拙く燻るような笑いが止まらない。少し困った表情で、そんな事を言う彼が可笑しくて、いとおしかった。水の感触や温度の事なんて、おそらく、もうとっくに知っているだろうに……
そんな様子を見て、ほっ、と安堵した後、咲夜はそのままその手で、そっ、と彼女の頭を包み抱いた。気恥ずかしそうに顔を反らし、自分の胸元に涙顔の楓を押し付ける。シャツに彼女の涙が染みた瞬間、二つの心臓が早鐘のように鳴り出した。身体の温度が急に上がり、汗ばんで、熱い――
「……人間というのは、色々騒がしいな」
「です、ね」
知っていくのだ。この人と一緒に、こんな風に……少しずつ。自分を、人間を、この世という摩訶不思議なものを。
花と雨が導いた不思議な出逢いは、彼と彼女の冒険譚に生ってゆく。此れから、二人の。
【完】
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