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巴里と素敵な人々との出逢い

 そいつはいとも簡単に、両腕を顔の周りに回すと、自分の両手で握手をして見せた。

「財前一郎で~す。手相研究会に入りました~」

 以後、多くが「手相」と陰で呼んだが、痩せて目が突き出ているそいつのことは、オレは「お骨の生焼け」と命名してやった。


「自己紹介? 意味ないでしょ。オレは河合篤夫。名前と声と顔だけ覚えてくれりゃ、それでいいよ。オシマイ」

 次のヤツがそう言い放って口をつぐむと、司会を務めている先輩の男女が、何度も口だけ開けていた。


自分は少し、顎が重く突っ張るのを感じつつ、ヘッセの『荒野のおおかみ』とボウイが好きだと話していた。

 なんのリアクションもなかった。そして、次には宴会芸、さらには拒否?


 まあいい。やっとクソッたれでファッキングな高校生活と違う日々が待っている。

もう、車と女の子のハナシだけの連中とはおさらばだ

 

四月の風は笑っているようにさえ思えた。

 就職だけは心配な芸術大学だが、とにかく四年の猶予期間をゲットした。


 自己紹介の後…鼻先が白くなっているように感じたが、引率されてサークルの部室巡りが始まった。

 三階は童話、映画、それから得体の知れないなんでもやるサークル。それからサークルの委員会室。どこも狭く汚かった。壁には書き込みがいくつもあった。委員会室には黒ヘルが置いてあった。まだ学生運動? さらに鼻から血が引いた。

 四階へは、建物の真ん中にある階段を登って行く。賑やかなバンド演奏が聞こえてきたが、先に人形劇や英語研究会などのサークル室を訪ね、その後でバンド演奏の行われている教室を各自で自由に巡ることになった。

 少しきしみながら開く教室の戸を開けると、ひとつ目のバンドはフォーク系で、ふたりの男がイスに座って演奏していた。フォークは私小説みたいで、あまり聞いてなかった。誰の曲かも分からない。オリジナルかも。ふたつ目のバンドは、派手な衣装を着た女性ヴォーカルが、Purpleの『Child in Time』を歌っていた。ハイトーンのところになると、アンプがハウって耳を塞いだ。

 そしてみっつ目…


「や・め・て、口づけするのは」

 歌謡曲? 辺見マリの『経験』? 途中からロックかなんかにアレンジされるのか?

 しかし、オリジナル通りに曲は終わってしまった。

 汗をかき、喘ぎながら歌っていたのは、長髪でジーンズの上下を着た、うすら髭の男。なんか匂ってきそうだ。

「ブルース同好会、よろしくね」

 『経験』はもうご馳走さまだった。でもその笑顔だけは、何度も見たいと不思議に思った。つくった感じがなく、とても自然で、ついこちらもにやついていた。


 しげさんとの出逢いだった。


 「The Whoがやりたい。Blues Brothersみたいのも、いずれやりたい。

でも歌謡曲はなあ…」


 結局、多目的サークルに入った。



「だけど! Stonesのよかったのは、せいぜい七十年代まんなかくらいまでですよ。もう『Goats Head Soup』の頃みたいな狂気はないじゃないですか」

「そんなことはないって。まだまだいける。

『Emortional Rescue』のファルセットボイスなんか痺れるよ」

「ソフトソウルなんて、Stonesがやんなくっても…」

「元々、ブルースやリズム&ブルースっから出てんだから、ソウルミュージックやったってよかっべ」

「でも、KISSみたいなクソバンドがはびこってる今だからこそ、ここらでガツーンとロックやってもらわないと。

 結局、Stonesも金儲けしかないんですかねー。だとしたらサイテーですよ」


「おい、一年坊がしげにそんな口聞くか」

 隣で黙って呑んでいた、背の高い先輩に怒られた。

 ビールだけで、頭のてっぺんに来ていたものが、するすると下がった。

「まあまあ、よしおちゃんいいからさー

 まさあきちゃんも、今日はいろいろがんばってくれたから。

 さあ呑もう呑もう」

 じろっとこちらを睨んだが、背の高い先輩の顔もほどけた。

かつてバイトしていた先で、一緒に働いていた連中と同じく福島弁だった。そして酔うほどに、いっそう福島の長閑な風が吹いてきた。


 入学から、あとひと月で一年。あまりにいろいろあり過ぎたが、最後にサークル合同コンサートの幹事を命じられた。

 無事に終わってからの居酒屋の座敷での打ち上げだった。

 ある先輩とはBeatles、というよりはJohnについて語ることをしつこくせがんでしまった。Johnが殺されて二か月くらいだった。『Immagine』みたいな歌詞を書くヤツが、なんで殺されるのか理解できなかった。

 

そして、しげさんとは酒が入ってなくともStones。

しげさんのブルース好きもホンモノだった。どんなに酔っぱらって話していても、けっこうマニアックな曲であっても、こちらがアーティストを間違うと、すぐに指摘された。そんなときは真顔だった。すぐ、崩れたけど。



 …そんなしげさんと、卒業から三五年経って、ふたりでパリに行くことになった。

 

「もしもし。加藤ですが」

「あ~、まさあきちゃん? パリ行こうと思ってるんだけど、安いツアーないかな」

「え~、そんなお金あるんですか?」

「いや~宝くじ当たっちゃってさあ」

「当たった! 

いくら?」

「大した額じゃないけどね。百万くらいだけど。自分だけで一週間くらいだったら、そんなにかからないよね」

「行く時季にもよるけど、安いときだったら二十万くらいでありますよ。

でも…しげさん確かフィリピンしか、海外行ってないでしょ。ひとりで大丈夫ですか」

「なんとかなるよ。航空券とホテルだけ予約してくれっかな」

「…パリだけだったら、片言の英語でもだいたい通じますけど…」

「だいじょぶ、だいじょぶ」

「なんでパリなんですか?」

「いやあビストロって言うの? パリのビストロでワイン呑みたくてさあ。

 前にまさあきちゃんに、パリいいって話聞いたじゃん。それでさー」

自分は、なんとか時間と金をへつりだし、シゴト以外でもパリにはもう何度も、何度も行っている。

その結果、ヘミングウェイみたいにパリに捉まってしまった。アホだと思われるだろうが、「平和」と名前の付いたカフェでゆったりと寛いでみろ。どんな美術館でもいいから、ひとりで行ってみろ。バゲットを食べながら歩いてみろ…いや、なんでもいいからとにかく行ってみろ。「移動祝祭日」の都だぜ。

トーキョーなんか及びもつかない夢の街だ。


レンタカーを借りて、フランスの地方をドライブしたことも何度もある。断固として自国語しか話さないことの多いフランス人との関りは、いささか厄介なこともあるが、必要最小限の単語は理解している積りだ。


「だいじょぶ」

 とは言われたけど、

…しげさんが、毎日呑んだくれているのを知っていたので、だんだん不安になった。


 つい、別の先輩に電話してしまった。


「そりゃー、あきちゃん、ついてってやれよ」

「いや、今年はオレ、予定あるんでちょっと無理ですよ」

「吉沢がほとんどアル中なの知ってんだろ。

 パリでなんかしでかして、ブタ箱入れられたら、当分出てこれないぞ。

 あいつ、尿酸値もとんでもなく高いから、逮捕・入院なんてことになったら、そのまま死んじまうかも」


 これは脅迫だ。

 なんで、オレがそんな貧乏くじ引くんだ。

 そりゃ、パリなどヨーロッパ旅行の魅力をつい、しげさんに話してしまったことはある。なんせ、二八まで海外旅行と無縁だった自分が、なんの間違いか旅行代理店に入っちまって、海外経験だけは、とんでもなく多い。

 つい、初めの頃は周りにも話しまくって、何人かにイヤな顔をされているのに気づいてからは、聞かれない限り、努めて話すのを止めたけど…

 

 しげさんは、福島いわきの大きな旧家の息子だった。金持ち、というほどではなかったが、誘われて昼食や呑みに行くと、いつの間にかすべて払われてしまっている。

 でも、しげさんと付きあうのは、それだけのことではなかった。

 なんとか笑顔を見たくなる。


 しかし、いつしか疎遠になって、同輩からなんとなく消息を聴くだけになっていた。



「行きましょうよ。

 近いんだし。

 いわきからすぐでしょ。

 アンコウのどぶ汁なんて食ったことないけど、美味しそうですね」

「オレも食ったことないな」

「みんな来ますから。

 ゆずるさんも来ますよ。

 ずっと会ってないでしょ」

「お~ゆっちゃんね。

懐かしいな」

「でしょ、でしょ」


 女性を誘うのではなく、男なのになんでこんなに時間かけてるんだろうなあ。


 それから二月の下旬。遅い大学同窓の新年会。北茨城の宿を予約して、東京から着いて、宿の部屋に駆け上がっていったとき、しげさんがいた。

 既に、ビール一杯どころか…何本か空のビンがあった。

大学を出てから三十年以上が経っていて、一時はかなり恰幅のよいからだをしていたしげさんは、仙人みたいになっていた。

長髪だが、すっかり白髪。手足は痩せ細っている。

歯が少なくなっていて、でも、それだけは昔と変わらない、顔中の笑顔を見せると、まばらな歯がむき出しになった。


「しげさん…」

「おう、もう三本呑んじゃったよ」


 元気だった。

 呑みまくって、寝るときには、しげさんと同じ部屋になった。それから昭和歌謡のヒットパレードが始まった。『四つのお願い』『雨のバラード』…曲名を言う度に、しげさんはすぐに歌いだした。何時に寝られたんだろう。


 翌日もしげさんのひとり舞台だった。

 震災で、その後に見事に流されてしまった岡倉天心の六角堂、天心記念五浦美術館を訪ねた後、しげさんを送りがてら訪ねたのは小名浜漁港。そして、その後は小名浜のソープ街へ。

「あーここは、歳なのが多いからダメ。

 ここはねー、延長もしてくれるから、オレにはいいんだわー。もう、すぐには出ないからね」

 メンバーには女性が数人いたが、もう異次元にしげさんは到達していた。後輩がしげさんの言う通りにマイクロバスを運転すると、店を指さしては説明してくれた。

でも、在学中から、多くの女性に慕われていたしげさんが、なぜ結婚しなかったのか、そんなことを得々とガイドするしげさんの横顔を見ながら考えていた。

それは今も謎だ。聞くところによると、純愛に敗れたからだというが…


 まーこれから、しげさんとのつきあいも復活だ。楽しい呑み会が何度でもできる。そう思った。



 それから二週間も経っていなかった。

 激しく社内が揺れた。

 部下は全員、デスクの下に隠れた。

 女性の部下には「なんとかしてくださーい」と言われたが、できるもんか。

横揺れだから大したことねーよと思って、自分は椅子に座ったままだった。

しかし、鉄道は全面ストップ。外へ出ると、社のあるビルの外壁に亀裂があって驚いた。

自宅は五〇キロ以上離れている。しかし、社長も社内で夜明かしすると聞いて、いたくなくなった。


会社から徒歩で家を目指すなかで、品川辺りからは、ヒトのなかで身動きがとりにくくなった。震源地に近い、いわきのしげさんとの連絡は、川崎付近で一度は繋がったが、その後は通じなくなった。そこらで自転車を盗んでやろうかと思い出した頃だった。

 原発のメルトダウンで、福島は陸の孤島となっていた。トータルで、どれだけの人が放射能で体調を崩し、亡くなっただろう。誰も証明はできないようだが。

 シゴトの再開後、宅配便の配達をしていたしげさんは、どれだけ浴びただろう。ジョークを言いながら、自転車で宅配便を届けるしげさんの顔が目に浮かぶ。

 なにかしたくて、しげさんに「なんでも送りますよ」と言った。


「あー酒。

うそうそ、酒は手に入るんだけどさー、乾麺とかはゆっちゃんが送ってくれたから、さしあたってはオーケー」

 半ば強引に、それでもなにかあれば、と聞いたら

「…両親に甘いもの送って」


 すぐに銘菓「旅枕」(震災の六年前に亡くなった自分の母親が好きだった)と「鳩サブレ」を、いちばん大きな箱と缶とで送った。

 幸い、気に入られたらしい。鳩サブレは、けっこう自分でも食べたらしい。その後、サークルのオレと同じ代の後輩に買ってきてくれとリクエストを出しているのを目撃した。


 それから三ヵ月。

 いきなりのパリ行きの話だった。


 年金だけで生活している、病気がちなご両親をかかえてタイヘンだろうし、本当に行けるのか。

「だいじょぶ。妹が両親の面倒見てくれるって。海外なんて、ずっと行ってないし、これが最後じゃん。多分」

 う~ん、知ってる航空券の安い業者から買って、往復サーチャージ込みで八万、旅全体で一週間として五泊ひとり四万円くらい。ネットで見つけた安宿だけど、場所は悪くない。ポンピドーセンターの近くだ。基本一五万で収まるだろ。

 いざとなったら、オレのへそくりも使ってやる!

