1 融資が欲しい
今日はまるで何かが急かすように目蓋が上がり、身体は緊張と共に動きだした。淡い緑の遮光カーテンを開けると、まだ日は明けきらず、淡い紫の空が広がっていた。
部屋は地上八階で、さらに寮は高地に建ち、遠くには綺麗な街並みが広がって見える。
少し早いが、今朝は予定があるので朝食の用意をした。トーストを焼いて、焼き目が付いたらそのままオーブントースターの余熱でバターを溶かす。
その間に新品の制服に身を通した。テレビをつけ、バターの染みたトーストを食べながら、アナウンサーの読み上げるニュースを聞き流していく。
身支度を済ませて海はエレベーターで下った。そして一等地ということなど歯牙にもかけないほど莫大な敷地を歩き始める。
高等部二学年Aクラス。ランクはノーランク。この学院は日野森海が今日から通う───戦場だった。
***
数ヶ月前のある朝、学校に行く前に父親に呼び止められた。
「海、鷹坂さんがうちに融資を打診してくれた」
「本当!?じゃあ新しい事業上手くいくかもしれないね」
鷹坂グループは日本屈指の大企業だ。数年前に仕事の関係で昔は家族ぐるみの付き合いをしていたが、そんな大企業に対して父親の企業は業績不振に陥っていた。どこの銀行にも融資を断られていたので、融資が決まるのは喜ばしいことのはずなのに、父親の顔は依然暗い。海は何か理由があると察した。
「融資には条件があると言われた。鷹坂さんのお孫さんと同じ学校に通うことだ」
その言葉に海は目を丸くする。孫の朝陽は海の一つ歳上の幼馴染みだ。
「待って、朝陽くんが通うのあのグリュック学院でしょ?あんな名門私立の学費今のうちが払えるわけないじゃん!」
「・・・・・・それは鷹坂さんが払ってくれる」
ますます話がおかしい方向に向いてきた。
「どういうこと?」
「今日の夕方、鷹坂さんの会社に行きなさい。話があるらしい」
詳しいことはその時だ、と言われたので海は首を傾げつつも仕方なく学校に登校した。そして学校終わりに最寄り駅に向かい、二駅向こうの主要駅で降りた。
そして徒歩五分もしないくらいで大きなビルに直面する。鏡のような特殊なガラス張りで、地上三十階建てにもなるその建物に、慣れた足取りで入って受付に向かった。
ここは鷹坂グループの本社だ。鷹坂グループは完全子会社や関連企業を多く持ち、事業も多岐にわたる大企業だ。父親はある仕事で、一時期このビルによく訪れていた。それがきっかけで海も度々このビルに遊びに来ていた時期があった。
受付嬢の人はすぐにエレベーターで案内をしてくれ、最上階の会長室に通された。部屋にはすでに会長である鷹坂一が待ち構えていた。怒っているわけではなさそうだが、その表情は硬く、昔から心情の分かりづらい人だった。
「お久しぶりです、鷹坂会長。日野森海です」
「大きくなったな、海さん。座りなさい」
促されて海はソファに座る。社員の人がお茶を置いていくのを見計らって本題に切り出した。
「お話があると聞きました」
「ああ。単刀直入に言って、君には孫の朝陽と同じグリュック学院の高等部に通ってもらいたい」
「朝陽くんの傍には相馬律くんが付いているのでは?」
律は鷹坂グループの重役の息子で、幼い頃からいつも朝陽の隣で過ごしている。
「人手が足りない、というのが正直なところだ。・・・・・・実は、朝陽が命を狙われた」
「!」
あまりに脈絡のない話に海は耳を疑った。
「小型の爆弾が送られてきた。時限式の爆弾で、幸い朝陽は爆発時間には居合わせず、大惨事は免れた。しかし迂闊だった。まさかここまで非人道的な方法で狙ってくるとは」
会長は忌々しそうに吐き捨てた。それにしても爆弾事件とは、非日常的にしても甚だしい。
「一体誰がそんなことを?警察は?」
「犯人は分からない。警察には届けたが、恐らくロクに使えないだろう。朝陽の護衛には律で十分だが、情報が足りないのだ」
「情報?」
「律は今で手一杯だ。彼の代わりに学院内部の情報を仕入れて欲しい」
海はようやく会長の意図が見えた。
「スパイですか?」
