5 学院での洗礼
***
一週間も経つとある程度学院にも慣れてきた。放課後、そろそろ桜も散りそうだと眺めながら海が中庭を歩いて撫子棟に向かっていると、Bクラスのゴールド紫藤伊織が声をかけてきた。
「やあ日野森さん」
「紫藤様」
基本的にゴールドは敬称を付けるのが通例だ。
「何か私にご用ですか」
「うん。ちょっと付いてきてくれる?」
「どこにですか?」
「少し手伝って欲しいことがあるんだ。時間は取らせないからさ」
海は首を傾げながらも、どうしてもと頼まれたので了承した。
(この前校内を案内して貰ったしな)
一応借りは返しておこうと思う。それに新学期の書類整理は終わったので、今日はそれほど予定が無かった。今日は紫藤の隣に七沢はおらず、彼一人だった。
それからしばらく歩いていた。何故か紫藤は校内をぐるりと回るように歩き、途中で林の中の小道を歩いたりして方向感覚が鈍ってきた。そろそろ目的地を聞こうと思っていると、不意に紫藤は立ち止まった。
「ここですか?」
「うん。すぐに戻るから待ってて」
紫藤は笑って、海をその場に置いていった。海はふと嫌な予感がした。そこは手入れのされた芝生が広がり、奥には弓道場のような場所が見えた。実は海はここと似たような敷地に見覚えがある。それは───。
「何をしている!」
「!」
見ればネクタイは緑色。一年の男子の制服だった。そしてピンズはノーランクを示している。
(ああ、まさか・・・・・・)
海の頬に冷や汗が滴った。一年生は声高々に海を威嚇する。
「ここはCクラス専用庭園だぞ!」
その一言を聞いて、海は奥歯を噛み締めた。やはり、ここはCクラス専用棟の椿棟だったのだ。
(やっぱり、撫子棟の庭園と似ていると思った)
クラス専用棟には各部屋が並ぶ建物と、外に自由に使える庭園がある。それを各クラス交わらないように林で区切られている。この学院に木々は多く、自然豊かな環境を売りにしているくらいだ。しかしそれが裏目に出た。
遠回りをした上に林の中を通ったせいで、方向感覚が鈍り、クラス専用棟に辿り着いたことに気が付かなかったのだ。そしてクラス専用棟は各クラスで設計が異なる。しかし庭園となればそうそう差異は出ない。
「お前ノーランクか、クラスの所属を言え!どうして勝手に侵入をしたんだ!」
一年生は完全に頭に血が上っていた。
「誤解です、私は侵入したつもりはなくて、ここが椿棟の敷地だなんて知らなかったんです!」
「林の中には立ち入ることが出来ないようにフェンスがあったはずだ。どうやって迷い込める!このまま警備に突き出すぞ!」
海はギクリとした。そんなことになれば朝陽に迷惑をかけるばかりか、鷹坂グループに迷惑をかけてしまうことになる。
「待って話を聞いて───」
その時だった。
「どうした雄一郎」
声の主を振り返ると、そこにはCクラスのゴールド秋月慧斗が静かに佇んでいた。
秋月は雄一郎と呼んだ生徒を見て、そして海に視線をやった。それは何かを見極めるように、観察するような目だった。海は震える手を握りしめた。
「慧斗様!コイツが勝手に敷地に侵入していたんです!」
「お前はAクラスの・・・・・・」
そこに騒ぎを聞きつけた二人が駆け寄ってきた。
「どうしたの?慧斗」
「おやおや、偶然Cクラスに来てみたら事件とは」
前者の一人は納得出来た。この前秋月と一緒に居たシルバーの女子生徒神野。しかしもう一人は、
「紫藤様・・・・・・」
彼は面白がるように笑っていた。そして海は理解した。これは紫藤に罠に嵌められたのだ。この事態の発端となった彼は、悠然とした態度で素知らぬ顔をしている。
(やられた・・・・・・)
軽々しい判断を悔やむ気持ちでいっぱいになったが、今後悔している暇はない。こうなったのであれば、やることは一つだ。
海は深々と頭を下げた。そして静かに謝罪の言葉を述べる。
「申し訳ございません。私は二年Aクラスの日野森海と申します。本日は秋月様に、鷹坂より申しつかりましてお茶会の招待状をお届けに参りました」
「お茶会?」
「はい」
これは一切偽りの無い事実だった。今朝方朝陽から招待状を預かっていた。しかし一度撫子棟に赴いてから椿棟に向かうつもりだったのだが、それが単に急遽変更されただけ。
海は神経を研ぎ澄まし、落ち着いて、冷静に努める。ここで慌てふためいてはいけない。そんなのは紫藤にお笑いぐさにされてしまう。決して朝陽にも律にも鷹坂グループにも、恥をかかすわけにはいかない。
「私はつい先日この学院に転入してきました。恥ずかしながら未だこの学院の地図に不慣れで、誤って許可無く椿棟の敷地に足を踏み入れてしまいました。私の不用意な行動でDクラス皆様にご迷惑をおかけしましたことをお詫びします。でも決して悪意が無かったことだけは、ご理解頂けないでしょうか・・・・・・」
声が微かに震えたかもしれない。けれどそんなこと今はどうでもいい。
(どうか、信じて・・・・・・!)