 そう思ったら「覚悟」は決まった。


 航空券とホテルをネットで予約した。

 七月上旬のパリ、そんなに暑くはないと思う。


 

 羽田便は高いから成田便。いわきのしげさんには近いし。遅い出発のいわゆる夜這い便。ちゃんと来れるだろうなあ。待ち合わせは、いっそ上野にしておけばよかったかな。第一ターミナルだって、五十回は言ったよな。待ち合わせ時間も夜九時だって、何十回も伝えたよな。第二ターミナルで降りてしまうと、けっこう時間をロスするとも…パスポートだけは忘れないようにってことも…

 もしもパスポート忘れてきたらどうしよう。預かっておけばよかったかな。申し込みは、用紙のコピーに赤字で見本と注意を書きまくって送ったから、一度でパスしたけれど…


 足踏みしたくなるような後悔がわき上がってくると「あの」笑顔が近づいてきた。

 日本はもう、かなり蒸し暑いのに、黒の革ジャンとジーンズ、ストーンズのベロだしロゴのTシャツ。なんか予想通りの服装だ。売れていないミュージシャン…

「こんばんは~」

「早速ですが、パスポートは?」

「あー忘れるとこだったけど、あのチェック表のお陰で助かったよ。えーと、こっちのポケットに…あれ? こっちだったかな…こっちか?」

「落ち着いて、ポケットひとつずつ探してください」


 腰にジャビット君のマークが付いた、ウェストポーチが見えた。今どき、ウェストポーチかい。

「しげさん、それは?」

「おー、妹が大事な物入れるようにってくれたんだ。ここだ、ここだ」

「むこうもけっこう気温高いですよ。革ジャンだと…」

「だってヨーロッパは、気温日本より低いっていうからさあ。暑けりゃ脱げばいいんだし」


 出国審査が終わってからが、ひと騒ぎだった。

「酒~酒、酒」

「言った通りで、今、免税店は、国内の安売り酒店とあまり値段変わらないんですよ」

「いや~でも、せっかくだからさー。それに向こう行ったら、日本酒は飲めないじゃん? 一本だけいいの買ってさ、後は紙パックでいいよね?」

「ひとり当たり、七二〇ミリリットルかける三までですからね」

 しかし、聞いていない。

 まさあきちゃんも呑むよね? と言いながら一八〇ミリリットルの紙パックを、二ダース買い込んだ。さらに純米酒の一リットルボトル…


 出発便は、ほぼ満席だったが、幸いなことに右の三人席をふたりで占領できた。助かったと思った。フライト中のしげさんが想像できたからだ。

「ビールください。ウイスキーください。ジントニックください…」

 何度、アテンダントに頼んだか。イヤホーンで音楽を聴けば歌い出す。声が大きくなる毎に肩を叩いた。映画を観ても、いろいろ話す。ゲームもやって、寝てくれたのは日本時間の三時ごろだった。毛布をもらってかけてあげると、満足そうな寝顔だった。


 パッと機内の明かりが点いた。死ぬほど眠い…

「ゲロ…」

 よたよたと、しげさんは立ち上がった。

 しかし、到着間近となって、早朝のパリの街が眼下に見えてくると…

「エッフェル塔どこ? モンマルトルの丘は? シャンゼリゼ? あれじゃないの?」

 

 着いてしまった。


 にやにやしている。

 いきなりゲートではポーズ。

「ダーバン、セレレガーンス、ローンムモデルン」

 …絶対にやると思った。

 自分たちの世代ではフランスと言えば、まず『おそ松くん』のイヤミ。でもイヤミは自分のことをJeではなく、Meと言っていたな。その次は…

「ねっ、どうオレのフレンチ。練習したんだよ~。ドロンのCMをネットで何度も見てさあ」

「大学の教科書も引っ張り出したんだぜ。ジュエ、トゥエ、イレ、イラ…」

「ボンジュール、アンシャンテ、ウィ、ノン… 

 ポルナレフで『ノンノン人形』って歌あったよね?

 ホリデー、オーホリデー…もよかったなあ。

 トゥートゥーポマシェリ―…いいないいなフランス語」


 まあ、フランス人をつかまえて、いきなりやらないだけいいか。

「ここにいるヒト、み~んなフランス人かなあ」

「いや、まだ空港ですからね。いろんな国のヒトがいますよ」

「フランス、腐乱臭、腐ったタマゴ♪」

「…」

「うそうそ…セボン、セラヴィ…」

 このチョーシで、丸五日か。


 イミグレに行くまで、何枚写真を撮らされたろうか。

「もう入国審査だから、写真ダメですよ」

「なんでー、フランスに入る歴史的瞬間じゃん」

「国境とか、入国施設は撮っちゃいけないんですよ。一応、国家機密だし、テロリスト対策としてもね」

「アラーフアクバルって言いながら、もの投げるふりしたら、どうなっかな」

「やめてくださいよ。個室に連れてかれますよ。ヘタすりゃ入国拒否」

「やんないよー」

 このハイテンションのまま、凱旋門やシャンゼリゼに行ったら…


「タクシーなんて贅沢はしないで、RERで行きましょう」

「モノレール?」

「いや、まーフツーの鉄道です」

 あ、カルネ(パリの地下鉄メトロなどにお得な回数券)買っとこ。


 なるたけ急いで買ったつもりだったが…


 戻るとしげさんが外国人女性と話している。

 長い赤い巻き毛…ちょっと肌が黒い。

まずいよ。


「なんかアミーゴとか言ってきてるけど、これ逆ナン?」

「しげさん、離れて!」

「なんで? このねーちゃん、いいケツしてるよ」


別の小柄な男が近づいてきている。

駆け寄って、しげさんの手を引っ張った。

「なにすんの? ジェラシー?」

「いいから行きましょう」

「せっかく、おねーちゃんと仲良くなれそーだったのに」

「あれはスリ…というか泥棒ですよ。

 おねーちゃんが油断させといて、別のヤツがポケットとか探るんです」

「え、そうなの」

 これじゃ、ひとりにしたら、パリの街なか行く前にすっからかんだ。

「ぶっそうなんだなー」

「知らないヒトとは、口きいたらダメですよ」

「それじゃ幼稚園じゃん。

 フランスって、そんなヤツばっかなの?」

「あーゆー連中は、南米から来てるんですよ」

「南米いーじゃん。ラテンラテン♪」

「彼らは出稼ぎに来てるんですよ。

 でも泥棒がメインなんだから」

「電話で言った通り、日本とは安全のレベルは違うんですよ。列車でも、棚に荷物置いて寝たら、もうありません」

「はいー、了解です」


 あー付いて来てよかった。

 妙にほっとしたが、これからも…


 広告がシゴトのメインだったが、添乗員も六十回くらいはやった。その結果「ヤバイやつ」はすぐに分かる。刑事ほどではないとしても、直感でピンとくる。大概はスリだから、お客に近づこうとするのをやんわり制する。一度はウィーンのU-BAHN(地下鉄)で、目の前でヒトのポケットに手を伸ばすヤツがいて、ぴしゃりと叩いた。ヘンに堂々としている。すぐに逃げて行ったけれど。西ヨーロッパでは、基本的に暴力は使わない。罪が重くなるからだろう。

 それでもマドリッドでは、ナイフを持った三人組に襲い掛かられたことがある。視界の端で捉えていたが、距離があると思っていたら走り寄って来た。幸い、グループの男性も加勢してくれたので撃退できた。

 女性客のバッグにしがみついたヤツは、見るとせいぜい十二歳くらいだったが、離さないので何度も蹴り上げるしかなかった。ほかのヤツもハイティーンくらいだろう。ナイフを落としていったのを見ると錆びていた。こんなので刺されたら…

撃退されても、まだ近くで睨んでいたので、大声を出しながら突進するフリをしたら、やっと走って逃げだした。

日曜日の人影が少ないビジネス街。日本食の店で昼食をとった後だった。アルジェリア辺りからか…よほど貧しいのだと思う。アフリカから南スペインに渡って、南では警備の厳しいリゾートには入り込めないから、人であふれているマドリッドまで上がって来る。


 

「電車もかっこイイ! さすがデザインの国だなあ。なんかモダーンじゃない? シートの感じもさあ」

「ヨーロッパは全体的に、公共のもののデザインはイイですね。実用性ばかり考える日本とは違います。田舎の市庁舎だって個性がありますよ」

「いいなあ。

 あ、家が見えてきたー。おー、日本の田舎とはホント違うねー。窓枠の色とかもお洒落だよ。日本の家って、みんな同じに見えるっていうか、味わいがないというか。こっちの家はそれぞれ違うよな。日本じゃ、みんな同じような家住んで、同じようなクルマ乗って、リーマンは同じような服着てるじゃん」

 自分には見慣れた風景だが、しげさんには初めてのヨーロッパだ。さぞや新鮮だろう。うらやましい。

 でも自分が最初にヨーロッパへ行く前には、妙な夢を見たっけ。街並みはヨーロッパ風。しかし、看板は日本語だった。


 気づくと、もうしげさんは日本酒のパックのストローをくわえていた。

「せっかくなんだから…ワイン呑めばいいのに」

「こうして日本酒味わっとけば、ワインとの比較も楽しいじゃん。呑もうよー」

 こっちまで酔っぱらったら、それこそオシマイだ。

「まず、宿まで行きますからね。荷物預けないとどこへも行けないでしょ」

「それもそだね」


 メトロに乗り換えるのに、カルネを渡した。

「なくさないでください。

 日本と同じで、改札出るときも要りますから」

 早く、こっちも電子カードにしてくれたらいいんだけどな。でもヨーロッパって、そういうのが遅い。オートマになるのも遅かったし、カーステもカセットの時代が長かった。

 古い家は、ぶっ壊さないでリノベして高く売るし、老舗のビールとか食べ物のラベルもずっと変わらない。


 メトロの乗り換え通路に出ると、大きな空間が広がった。

 パリ名物の流しのミュージシャンがいる。

 クラシックからロックまで。

案の定、しげさんはどのバンドや楽団にも声かけまくり。ビートルズをやっていたバンドでは、一緒に二曲歌った。『Twist&Shout』と『Rocknroll Music』。もういいや、宿がなくなるわけでなし、ゆっくり行こう。


 …ところが、ホントに宿がなかった。

ネットの地図上で何度も確かめているから間違うわけもない。

「うわー。パリ来たぜー。どこもかしこもパリだー…

どうしたの? まさあきちゃん迷ったかな」

 えーい、ここで弱みは見せられん。

「『GoogleMap』で観たのと角度が違っていて、分かりにくいんですよ。ここで待っててください」

 

 大急ぎで周囲を回ったが、該当するホテルはない。まさか詐欺かよ! とまで思った。いったん、しげさんのところに戻ると、八百屋の前でおやじと会話している。「勘弁してよ」と思いながら近づくと、しげさんは日本語で、相手はフランス語で会話している。

「ウイウイ」としげさんが言った。


「しげさん、分かるんですか?」

「あーちょっと待って、もうすぐ。

 ウイウイ。

 はい、ありがとねー。

 メルシーボクー」

 八百屋の大将といった相手だった。すぐにリンゴを磨きにもさっと戻った。ずんぐりしていて、グレーの口ひげが笑っていた。

「こっちだよ。右行って、次の最初の左を曲がる」

「えー! ホントに?」 

 しげさんの後について行くと…あ、ここだ!

