まだ出逢っていないあなたに
「だって姉ちゃん、知り合いじゃないんだろ?」
トッドの言葉が胸を抉る。
私はあの人の名前を知ってる。
私はあの人の笑顔も知ってる。
甘いものが好きなことも。家族思いなことも。仕事が忙しいことも。
…ずっと、好きな人がいることも。
そう。私は知ってる。
―――だけど。
だけど、あの人は。
まだ、私の名前すら知らない。
『ロージェスジャム店』
職人街セレスティアの街。大通りからは少し離れた、食料品店が並ぶ一角の奥のほう。
そこにある小さなジャム店が私の働くお店。
たくさんできる果物をどうにか収入につなげたくて、故郷ロージェスの町が協同事業として立ち上げた。
町の周辺にも大きな街はあるけれど。ジャムなら日持ちもするし輸送も簡単、だから思い切ってここセレスティアでお店をすることにした。
警邏隊とギルドの本部のある中央アルスレイムと居住街マゼラの隣。それを支える職人街がセレスティア。お店しかないこの街で、どれだけやっていけるのか不安だったけれど。
店を覗いてくれた人に味見をしてもらったり。
その味見に使うパンの仕入先のお店にも少し置いてもらったり。
そんなことを続けて、どうにか少しずつお客さんにも来てもらえるようになった。
うちのウリは豊富な種類!
定番の十八種類に、季節限定が数種類。さすがに町で取れたもの以外の素材も使ってるけど、果物以外、ナッツや食用花、野菜のジャムもある。
色とりどりのジャムを前に、どれにしようかと悩むお客さん。困ったような、でも嬉しそうなその様子を見るのがたまらなく好き。
この前買わなかったほうを買いに来たの、なんて言われたら、もう本当に嬉しい。
瓶の大きさを三種類にしたのも、色々試してほしいから。店で味見して、小さい瓶で食べてみて。そのうちお気に入りを見つけてもらえればと思う。
店主代理として、弟とふたり、店の二階に住み込んで働きながら。
私は充実した日々を過ごしていた。
その日、珍しく若い男の人がひとりで店に入ってきた。
女の人と一緒とか、家族連れとか。あとは奥さんに頼まれたのかしらって感じのおじさんとか。店に来る男の人はそういう人たちがほとんどだから、少し驚いた。
私より少し年上で。光に透けると青みがかる黒髪で。職人さんぽくもないし、警邏隊員やギルド員らしくもない、落ち着いた印象で。
こんなかっこいい人町にはいなかったよね、なんて思いながら。もちろん顔には出さずにいらっしゃいませと挨拶をした。
少し会釈してくれたその人は、棚に並べられたジャムをゆっくり見ていって。
味見もできるって言っておいたけれど、眺めるだけで手に持ったりはしないままだったから。
遠慮してるのかと思って。よければ味見をって、新作の皮ごとりんごのジャムを勧めてみた。
「ありがとうございます」
少し驚いた顔をしてたけれど、丁寧にお礼を言って受け取ってくれた。食べたあと、表情が和らいだのは気のせいじゃない…と思う。
その人は確認するようにもう一度店を見回してから、私を見た。
「箱に詰め合わせたりとかもできますか?」
「あ、はい。発送もできますよ」
そう言うと、手紙を入れたいので、と返される。
わかりましたと頷いて。
「お決まりでしたらお伺いしますが…」
「全部詰めてください」
何でもないことのように、あまりにさらりと言われて。すぐに理解できなかった。
「…え?」
「小さい瓶で、全種類を一箱に詰めてもらえますか?」
わかりにくかったと思ったのか、言葉を変えて言われるけれど。
全種類?
「…に、二十種類ありますけど…」
「はい。構いません」
この人本気?