ここで海は『紫藤』の名前を出すわけにはいかなかった。それは絶対だ。
(紫藤は今私を試している)
それから三拍後、
「・・・・・・次からは気を付けろ。招待状は受け取ったと鷹坂様に伝えてくれ」
海はパッと顔を上げた。秋月はただ真っ直ぐに海を見つめていた。
「はい、ありがとうございます!」
鞄の中から丁寧に包装された招待状を取り出し、慧斗に渡した。
「慧斗様よろしいのですか?」
尚も噛み付いたのはノーランクの一年生だ。慧斗は首を横に振った。
「構わない。林の中のフェンスは修理手配中で一部撤去していた。本当に迷い込んだのだろう。それにこの生徒は鷹坂様と親しい。丁重に帰せ」
「でも───」
「はいはい、雄一郎くんうるさいよ〜」
間に割って入ったのは神野だった。
「ゴールドの決定に口出しは無用。それに海ちゃんは私と友達なの。もう迷わないように撫子棟まで送ってあげるわ!」
いつから友達になったのかと思ったが、ここで断るのも不自然だったので素直に案内を受け入れた。
「ありがとうございます」
立ち去り際、紫藤は海に、
「次は気を付けてね、日野森さん」
と微笑んだ。しかしその笑みは悪魔の笑みにしか見えなかった。海は平常心を保ちながら、精一杯何事も無かったかのように取り繕って虚勢を張った。
「はい、ありがとうございます」
歩きながら神野は眉をひそめていた。
「酷いことするわよね、紫藤も」
「え?」
先程までの出来事が頭をぐるぐると回っていて、物思いにふけっていた。なので突然神野に声をかけられつい驚いてしまった。
「アイツに置いていかれたんでしょう?奴の顔に『さてさて、どうするかな?』って書いてたわ。まったく、なんて根性の腐ったオトコなの!」
神野の観察眼には驚いたが、海は是とも非とも言わなかった。ただ少しだけ不満を漏らした。
「・・・・・・少しでも信用してしまった自分が愚かでした」
「それが普通でしょ。変なのはこの学院。でも昔の私なら、あんな奴ぶん殴ってたわ!」
「うん?」
今とてもお嬢様らしからぬ言葉が聞こえた。
「いやあの・・・・・・神野先輩でしたっけ」
「そうよ。あ、やっぱり朱里って呼んで!」
「あ、はい。で、朱里先輩はシルバーですよね?」
「うん。ああ、そういうことね。私昔から武闘派なの。だからそこらのお嬢様とは違うわよ」
(い、意外すぎる!)
二重ではっきりとした顔立ちで、学院の中でもかなり可愛い方だ。ポニーテールが活発的に見えるのは確かだが、武闘派と明言するまでとは思わなかった。
「お家がそういう家系なんですか?」
「いいえ、うちの祖先は勲功華族なの。だから親戚はみんな私に、喧嘩とか木登りを辞めさそうと必死だったわぁ」
(そりゃ止めるでしょうね!!!)