「あーしげさん気をつけて。スニーカーでも石畳の道はひっかかるよ」

 パンを焼く匂いがどこからか漂ってきて、思わず猫のように鼻をひくひくさせた。


「いやーフランス語なんか分からないけど、聞いているうちに、なんとなくさあ」


これじゃ「負うた子に道を教えられ」そのままじゃんか。

「ホテルの名前、ラブホテルだよね。ラブホどこ? て言ったら通じてさあ」

 同じ名前だったら、日本ではオトコふたりでは絶対泊まりたくないが、日本人が少なくて、マダムの面倒見がイイと記してあったので、決めたのだった。しげさんには悪いかもだけど、日本人がわさわさいるホテルはなあ。

「まさあきちやん、オレとラヴラヴする?」

 とりあえずほっといた。そっち系はオレ、トラウマあるんですよ。しげさんは、一時はいわゆるお〇まバーへもよく行っていたらしいけれど。


 パリの風は心地よかった。頬やあごを撫でてから、すっと去って行く。それから後ろを振り向いてこちらに微笑んでいるようだ。

さ、チェックインをして…


「あ、日本の方ですかー?」

 いきなり、木製の扉に近づくと、若い日本人男性が飛び出て来た。

 汚れた白いTシャツとジーンズ。浅い不精髭。

「ここ、いいっすよ。マダム、サイコー」

 え? 話が違う。


 どことなく歪んだ顔のままでカウンタ―へ行ったら、おんなじような顔をしたマダムがいた。

「Merde!」と小さいが繰り返している。

 …確かイイ言葉じゃないよな。

「アキラはまた払ってない。もう追い出すぞ! クソッたれ!」

 そんなことをぶつぶつ言っているのが分かった。そして、くるっと振り向くと「Japon? 」と聞いた。「ウイ」と答えると、また少し顔を歪ませた。

 でも、そう見えた塗炭、日本語で話してきた。

「ごめなさいね。日本人はほとんど礼儀知ってる、いいヒトなんだけど、甘えるヤツいるから」

「はいはーい。ミスター加藤。オトコふたりね。カップル?」

「違いますよ。ノーマルです」

「マップ確認してきたんだけど、分かりにくかった」

「ネットアップして、文句言ったら、なんかヘンになった。引っ越ししてない」

 まるっこいからだで、妙に耳にかけたメガネの金のチェーンが目立ったけど、どっからかおっかさんの匂いがしてきて、首根っこを掴まれているようだった。自分はとりあえず全面降伏。

「よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げた。


「ホテル上品。ワタシもね。だから礼儀守る。それさえオーケーだったらいつまでいていいよ」


「これ見て。ワタシ家、革命まできぞーく」

「きぞーく? ああ、アリストクラット、貴族ね」

 そう言って、額に入った写真を指差した。なんか紋章が飾られている。

「ナポレオン三世と先祖が、組んだのが大きく失敗。

 ところで、あんたはオペラ好きか?

 ガルニエもバスティーユもチケット取れるよ!」

 そいつはイイやと思ったけど、しげさんの手前黙っていた。

 ところが…

「オペラいいねえ。モーツァルトかワーグナーだったら、観たいね」

 しげさんがニコニコして答えた。


「それならチケット取ってあげる。モーツァルトの『フィガロの結婚』が、ガルニエで明後日」

「しげさんオペラ本当に観たいの? けっこうチケット高いよ」

「いいよいいよ。まさあきちゃんが観たいんなら、お世話になってるんだからさー。

 クラシックよく聴いてるんだよね?

 ところでマダム。Stonesはどう?」

「…知らない」 

「ビートルズと同じ頃から活躍してるじゃん」

「?ああ…ローリングストーンズね。不良音楽!

 ダメ。流行なだけでしょ。音楽はクラシックがいい。不良音楽はダメ。ワタシ、マドモアゼル」


 長くなりそうになってきたので「鍵ください」と言ったら、アタマを二度三度左右に振って、壁に掛かっている鍵を取ってよこした。


 部屋へと上がった。エレベーターで四階まで上がって、それから階段だった。でも、けっこう広かった。ふたつのベッドのほか、テーブルとイス二脚もあった。これなら…


「あー、うんち」

 部屋の窓から周囲を見ていたら、しげさんが言い出した。

 ヤバイ、と思いつつ、バス・トイレまで急いだ。

「違う違う! そこじゃないすよ。それはビデ!」


 …最悪の事態は避けられた。

 ビデでうんこすると、莫大な配管修理の費用を請求されることもある。


 何度、ほっとしたかと思いながら、しばらくはコントロールしないといかんと思った。

「しげさん、外行こう」


 もう初日は、呑ませるだけ呑ませて…と思った。


 ふらふらする、しげさんの後ろにポジションを取って(しかし、サッカーのポジション取りよりムズカシイ。前後左右どちらに行くのかまったく読めない)、パリの街なかへ出た。


 あーもう、どこでもいいからカフェ。

 幸い、交差点に面した大きなカフェがある。

「しげさん、ワイン呑もう」


 左右に流れながらも、なんとか席に座らせた。

「おーい、おねえちゃん」

 すぐに喚き出したが、これは想定内。

 日本の居酒屋では、とにかく従業員を捉まえればイイ。しかし、ヨーロッパではちゃう。どんなに近いところへ来ても、自分の業務範囲のテーブルでなれば反応しない。


 ハイネケンの大きなパラソルの下、赤白のクロス。風は変わらず心地よい。


「しげさん、言ってあったでしょ。ちょっと待って」

 と言ったが、理解してくれたか。

 明らかに違うテリトリーの女性スタッフが、分かったという身振りだけしてくれていた。

 まーいいや。パリのカフェのスタッフも、ヨーロッパ人以外のヒトとの対応も少しは分かってくれる。

「しげさん、赤がいい? 白?」

「美味しいワイン」


 まったく。

 しょーがないので、おススメを聞く。赤はカヴェルネ系、白はピノブラン辺りか。答えがないから、もう、なんでもいいやとカヴェルネ系の赤を注文する。


 周りでは、パリジャンたちがワイングラスをくるくる回しながら、香りも楽しんで呑んでいる。それについて説明しようとした矢先。


 あーやっちゃった。

 ワイングラスを回しながら、自分の胸に赤ワイン、どばっ。

「しげさん、もう帰ろう。

 洗濯しないと」

「だいじょぶ。

黒いシャツだから目立たたないって」

 ストーンズのベロだしロゴの唇が、さらに赤くなっていた。

 それからも呑み続け、オレもふらつくようになった。


 そんなとき、ぶっとい二の腕にフランスの国旗みたいな入れ墨が目立つ、坊主刈りのでかいヤツが近づいてきた。

 げっ、フランス人のウヨクかよ。


「…〇×◇!」

 えーそんなに早く話されても分かんねー。


 何度か聞いて、やっと分かって来た。

「Stonesクールだぜ! オマエは韓国人か? タイ人か?」


「オレらは日本人だ」

「おージャポンか。そりゃイイ。北斎好きだー。

 彼はまだ元気か?」

「とっくに死んでる。

 ツグハル知ってるか?

 オレはフランス大好きだ。

 自由・平等・博愛!」

 あーも自分でも酔っぱらってきてんな―と思った。


 にやっと笑うと、握手を求めて来た。

 痛ってえー。


 しげさんは隣でにこにこしてるだけ。

 でも、がっしり握手して、にやっと笑った。

「All You Need is Love」

 と歌い出すと、ウヨク野郎とハグしてる。

 しげさんをパリの街なかに、ギター持たせてほっといたら、酔いつぶれるまで歌っていそうだ

 

 …しかし、実際にはしげさんも、もうメロメロ。

 抱えるようにホテルへ戻るのがやっとだった。

 カベルネのラングドック産の安いワインのボトルが三本空いていた。

 自分も視線が上下して、百メートルが一キロくらいに感じていた。



「腹へった」


 灯りを点けたままの部屋で、窓際のパリは暗くなっていた。

 寝てしまっていた。

何時だろう。

 腕に付けたままの時計の針を見ると、八時過ぎだった。


「なんか、食べに行きますか?」

「うーん、まずおしっこ」


 水の流れる音が聞こえてきた。また心配になったが、ビデにおしっこしてもいいかと思って放っておいた。


「なに食べますか?」

 しんどいと思いつつ、ベッドに座った。

「肉。

 シーフードはいわきでよく食べてるからさ」

 肉か…パリの人たちは、意外とステーキ好きだ。ランチでも、フレンチフライとステーキのメニューがけっこう多い。ブルターニュ辺りの牛は、赤身主体だが美味しい。

 日本の霜降り牛は、ほとんど神話となっているが、かなり危ないケースもある。栄養を強制的に与え、抗生物質を投与しまくる。抗生物質はそのまま、食べるニンゲンに蓄積される。食物連鎖の最上位になにが残る?

 肉に脂が網の目に、あれだけ入っているのは…ニンゲンが同じ状態だったら、医師にどうジャッジされるだろう。

 そんな牛肉を最上としてきた日本人だと「ヨーロッパの牛肉」は美味しくないかもしれない。

 実際、自分はチョイス可能な場合は、ビーフとラムではラムを選んでいる。

 同じ羊肉でも、ラムはマトンとは大きく異なる。マトンはときに、タレでべたべたにしないと食べにくい(日本のジンギスカン料理がそうだ)。しかし、ラムはクセが少ない。ラムチョップの見事に調理したものは、日本の牛霜降り肉より美味しいと思うことが多々ある。

 さらに過去に驚愕したのは、ちょっといいパリのレストランで食べたラムの内臓のプレート。ひとつひとつが芸術品のようであり、なにより美味しかった。


あーでも、しげさんはどんな肉が食べたいのか。

「しげさん、どんな肉が食べたいんですか?」

「そだね。オレは歯が悪いから、柔らかいのがいいかな」

 

これはムズカシイかも。

 ヨーロッパ人は、肉の歯ごたえがあるのが好きだ。狩猟民族の記憶の名残か、歯を食いしばって食べる肉が好きだ。ナイフが使われるようになって、そういう傾向がより強くなった。上級のレストランでは、予め肉の筋は排除されるか、包丁が入っている。しかし、一般のレストランでは筋が残されている。自分でカットするのが楽しみでもあるようだ。


 どこへ案内しよう…

 羊肉は多分、抵抗があるだろうし…


 すっかり暗くなったパリの街は九時に近くなっている。少し遠くに明るく見えるのは、ポンピドゥーセンターか。


 あ! これだあと思った店は、韓国系の焼肉屋だった。

 外観は、パリのビストロ風だけど照明の下、ハングルが浮き出て見える。これしかねーや。


「アンニョンハセヨ!」

 と声を出して入ったら、客もスタッフも西洋人もしくはフランス人ばかりに見えた。

 「ボンソワ」と言い直して、メニューをもらうと、日本語のがあった。

「ロースとハラミ二人前と野菜、マッコリ」

 と言うと、すぐに「承知しました」と『ゴーストバスターズ』の魔女王みたいな、ショートカットのねーちゃんが日本語で答えた。

 