そう思って顔を見るけれど、からかってる様子なんて少しもなくて。
「わ、わかりました」
トッドを呼んで手伝ってもらいながら、瓶同士が直接当たらないように薄紙で下半分くるんで。でも箱を開けたら綺麗に見えるように色の配置にも気を付けて。
「こんな感じでいかがですか?」
詰めた箱を見せると、ジャムを見つめる紺色の瞳が本当に優しく緩んだ。
こんな顔もするのね。
「はい。ありがとうございます」
そう言って上げられた顔は、もう普通の笑みに戻っていた。
あとは割れないように紙を被せれば…だけれど。
どう考えても重いはず。
「…あの、配送所に持っていくのも重いでしょうから、もし今手紙をお持ちでしたら、やはりこちらから送りませんか?」
中に手紙を入れるならまだ箱を閉じられない。いくら男の人でも、そんな不安定な状態で持ち運びするには、これはちょっと重すぎる。
「もちろん目の前で梱包いたしますので」
初めて来たお客さんだから、手紙を預ける程信用してもらえてなくて当たり前。
だからそう言ってみる。
その人はしばらくじっと私を見てから、そうですね、と答えてくれた。
「こんなに綺麗に詰めていただいたんですから。このまま閉じたほうがいいですよね」
微笑んでそう言われたから、ほめられたみたいで少し照れくさい。
二通の手紙を入れて箱を閉める。紐できちんと縛ってから紙で包んで。持ちやすいようにまた紐をかける。
「これで送りますので、宛先を」
ペンを渡して送り先を書いてもらう。
「色々ご親切にありがとうございました。よろしくお願いします」
丁寧にお礼を言って店を出ようとするその人を、私は慌てて呼び止めて。
「あの、たくさん買っていただいたので。よければ…」
合間に用意していた小袋を差し出す。
中は定番のりんごジャムの小瓶。
素朴だけど、私が一番好きなジャム。
その人は驚いてから、それでも微笑んで受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
もう一度お礼を言って、その人は店を出ていった。
「豪快な買い方だったよなぁ」
扉が閉まってから、トッドが感心したように呟く。
「喜んでもらえるといいな」
奥に入れとくよ、と、トッドは箱を倉庫部屋に置きに行ってくれた。
ひとりになった店内の静けさにつられて、何となく思い出す。
手紙の宛名は見ないように気を付けたけど、送り先は見てしまった。
ここから離れた地区の町の、女の人の名前と。
最後にはウィルバート・レザンと書かれていた。
ウィルバートさんっていうのね。
相手の女の人は恋人かしら。
かっこいいし、優しそうな人だったから。恋人くらいいるわよね。
詰められたジャムを見たときの優しい顔を思い出す。
きっと、恋人が喜ぶところを想像していたのね。
二十日程して。ウィルバートさんがまた来てくれた。
「先日はありがとうございます」
そう言うと、覚えられていることに驚いたような顔をしてから微笑んでくれる。
「美味しかったので、また買いに来ました」
迷いもせずに手にしたのは、少し酸味を残したベリーのジャムと、蜂蜜多めのレモンのジャム。
試食は渡していないから、恋人のところで食べたのね。
「新作が出たのでお味見いかがですか?」
柑橘ジャムがちょうど並び始めたところだったからそう勧めると、ぜひ、と笑ってくれた。
食べたウィルバートさんは、中瓶をひとつ買ってくれて。一応送るかどうか聞いたけれど、手紙の準備をしていないから持って帰ると返される。
やっぱり恋人への贈り物なのね。
送るのは柑橘ジャムだけと言われたから、あとは手紙を入れればいいように箱に詰めてから渡した。
やっぱり丁寧にお礼を言って出ていくウィルバートさんを見送りながら、大事にされていて羨ましい、なんて思った。
またしばらくしてから来てくれたウィルバートさんは、まだあってよかったと言いながら、柑橘ジャムの大瓶を買ってくれた。
また送るというから箱に詰めたけれど。前回の中瓶に加えてこの大瓶となると、かなりの量になる。
「気に入っていただけたみたいでよかったです」
そう言うと、その顔に思い出したような笑みが浮かんだ。
「焼き菓子に混ぜ込んでました」
「え?」
混ぜ込む? 添えるんじゃなくて?
