30 いつかの高台にて
***
海は伊織の笑顔を見つめた。
(この人はどんな気持ちで弟と過ごしてきたんだろう)
いつだってこの笑顔の下に何かを隠していた。
合宿での黒幕が弟と分かっていてなお、伊織は身代わりになって旧校舎の屋上に現れた。そして暴力団を率いてきたのも、伊織は晶を庇って自ら泥を被ろうとしたのだ。
(もしかして、父親が死んで母親も蒸発して、この人には家族が弟しかいなかったのかもしれない)
晶は紫藤家で疎外感を感じていた。だからこそ、紫藤とは無関係の母親になびいた。
それは伊織も同じだったのではないのか。唯一紫藤とは違う存在であろうとした晶だからこそ、伊織は守りたかったのではないか。
「伊織様、もう無理して笑わなくていいんですよ」
「え?」
祖母の紫藤喜美も逮捕され、兄弟二人を苦しめたShidoホールディングスも秒読みだ。
(それなら、この人を縛るものはもう無いのだから・・・・・・)
「言いたくないなら言いたくないって、そう言えばいいんです。自分がやったことじゃないなら違うって言わないと。じゃないと、それで晶くんは助かっても、あなたは救われない」
海の言葉に伊織は軽く目を見張って、目蓋を伏せた。
「やっぱり君は普通とは違うね。きっと秋月は君のその資質を見抜いていたんだ」
秋月慧斗の名前を出された海は言葉に詰まった。海はぎゅっと拳を握り締める。開いた双眸がキラリと光った。そして伊織は容赦無く海の痛い所につけ込んでくる。
「退学届けを出すんだろ」
「・・・・・・はい」
(なんで知っているんだろ)
辞めると決めたことは家族と朝陽、律、そして慧斗だけだ。何故Bクラスの伊織が。
(いや、よく考えたらこの人も元ゴールドだったわ)
日頃の行いが悪過ぎてうっかり忘れていた。
「君のことだから、止めても学院を辞めちゃう?」
「止めなくても辞めますよ」
「そうなんだ。勿体ない。僕がこう言っちゃなんだけど、君はあの学院でやっていく才能があったよ。裏切られても取り繕い、襲われても応戦し、笑顔も嘘も使い分ける」
「でも私は自分の嘘に耐えきれませんでした」
卒業式前に慧斗と話したことを思い出す。海は慧斗に罪を白状した。
「それは秋月に対してだろ。それはゴールドへの忠誠心だ。間違っちゃいない」
「ちょっ、本当にどこまで知ってるんですか!?」
ふと伊織のスマホから着信音が流れてきた。電話を取って伊織は立ち上がった。そろそろ時間らしい。海も荷物を持って席を立つ。
「晶くんとよく話し合って下さいね。たった二人の兄弟なんですから」
「ああ、そうするよ。君もよく話し合うんだ」
「・・・・・・・・・・・・」
海は笑顔で何も言わなかった。
「あ!そうだ、最後にさ───」
伊織様は海の側によって、腰にそっと腕を回してきた。
「今まで迷惑かけてごめんね、ほんと」
今までの中で一番優しい声だった。
「・・・・・・まったくですよ。転校してすぐにあなたに陥れられたこと、まだ根に持ってますからね」
「そういえばそんなことあったね」
「忘れてたんですね!?」
「忘れてはいないよ。今思えばあの時から運命は決まっていたのかもしれない」
伊織はそっと腕を解き、海と目を合わせた。その顔はいつもみたいに笑っていたが、顔つきは全然違った。
「ありがとう海。大好きだよ」
「私も意外と伊織様のこと好きでしたよ」
「え?それなら在学中に言っといて欲しかったなぁ」
「だからなんで学生にこだわるんです?」
「だって僕今から世捨て人になるからね」
多分マスコミから逃げるという意味だと思うが、あながち冗談でもなさそうでツッコミづらい。
でもきっと伊織はどこに行っても大丈夫だ。何故なら。
「七瀬先輩も一緒に?」
「そ、桜と一緒に」
やっぱりだ。七瀬桜はノーランクであることに関わらず伊織に信頼を寄せている。
会計を済ませて伊織はキャップをかぶり直した。
「じゃあ本当に、さようならだ海」
「ええ。また会いましょう」
失礼にも伊織は海の言葉に吹き出して、
「うん、またね」
と手をひらめかせてその場から去っていた。