「日本語喋れるんだ。フランス人? 」と聞いたら、

「チガイマス。ブルガリア」

 と答えられた。

「出稼ぎに来てるの?」となおも聞いたら、分からないらしくて奥に引っ込んだ。

 そしてしばらくしてから出て来たのは…


「らっしゃい!」

 背は高いけれど、どこか自分から縮まっているような姿勢で、ざんぎりアタマで金髪の東洋人のオトコ。

「あれ? あんた日本人?」

「はいはい。よく聞かれますが、在日です。でした、かな」

「へー、オーナーしてるの?」

「いや、まだ所有権は半分だけど、いずれと思ってます」

「日本ではどこに住んでたの?」

「赤坂です」

「いーとこいたんだね。なんでパリへ?」

「親が焼肉屋やっていて、評判よかったんだけど、なんかイヤになって」

「なんで?」

「話すと長いんですよ…在日として暮らしているのがなんかね。日本で産まれて育ってるんで、気持ちは日本人。でも名前はキムだし…」

「なんかイヤなことあった? オレ、高校のときも在日のともだちいたし、ヒトはルーツより、そのヒトまんまだと思ってるよ」

「いや、特になんか言われたり、されたりしたわけじゃないんですよ。でも高校生のとき、親の店に学校のサッカー部のともだちが来て、慰安婦問題のニュースが店のテレビで流れたりすると…なんか、その後の雰囲気が…

 みんな、なんかざーとらしいってか。話題にしないようにしているのがモロで。急に笑顔でオレの方見て、違う話題出してくれたりする。

 オレは親とも話していて、韓国政府がヘンな対応する度に、カンベンしてくれよって思ってたけど…

 そんなことが何回も続くうち、疲れたっていうか」

「まーまーいいじゃん。

一緒に飲める?」 


 しげさんが例の笑顔で言うと、キム君もにっこり笑った。まだ三十代半ばくらいだろう。パリまで来てよくがんばってる。

「じゃ、オレもマッコリで」

 なんか肩組んで、一緒に歌いたくなるタイプだった。

 しばらくいろいろ話していて、

「先輩、Stones好きなんすか?」

 と、しげさんにキム君が尋ねた。

 ベロ出しロゴのシャツは洗濯に出したから、なんで分かるんだろと思っていたら、手のひらにマジックで書いてあった。

 「Love Stones」と。


「オレ、ロック好きなんすよ。

 なんかもやもやしてるとき、思いっきり歌うとすっとする。

 あーカラオケ行きませんか? 

 近くに安い店あるんですよ」


「じゃ、お勘定」

「いいですよー、日本からはるばる来た先輩たちなんだから」

 しげさんがにやっと笑った。

「そろそろと思って、もう払ったから」

「しげさん、いくら?」

 と言っても笑ったまま。


 カウンターへ行ったキム君が戻って来ると、

「次は払わせないですからね!」と大きな声で言った。

「はいはい」


 暗いパリの路地。こええなーと少し思って歩いたが、カラオケの店は本当にすぐ近くだった。 

 地下への階段をおそるおそる下っていく。

「HellClub」という看板が小さく見えた。カンベンと思ったが、酔いで足が止まらずに降りていく


重い金属のドアを引っ張って開けた。キム君としげさんを通してから、自分も入った。

少しひんやりするくらい、冷房が効いている。


 いるのは白人だけだった。ちょっとキツい、オーデコロンだか香水だかの香りが漂っている。

 ビリヤードのテーブルがあって、入れ墨が肩にある、若い白人がこちらをぎょろっと睨んだ。

「ホントにここ?」

 とキム君に聞いたが、もう酔っぱらってぐずぐず。しょうがないから、入口近くのソファに座らせた。

「Karaoke? 」と聞いてきたので頷くと『ディスウェイ』と、指差された。

 さらに奥の部屋だ。

 ちょっと覚悟がいるかな。

 防音らしい、厚手のドアの取っ手を引いた。重い!。

 開けた部屋には、東洋っぽいおねーちゃんがふたりいた。

「いらっしゃいませー」

 こっちの顔を見ると、日本語で挨拶した。コレは危ない、と思った。


「おー、別嬪さん!」

 しげさんはにこにこしている。

 しょーがないから、とりあえず椅子に座った。

「このカラオケ、日本おんなじ。なんでも歌える」

 水色のひらひらしたワンピースを着た、少し背の高い女が言った。

「『異邦人』でもいいよー」

「なんで、そんな古い歌知ってんの?」

 しげさん、まったく警戒という気分がない。

 こっちは「覚悟」を決めた。


「一曲目、何イイ?」

「あんたたち、国どこ?」

「ワタシ中国」

 水色ワンピースが答えた。

「ワタシ韓国」

 グレーのパンタロンの上下を着た、金髪に染めたのが言った。

 げっ。サイアクの組み合わせだ。


「ストーンズの『ワイルドホーセズ』出るかな」

 こちらのやりとりに関せず、しげさんは選曲のリモコンをいじり始めた。

 そんなの出るわけないよ、と思ってたが、生ギターの、あのポロンポロンという響きが…

 すぐにしげさんは歌い出した。

「ワーイルド、ワイルド―ホーセズ…クドント、テイクミーアウェイ…」

 男女関係の歌なんだけど、なんだか草原を走る野生馬が見えたような気がした。


 それからは、Stonesと昭和の歌謡曲尽くし。しげさん歌いまくりで、気がつくと午前二時過ぎ。女の子たちには、エッチなことはしなかった。何曲かデュエットしたくらいだ。時間より、気になっていたことがあったので、そろそろ帰ろうとしげさんを促した。


「えー、もうちょっと歌いたいんだけど」

「また来ればいいし、日本でもカラオケはできるでしょ」

 焼肉とカラオケじゃ、パリに来た甲斐がない。

「お勘定!」

 そう言うと、水色が部屋の外へ出て行った。

「はい。マイドね」


 出されたレシートを見ると…

「千ユーロ?」


 部屋を出て、入れ墨のお兄ちゃんにまた睨まれながら、熟睡しているキム君の肩を揺すったが起きない。

 やられた! と思いつつ、入れ墨に近づく。

しかし「ディスイズ ディスカウントプライス」

 とだけ言って、またガンツケしてきた。

 畜生、どうするか。相手はひとりだが、こっちもしげさんも酔っている。外に逃げられたとしても、パリには交番なんかない。オマケに、別の部屋から革ジャン着て、長髪で髭だらけのヘルス・エンジェルスみたいのがふたり出てきた。

「カードオーケー」

 最初からいたにいちゃんがにこにこしながらそう言った。


 そのとき、しげさんが片隅にあったアコステのギターを手に取って、チューニングを始めた。

 そんなこと、してるどころじゃないよ。

 しかし、しげさんはギターを持って、部屋の中央に進んだ。そして、おもむろに歌い出した。

「あいるねばぴよーびーすとおぶばーでん…」

Stonesの『Beast of Baden』だ。


 カラオケでもStonesを歌うときは、マジな顔をしていたが、今度は酔っぱらった感じもなく、まるでステージに立っているようだった。

 三人も黙って聞いている。

 歌が三フレーズ目に入ったとき、いちばんガタイのイイ奴に「異変」が起きた。眼がしらに指を当てて、肩が震えている。

 そして、しげさんに近づくと抱きついた。

「このヒト、ホモかなあ?」


 とりあえず近くに行ってみると、なんだか英語らしいがぶつぶつ言っている。何度か聞き返すと、やっと何を言っているか分かった。

「オレはポーランド人だ。若いころ、女とワルシャワで同棲してた、毎日毎日、長い時間働いても生活が楽にならなかった。それで、この曲よく聴きながら、いつかシアワセになろうって、いつも女と誓いあってたんだ…しかし、女とは別れちまった…それから、今でもオレはこんなことをやってる…」

 そう言うと、おーいおいと泣き出した。ほかのふたりが、肩を抱いて慰めている。


最初にいたヤツが、レシートを破りながら「ツーハンドレッド・オーケー」と言ってきた。

そこでキム君が、眼をこすりながら起きた。

「ふわっーあ。 

 あーすいません、ここんとこ飲み続けだったんで寝ちまった。

 ん、どうかしたんですか?」


「アレックス、ホワッツハプン?」

 最初のヤツとぼそぼそ話して、こちらへくるっと向き直った。

「ごめんなさい、こいつら勘違いしてたんです。あなたたちをカモだと思ったって」

「なんだよ、君も暴力バーみたいなことに加担してんのか?」

「いや、今まで日本人、韓国人、中国人であまりにも態度のヒドイお客に何回か…

店のものを壊したり、女性従業員にセクハラしたり、それを全部、金をばらまいて解決するような連中にだけですよ。

いい娘がいる店紹介しますよって言ってね。

で、いくら払えって?」

「最初は千ユーロって言ってたけど、今さっき二百でいいってハナシだったよ」

「アレックス!」

 もう一度呼ぶと、少し話して

「女性には、サービス受けました?」

「デュエットしたくらい」

「だったら三時間くらいだし、百がいいとこですよ。あ、オレのおごりだって言いましたよね。ここは出させてください」

「いや、初対面の君におごってもらうのは…」

「いいよー、もうオレ払ったから」

 しげさんがにこにしながら言った。

「えー、それじゃ申しわけないですよ、先輩。

 …じゃパリにいる間、もう一回は店に来てください。

 絶対ですよ」

 そう言って、アタマを下げるキム君を尻目に階段を上がった。


「しげさん、いくら払ったの?」

「百」

「オレ、五十出しますよ」

「いらない いらない」


 昼のカフェはワリカンにしたけど、ほっとくとしげさん払っちゃうから、支払いは本当に気をつけないとダメだな。

「え~と、払っていただいたところでなんですけど、チップは大丈夫ですよね?

 十パープラス、サービスがイイと思ったら二十パーくらいまで」

「もっちろーん」

 ほっとくと、気前よく貯金残高セロまで使いかねない…



 …起きると、もう太陽がすっかり上がっていた。

「うーい、『朝日の当たる家』だなあ」

 そう言うと、鼻歌と声ですぐに歌い出した。いきなり上機嫌。

「朝食、六時半から九時って言ってたから行きましょう。もう八時半ですよ」

「うーい」


 窓を開けっ放しにしただけで、快適に寝られた。昼は、ちょっと日差しを強く感じたけど、夜は爽やかだった。

しかし、ヨーロッパの気候は安心できない。同じ七月のパリで、到着したときは最高十九度、その一週間後に再び訪ねたら三十三度ということもあった。六月末のロシア・サンクトペテルブルクでは、三十度あった気温が、雨が降り出していっきに十三度ということがあった。大陸性の気候は気まぐれで、さらに、もう常態となった「異常」気象のせいもある。


 しげさんは、また別のストーンズのTシャツに着かえている。渦巻きがいくつも入った柄から、一九九〇の『Steel Wheels Tour』の来日公演のときのヤツみたいだ。

 こっちより先に部屋を出ていくと、階段をどすどすと降りる足音があり、

「これどーすんだっけ?」

 と、大きな声が聞こえた。

 はいはい。

 エレベーターの前には鉄格子がある。それが開かないと引っ張ってみせた。

 昨日、何回か乗ったじゃん。

「まずボタン押して、エレベーターが来たらそのときに開けられますよ」

 エレベーターが来てから引くと、すぐに開いた。酔っぱらってひとりで帰らせたら、エレベーターの前で考え込みそうだ。最後は階段上がらなきゃいけないし。

「コレも厳重だなあ。もひとつ扉があるじゃん」


 乗ると、

「ボタンどれ押せばいいの? いちばん下にはLってあるけど、これは地下?」

「こっちでは、必ずしもいちばん下が一階じゃないんですよ。Lはロビーの略。ここにはないけど、Mって中二階へ行くボタンもあることがあります」

「めんどくさいなあ」

「えと、確か朝食は一階…」

「朝食券とかなくていいの?」

「朝食券をくれることもあるけど、ないときは鍵を見せます」


エレベーターが開くと、正面の白い壁に「Ptite Dejurner」と書いて、右への矢印のある紙が貼ってあった。

 近づくと、パンとコーヒーの匂いが漂ってくる。

 もさっとした茶髪のおばさんが、モップで床をふいていたが「Bonjour」と声をかけると、にこにこしながら「Bonjour」と返してきた。そして右の壁のほうを「Voila」と指さした。

 壁に沿って、いくつかの白いテーブルクロスを敷いた机があって、パンやら朝食の品が並んでいる。今どきのどこの宿でもあるバッフェスタイルだ。


「さあー、メシメシ! 好きなのとっていいんだよね?」

 ホテルのよしあしは、朝食で分かる。最高級ホテルでも安宿でも同じ。さあ、どうかな?