「簡単に言うとそうだ。学費と生活費は鷹坂が持つ。融資も喜んで引き受けよう。その代わりに朝陽の目となり耳となり、盾とならなければならない」
盾、ということは危険が伴うわけだ。あのバカ高い学費と、生活費まで補ってくれるということは、それだけ危険なものなのだ。 普通の女子高生はここで少しは躊躇うのかもしれない。しかし、海は違った。
「お引き受けします」
「やけに決断が早いじゃないか。覚悟はあるのか?」
鋭い目付きで問われるが、海は毅然として胸を張った。
「はい。私は元より、どんな条件でも引き受けるつもりでした」
会長は少し目元を緩めた気がした。
「確かに、親の会社なら心配だろうな。では決まりだ。・・・・・・言い忘れたが、学院では男物の制服を着て過ごしてもらう」
「え、男装ですか?」
「いや、男として過ごせというわけではない。ただ朝陽には婚約者がいる、余計な噂が広まらないようにする為だ」
つまり女っ気を捨てる為にスラックスを履けということらしい。
「異論は無いな?」
「ありません」
海は素直に頷いたが、内心このジジイと罵っていた。
(無いな?って、『はい』以外の返事するなって言ってるも同然じゃん!後出しジャンケンのくせに。てか目が怖い、目が)
手が震えてガクガクとビビりまくっていた。鷹坂会長はそれほど畏怖を感じさせる人物なのだ。
「よろしい。これからグリュック学院のこと、もとい『ゴールド』達について情報を教える。しっかり頭に入れておかねば、お前が足元をすくわれるぞ。・・・・・・あそこは異質だ。だから爆弾のことも事件にはならない」
海はゴクリと生唾を呑んだ。爆弾が事件にならない、なんてパワーワードだ。
「何故ですか?」
「そういう場所だからとしか言えん。いいか、これからは常識を常識と思うな。何もかもを疑え。分かったか?」
「はい」
やはり『はい』か『イエス』しか言わせて貰えない雰囲気だ。
グリュック学院。中等部から大学院まで存在し、名だたる名家から株式上場企業の跡取りまで集まる、いわゆる超の付くお金持ち学校。
この学院には特有のルールがいくつも存在する。その中でも際立って特徴的なのは、生徒にランクが存在することだ。
上から順にゴールド、シルバー、ブロンズ。九割の生徒がブロンズで、シルバーは約一割。
シルバーのほとんどは寄付金による恩恵であり、相当な資産家か血筋が良いかだ。
そしてゴールドは三学年各クラス一人、つまり四クラス四人だけ。
ゴールドは各クラスのまとめ役のような立場にあり、クラスの中で際立って資産があるか優秀な人間に与えられるランクだ。学院はクラスによって派閥を固めている。
鷹坂朝陽は三年Aクラスのゴールドだ。
しかし中には例外もある。二年Aクラスの相馬律はノーランクだ。
ノーランクというのは基本的にゴールドが指名し、相談役のような役割を果たし、成績や個人情報を秘匿されたり、ゴールドの行動に基づいて授業放棄を許されるという特権を持つ。
勿論海はこれからAクラスのノーランクとして転入することとなる。
また制服は海に合った特別仕様のものだ。そのまま男物だと肩幅が合わず、シルエットも悪いからだ。見てくれの為に寄付金を積んでくれる鷹坂の太っ腹精神には唖然としてしまう。
ついでに動きやすいようにズボンは九部丈に仕上げてくれた。そしてスポーツブラで極力胸を潰し、伸ばしていた髪も切った。ボブヘアにして髪を束ねる。
これから海は女子高生ではなく、朝陽の盾として生きなければならないのだ。
その為、転入までの約二ヶ月、海にはパーソナルトレーナーが付けられ、ジムで体力作りに勤しむこととなった。時には筋トレマシンで筋肉を付け、時には有酸素運動で心肺機能を鍛える。
さらに道場にも通って、柔道、剣道、拘束術まで指導される。武道に関しては幼い頃少しかじっていたので、筋は悪くないと褒められた。
しかしスケジュールは過密で、転入するまでに過労死寸前の日々だった。
***
時は戻って現在、海は授業が始まる前に送られてきた地図に示される場所に向かった。そこで待ち合わせの約束があったのだ。特定の人間にしか出入り出来ず、あらかじめ渡されていたカードキーで棟の中に入る。