意味がわからなくて聞き返すと、どうやら生地に混ぜ込んで焼いていたらしくて。
「そんな使い方もあるんですね」
素直に感心してると、ウィルバートさんはそうですねと頷いて。
「…本当に。色々と驚かされます」
ジャムを見るウィルバートさんが、本当に優しくて嬉しそうな声で呟くから。
思わず顔をまともに見てしまってから後悔した。
何よりも大切なものを―――愛しい人を、見る眼差し。ここにはいない恋人を、間違いなく想うその瞳に。
ぎゅっと、心を握り潰される。
―――そんなつもりじゃない。
まだ店に三度来ただけの、ただのお客さん。
若い男の人が珍しいから。
最初の買い方が豪快だったから。
だから気になるだけ。
ただ、それだけなの。
その後もたまに来ては、自分用にと小瓶を買ったり、新作が出てたら恋人に送ったりしていたウィルバートさん。
世間話ついでにどれが好みが聞いてみたら、まだ食べたことがないものもあるって言うから。少しずつ定番の味見もしてもらった。
普段は終始穏やかな表情のウィルバートさんだけれど、時々ものすごく優しい目をして何かを考えてるときがある。眼差しの向こう、誰を見ているのかなんて考えるまでもない。
離れているのに、こんな顔をしてもらえるのね。
ちりりと痛む胸を気のせいだと思い込む。
こんな恋人がいて羨ましい。
きっと、そう思ってるだけなの。
店の扉が開く度に期待して。
街で黒髪の男の人を目で追って。
今日は来なかった、なんて一日の終わりにがっかりして。
そんな自分に気付きたくなかった。
あの眼差しを自分に向けてもらえたらなんて。そんなことを望む自分を知りたくなかった。
だって。無理だもの。
相手のことを考えるだけであんなに優しい顔をするくらい想っている人がいるのに。
邪魔はできない…したくないの。
それに。どうせ私には、何もできない。
だから私は私の気持ちを認めない。
傷付くのはわかってるから。
いつまでも、わからないままでいい。
その日、久し振りに来たウィルバートさんはひとりじゃなかった。
私と同じくらいの年の男の人。
暗い青色の髪に鮮やかな紅い瞳のその人は、ウィルバートさんとは全然似ていないけれど、彼のことをウィル兄と呼んで。ウィルバートさんは彼のことをフェイトと呼んでいた。
ウィルバートさん、ウィル兄って呼ばれてるのね。
新作が三種類出てたからふたり分試食を出して、仲のよさそうなふたりを見ていた。
ウィルバートさんの話し方はいつもよりも自然に砕けていて。親しい人相手だとこんな話し方になるんだと知って、何だか少し嬉しくなる。
年上だからただそう呼ばれているだけなのかと思ったら、本当に兄弟だったみたい。ふたりの会話から、今日は帰省のお土産と恋人の誕生日プレゼントを買いに来たことを知った。
店内を見ていたウィルバートさんが、ふと私を見る。
「すみません、これは…?」
棚の隅に置いてある手書きの冊子。表紙には『ジャムを愛するあなたへ』と書かれてある。
…恥ずかしいから聞かないでほしかった…。
「すみません…。ここの代表…店主みたいなものなのですが、その人が書いたレシピです…」
「レシピ?」
「はい……」
この協同事業を言い出したのがお兄ちゃんで、もう無類のジャム好きで。全レシピの考案と作製指示をしているのだけれど。
おおらかというか。ただのジャム馬鹿というか。
この気持ちを皆とわけあいたいんだとか何とか言って、レシピももし聞かれたら教えていいと言われている。
そんなお兄ちゃんが書いたレシピ。
どうしてもって言われて最近一冊だけ置いたんだけれど。
そんなことをウィルバートさんたちに話すと、ふたりは顔を見合わせて優しく笑った。
「うちと似てるよな」
「そうだな」
ウィルバートさんたちも家族だけの小さな村が故郷で、村として事業をしているらしい。
「それで故郷を離れて…」
「弟が一緒ですし! 兄も頻繁に来てくれていますから」
何だか心配されていそうだったから慌ててそう言うと、そうでしたか、と頷かれる。
「そんなとこまでうちと似てんだな」
フェイトさんがさらに笑って。
「その弟さんとは話が合うかも」
「…どういう意味だ」
ジト目でフェイトさんを睨むウィルバートさん。こんな顔ももちろん今までに見たことがない。
本当に、いつもより表情が優しくて、素直に感情が出るようで。フェイトさんに気を許していることがよくわかる。
きっと恋人には、もっといろんな顔を見せているのよね。
ウィルバートさんは恋人用に新作三種類の大瓶と、お土産用に新作の桃と定番のりんごを大瓶で三つずつ買ってくれて。フェイトさんとふたり、絶対気に入りそうだって言って、お兄ちゃんのレシピまで買ってくれた。