テーブルに近づくと、そんなに種類はないがチーズ、ハムのほかにスクランブルエッグもあった。パンもバゲットだけではなく、クロワッサンやブリオッシュもある。トーストも焼けるようになっている。

 飲み物は、オレンジジュースと牛乳、水。コーヒーのサーバーと、お湯が出るマシンとティーバッグもある。ホテルの宿泊代金からしたらまずまずだろう。

 バナナとかオレンジとかのフルーツも置いてあった。


「おー、クロワッサンとカフェオレだなあ。バナナも、もらおうっと。これまで苦労はさん(クロワッサン)ざんしたから、美味しいぜ」

 出たあ~。

オヤジだじゃれが出ると言うことは、もうしげさん絶好調だな。


「しげさん、こうやって食べると美味いよ」

 クロワッサンを横に切って、バターを塗って、ハムとチーズはさんで…そうそう。

「お、コレいいわ。クロワッサンは、今まで食べたことがないくらい美味い。ハムもチーズもなんか食べたことがない感じ。でも、なんかしっかり味があって、歯ごたえもあるなあ。バターもいいよ。

 こういうのっ、日本でも毎日食べられたらいいんだけどなー」

「なぜだか最高級ホテルでも、日本だとダメみたいですね。最近は日本のスーパーでも、ハムとかチーズとか同じ食材売ってるけど、パリで食べないと美味しくないんですよ」


 ガチャ…

 カップの音だ。おばさんが片付けしているのかなと思って振り返った。

 …ほかに誰もいないかと思っていたら、女性がひとりいた。


「あれ、日本人かなあ」

 いきなりしげさんが立ち上がった。

「しげさん、日本人ってこっちでは、お互い避けることも多いから…」

 と言いかけたが、もうしげさんは歩み出していた。


「おはよう」

「おはようございます」


 おかっぱアタマに大きな目。今どき珍しい黒縁メガネのフレームが太い。

 なにか本を読んでいたが、メガネに両手を添えて、しげさんを見た。


「吉沢です。ニホンのヒト?」

「はい」

 仕方なく、自分も寄って行った。


「あー彼はね、加藤君」

「初めまして」

「初めまして」

 少し目の端を曲げて、にっと笑った。愛想のない子ではない。きゃりーにちょっと似ているかな。


「沼尻エリカです」

「え~! 沢尻…」

「違います。ぬまじりです。

 よく言われるんですよね~。べつにイヤということではないですけど」


「パリ滞在は長いの?」

 本の表紙を見ると、フランス語だったので聞いてみた。

「勉強に来てます。今回は二回目で、今二か月目。通算で三月くらいです。あと二か月くらい、ヨーロッパにいる予定です」

「学生さん?」

 しげさんが聞いた。

「はい。美大です」

「へ~スゴイじゃん。

 オレたちも芸術学部出身だよ。

 どこの美大?」

「国立の芸術学科です。まだ現役です、五年生ですけどね」

「マジ? オレらと違ってエリートだね」

「そんなことないですよ。美術学科ですか?」

「ううん、絵も描けないし、メカにも弱いし、流行のもんにも弱いからさー、無芸大食の文芸学科。

文学部みたいなもんかなー」

「有名人、いっぱい出てるじゃないですかー」


 しげさんの目をちゃんと見ながら、はきはき答える。

「なんでパリ来たのー?」

「実は…彼氏がイタリア人で、卒業してから結婚するんですが、フランスでも美術の勉強して…とりあえず、イタリアでガイドになりたいなーと思ってます」

「イタリア人と結婚? 相手はイタリアのどこのヒト?」

 プライベートずけずけ聞いちゃ悪いかな、と思ったけれど、キラキラした目で話してくれるので、自然と問いが出てしまった。

「フィエーゾレです」

「ああ、フィレンツェ発祥の元になった街。いいとこだよね」

「行かれたことあるんですか?」

「うん。オレ、イタリア好きなんで、小さい街を巡るツアーもけっこう企画したから」

「旅行会社にお勤め?

 いいなあ、

あちこち行ってますよね?」

「いやあ、もう日本の旅行業界、なんかダメでさ。そろそろ辞めようかと思ってる」

「辞めたら、どうされるんですか」

「作家に成れたらいいかな」

「素敵じゃないですか。

 がんばってくださーい」

「まさあきちゃん、才能あるからさー」

「んなことないですって」

 しげさん、オレには答えずに、

「エリカちゃん、名前はどんな字?」

「えーと、エリカは絵の里の香りです。絵里香」

「おー、名前もゲージツっぽいじゃん」

「イタリアでガイドになるのもタイヘンなんですけど、どうせならイタリア人のグループをフランスにも案内できるようにって思って、パリの美術館も巡ってます」

「うわっ、それはタイヘン、

 イタリアだけだって、とんでもないのに。あちこちにいくらでも美術館あるし…

 イタリアのアーティストは誰が好きなの?」

「日本ではそんなに知られてないと思いますが…マンテーニャなんて好きですね」

「おー、マンテーニャか。オレ、マントバに二回行った」

「本当?」

「いい街じゃん。マンテーニャのフレスコもいいけど、ヴェルディの『リゴレット』ゆかりの街でもあるしさー。かぼちゃのラビオリも美味しいし」

「うわー、よくご存じですね」

 途中で、しげさんもオレも、コーヒーカップを持ってきて、彼女と同じテーブルに座っていた。


「今日も美術館行くの?」

 しげさんが尋ねた。

「はい。オルセーにじっくり行こうかなって。

 印象派はフランスですからね」

「絵里香ちゃん、よければさあ、パリの美術館案内してよ」

 しげさん、初対面のおねーちゃんにそんなこと…


「いいですよ。

 誰かを案内するのは勉強になるし」

「やったあ!」

 しげさんがハイタッチのポーズを取ると、絵里香ちゃんが手を合わせた。

「じゃ、九時十五分にロビー待ち合わせでいいかな?」

「はい、じゃ後ほど」


「ラッキー♪」

 しげさん、ますます上機嫌。


「今日は美術館巡りの日にしよ。絵画に開眼なんちゃって♪」


 ロビーに行って驚いた。さっきはグレーのトレーナーを着ていた絵里香ちゃんだったが、Tシャツにジーンズ、ソックスやスニーカー、メガネの縁までピンク。

「うわあ、目がぱちぱちするなあ」

「ずっと地味子だったんで、いろいろ自己主張にトライしてます」

 ちょっと行き過ぎと思ったけど「若い頃は服装でプロパガンダもいいね」とか言おうとしたら、

「ダメじゃん。イケてないよ」

 しげさんが言った。


 一瞬、絵里香ちゃんの顔が歪んだんで、ヤバイ、と思ったけど、

「…そーですよね、ワタシもちょっとやり過ぎかな、と思ってたんです…

 着換えてきていいですかー?」

「あー、急いでないからさー」

 しげさんが、まばらな歯を見せて顔中で笑った。

 絵里香ちゃんは、たったっと、エレベーターに近づくとすぐに笑顔で乗り込んだ


「しげさん、美術系の子だから、プライド傷つけちゃうと…」

「なーに言ってんだよー。カッコ悪いのは悪いって、ちゃんと言ってやんないとダメだー」

 声は少し大きくて笑ってなかったけど、口調はのどかだった。

「あれじゃ、見世物だって。

 カッコ悪いと思ったら、そのまま伝えないと。オンナノコなんだから、かえって可哀想だよ」

 …それはそうかも知れない。

「それにオレたちだって、あれじゃ一緒にいて恥ずかしいぜー」

 そう言って、また目で笑った


 そんなこと話しているうちに、チンという音がして、絵里香ちゃんが出てきた。

 今度は、ピンクの文字が入ったグレーのトレーナーと、ピンクのメガネと濃い目のブルージーンズ。

「お、今度はイイね。コーディネートしてるよ」

 しげさんがにっこりすると、絵里香ちゃんも笑った。

「おふたりも芸術系だって忘れてました。いろいろご指導お願いします」

 ぺこりと頭を下げた。

「なーに言ってんのー。

 ナカムラしどう、マックス・フォン・シド―…

 なんちゃって」

 ときたま、しげさんのダジャレは難解だ。


 そこへ、マダムがどかどかと降りて来た。

「オジサン、ナンパダメ。エリカちゃん、箱はいったムスメ」

「それは『箱入り娘』って言うの。

 マダム、今日は美術のお勉強の日。

 おうじょーどうい、あーる、えちゅーど」

 マダムが目を上下させているうちに、

「さー、いこいこ」

 と三人で外へ出てしまった。


 今日も、パリの風は気持ちイイ。

 セーヌ川からは少々離れているが、なんか水の匂いもしてくるように感じる。


「近いし、せっかくだからポンピドゥーセンター行こうよ」

 しげさんがいきなり言い出した。

「え~、ダメですよ。ワタシ、印象派までが精いっぱいで、モダーンとかアヴァンギャルドは…」

「でも、ガッコでも習ったでしょ?」

「ルネッサンスからバロックが専門だったんです。それとアヴァンギャルドにはトラウマがあって…」

「どしたの?」


「大学入って、初めてつきあった彼がアヴァンギャルドで、しかもオブジェが得意で…あるとき、日本の提灯を並べたパフォーマンスをやったんです…ワタシ、彼女として盛り上げなきゃと思って、祭りの半被着て、オブジェの前で『えらいやっちゃ』と言いながら踊ったら…

 それが原因で、彼氏みんなから笑われて…

 『お前なにも分かってない』って怒られました…」

「それがなによー。絵里香ちゃん、彼のためにやったんじゃん。

 それが大事!」

「半被、自分で縫ったんです。小さな提灯もつくって、LED電球灯して…頭の周りにぐるんと付けて…」

 想像して、悪いけど腹がよじれた。


「まーまー。

 気分変えて、今までと違うことにチャレンジ!」

 下を向いていた絵里香ちゃんが、どうにか歩き出した。


 ポンピドゥーセンターが見えてくると、しげさんが声を上げた。

「これこれ、このデザインだよなー。

 工場みたいなこの感じ!

 ストーンズが初めて日本でライブやったステージと同じだ」

「当時、最先端だったファクトリーデザインですね」

「うわっ、写真では見たけど、実際だと迫力ありますねー」

「なに、絵里香ちゃん初めてここに来たの?

 宿からすぐ近くなのに」

「…だからー、さっき言ったようにー、モダーンとかアヴァンギャルドはダメなんですっ!」

 彼女は、少しうずくまりそうになった。

「まーまー、行ってみようよ。なかの作品も観てないんでしょ?