しばらく進んだ先にある重厚な扉をノックして、海は部屋に入る。そこに待ち受けていたのは二人の昔馴染みだった。一人は向かいの机に座っていて、一人はその隣で腕を組んで立っている。
二人とは小学校は違った上に、ある時疎遠になった。それから二人は実家から離れたこの全寮制の学院に入学してしまったので、五年ぶりくらいの再会だ。
容姿は幼い頃の面影が少しあるくらいで、まるで別人だ。どんな風に話しかけていいのかも分からなかった。とりあえず海は当たり障りのない挨拶を心掛けた。
「お久しぶりです、朝陽様、律さん」
途端腕を組んで立っていた相馬律はピクリと眉を動かし、顔色を曇らせた。
「なんだよそれ」
「え?」
それは小さな独り言にも思えた。律は幼い頃は女の子のような可愛らしい少年だったが、今では細身ながらもしっかりと筋肉がついており、ツーブロックの髪型がより男性的だった。
首を傾げる海に律は何か言おうとしたが、それを遮るように鷹坂朝陽は話題を変えた。
「久しぶりだな。寮の荷物整理は済んだか?」
「あ、えっと、大体は」
朝陽は至極普通な対応をしてくれたので、海は内心少しホッとした。朝陽は昔から大人びており、今もその落ち着きは健在だ。思慮深く、凛々しい顔つき。しかし仏頂面というわけでもなく、海に柔らかく微笑んだ。
「困ったことがあればなんでも言ってくれ」
「ありがとうございます」
朝陽はともかく、律はやはり不機嫌で、
「俺出てくる」
と海とすれ違う。その背中に朝陽は厳しい声をかける。
「律!」
「書類を取りに行くだけだ。すぐに戻る」
そうして部屋から出ていってしまった。海は律が出て行った理由や、考えていることがまるで分からなかった。不安が心に重くのしかかってくる。
「私、何か気に障ることをしてしまいましたか?」
そう言うと海に、朝陽は苦笑した。
「いや、八割は本人の問題だ。お前に男装させるのが申し訳ないらしい」
海は軽く目を見張る。
(それで?)
制服は男物ではあるが、女子であることを隠す訳ではない。それを何故律が負い目に感じるのか。やはりその考えはよく分からなかった。
「あと二割は?」
「二割は、お前との距離だろうな」
そう言われて海は少し困った。
「すみません。久々でどう接していいか分からなくて」
「そうだろうと思ったよ。今まで通りでいい。幼馴染みなんだ、敬語もやめて名前も今まで通りにしろ、ひい」
海はパッと顔を明るくした。『ひい』というのは、昔朝陽と律が呼んでいた海の呼び名だ。その名前だけで一気に今までの時間が巻き戻った。
「よかったー!そう言われなかったら私、朝陽くんのこと『坊ちゃん』って呼ぼうと思ってたよ」
「絶対やめろ」
あまりに真剣な顔でそういうので、海はふっと笑った。
「『りっちゃん』もそれでいいのかな?」
「ああ。まあ今は、りっちゃんという感じではないけどな」
確かにそう呼び始めたきっかけは、海が昔律を女の子と間違えたことからだ。今の雰囲気とは少々そぐわないが、きっとそう呼ぶ方が良いと判断した。
律は言葉通りすぐに戻ってきた。脇には大量の書類を抱えている。紙の束は意外と重量がある。それを軽々と抱える律に親のように成長を感じてしまい、海はニコニコと微笑んだ。
「りっちゃん力持ちになったね」
りっちゃんと呼ばれた律はハッとして、少し息を吐くと書類を机に置いた。
「このくらい普通だ」
若干機嫌が戻ったようなので、もう少しイジってみる。
「あ、ちょっと照れてる」
「うるせー、どこがだよ!大体ひい、お前さっきの律さん呼びはなんだよ!」
「だって、鷹坂の会長に『日野森、鷹坂グループに仕える自覚を持って生活しろ』って念を押されたんだもん」
「似てねぇ」
「似てないな。おじい様はもう少し声が低い」
「別に本気でモノマネしたわけじゃないんですけど」
口を揃えて酷評され、海はガッカリした。
しかし転入してくる前の不安は杞憂だったと分かり安心した。昔と同じ空気。懐かしい幼馴染み。
ただ少し変わったとすれば、朝陽と律に明確な主従関係ができ、その中の一人に海が加わったということだ。
***