家族だけの小さな村って言ってたけれど、どう考えてもお土産の量が一家族分じゃない。
驚いてたら、うちは兄弟が多いからってフェイトさん。確かにうちも、両親と祖父母、姉夫婦、兄と弟と私、よく考えたら九人いるものね。兄弟が結婚していたら結構な人数になるかしら。
全部持って帰るって言うから心配したけれど、フェイトさん、ギルドで鍛えてるから大丈夫って。
フェイトさんはギルド員なのね。
お礼を言いながら出ていくふたりを見送って。
久し振りにウィルバートさんが来てくれたことと。
普段の様子が見られたことと。
嬉しかったことに蓋をして、私は私の日常に戻った。
それ以来、ウィルバートさんが店に来ることは段々と減って。
翌月の終わりに新作の梨のジャムを買いに来てくれたけれど、あとは時々フェイトさんが小瓶を買いに来るくらい。
ウィルバートさんの仕事が忙しくて代わりに来ているのだと、フェイトさんが教えてくれた。
それから一度も来ないまま年が明けて。また、柑橘のジャムが出始める頃になる。
ウィルバートさんが初めて店に来て一年。
もう季節限定の新作もひと通り試したんだもの。
きっとこのまま段々と来なくなるのよね、と、内心諦めかけていた。
その日、本当に久し振りにウィルバートさんが来てくれた。
いつの間にか店の扉が開く度に期待することもなくなっていたから、本当に何気なく顔を上げると彼がいて。驚きすぎて息が止まった。
目が合ったから慌てていらっしゃいませと声をかけると、少し笑って久し振りに来れましたと言ってくれたから。私のことを覚えててくれたのかしら、なんて都合よく解釈したくなってしまう。
ウィルバートさんは、恋人に柑橘の大瓶と、故郷に柑橘とベリーの大瓶ふたつずつを送りたいと言って、手紙を預けてくれた。
「梱包するので待ってもらえますか?」
前同様目の前で、と思ったら。
「信用していますので。預けていきます」
そう言って、送り先のメモを渡して帰っていった。
ほんの短い来店時間。
信用してもらえているのが嬉しいのと。
帰ってしまったのが残念なのと。
そんな気持ちの狭間、しばらく閉まった扉を見つめていた。
我に返って、頼まれた梱包を始める。
手紙を間違えないように何度も確認して。メモに書かれた送り先を代筆する。
故郷、家名と同じ、レザン村っていうのね。
フェイトさんが仕事が忙しいって言っていたけれど、ものすごく疲れた顔でもなかったから。ちゃんと休めてるのかしら。
久し振りに顔を見られたけれど、やっぱり穏やかな微笑みで。
ジャムの向こうに恋人を見るような、あの眼差し。
いつも通り、優しい瞳をしていた。
また来てくれるかもなんて、自分の中に生まれた期待に目を背けて。
出来上がった荷に視線を落とし、息をついた。
淡い期待に目を背けるまでもなく、それからまたウィルバートさんが来ない日が続いた。
あれからしばらくは無意識に黒髪の男性を目で追う日々だったけれど。徐々に、やっぱりそうよねという諦めが心を染めていく。
忙しいって言っていたもの。
当たり前、よね。
そう自分を納得させて。
何もかも諦められた気になっていた。
そんな私の覚悟を問うかのように。
二月程して来てくれたウィルバートさんの隣には、金髪の若い女性が寄り添っていた。
いらっしゃいませの言葉が尻窄みになる。
親しげに笑い合うふたりの姿に目の前が真っ暗になる。
「ここがそうなの?」
ウィルバートさんと変わらないくらいの年の、大人っぽくて綺麗な人。
ふたり並ぶと、大人の恋人同士って感じで。ものすごくお似合いだった。
見上げる彼女を優しい瞳で見返すウィルバートさん。
「そう。いいよ、好きなの選んで」
柔らかな声音。砕けた言葉。心を許しきったその表情。
諦めたはずなのに。胸が痛い。
仲睦まじいふたりを見ていられなくて、試食を用意するのを口実に視線を逸らす。
でももちろんそんなに時間はかからないから。
彼女さんもウィルバートさんももう全部食べたことはあるけれど。とりあえずは季節物を試食に出すことにする。
「あの、よろしければ。今年の分がまた入りましたので」
そう言って、桃と赤と白のぶどうを試食に出す。
去年はフェイトさんが初めて来てくれたときに出した三種類。
彼女さん、少し驚いたように私を見て。それからウィルバートさんを見て。彼が頷くのを確認してから、私に微笑みかけてくれた。
「ありがとう。いただくわ」
もうその言動だけで、いい人なんだってよくわかる。
ウィルバートさんの彼女なんだもの。当たり前よね。
嬉しそうに食べてくれた彼女さん。私にもう一度お礼を言ってくれてから、ウィルバートさんを見上げた。
「これ。お土産にもらったやつよね?」
お土産?