 ずっと、いろんなアーティストが、みーんな一生懸命作品創ってきたんだから。

 観てムダってのはないと思うよー」


 絵里香ちゃん、明らかに歩みが遅くなっている。

「ほらほら、行こうよー」

 しげさん、絵里香ちゃんの右腕、左腕ですくって連れて行く。

 絵里香ちゃんのスニーカーが、ずって少し音を立てた。

 

 チケット売り場に近づくと、彼女は、しげさんから引っこ抜くように離れた。

「ぢゃ、私チケット買いますから」

「はいはーい。

 いくら?」

「百あれば足りるよね?」

 あ~、またしげさんに払わせた。

 いったい、いくら両替したんだ?

「えーと、私の分を引いてー…」

いいから後にしようよ、早く入ろ入ろ」

 

 しげさん、すぐにエントランスに向った。

「まず、ウォーホール」

「えっ、作品があるのを知ってんの?」

「コレで勉強したんだよ」

 ジーンズの後ろポケットから、本を出した。

「見せてくださいよ」


 手に取ると、ボロボロのパリの美術ガイドブックだった。奥付を見ると十年くらい前の発刊だ。

「カンディンスキーとか、マティスとかブラックとか…ポップアートでは、リキテンシュタインなんかも観ないとねー」


…しばらく、しげさんの顔をじっと見てしまった。

「どしたの? 

 あ、オレがそんなに絵なんか詳しくないと思ってたかな」

「いや、そんなことはないすけど」

「大学で酒吞んで、Stonesやってただけだと思ってたんじゃないかなー。

 オレだって、今だって、なんか自分の表現つーか、なんか残したいと思ってるとこもあるんだよー。

 いつか行きたいと思って、パリの美術館のガイドブック、昔買ったんだ」

 にこにこしているが、どっかマジという感じがある。


「なんかさー。ウッドストックとか、あの時代って楽しいじゃん。なんか起きる、なんか変わるってさー。

 そんな時代が好きなだけかもしんないなー」

 

 …それから、しげさんがガイドブックめくりながら、あちこち行くのに、なんとかついて行った。


「絵里香ちゃん、どうかなー」

 少し、肩をちゃんと立てながら答えた。

「なんか、目まぐるしくて…」

「現代美術だとか、アブストラクトとか、アヴァンギャルドだとか思うから疲れるんだよー。

 まさあきちゃんさー、

 ゲンダイゲージツって、どう思う?」

 ふらないでくださいよー、と口のなかで言いつつ…

「どういうことについてですか?」

「デュシャンの『泉』って作品知ってる?」

「はい。一応は」

 オレだって巖谷さんの高い本、買ってイヤイヤ読んだんだ。

「じゃ、どんな風に思うか言ってみて」


「…まず男性の小便器を作品として出した、ってのがエポックですよね。

 …次にぃ、なんで小便器が『泉』かってことです。

 下からあふれて来るわけじゃないし、それじゃ業者の欠陥工事だし」

「じゃ、なんで泉?」

「既成概念の打破とか、んなとこでしょう」


「いや、違うんだよ。

 そんなことじゃないんだよ」

 なら、なんなの?


「オレ、酔っ払って公衆便所行くとさー、

 小便すると栓が…

 なんかパンダの顔に見えるんだよね」

 はあっ?

「それで、パンダが下からわさわさ出て来るんだよ」

 それ、単なるアル中?


「あー、パンダの泉ですね。

 彼氏と展示作品の手伝いして徹夜したとき、

 帰り道歩いていて『おしっこ』っていうから、公衆便所に行ったら『絵里香、パンダの群れだ―』って言うんで、行ってみたら…確かに」


「そんとき、彼氏どんな顔してた?」

「なんか、目の端がたるんで笑ってました」

「それそれ。

 シンパシィがいちばん大事」

「可愛いですよねー」


 なんなんだ。

 現代美術の分かるよーな分からないよーなもん、あっちこっちで一生懸命観て、デュシャンの凄さは分かったと思っていた。

 『大ガラス』だって、フィラデルフィアまで行って、実物三十分くらい腕組みながらうろうろして、やっと最後の覗き穴観たんだぜ。


 …結果は…

 でも…

 小便とパンダの泉かよー。


「まさあきちゃん、なんか不信な顔してっなー。

 なんか、なんでもかんでもムズカシイって顔だよ。

 こりゃ、絵里香ちゃんより、まさあきちゃんのほうが『治療』が必要かもな」


 そんなー!

 オレだって、ただ給料稼いで食ってきただけじゃないっすよ。世界中旅して、いろんなヒトと話して、いろんなもん見て、いろんなもん食って…


「モンドリアン、観に行こかー」

「確か、ここのモンドリアン、あんまりオモシロくないですよ」

「まーいいじゃん」


 MOMA(ニューヨーク近代美術館)の『ブロードウェイブギウギ』はよかったけど、ここのは…


 ほら、なんか、ただの色と線の組み合わせじゃん。

「おおー、興奮しちゃうなー。

 この青と赤の位置カンケー。

 なんかライバルみたいだし、いつか一緒になる恋人みたいも見える。

 こっちなんか黄色も混ざって、どーいうカンケーかなー。

 想像すっと鼻血出そう。

 あ、オレのこと、バカだと思ってんな―」

「いや、んなことないですって。

 モンドリアンがすべてを抽象化して、記号に置き換えたのはスゴいと思ってます」

「まさあきちゃん、赤ってどんな色?

 オレはさあ、じいちゃんが自慢してた赤ふんどしとかさー、思い出しちゃうんだよね。

 赤ふん締めるときはさあー。喧嘩行くときとか、好きなねーちゃんと初めて寝るときとかさあ、今で言ったら勝負パンツかな。

 絵里香ちゃんも、彼氏と初めてのお泊りのときは、赤パンツじゃなかった?」

「違います! フリル付きの…」

 言った後、耳まで真っ赤…


「いやいや言いたいのはさー、色だって人の思いがこもってることがあるってことなんだよねー。

 いろいろ解釈すんのも自由。モンドリアンが、どんな思いで描いたかもあるだろけど、観るヤツがどう思うは自由じゃん。

 赤ふん兄いとなんだか青パンの色っぽいねーちゃんが、横丁隔ててお互い好きなんだけど、距離があるとかさー、黄色が混じって来ると、三角関係とかさー、どんな感想持ったって、オレの自由だ」

「現代になってくるとさー、いろいろ縛りばっかになって、みんな辛くなってんだよー。だからーいろいろな表現の仕方して、みんな自由になろうとしてんだよ。

 ブルースだって、ロケンロールだって、そーなんだよ」

 …それからは、しげさんは「オモシロい」とか「いいねー」と言いながら、マティスとかルオーとか、名だたる画家の名作を前にただ笑顔だった。

 ときには、絵里香ちゃんと「コレいいねー」と言いながらハイタッチしてた。

 ポンピドゥーセンターを出ると、もう正午近くだった。


「あ、この近く。

 美味しいバゲットサンド売ってる店があるんです」

「いいねー、じゃ買ってから、セーヌ川見ながら昼ご飯にしようよ」


 バゲット食べるだけでも、パリに来る甲斐はある。日本のコンビニのサンドウィッチが食べられなくなってしまう。


 あれ、まだ十一時半くらいなのに、リーマン風の連中とか、近所のおばさんみたいのも並んでる。めんどくせー。でも、二十分くらい待って、なかへ入ったら…

 うあ、この店はなんだ。チーズだけで、カマンベールからエポワスまで十、いや二十種類くらい。トマトも五種類くらいある。ハムとサラミも…

 勢い込んで頼もうとしたら、絵里香ちゃんに制された。

「ここ、店に任せるんです」

「でもニューヨークのサンドウィッチスタンドでも、いろいろチョイスさせてくれるよ」

「ここは違うんです。顔見ながら、決めてくれるんです」

 えー、そんなの聞いたことない。

「でも、ぴったり、そのとき食べたいもの挟んでくれるから、試してみてくださーい」


 まーいいか。

「ボンジュール」

 髭の大男が、白い歯を見せて笑うと、すぐにこれでいいかとバゲットを手に取った。

 ウィウィ。

 お、生ハムだか、ローストした肉だかをスライスしてくれている。そうそう、どんどん増量して。日本のサンドウィッチは、薄っぺらなハムだけで美味しくない。肉類はどーんと入れてくれないと。

 それとバゲットは、皮が堅くないと美味しくない。硬い皮が口のなかで弾ける香ばしさがいい。なぜか日本のバゲットの皮は堅いだけで香りがない。塩の塩梅のせいだろうか。ドイツのパンは、概して塩が効いていて美味しい。

逆にトスカーナのパンは一切、塩を入れてない。だから初めて食べるとなんだか味気ないけれど、慣れるとこれも美味しい。噛みしめると、小麦本来の美味しさがある。日本に出店してるヨーロッパブランドのパンは、作り方は同じはずなのに…

 昔、フィルムの時代に日本とヨーロッパでは、同じ条件でも現像すると色が違うと言われていた。湿度の違いだと言われていたけれど、それだけだろうか。

 日本とヨーロッパ。同じ地球上にあるけれど、なにかが違うんだろう。そして、それは実際に現地で体験してみないと分からないこともある。


「まさあきちゃんさー、薄皮饅頭食べたことある?」

「ありますよー」

「あれのさー、薄皮が上あごにくっつくの楽しいよなー。なんかタマゴの薄皮とも似てる。

 舌で上あご、こそげるのがいいんだ」

 なんでフランスで饅頭のハナシになるんだ?

「硬いパンの皮でも、同じ食感のときがあるからさー」


「あ、今パリでは、日本の饅頭を売って、ヒットしている店がありますよ。あんこがナチュラルスイーツだというのが、売れている原因のひとつだって」

「じゃ、後でそこ行こうかー」

「いいですね」

 せっかくパリ来ているんだから、タルトタタンとかモンブランにすればいいのに…

 まあ、でも今回は「オレのパリ」じゃない。しげさんのパリだ。しげさんの好きなことやってもらえばいいんだ。


 おー、オレのバゲットが出来たー。肉たっぶり。コレ、パストラミかなあ。ビーフ? カモ?

 続いて、しげさんがカウンターに立った。

「おにいちゃん、いや、おにーさま。オレの食べたいもの分かるかなー」

 にやっと笑うと、奥へ引っ込んだ。そして、片手で持ってきたのは…

「鯖だ!」

 鯖の半身をスモークしたのか、酢漬けにしたのか。どっちでも鯖サンドは美味い。イスタンブールでは定番だ。おー、タマネギのスライスを挟んで、何のソースだ? マヨネーズになんか入ってるぞ。食パンみたいな、トーストに使うパンだけど、日本より一・五倍は大きいな。それがふたつ!


「ありがとーね」

 しげさんが笑顔で受け取った。


 最後は絵里香ちゃんだ。

 え? なにそれ。グレープフルーツ? それとイチゴ? フルーツがいっぱい。そして、たっぷり生クリーム。甘すぎないかなあ。バゲットより、柔らかいパンにはさんである。


 値段がちょっと気になったが…

「コンビャン?」

「サンク」

 え、五ユーロでいいの?

