花曇る夜
翌日。雨は降らなかったが晴れ間は無い、花曇りの湿度を帯びた夜。改めて、祠を訪れた楓は、早速、彼を呼んだ。
「水……サクヤさん、いますか? 楓です」
――本当に、来たのか
「理由、知りたいし……教えてくれます?」
以前と同じくピッ、とした空気の中、静かに淡々と放たれる声に対し、丁寧で毅然とした口調をなるべく意識し、楓は問う。
――お前は、桜が好きなのか
固まっていた瞳孔が無意識に緩み、開いた。楓の時間が急速に戻ると同時に、温かな声と記憶が脳内をぼやり、と包む。
『――楓は、桜が好きなんやなぁ』
心が痛い位懐かしく、いつまでも覚えていたいのに、哀しくて思い出したくなかった記憶。どんな音で紡がれた言葉だったか、今では鮮明に再生できない……
「……なんで?」
朧気な残像を振り切るように、冷ややかに問い返す。質問したのに、逆に問われた事が、はぐらかされたようで不満にも思った。
――好きだから、ずっと私に願っていたのだろう?
「サクヤさんは、好きやないんですか?」
わかってるなら、何でそんなことをわざわざ聞くのだろう…… この水神の考えている事が、まだよくわからない。人間では無い、神様の思考だから当然と言えばそうだが。
――好きも嫌いも無い。桜に限らず、花……地上の生物自体に、関心は無い
予想外の真実に、楓は少しショックを受けた。少なくとも、地上の生物には慈愛があるのだろうと思っていた。天上の神々は、皆そういうものだろうか。それとも、このサクヤという水神が、そんなポリシーなだけなのか……
――雲の声を聞いて、その要求に合った雨を降らす。それが私の役目だ。それ以上でも以下でもない
「……花とか、人間の為……やないんですね」
――お前達人間がどうしようと、基本的に神々や天上の者は知った事ではない。……失望したか?
『――こない汚れとったら、神様気の毒や……』
そう悲しげに呟きながら花を供え、丁寧に手を合わせる、細く小さな背中。そんな様子を半ば嘲笑するように語り、見下す親戚や周りの視線……
再び蘇った忌々しい記憶を頭の隅に追いやり、楓は少し考えた後、静かに首を振った。
「……仕方あらへんかな、と思う」
意外な答えに絶句し、サクヤは沈黙した。地上の者は神に守られて当然、というのが人間の思考と見ていたのだ。
「勝手、やからね。うちら」
春や秋の観光シーズンは特に活気づく名所の神社、社の光景を思い出す。誰がいつ祀ったのか地元住民も知らないという、雨水と苔にまみれた、目の前の小さな祠を見やり、シニカルな口調で呟く。
「普段は無関心やったり、神様自体信じてないのに…… イベントや何かあった時だけ、神頼み」
突然、さあっ、と霧雨が降って来た。たちまち、ひやり、とした湿気が辺りを包む。厚い雨雲に覆われた宵闇の空には、星どころか、月も見えない。
「そんなやから、空……神様も怒ったんやと思とったよ。親や先生らが言う、昔の『ぽかぽかした麗らかな春』とかも、うちは知らんし……」
淡々とした口調で、ぼんやりと語る。が、そこまで言って言葉を止め、喉に詰まった息を呑んだ。
「ただ……桜……花が痛々しいゆうか、聞いてて……辛い。保育園行ってた頃は、こんな聞こえへんかった。もっと明るくて……可愛い笑い声やったんよ。いつからやったかな……」
無理矢理押さえつけ、閉まっていた扉が、少し開いた。長い間こもっていた、どう扱って良いかわからない熱気が、次々に漏れ出していく。
「そもそも、うちかてこうゆう蒸す日とか、雨続き、寒暖差激しいんも体調崩すから苦手やし、色々……正直、息苦しい……」
独り言を吐き出すように呟き続け、客観的に回想する彼女を、サクヤは奇妙なものを観察するように凝視していた。年の割に幼い顔立ちだと思っていたが、口にするのは年頃の少女らしい感受性に、相応以上に達観した考えが交えている。
百年以上存在している彼が、見棄てられたように在る、この祠を司る担当になってから、幾十年経つ。初めの頃は、まめに掃除に来たり、供え物をしに来る人間が割と多くいた。次第にそれも乏しくなり、この数十年は、ここまで気にする人間すら少なかった。
「まぁ……うちも、この能力なかったら、こんなに来てへんかったやろし……偉そうに言えんよな」
――いや。少なからず、お前は来ていただろう
自嘲気味に苦笑する彼女に、当然とばかりに言い切るサクヤに、楓は呆気にとられた。
「……なんで?」
――お前には、他の人間とは少し違う『念』のようなものが纏っている
「ああ……よう言われる。マイペースやとか、古臭いなぁ、とか」
なるほど。やっぱり神様からでもそう見えるのか……と、改めて自虐的になった。
――いや…… 大人でも、こんなに参拝に来る人間は少ない。それも大抵、老人だ。お前みたいな若い女が頻繁に来るなど、何か事情があるのだろうと見ていた
「――おばあちゃん」
――何?
「うちの親、小さい時に離婚して、お母さん……家出てってん。それからずっと……おばあちゃんに……育ててもらったんよ」
彼の言葉に掻き出されたように、いつの間にか、いや、零れた名。誰にも言えなかった、胸の内。無意識に大切に守っていた、楓の聖域の欠片。
両親は激しい仲違いの末に離婚し、母は父に楓の親権を渡し、出て行ったらしい。当時、保育園に通っていた楓は、残された数枚の写真でしか母を知らない。家族で何をしたかも覚えていない。
ただ、いつも二人は怒鳴り合っていた事。『こんなおかしな子、知らん』『私の子やない』と泣きながら、鬼の形相で叫んだ母の像。それでも、たまに作ってくれたおにぎりが美味しくて、とても嬉しかった事だけは鮮明に、強烈に……記憶に残っていた。
おそらく、花の声がどうとか言ったのだと、幼い頃の無知な自分を、楓は呪った。そのせいで、母とは二度と会えない、会ってはいけなくなったのだと、物心ついた頃に哀しく察した。
「水神様の話も、おばあちゃんが教えてくれた。寝る前の話は、そんなんばっか。この土地の昔話、伝承とか。中学ん時に病気で死んでしもたけど…… おばあちゃんだけは、花の声の話、ずっと信じてくれてた……」
そして、笑って褒めてくれたのだ。
『楓は、お花と仲良う出来るんやな。すごいな。おばあちゃんも聞いてみたいわ』
「当たり前みたいに聞いてくれたんよ。大きなってからは不思議やったけど…… おばあちゃんも、見えない神様を大事にしとったからなんやなって、今は思う」
目頭が熱くなり、喉が詰まった。祖母の穏やかな笑顔が、脳裏に浮かぶ。もう一度だけでいいから、会いたい。『声だけやけど、水神様に会えたよ』って……言いたかった。驚くだろうけど……喜んで欲しかったのだ。
「ごめん…… こんな話されても困るわな」
――別に構わない。聞いてるだけだ
「ひっど……」
軽く膨れながらも、楓は少しだけ微笑む。偉大だと崇めていた水神様が、実はこんなに素っ気ない気性だと祖母が知ったら、どんな顔をするだろう……と可笑しくなった。
――……だから、お前はここに通っていたのだな
「え?」
――祖母の習慣、信条を守ろうとしていたのではないのか?
心臓が大きく波打った。ざわめいた後、記憶と共に鈍い痛みが走る。――図星だった。