彼女さんの言葉に私は動きを止める。
「ああ。フェイトに種類増やすよりも量をって言われたから。桃しか買わなかった」
「わかるけど! ウィル兄、よくひとつに絞れたわね…。これ、味見すると絶対に迷うやつよ」
……ウィル兄……って、もしかして。
兄弟が多いと言っていたフェイトさん。
ウィルバートさんの故郷へのお土産には、ぶどうジャムは買っていなかった。
フェイトさん同様全然似ていないけれど。
もしかして。
…妹さん、なの?
ウィルバートさんは優しい笑みのまま彼女を見返した。
「お前の結婚祝いもあるから。こんなときくらい好きなだけ買えばいい」
「ウィル兄…」
「それに。向こうのお祝いも正直何にすればいいか迷ってたから。一緒に見てもらえて助かった」
向こう、が誰のことなのか。
その直後に彼女が呟いた名前は、あの遠い町の女の人の名前だった。
「結婚、来月末よね…」
「こっちは連名で贈るから。お前は村から贈って」
村ってことは、やっぱり妹さんなんだろうと思う一方で。
さっきの話が頭から離れない。
ウィルバートさんが本当に優しい表情で思い出していた人。
恋人なのだと、ずっと思っていたのに。
ほかの人と結婚するの?
恋人じゃなかったの?
顔に出てしまいそうだったから、その場ではそれ以上何も考えないようにと言い聞かせる。
ウィルバートさんは遠慮する彼女にいいからと言い切って。どうせ皆も食べるだろうからと、彼女が選んだ十二種全部を大瓶で頼んでくれた。
頼まれた送り先は、やっぱり故郷のレザン村で。宛名はウィルバートさんと同じ家名の女の人の名前。
やっぱり妹さんなのね。
「ありがとう、ウィル兄」
「これくらい」
そう笑うウィルバートさんは、フェイトさんを見るのと同じ、とても優しい眼差しだった。
ウィルバートさんと妹さんが帰ってから、頼まれた商品を荷造りしながら考える。
ずっとずっと、ウィルバートさんが優しい眼差しで想っていた彼女。
今日もやっぱり、彼女のことを話すときは嬉しそうで。本当に大切に思っているのだとわかる顔をしていたのに。
お祝いってことは、ウィルバートさんじゃない人と結婚するってことよね?
ウィルバートさん、彼女のことが好きなんでしょう? なのにどうして、そんなに優しい顔で笑えるの?
どうして、ウィルバートさんとじゃないの?