「ここは、ランチのときは全部五ユーロなんです」

「これだけたっぷり肉入って、バゲット一本で? あーなんか得した気分」


 みんなサンドウィッチを紙で包んだのを持って、セーヌ河畔へ向かう。


 護岸されたみたいなところに腰掛ける。対岸には、中州にあるノートルダム寺院が見える。

「しげさん、ノートルダムですよ」

「おっ、ノートにスケッチでもとるだ、むん。

…ちょっと厳しいな」


 飲みものは、もちろんしげさんはビール。クローネンブールの1664のロング缶。自分は赤ワインの小さいビンにした。絵里香ちゃんは、炭酸入りのミネラル水のバドワだ。


「せっかくだから、みんなのもそれぞれひと齧りしよう」

 と、しげさんが言い出して、交換してはがぶり。


「なんか、お父さんと叔父さんと一緒にいるみたい」

「こらこら。お兄さんでしょ」

 絵里香ちゃんに、しげさんが言った。


「…でも、旅ってホントにいいよね。いろんな出会いがあるからさー。

オレは宅配便の配達なんかやってるけど、田舎だから顔みしりの人も多くなってさ。お年寄りのところなんか行くと、たまに『お茶飲んでけ』とか言われることあるよ。一日のノルマがあるんで、忙しいって言うと『じゃこれ持ってけ』なんてペットボトルくれることもあるよ」

「東京に住んでいた頃は、ありえないなあ、そんなこと。結婚して近県に住んでからもないですよ。むしろ、しげさんには悪いけど、宅配便の人が来ると『めんどくさい』としか思わないな」

「オレの小さい頃なんか、郵便配達のおじさんと交流があったよ。あがりかまちや縁側に上がってもらって、ときにはお茶だけじゃなくて、お菓子まで出してさあ」

「アガリカマチって何ですか?」

「んー、玄関の内っかわ。若い子は言葉知らないな」

「そんな風に言うと、なんかおじいさんみたいですよ」

「こらっ」

 しげさんが、絵里香ちゃんのアタマをボコりと叩いた。でも、しげさん六十越してるから、ヤンキーな子どもがいたら、絵里香ちゃんくらいの孫がいても不思議はない。


「ムカシはいろいろ配達してくれるのは郵便局の人しかいなかったからね。それで『いいもん届けてくれる人』って感じだったんだよ」


 ときたま、バトームシュー(セーヌの遊覧船)が、あまりエンジン音をさせずにすっと行き過ぎる。

「ポンポン船とかが行きかったら、『Dock of Bay』なんだけど。あーあれは海だったな。

…でもさあ、ぼんやりっと波止場で座っていて、みんな頑張ってんな―とか思えたのが、オーティスがあの曲書いた理由って気がする」


「ニンゲンってさあー、なるたけ多くの人と会ってさー、いろいろあるといいんだよ。

 ホントそう思うよ。

 こもっちゃったらダメだよ。

 パリ行くなんてさあ、夢だと思ってたけど、今、来ててさ、いろんな人と巡り逢ってさ。ホントよかった。

 なんか、人と会って話すと、交換してるなーって感じがあるのよ。エネルギーをさ。特に新しい人と会うといいよね」

「週末をなんにもしないで、ぼっとして過ごすと、月曜にイヤな会社で好きじゃないヤツと話しても、なぜか元気になることがありますね。ニンゲンはやっぱり社会的な動物なのかな」

「年寄りは、ひとりで暮らすと、すぐボケちゃうからね。それもやっぱり、人とエネルギー交換しないからだと思うよ。田舎だと、気にしてくれる人がいるから、まだいいけどね。おとなりさんと『天気がいいね』『雨が続くね』なんて会話するだけでも、いいんだよ」

「東京はキツいですよね。親戚なんかでも、会わないことがほとんど。こないだ、沖縄行って来て、航空機の帰りの席でとなりが東京の風俗店で働いているっていう女の子だったんですよ」

「フーゾク?」

 あ、いかん。しげさんの目がちょっと光った。

「いろいろ話したんですけどね。東京では、賃貸マンションで暮らしているんだけど、となりにどんな人がいるんだか、いつまで経っても分からないのでコワいって。

 沖縄では、両どなりとのおつきあいもあるし、遠い親戚でも、子供が小学校に入るってだけで、みんな集まるし、人と人との行き来があるのに、東京はみーんなポツンとしてるのね、と言われました。

 確かに自分も妹や親戚との往来がないですね。昔はそうでもなかったんだけど。

 歳とってボケなくても、ひきこもりになってネットやテレビばかり観てたら…」

「コワいよね」


「パリも、慣れないと冷たい街って感じがありますよ。というか、大都会はみんなそうなのかもしれないけど。でも、ヨーロッパは基本、個人主義だから。

 フランス人の美術関係の知り合いのひとりが、少し前に『ゴーギャンみたいに生きたい』って、太平洋の小さな島に移住すると宣言して、日本だったら誰かが『考え直せ』とか言うんだろうけど、こっちじゃ誰も止めないんですよ。『元気でね』って言うくらいで。

 人が決めたことに干渉しないって感じかな。

そう言うと、冷たく感じるかもしれませんけど、慣れてくるとそうでもないんですよ。こっちから相談すると、けっこう親身になってあれこれ考えてくれます。

う~んと、立食パーティを例に挙げるといいかな。

日本人は立食パーティが苦手で、誰かが紹介したりしないと、なかなか会話も弾まないけれど、ヨーロッパの人は、こちらからアプローチすると、ちゃんと相手してくれる。でも、そうしないと、ただポツーンとしているだけで、時間ばっかり過ぎちゃう」

「でもさ、そういう個人主義っつーのかな、それもいいとこもあるんだろうけど、欧米から入って来た習慣で日本はなんかダメになってきた気がするんだよなー、オレ。

 昔はさあ、じっちゃん、ばーちゃん含めて、みーんなで家族として住んでたけど、欧米はずっと別々じゃん。子供も、欧米の映画観てると、早いうちから部屋もらってひとりで寝てるんだよねー。

 少子化なんてさ、日本も深刻になってきてるけど、みーんな別々に住むと、赤ん坊の世話なんかたいへんじゃん。今は夫婦共働きも多いしさー。でも、じっちゃん、ばっちゃんがいれば面倒見てもらえるじゃん」

 しげさんが、ちょっと早口で言った。

「中東とか、アジアとかで大家族で暮らしてるところは、家族の仲もいいし、みんな貧しくとも幸せそうですね」

「オレなんか、まだ両親と暮らしててさ。どっちも、もう高齢だからボケてきちゃって、たいへんだけど、それでも一緒に暮らしててよかったと思うこともけっこーあるよ。まあ、結婚してたらどうなった分かんないけどさ」

「そうだ。しげさんは、なんで結婚しないの?」


「んーと…それはね」

 

そこへ、

「ボンジュール」

 男の声だけど、なんだか調子が高い。

「絵里香ちゃーん、コマンタレブー? おやおや今日はお連れがご一緒?」

 絵里香ちゃんの眉が、一瞬くっと上がったが、急ブレーキをかけたかのように笑顔になった。

「ボンジュール! 山形さん、ご無沙汰してます」

 真っ赤なリボンのパナマ帽をかぶって、レモンイエローの上下のサマースーツ。渋い赤のアスコットタイ。薄い口ひげを生やしていて、笑うと上あごの歯が少し飛び出て見える。


「オウジョードウイ、イルフェボー」

「いい天気ですね。

 こちらのおふたりは、同じ宿に泊まってらっしゃる方です」


「それはそれは。

 観光ですかー」

「ええ」

「セ、ボン。ではまたー」



「あーよかった。行ってくれて」

「何者?」

「いや、なにをやってるのか得体のしれない人なんですけれど、パリに四〇年くらい、いるらしいです」

「なんか、キザったらしいね。あーマンガに出てきた…

イヤミ!」

「あら、よくご存じですね。彼の仇名はイヤミです」

「そりゃだって、マンガから出てきたみたいだもん」

「アラン・ドロンとおともだちだとか、ほとんどホラみたいなことばかり言ってて、海外に慣れてない日本人の人に取り入っては、寸借サギみたいなことをよくやってるって噂もあります。

 あまり一緒にいたくない人です」


「こっちでガイドをやってる日本人も、いろいろいるからねー。クラシックの音楽家や俳優を目指して来て、あまりうまくいってないけど、がんばってる人。とにかく海外に出ればなんとかなるさと思ったけれど、どうにもなってない人。

 でも、概して言えるのは、その国や街が本当に好きで残った人には、いい人が多いってことだな。日本に帰ってもどうにもならないからって、仕方なく残ってる人には、いいガイドも少ないような気がする。

 でも…確かパリでオフィシャルなガイドになるには、滅茶苦茶難しい試験にパスしないといけないんでしょ? ギャラがすごく高いはず。一日五万円くらい稼ぐ人もいるらしいね」

「え? じゃオレ、このまま残ってガイド目指そうかな」

「ジャン・レノも売れなかった若い頃は、ガイドじゃなくてアシスタントだけど、日本人の観光客を相手にしていたそうですよ。だから、けっこう日本語も分かるらしい」

「ジョン・レノンじゃなくて、ジャン・レノね…う~ん」

 また、だじゃれを考えたけれど、うまくいかなかったらしい。


 セーヌからは、ちょっとひやっとする風が吹いてくるけれど、日差しが強く、少し汗をかくようになった。


「そろそろ、次行きますか」

「しげさん、次は?」

「そりゃ、もちろんモナ・リザに会いに行こうよ。

 モナ・リザ~♪」

 ありゃ、スタンダードでナット・キング・コールがヒットさせた曲だ。ブルース、ロックや昭和歌謡だけでなく、そんな曲も知ってるんだな。

 『モナ・リザ』と言えば、ルーブルだ。宝飾品や衣装なども含めたら、世界有数の収蔵量を誇っている。


 日差しがいくぶん尖ってきた感じだけれど、いい陽気だ。小柄な老婦人が、日傘をさしながら狆を散歩させている。

「Petit,Mimi」

と言うと、犬は吼えたが、老婦人はにっこりしてくれた。



「絵画だけでも、絞らないと時間かかりますけど、どうします?」

「そーだね、ルネッサンスとバロック中心? あとニケは見たいな」

「りょーかいです。

今でも、フツーの日本人のツアーだと、二時間くらいで主要なものぜ~んぶ見るみたいですけど、高齢の方が多いと辛そうで…」

「オレ、アホな企画者のせいで、午前中にルーブルとオルセー両方に行くってツアーの添乗やらされたことあるよ」

「え~! それは無理ですよ」

「だからガイドさんと相談して、二日に分けた。大きな美術館て、けっこう歩くから、山ひとつ昇るようなもんだし、それ連続でやるのは、高齢のお客さんにはキツ過ぎる。

 昔はさ、いい加減な企画者が多くて、添乗員が観光の順番とか内容を、現地でアレンジすることも多かったんだよ。

 だから添乗員と言っても、ただお客さん案内しているだけじゃダメ。最初はそこまでやるのかってキツかったけれど、今にして思えば、いい勉強にもなったね」


「そうだ、まさあきちゃん添乗員たくさんやっているし、パリにはプライベートでも、よく来ているんだよね。スペシャルの観光にも連れてってよ」

「もちろん、考えています」

「あ、あたしも~」

「絵里香ちゃんは、何か月くらいパリにいるの?」

「今、二ヵ月目です」

「オレなんか、通算は三ヵ月くらいになってるけど、とぎれとぎれだからなあ。

 彼氏は、たまにパリには来るの?」

「ええ。実は来週また来ます。パリにあたしが来てから、五回目かな?」

「早くパリ滞在切り上げて、フィエーゾレに来いとか言わない?」

「いいえ。気の済むまでパリに居ていいよって言っています。

 うるさいのは、彼のお母さんですね。

 『結婚が決まっているのに、女性がパリにひとりでずっと居るなんて』とか言われるんですよ。

 ガイドになったとしても、泊りがけのシゴトはダメ! と宣言されているし」

「へ~、意外と古いんだね」

「古いですよ。日本と比べても封建的とか思うくらい。あたしの両親なんか『元気でいればいい。将来、日本に帰るのも何年かに一回でいいよ』って言っているのに。

 でも、おせっかいな感じもするけれど、なんか温かいです」


「さ、モナ・リザに会いに行きましょう」

 絵里香ちゃんがそう言うと、三人ともメトロの駅に向かった。ルーブルまで二駅だ。

 ニューヨークの地下鉄に比べると、メトロは危ない感は少ないが、深夜の利用は奨められないかな。


「さあ、すぐルーブルですよ。もう少しでガラスのピラミッドも見られるし」

「モナ・リザは男だってハナシも聞いたけど」

 しげさんが呟いた。

「どうなんでしょうね。いろんな説があり過ぎて、どれが本当かよく分からないです。

 でも、あんな女性がいたってだけでいいじゃないですか」

 絵里香ちゃんは、まっすぐに入場口に向かっている。


 入館して名画の森を抜けながら、しばらく歩いて、やっとモナ・リザの近く。


 行列。

これじゃ日本で見るのと変わんない。近年は、こうなんだよな。

「ここでも、見たいだけ見られないの?」

「しげさん、なんでそんなに見たいの?」

「いやそりゃ『モナ・リザ』だからさ」


 ようやく順番が来て、しげさんが見入ったと思ったら、

「はい、次」

「日本から、時間かけて来たんだよ。少しはおまけしてよ」

 そう言いながら手を合わせる。 

 しかし、係員には効かない。

 からだには決してふれないけれど、前へ前へと進ませる。


「しげさん、日本で画集か映像で、ゆっくり見たほうがいいかも」

 そう、声をかけたら…


「ホンモノとは、しばらく向かい合わないとダメだよ」

 そう言って踏ん張っていたが渋々、歩み出した。


 それから、絵里香ちゃんのガイドが始まった。自分なりに希代の名画に切り込んでいた。

「ダ・ヴィンチは、元々イタリアの人で、ワタシの彼の地元にも近い街の出身です。

 国際人のはしりというか、当時はまだいくつかに分裂していたイタリアやフランスで、幅広く活躍しました。でも晩年は国とかは関係なく、ある人物と意気投合したのがよかったんです。