***
大きなガラス窓から地上を眺める祖父の背中はいつも偉大で、畏怖に溢れていた。そしてその背中に怯えるものがこの世には多く居る。朝陽もその一人ではあったが、いつの間にか畏れよりも、彼女を守らなければという使命感が打ち勝つようになった。
「秋月との事業は上手くいきそうだ。災い転じて福となすか」
そう言った鷹坂一に朝陽は眉間にぐっとしわを寄せる。
「これは全て日野森海のお陰です」
「そうだな」
反論はしてこなかった。
「だからどうか彼女を解放して下さい」
「解放?」
祖父が振り返った。
「全てはおじい様が彼女を巻き込んだから海は苦しむことになったんだ。学院での件だって、身内の問題じゃないですか。ならば鷹坂グループで対処すべきだったんだ」
「ああ、分かっているさ」
まただ。何か反論すると思ったのに、祖父は小言のひとつも言わずに認めてしまった。呆気に取られかける朝陽。
「ならば何故───」
そこに社長室のドアにノックされる音が響く。顔を出したのは律だった。
「お話中失礼します。・・・・・・朝陽、そろそろ時間だ」
「でもまだ話が」
「人を待たせるな。早く行け」
やっぱりいつも通りの口調に戻った一に朝陽は怒りが込み上げる。
「ちゃんと海と話をして下さい」
「勿論そのつもりだ。海さんに折を見てここに来るように伝えろ」
律が話を遮ってまで朝陽を呼びに来たのは、この後律と海の三人で学院に向かう新幹線に乗る為だった。
「余裕で間に合っちゃったね」
駅のホームで新幹線を待つ海は制服を着ていた。その制服は鷹坂が用意した男物でもCクラスで着ていた女物でもなく、スタンダードの女子用制服だった。
「それはいいが、早く着きすぎたな。今日は少し肌寒い」
そう言った律は私服だった。黒いコートと白いシャツ、そしてベージュのパンツを履いている。
「うん、少し冬が戻るって」
「ひい寒くないか?」
「大丈夫だよりっちゃん。相変わらず心配性だね。あっ、そういえば三人で新幹線乗るのも今日が最後だね」
海が前を見ながら感慨深げに呟いた。
「そうだな」
律も頷いて前を見ていた。
「思えば私達三人で過ごした学生生活って案外短かったよね。小中違って、この一年も半分くらいCクラスだったし。でも三人で同じ制服着るの憧れだったから嬉しかったな」
海がこう言ってくれることだけが救いだった。無理矢理危なげな事件に引き込んで、前の高校の友人関係も壊してしまったことに朝陽は罪悪感を抱いていた。何よりも。
「本当に辞めるのか」
朝陽は最終確認をした。正直今日に至るまで何回も確認した。けれども彼女の決意は固かった。
「うん、辞めるよ。でも高校は卒業したいから、違う私学に編入して高校生活やり直すよ」
「・・・・・・・・・・・・」
黙り込んだ朝陽に、海は覗き込むようにその顔を見てあっけらかんと笑った。
「大丈夫、私の高校生活はちゃんとあの学院にあったよ。ね、りっちゃんもそうだよね?」
「ああ、当然だ」
律も笑っていた。二人の笑顔に、少しだけ心のおもりが軽くなった。やっぱりこの三人でいることが朝陽には何より心地よかった。
「ひい、おじい様が話をしたいと言っていた」
「分かった。近いうちに会いに行くよ」
そうこうしている内に新幹線がホームに到着した。
***
海は学院の門をくぐり、学長室のある大学部の方へ向かった。今は春休みで学生の姿はほとんど見当たらない。しかし部活生は練習を続けているようで、遠くからランニングの掛け声が聞こえてくる。
桜が徐々に蕾を開き始めて、木々に点々と淡いピンク色の模様を色付けている。もう春は訪れ、次なる新入生を迎えようとしていた。だから海もこの学院に別れを告げなくてはならない。
ふと目の前を桜の花びらが一片舞い降りてきた。その動きに目を奪われ、桜を目で追うと誰かの足元が視界に入った。革のローファーで制服、部活生ではない。そして胸元にはゴールドのピンズが光り輝いていた。
海は顔を上げて目を見開いた。
「慧斗様、どうしてここに・・・・・・」
現れた秋月慧斗に対して海は微かに動揺した。彼とは今日退学届けを出した後に、会う約束をしていた。改めて謝罪する為に。