じわりと浮かんだ涙を慌てて拭う。
確かに私は彼のことを素敵な人だと思っているけれど。今このことを喜ぶ気になんてなれない。
だって。ウィルバートさんは、目の前にいない彼女のことを、あんなにいとおしそうに、あんなに大切そうに、思い出していたのに。
あんなに嬉しそうに微笑んでいたのに。
その想いが届かなかったってことなのよね。
こんなことって。悲しすぎる。
その日も。次の日も。ずっと考えていた。
あんなに素敵な人が、あんなにまっすぐ気持ちを向けていたのに。
それでも叶わなくて。
ほかの人と結婚するのに、彼はどうしてまだあんな表情で微笑むことができるのか。
私にはわからない。
彼がどんな気持ちで、好きな人への結婚祝いを選んだのか。
どんな気持ちで、それを贈るのか。
どんな気持ちで、祝いの言葉を口にするのか。
私には、わかりそうにない。
わからないのに。なのにどうして、こんなに悲しいのかしら…。
それから私はウィルバートさんのことばかり考えるようになっていた。
好きな人がほかの人と結婚するのに、まだあんなに大切そうな瞳をするウィルバートさん。
まだ、彼女のことが好きなのかしら。
彼女はまだ大切な存在なのかしら。
辛くないのかしら。
好きな人が結婚する。
そう想像するだけで悲しくて仕方ないのに。
どうしてあんなに穏やかに笑えるのか。
わからないから気になって。
わからないことがもどかしかった。
そんな日が数日続いて。
ぼんやりとしていた私は、試食用のパンを取りに行った帰り、大柄な男の人三人に取り囲まれることになってしまった。
道を聞かれて。答えて。
普段だったらさっとその場を去るのに、少し遅れてしまったら、いつの間にか行く先を塞がれてた。
「あの、通してもらえますか…」
「いや、待ち合わせまでまだ時間があるから。お礼がてらお茶でもどうかなって」
にっこり笑ってそう言われるけれど、全然通してくれる気はなさそう。
一緒にお茶を飲む気はないし、店に帰らないといけないけれど。店のことを言うとついてこられそうで怖い。
「あの、困ります。このあと用事がありますので…」
「つれないこと言わないで。ただお礼がしたいだけなんだから」
「少しだけ、ね?」
どうしよう。
大きな街だから、都合よく知り合いが通りかかったりしない。
やっぱり店のことを話すしかないのかしら。
店番があるから、と言おうとしたそのとき。
うつむく視界に、立ち止まる足が映った。
「何をやっている」
聞き覚えのある声に驚いて顔を上げる。
ウィルバートさん?
もしかして助けに来てくれたの?
そう思った瞬間、私を囲んでいた男の人たちが一歩後ずさった。
「レ、レザン補佐……」
「また声をかけている奴がいると本部に苦情が来ているんだが」
こっちが知り合い?
私の甘い考えなんてすぐに覆されて。
明らかにおどおどしだした三人を、厳しい顔付きで見るウィルバートさん。その瞳に、私は映っていなかった。
「身分証。出して」
おとなしく掌程の紙を取り出して見せる三人。自分のメモに何かを写して、ウィルバートさんは顔を上げる。
「改めて呼び出すので、本部で待機を」
「わかりました…」
「ちゃんと謝って」
立ち去ろうとする三人にそう言ったところでようやく私に気付いて。少し驚いた顔をしたけれど、その場では何も言わなかった。
謝る三人が立ち去ってから、ウィルバートさんが改めて私を見た。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
頭を下げて謝られて。私は慌てて首を振る。
「い、いえ。…あの、彼らは…?」
「ギルド員です。私は事務長補佐をしています」
ウィルバートさん、フェイトさんと同じでギルドの人だったのね。店では自分のことは俺というのに今は私なのは、お仕事として来てるからなのかしら。
「後程正式に謝罪に―――」
「声をかけられただけなので大丈夫です! そんな大事にしないでください」
そんな大仰なことをされても困るから本気で辞退を示すと、ウィルバートさんは申し訳なさそうな顔のまま、もう一度謝ってくれた。
「…店に戻るところですか?」
私の持つ袋を見て、買い出し帰りだとわかったみたい。頷くと、少しだけ表情が和らいだ。
「送ります」
「え、でもすぐそこ…」
「あんなことのあとですから。送らせてください」
有無を言わせず言い切られて。
ウィルバートさんと並んで歩くことになってしまった。
私の右側、ウィルバートさんが歩いている。
どうしよう。嬉しいけれどものすごく緊張してしまう。
店で応対するのはここまで気にならないのに、今は右側にばっかり気がいってしまっていて。
