185話 遠き日の記憶④【1】 過去の事象
それは十二年前の事。
とある裕福な家庭に生まれた少女は、これと言った不自由もなく毎日を過ごしていた。
両親の勧めで花道塾に通い、成績も申し分なく、友人にも恵まれた。
来年からは私立の中学に通い、新しい学園生活が始まるのだと、不安ながらも胸を躍らせ、残りの日々を謳歌する。
そこまでは順風満帆、『不幸なのは環境の所為ではなく自分の所為』を座右の銘とし。
卑屈な人間を見ると、『この人はどうしてこんなにも妬みつらみを吐き続けるのか』と嫌悪を抱く程に。
明るく前向きで、活発な少女だった。
その時までは。
中学に上がった途端、環境は一変。
進学校なだけあり、それまで普通に受けていた授業について来れず。
加えて、今まで相手の様子を窺いながら会話などした事がなかった少女は、周囲からも浮いた存在になっていった。
耳打ちを立てながら蔑んだ目で見つめる同級生。
成績が落ちた自分を不安に思う親の焦り。
責め立てるだけ責めて、改善策もアフターケアも提示しない放任主義な教師。
――やめて、やめて! そんな目で私を見ないで!
逃げる事も許されず、かと言って進むことも出来ない、己の羞恥を晒されるだけの孤立した空間。
やがてそのストレスが限界を超えた時。
少女は自室にて、自らの首を吊っていた。
短絡的な思考しか回らず、環境から逃げる為の選択肢は、それしか考えられなかった。
最期に少女は「ごめんなさい」と、両親に向けた謝罪を口にして。
こんなはずではなかったと、後悔に苛まれながら。
少女の意識は、そこで途絶えた。
再び少女が目を覚ますと、そこには見知らぬ風景が映った。
日本ではない、異国の空気。
「ここ……は……」
自分はたしかに死んだはず。なのに何故無傷のまま生きているのだろうと、少女は思い。
ここが死後の世界なのかと、辺りを見渡すと。
どこかの田舎町だが、どこか自分の知っている場所と雰囲気が違うことに不安を抱く。
さらに驚いたのは、獣人やエルフなどの他種族を見た時。
文献にもメディアにも載っていない、異質な生物。
少女は、不気味に思うと同時に、ある予測を立てる。
――ここ……もしかして、異世界ってやつ?
本の中の世界、創作物の幻影。いずれにしても、ここが異世界であるとしか思えない、が。
望まぬファンタジーに胸を躍らすどころか、恐怖しか湧かない少女。
早くここから離れたい、しかしどこに行けばいいのかも分からない。
とりあえずは道を尋ねようと、少女は近くにいた人間に尋ねた。
「あの……すみません、ここはどこですか?」
すると、声をかけられた男は少女をまじまじと見つめ。
「嬢ちゃん、迷子かい? 身内は? 身分証はあるかい?」
逆に少女の素性を聞いてくる。
だがその男に疑念はあれど、日本語が通じる事に安堵を覚えた少女は、当たり障りのない様に身の内を話した。
「わかりません、両親とはぐれちゃって……身分証も、今はありません」
「そうか、かわいそうに。良かったら酒場に案内してあげるよ。道を尋ねる時や職を探している時は、大体そこに行けば教えてもらえる。もしかしたら君の親もそこに来ているかもしれない」
男は優し気に少女の手を掴み、歩き出す。
――お父さんとお母さんがいるわけはないけど、まあいいか。
少女は酒場のことを総合案内所のように解釈し、そこで今置かれている事態を説明してもらおうと思っていた。
――それにしても、死んだ後も普通に生活しなきゃいけないなんて……地獄の沙汰も金次第とはよく言ったものね。
楽観的に、それでも前向きにいこうと気持ちを一新させる。
前世で踏み外した人生のレールを、今度は間違えないようにと。
だが、少女が辿り着いたのは、薄暗く空気が淀んだ場所。
奴隷市場だった。
「やあ、新しい商品を持ってきたよ」
と、少女の手を掴んでいた男は、受付の男に言った。
――新しい、商品?
こんな薄気味悪い場所が酒場なのか、と少女は次第に恐怖が芽生え。
その疑いは確信に変わった。
受付の男は突然少女の体を掴み。
「ほう、若いな。目立った外傷もなく、顔も悪くない」
ゾワッと、少女に悪寒が走る。
「だろ? 国籍も持たないガキが手ぶらで歩いていたところを捕まえたんだ。いい値で買ってくれよ」
笑顔で話す男は、自分を指差しながら言うのだ。
捕まえたと、いい値で買ってくれと。
「あの……おじさん……ここは?」
「ん? ああ、ここはね、奴隷市場だ」
「……どれい?」
少女は青ざめた表情で聞き返す。
「そうそう、今日からここが君の家だよ」
そう言って手を向けられたのは、頑丈な鉄格子が連なる不衛生な檻。
「あ、あの……わたし……お父さんと、お母さんが……」
「まあ、ここで待っていれば、いつか見つけてくれるんじゃないかな? その時君のご両親がお金を持っているといいね」
と、笑顔で向けられた顔に、少女はへたり込み、ガクガクと身を震わせた。
「あ、あ……ああ…………」
どこへ逃げても、行く先は地獄なのだと、少女は絶望した。
それからしばらく、劣悪な環境に身を置くこととなる。
拘束された手足に、冷たい首輪を付けられ、否応にも人権を剥奪されたことを痛感する少女。
鎖に繋がれ、見世物のように町を歩く度に、自分に向けられる周囲の目が嫌で嫌で堪らなかった。
――やめて……また、そんな目で……私を……。
これではあの頃と同じ、否、それ以上に悪い方向へ転がり落ちた第二の人生。
どうして自分だけがこんな目に遭うのか。
そう思った時、少女は思いだした。
『不幸なのは環境の所為ではなく自分の所為』
いつの日か忘れていた、自分の信念。
だが今思えば、なんて楽観的な座右の銘だろうと思う。
――私がこうなったのも……環境じゃなくて、自分の所為だっていうの?
どうしてあの時、自分を客観的に見れなかったのだろうと思う。
――私はそこまでの罪を犯したの?
これは因果応報なのか……。そんな疑問はあれど。
納得出来るわけがない。受け入れられるわけがない。
自分はただ、あの頃のような明るい未来に、返り咲きたいだけなのにと、そう思い。
止まらぬ涙が溢れ出し、それすらもあざけ笑う周囲が、皆悪魔に見えた。
その時。
「タロス、あの子、うちに迎えてあげられないかしら?」
道行く中、一人の少女が自分を指差した。
「なりません、お嬢様。旦那様の許可なく奴隷を買おうなど……」
自分と同じくらいの少女に、付き人の長身の男性。
その二人組は自分を見つめ、口論を始めるのだ。
「いいじゃない堅物! あとで私からパパを説得するから、ね?」
「そういう問題ではなく……お嬢様?」
気品のある少女は、突然自分に歩み寄り。
「ねえあなた、私専属の使用人にならない? 年の近い話相手がほしかったの!」
「……え?」
そして満面の笑みで、手を向けるのだ。
「私エルメル、エルメル・ソル・アンセッタ。もし良かったら、この手を取ってくれるかしら?」
――この地獄から解放されるなら、何でもいい……。
少女はそう思い、エルメルと名乗る少女の手を、迷うことなく握った。
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