喧嘩に関しては海でも止めるかもしれない。
「でもちゃんと空手もしていたわよ?独学だけど」
ちゃんとってなんだ、しかも独学って。
「本当は今も切り傷が耐えないのよ。夏服になる前に治さないと」
「痩せないと、みたいなノリで言わないで下さい。ちなみに何して怪我したんですか?」
「闇討ち」
「そ、そうですか」
海は思わず目を逸らした。この人かなりヤバい。
「やーね冗談よ!紫藤じゃあるまいし!」
「シャレにならないですそれ」
しばらく朱里は爆笑していた。いやそんなに面白くはない。
「私あなたのこと好きだわ」
「・・・・・・どうしてですか?」
こんなことを聞くのもおかしいと思ったが、何故朱里が自分を気に入っているのか純粋に分からなかった。
「勘よ。ほら、人って顔を見たら大体性格が分かるから」
「そうですかね・・・・・・」
(そうなると私って見る目無いよな)
今は何を言われても地雷かもしれないと、海は気を落とした。
「ごめんなさい!私が二人の足を引っ張ってしまった!」
二人は話を聞いてひどく驚いたようだった。
「顔を上げろ、ひい。お前に何も無くて良かった」
海が頭を上げると、朝陽は優しい笑みを浮かべていた。
「疲れたろ、座っとけ」
律に促され海はソファに座り、律が入れてくれたお茶を手に取った。陶器の湯呑はじんわり温かく、玉露の甘味が身体をホッとさせてくれる。
朝陽はパソコンのディスプレイに伊織の調査資料を映し出して顔をしかめる。
「紫藤伊織か・・・・・・まさかCクラスも巻き込むなんて。予想以上に面倒なことをしてくれる」
律は顎に手を置いた。
「多分ひいを試したんだと思う。わざわざ自分も後から現れたってことは、あの状況を確実に切り抜けられるか見ていたか」
「そうだな。多分あの場で紫藤の名前を出しても、シラを切られて終わっただろう。よくやった、ひい」
それはあの場で海も理解していたことだった。あの時大切だったのは、陥れられたことを証明することではない。危害を加えるつもりは無かったということを証明することだ。
目的地や詳細をよく確認せずについて行った海の責任でもあるのだ。
「私がもっと気を付けていれば・・・・・・」
「今回は引っかからなかったんだ。なら次から気を付ければいい」
「でも一応常に使える手は用意しておけよ」
「はい」
怒ってくれた方が気が楽だった。いや、気を楽にしないことこそ海にとっていい罰なのかもしれないが、そもそもこの二人はいつも慰めをくれる。海は、今はそれが自分に与えられるべきものではないと考えていた。
「今日は疲れただろう。もう休め、な?」
朝陽はそう言った。
「・・・・・・うん」
「寮まで送っていこう。律ここを頼む」
「ああ」
何もかも全て分かってくれていることもまた、海には苦しかった。
「ううん、大丈夫。ありがとう」
***
結局海を送り届けようとしても、彼女が頑なにに拒んだので、律は玄関で見送ることとなり、朝陽は執務室に戻った。
「ひいはどうだった」
「落ち込んでた」
「そうか」
律は海の湯呑を片付け、朝陽に新しくカップを出してインスタントを入れる。朝陽は無糖のブラック派だ。
「・・・・・・・・・・・・」
朝陽は無言で眉を寄せ、その組んでいた手に力が入ったのが見て取れた。
「怒っているのか?紫藤に」
「当たり前だ。正直おじい様に対しても見損なった。今までなんの為に俺達はひいから距離を置いたと思っている」
その言葉に律は遠い日の記憶を呼び起こした。
『俺達二人でひいを守るんだ』
そう誓ったのは、もうずっと昔だ。懐かしくもあり、苦々しい決断でもあったのを今でも鮮明に覚えている。わざわざ自らの手で海を突き放した。当の本人はもっと辛かっただろう。
あの時、海がどう思っていたのかは分からない。けれども今こうして三人で過ごせている奇跡に、律は感謝していた。だから朝陽の怒りはとても理解出来た。
「そうだな」
「俺達も気を付けないといけない。毎年Bクラスはああだ」
「受け継がれる気質があるんだろう」
クラスの特性は毎年さほど変わらない。一度上級生が染まっていると、下級生は嫌でも先駆者に影響されてしまう。それはある意味で自然の摂理であると律は感じていた。
***
(・・・・・・やっぱりダメだ)
朝陽と別れてから寮までの道で、鼻の奥がツンとして、海の目から涙がこぼれた。本当は律がお茶を入れてくれた時に泣きそうになっていたのを、無理矢理堪えていた。
けれど一人になって、完全にガードが崩れてしまった。