右側、熱いような気さえしてくる。
「あの…」
「は、はいっ」
真横から突然声をかけられて。思ったよりも声が近くて、もう飛び上がりそうなくらい驚いて。
妙な返事をしてしまった私に、ウィルバートさんはちょっと驚きながらも和らいだ顔を向けてくれた。
「以前にも声をかけられたりしたことは?」
…なんだ。お仕事としての話なのね。
当たり前のことなのに、少しだけ浮かれてた気持ちが落ち込む。
「今日が初めてです」
そうですか、と頷いて。
「あの三人には釘を刺しておきますが、また同じようなことがあれば遠慮なくギルドに仰ってください」
俺に、ではなくて、ギルドに。
そう言われたことに勝手に少し傷付きながら。
わかりましたと、頷き返した。
ウィルバートさんと初めて並んで歩いたこの時間。
ものすごく緊張して。ものすごく幸せで。そして、少しだけ悲しくて。
このままずっと。心の中でそう願うけれど、叶うわけもなくて。
元々そんなに距離はなかったから、すぐに店に着いてしまった。
「ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、本当にすみませんでした」
お礼を言うけれど、謝罪で返される。
「では」
「あのっ!」
その場を去ろうとするウィルバートさんを思わず呼び止めると、足を止めて私を見てくれる。
名残惜しくて思わず呼び止めてしまったけれど、何があるわけでもない。
「助けていただいたお礼を…」
「迷惑をかけたのはこちらなので」
必死に絞り出した言葉は、あっさりと断られた。
「また買いに来ますね」
少し笑ってそう言って、ウィルバートさんは振り返りもせず帰っていった。
「姉ちゃんおかえり。遅かったな」
店に入るとトッドが心配そうに迎えてくれたから、何があったかを話した。
「…何かお礼をしたかったんだけれど…」
呟く私にトッドが呆れたように笑う。
「何言ってんだよ。それじゃあ姉ちゃんに声をかけた奴らと一緒じゃないか」
思わぬ言葉にトッドを見ると、何を今更、とでも言いたげな眼差しを向けられる。
「だって姉ちゃん、知り合いじゃないんだろ?」
頭から冷水を浴びせられたような。
そんな、気持ちになった。
私があの人の名前を知っているのも。
甘いものが好きなことも。家族思いなことも。仕事が忙しいことも。
好きな人がいることも。
全部本人から聞いたわけじゃない。
私はただ見てただけ。
そう。
あの人は、私の名前すら知らない。
あの人にとっての私は、ただのジャム屋の店員でしかない。
私はまだ、あの人に出逢えてすらいないのね。
夜、自室でひとり考えていたら涙が止まらなくなった。
私のことなんて何も知らない、出逢えてもいないウィルバートさん。
そんな彼と、ほんの短い時間、ただ並んで歩いただけ。
たったそれだけのことなのに、宝物のように大事に思えて仕方がない。
あのとき私は幸せだったけれど。
でも、彼にとってはお仕事だということが悲しかった。
どうしてかなんて。もうわかっている。
ずっと目を逸らし続けていた自分の気持ち。
彼とちゃんと出逢って。
認めたい。
それから。私がウィルバートさんと出逢う為にどうすればいいのかを必死に考えた。
もちろん店で待っていれば、きっといつかは来てくれる。けれど、それでは今までと同じで店員とお客でしかない。
ギルドの本部に行けば会えることもわかっていたけれど、それだって同じこと。
私は私として、ウィルバートさんと出逢いたかった。
結局、お昼の休憩時間に街に出ることしか思いつかず。それからは毎日毎日街に出て、大通りに立って。ただひたすらにその日を待った。
忙しいことはわかっているから。そんなにすぐには会えるはずもない。
そう言い聞かせて、挫けそうになる自分を励ました。
お店の邪魔にならないように、私がいつも立っているのは十字路の角なんだけれど。その角と向かいのお店の人が、寒いでしょって時々お茶を差し入れてくれるようになった。
少しずつ話をするうちに、たまに様子を見てもらえないかとトッドに頼まれたと教えてくれた。
お兄ちゃんが来ていたときに、ついてきていたのかしら。
いい弟さんねって言われて、少し照れくさかった。
一度だけフェイトさんを見かけて、お互い軽く会釈をしたけれど。
結局ウィルバートさんには会えないまま、一年の最後の月に入った。
日増しに冷えていく中、その日も私はいつもの場所に立っていた。
通り過ぎかけて足を止め、私のほうに近付いてきてくれる人がいた。
「どうしたの? 前もここにいたよね?」
深紅の瞳が心配そうに私を見ている。