けれども約束の場所は学院ではない。
「少し話をしよう」
彼はいつも通り淡々とそう告げた。海は朝陽と律を見ると、二人は何も言わずに頷いた。
海は連れられるままに慧斗について行くと、彼はあの高台に向かった。見渡しがよく、生徒にはあまり知られていない場所。そして海が始めて慧斗の優しさを知った場所。
「償いは終わったのか」
「はい」
慧斗は高台から景色を眺めていた。
「為すべきことを為したのに辞めるのか」
海は少しだけ言葉に詰まって、しっかりと頷いた。
「はい。終わったからこそ、ケジメをつけるつもりです」
間違ったことをしたつもりはない。自分の信念に従って行動した。
けれどもそれはAクラスの為であって、海の立場ならCクラスの為に行動すべきだったのだ。自分が思う正しい行為が全て許されるわけではない。それは海が一番理解していた。
「俺は俺の事情でお前を助けたんだ。だから、お前は何の責任も背負う必要は無い」
海は瞠目する。彼は何を言っているのか、耳を疑った。
「だから海、学院を辞めなくていい」
「・・・・・・いや、いやいやそれは無理ですよ。だってエーレはAクラスが取ったじゃないですか。私の行いはCクラスの邪魔をしたことになる。それなら私は裏切り者です。学院に戻る資格なんて無い」
「Aクラスのエーレを手に入れる決定打となったのは何か知っているか」
「・・・・・・成績とゴールドの対処力、でしょうか」
エーレ授与の過程は数値化されないので、何が決め手か断定するのは難しかった。
「確かにそれもあるが、正しくは相馬律の飛び級進学だ」
海は目を瞬かせた。
「りっちゃんの?」
思ってもいなかった名前が出てきて若干戸惑った。
実は、律は進路希望を迷っていたわけではなく、進路自体を悩んでいた。律の成績なら高卒認定試験を受けて一年飛び級して大学部に進学することが可能だった。
海の存在を案じていた律は飛び級するかどうか迷っていたのだと、それは後で理解した。だから律は海に対して言葉を濁していたのだ。
けれども海がCクラスに編入したことで飛び級することを決意したようで、海が律の飛び級を知ったのは年末あたりだった。Aクラスのノーランクが飛び級するらしいと噂が囁かれており、律ならあり得ると納得していた。
「歴代飛び級をした者を出したクラスは必ずエーレを得ている。学院は飛び級に大きな価値を定めている、それは学院に付加価値を持たせる為だ。その分飛び級制度は難易度が高く設定されている。だから飛び級はそれだけ意味が大きい。三ノ宮先輩がエーレを取った年も、当時ゴールドだった赤井東の一つ下のノーランクが飛び級したからだった」
海は彼の言わんとしていることを察した。
「それはつまり、私がCクラスで何をしようとAクラスはエーレが確実だったということですか?」
「そうだ。むしろCクラスの人間からすれば、お前もあのままAクラスに居ればエーレを手に出来たのに、と哀れみの対象だ」
慧斗が海に振り向いた。何度彼のこの表情を見ただろうか。感情が薄く、最初は恐怖して冷たく感じていた。なのにいつからかその表情は柔らかくて、温かいものに見える。
「海、Cクラスに戻って来い」
海は俯いた。拳に力が入る。手汗が溢れ出て、唇も震えた。
許されてはいけない。でも───許されたい。
「・・・・・・私の過去の身勝手な行動を許してくれますか?」
これは海の心の弱さだ。朝陽と律の前では絶対に押し殺す自信があるのに、慧斗の前だとその栓が緩む。緩めてはいけないと頭では分かっていても、彼にはそれを受け入れて欲しいと願ってしまう、傲慢さ。
ザアッと風が通り抜けた。三月の風はまだ少し冷たくてひんやりとしている。だから海の頬に触れた温もりは、慧斗の手の温度だった。
「許す。だからまた、俺について来い」
海は頬に置かれたその手を握り返して、こくりこくりと頷く。
「ええ、勿論です。来年こそは必ずCクラスをエーレに導けるよう、尽力します。お約束します」
「ああ頼んだ」
「・・・・・・本当にありがとうございます、慧斗様」
海は心からそう感謝した。