誰にも見られたくなくて、海は寮への道からは外れる。そして学校で一番の高台に登った。木でできたベンチがひとつだけ置かれ、後ろには芸術的なモニュメントが設置されている。
見晴らしも良く、綺麗に整備もされているが、ここまでかなり体力を使うので一般生徒はあまり訪れない穴場と知っていた。海はきつく縛っていた髪をほどいて、ベンチに座ってうずくまった。
(どうして、あんな失敗しちゃったんだろう)
嗚咽は必死に堪えた。えぐえぐと泣く自分はみっともなくて情けない。せめて生理反応だけで留めたかった。
しばらくそうして俯いていた。そろそろ日が傾いてきて、当たりが薄暗くなり始める。
「・・・・・・気分でも悪いのか」
驚いて海は言葉通り飛び上がった。泣いていたせいで全く気配に気付くことが出来なかった。そしてその人物に更に驚かされた。
「秋月様・・・・・・!」
彼は相変わらず無表情だった。泣き顔を隠すように頭を下げる。
「昼間は大変失礼致しました!」
「気にするな。朱里から話は聞いているし、鷹坂様からもさっき連絡は来ていた」
秋月はそう言ってベンチに座った。
(朱里先輩と朝陽くんが・・・・・・)
朱里はともかく、やはり朝陽はきちんと秋月に連絡したのだ。それが謝罪が弁明かは分からなかったが、手間を取らせたことにまた悲しくなった。
「これを使え」
そう言われて差し出さたのは濃紺のハンカチだった。角と角が揃えられ、しっかりとアイロンでプレスされている。
受け取るか一瞬悩んだが、女子のくせにハンカチを忘れていたので素直に受け取ってしまった。何より今、目と鼻が腫れて真っ赤な顔を見られたくなかった。
「ありがとうございます。またクリーニングに出してお返しします」
「いつでもいい。それより座ったらどうだ。いつまでそうしてつっ立っている」
「すみません・・・・・・」
海と秋月は一人分空けて並んで座った。
「お前は知らないと思うが、紫藤は前からあんな男だ。去年もゴールドに選ばれる為に、かなり問題を起こしていた。今年も今年で、また何か企んでいるんだろう」
そう言われると去年の爆弾事件に、紫藤ほど怪しい人物は居ない気がした。
(もしかして、爆弾事件も紫藤と何か関係があったりして)
基本的にクラスは三年間変わらない。つまり去年の時点で紫藤がBクラスとして、Aクラスの朝陽になんらかの動機を持って事件を起こした可能性はある。
「紫藤伊織の実家のShidoホールディングスの女社長はかなりの無茶なやり方をする人間だ。悪く言えばかなり根性がねじ曲がっている。紫藤伊織はその孫で、Bクラスもかなりそれに染まっているということを忘れない方がいい。常に切り札は用意しておけ」
「はい」
秋月は律と同じことを言った。つまり今話した全ては事実で、きっと秋月の海への気遣いなのだと理解した。
「しかしノーランクなら、もう少しゴールドや他の人間と情報共有しておくべきだ。これではお前が鷹坂様の傍に居る意味が無い」
(それはもっともだ)
前々からあの二人はどこか海に遠慮している。それは敬遠ではなく海を守ろうとしているからだと知っていた。
しかしそれではいけない。海は朝陽を守る為にこの学院に来たのだ。それだけは理解して貰わないと、海の存在意義が満たない。
「秋月様」
「なんだ」
夕陽がやけに眩しい。けれど海はもう泣いていなかった。
「ありがとうございます」
きっと今は涙と腫れでとてもブサイクな顔になっている。それでも頭は下げなかった。今度は背筋を伸ばし、真っ直ぐに秋月を見据えた。
「・・・・・・叱られて礼を言うなんてな。鷹坂様のノーランクだけはある」
(様・・・・・・?)
秋月の言葉の端々から朝陽への尊敬の念が感じ取れる。敬称もそうだ。ゴールド同士となれば、歳が違えど本当は呼び捨てで構わない。朝陽に対して好意的というのはガセネタではなかったらしい。
秋月は何を考えているのかは分からないが、怒ってはいない・・・・・・と思う。ふと秋月が何故ここにやって来たのか疑問に思った。
「あの、秋月様は何故ここに?」
「ここで夕陽を見たかっただけだ。お前も泣き止んだら戻れ。俺は一人の時間が欲しいんだ」
「あ、はい」
海は軽く頭を下げて高台を下った。最後にまた怒られたが、それでもその足取りは軽く、胸のモヤモヤは消えていた。泣いていても始まらない。そして何より、あの二人とは違う誰かに話を聞いて貰えたことが、かなり心を軽くしてくれた。秋月は思っていたより悪い人間ではないのかもしれない。
そう考えるとまた、自分は本当に見る目がないと思った。