フェイトさんだった。
こんにちはと挨拶をしたけれど。どうしてここにいるのかを、フェイトさんに話すわけにはいかない。
「探している人がいるんです」
本当は少し違うのだけれど、そうとしか言えなかった。
手伝おうかと言ってくれるフェイトさんに、大丈夫だと断って。
「私自身が出逢わないと意味がないんです」
そう言うと、怪訝そうな顔をしながらもわかったと返してくれた。
「いつもこの時間に?」
「お昼にしか抜けられないので」
それもそうだと笑うフェイトさん。
「弟さん、心配してるんじゃない?」
毎日毎日出ていく私を、確かにトッドは気にしてくれているけれど。
「諦めてもらっています」
譲る気はないから。トッドには悪いと思っているけれど、やめようとは思わない。
フェイトさんは苦笑して。
「こっちはそっちが思ってる以上に心配してるんだけどな」
トッドと同じ、弟としての立場でそう教えてくれた。
そうしてまたウィルバートさんを待つ日が続いた。
どれだけでも待つ覚悟はしていたのだけれど。
思っていたよりも早く、その日はやってきた。
いつもの時間、いつもの場所。いつも通り行き交う人たち。
その中に、ずっとずっと待っていた姿が見えた。
近付いてくる黒髪の男の人。見間違いじゃないかと何度も確認をする。
早くなる鼓動。顔が火照って寒さなんて感じなくなる。
やっと会えた。それだけで泣きそうになる。
もうすぐそこまで来ている。
声をかけないと。呼び止めないと。
今度こそ、出逢わないと。
私はこのまま進めない。
「あ、あの!」
私が勇気を振り絞るのと、ウィルバートさんが私を見るのはほぼ同時だった。
少し驚いた顔をしてから、近付いてくるウィルバートさん。
「こんにちは。こんなところでどうしたんですか?」
私の前で足を止めて、ウィルバートさんが笑顔で挨拶をしてくれるけれど。
これはジャム屋の店員の私に向けられただけのもので。
私自身に向けられたものじゃない。
「……待ってたんです」
ようやく会えた嬉しさと、やっぱり店員でしかないことへの悲しみと、ようやく出逢える期待と不安と。
頭は真っ白で、胸はいっぱいで。
視界が、滲む。
「…私は、ソニア・グレイスといいます。よければ名前を、教えてもらえませんか…?」
本当に驚いて私を見たウィルバートさんは、しばらくそのまま凝視してから、ふっと息をついた。
「…そうですね。まだ名乗っていませんでした」
そう呟いて、まっすぐ私を見て。
「ウィルバート・レザンです」
その名を私に告げてくれた。
涙が頬を伝うのがわかる。
これでようやく、私はあなたと知り合えた。
これでようやく、私は私の気持ちを認めることができる。
私の前、慌てるウィルバートさんに謝りながら。
まだ胸の中。そっと呟く。
私はあなたが好きなんです、と。
大丈夫だと言ったけれど、ウィルバートさんは店まで送ってくれた。
前と同じ、短い距離ではあったけれど。
お互い弟がいるから名呼びで、とか。
今日はフェイトさんに誘われて来たのだとか。
他愛もない話をしながら。ギルドの事務長補佐とジャム屋の店員ではなくて、ウィルバートさんと私として。
こうして並んで歩けたことがとても幸せだった。
店の中にはトッドと、何故かフェイトさんがいて。
ちゃんと会えてよかったと笑うふたりに、どうしてウィルバートさんがあの場に来たのかを知る。
「まぁ、俺らにできるのはここまでだから」
そう言うフェイトさんを小突いて溜息をつくウィルバートさん。
「…すみません、今日はこれで失礼します」
申し訳なさそうに言われたけれど、私はとんでもないと首を振る。
「送っていただいてありがとうございました」
ふと、目が合って。
「今度、何かお礼をさせてください」
少し微笑んでくれたのが嬉しくて、気付いたらそう続けていた。
「お礼をされるようなことはしていませんけど…」
ウィルバートさんには困ったようにそう返されたけれど。
それでも、すぐに断られなかったことが嬉しかった。
もちろん私の想いがすぐに報われるわけでもないけれど。
私はもう、あなたと出逢えたのだから。
あなたに恋をしている私から、もう目を逸らさずにいられるから。
今日ここから。
私は私の恋を、育てていこう―――。
読んでいただいてありがとうございました!
リンクこそしていますが、本編を読んでいない方にも楽しんでもらえたら嬉しいです。
番外編らしく補足も少々。
『丘の上』短編一話目はウィルの後日譚です。
時期は三八三年明の月から、三八四年の祈の月の末頃ですね。フェイトの一人称『/土産とプレゼント』で出ていたジャム屋のお姉さんが主人公です。