 それはフランソワ一世。

 この王さま、いろいろ逸話のある人で、それを調べているだけでオモシロいです。翻ってみると、同時代の各国の王さまがスゴいです。ハプスブルク・神聖ローマ帝国最大の皇帝のカール五世、イスラム側では、オスマントルコ最強のスレイマン大帝。さらに英国では、六人の妻で有名なヘンリー八世…

 カール五世に対抗するために、異教徒のスレイマン大帝とも組んだりして、フランソワ一世は、キリスト教国側では評判が悪いですが、宗教を超えた近代的感覚の持ち主だったとも言えます。

 また、ヴェルディのオペラ『リゴレット』のプレイボーイ公爵のモデルになるなど、女好きでも有名です。でも、あるときには『女心は分からない』なんて、愚痴も言っているのが可愛らしいですね。そんなことを曇ったガラス窓に指で書いたんですって」


「モナ・リザって、イザベラ・デステがモデルって説もあるよね」

 そう声をかけると、絵里香ちゃんの目がますますキラキラしてきた。

「まさあきさん、よ~くご存知ですね。

 彼女はあたしの憧れの人なんですー。

 才色兼備で、小さなマントバ公国の粗暴な夫に嫁入りして、ヨーロッパ全体でも有名な女性でした。

 『中世最後の騎士』って呼ばれるマキシミリアン一世にプロポーズされたっていうし、ダ・ヴィンチに作品頼んで値切ったって話もあるし」

「あの頃の女性って、気合入ってる人多いよね」

「そうなんですよー。カテリーナ・スフォルツァなんて、子どもを人質にされて『そんなもん、いくらでもここから産めるのを知らないのか』って、下着を履かずにスカートをめくって、下腹部を指さしながら啖呵切ってるし」

 最後の方で絵里香ちゃん、ちょっと顔が赤くなった。


「ルクレツィア・ボルジアとか、翻弄された人生を過ごした女性もいるけれど、ルネッサンスってホントに女性にも人間らしい人が多いよね」

「いいですよね、なんかちゃんと自分を持ってて」


「絵里香ちゃんて歴女なんだ。」

「…実は、歴史上の人物が自分だったら、なんて妄想をよくしてます。

 『モナ・リザ』なんて、本当にどんな女性だったかと思うだけで、わくわくします。映画のテーマにもよくなってますよね。

 さて、ダ・ヴィンチの絵画と言うと完璧性という言葉が、よく浮かんできます。作品の数は少ないんですが、ほかのルネッサンスの画家と比べても、それがよく分かります。

 ボッティチェルリの作品では、よく見ると人物のからだが、実際にはありえないプロポーションをしていて『ヴィーナスの誕生』なんかまさにそうですし、ラファエロでも、そんなところがあります。人物を美化しすぎですし。

 でも科学的に優れた人体図を何度も描き、軍事兵器や築城も手がけたダ・ヴィンチの作品は、現代にも通ずるようなレアリティがあります。

 でも、もちろん、だからと言ってボッティチェルリやラファエロの作品が比べて劣るってことじゃないんですよね。

 ボッティチェルリやラファエロの作品は、文学で言えば詩みたいな風情がありますが、ダ・ヴィンチの作品は、完璧すぎて散文みたいな感じがします。

 また『モナ・リザ』は、実物はそんなに長く観られませんでしたが、背景も『空間遠近法』によってすごく丁寧に描かれていて、そういう意味では絵画史上初とも言われています。画集などでじっくりご覧になられてはいかがでしょう。

 ほかにも『文字が描かれている』など、いろいろなことを言われていて、だから『ダ・ヴィンチ・コード』なんて小説・映画にもなったんですが、話題性にもこと欠かない絵です。

 でも、私は自分がモナ・リザになって、誰に微笑んでいるんだろうって思うだけで楽しいです」


「おー、それだけ話せればいいねー。ガイド合格でしょう。イタリア語やフランス語で言われたら、絶対オレ分からないけどね。少しは話せるけど、所詮添乗員語学だからさ」

「イタリア語ではなんとか話せるけど、フランス語は、まだ難しいです」


 それからマンテーニャやラファエロ、ヤン・ファン・エイクなどの作品を観た。絵里香ちゃんの解説は格調高かったけど、真面目過ぎる感じがした。ジョークなんかを混ぜるとイイかなと思ったけど、まだ若いっから仕方ないか。

 せっかくだからと『ナポレオンの戴冠』やドラクロワの『自由の女神』なんかも観た。

 「絵には、それぞれ観るのに最適な距離がある」という絵里香ちゃんのガイドには、しげさん頷いて、いろいろな距離や角度を試しながら、にこにこしてた。


 そして絵画が終わったら彫刻へ。


「しげさん、今日美術館ふたつ目だけと、疲れてない?」

「いや~楽しい楽しい。やっぱ実物はいいよ。油絵ってさ、絵の具をぐっと盛ってあるところもあるじゃん。そんなのなんかさ、実物観ないと分かんないもん。

 音楽でもさ、録音のもいいけど、ライブがいいよ。ビールでもSEXでも、生がサイコー」

 おいおい。

「ストーンズのライブでもね、最近はあいつら前の方に高い特別席なんかセットするじゃん、チケットが高くてさ、一回は貯金はたいて買うんだけど、ミックの汗なんか降ってきてさ、握手なんかもしてくれることあるし。

 で、もっかいは安い席でいくことになるけど、ミックが豆粒みたいに見えても、ライブはいいよ。いつものことだけど、

キースが音外したりしてさ、そんなのも楽しいし」


 それから、まずは『ミロのヴィーナス』。


 絵里香ちゃんのガイドにふんふんと聞き入ってから、

「ミロ、見ろ。

 小学校の頃さ、美術の教科書の載ってるページ出して、ともだちによく言ったよなあ。

 しかし絵もそうだけど、彫刻は本当―に目の前で観ないとダメだ。

 大きさとか分かんないじゃん」

 

そして『サモトラケのニケ』。


絵里香ちゃんが、本来船の舳先にあったもので…と説明した後すぐ、

「おー、コレもいいね」

「オレ、とてもこれが好きで、ひとりで二時間くらい観てたことありますよ。壊れ具合がいいんですよね。完全な状態のものもよかったのかもしれないけど、こうして壊れてなければ、有名にならなかったかも知れない」

「そうそう、分かる分かる。ミロのヴィーナスもそうなんだけど、完全じゃないからいいんだよね。

 …小学校のときに、壊れたらカッコよくなるかと思ってさあ、空き地に放置されてたタヌキの置物、トンカチ持ってって、叩いてみたことあるんだけどダメだったなあ」

「そりゃダメでしょ」

「音楽だと、やっぱりキースのギターかなあ。あの崩し加減がいいんだよね。フュージョンとかジャズだと、なんか完璧すぎちゃってさー」

「でも、完璧なダ・ヴィンチの『モナ・リザ』もイイって言ってたじゃないすか」

「だって『モナ・リザ』は好きなんだもーん。

 なんか微笑み含めて、謎があるのがいいよ」


 ルーブルを出ると、チュイルリー公園に向かった。飲みものを買って、ちょっと休憩。ベンチに三人で腰を下ろした。


「パリはまだ外でタバコ吸えるからいいよなあ」

 足下にはタバコの吸い殻が何本か落ちている。

「東京はもうダメですか?」

「厳しいねー。そろそろ止めようかと思ってる」

「酒はいいけど、タバコは止めたほうがいいよ。酒も呑み過ぎはよくないけどね」

 また、クローネンブールのロング缶を呑みながら、しげさんが言った。説得力ゼロ。

「本当にタバコがからだに悪いかというと、どうなんだろうとも思いますけれどね。コクトーは一日百本くらい吸っていたというけれど、七六まで生きているし。指揮者のバーンスタインも同じくらい吸っていたって…まあ、最期は肺癌で亡くなったけれど」


「絵里香ちゃんは、音楽は聴くの?」

「はい、子どもの頃にピアノ習っていたこともあって、クラシックですね…やっぱり、絵とおんなじで現代音楽は苦手です。リヒャルト・シュトラウスくらいまでかなあ」

「Stonesは?」

「ローリングストーンズですか…クイーンは少し聞いたことがありますけど、ロックもあまり聴いてないです。アニソン歌ったりとか、日本の歌は聴くけど」


「そしたら明日の夜にさ『フィガロの結婚』行かない?」

「あ、ガルニエでやるやつですか? 安いチケットですけど、買ってあります」

「おーちょうどよかった、みんなで行こう」

「へーえ、しげさんてオペラも聴くんですか?」

「いやいや記念ね。まさあきちゃんはマニアみたいだよ」

「そんなでもないですよ」

「作曲家は誰が好きなんですか?」

「う~ん、フランスだとベルリオーズかなあ。バロックのラモーやクープランもいいけどね。それからサティと、現代だとプーランクとメシアンかな。

 ベルリオーズは、ぶっ飛んで逝っちゃってる感があっていいよね」


「うわあ、よくご存じですねー。

 サティは、きれいなメロディーのシャンソン書いてますよね…えーと『Je Te Veux』。山形さんが歌っていて、誰の曲だか教えてくれました。あ、イヤミの本名が山形さんです」

「え~あのイヤミが! ふ~ん」

 ただのアホかと思ったが、そうでもないみたいだ。


「さあ、もひとつ。オルセー行こう!」

 うひゃー、パリ三大美術館いちんちで制覇かあ。今、何時だろう。三時ちょっと過ぎ。まあ、いいか。

「オルセーまでは、セーヌ渡って歩いて行った方がいいですね」


 日は少し傾いていて、少しひんやりするような風も吹いてくる。

「パリのセーヌ川には、何本も橋が架かっていますけれど、それぞれに個性があります。雰囲気ある石橋ポン・ヌフを渡るのもいいけれど、ここからはちょっと離れていますからね」

「直訳すると『(新)橋』なんだけど、建てられたのは一七世紀だもんなー。あ、そうそう東京の新橋に『ポン・ヌフ』つて老舗の喫茶店があるんだけど、昔ながらのケチャップたっぷりのナポリタンとか、ハンバーグとか美味しいよ」

「へー、そんな店があるんですか。今度帰ったら行ってみよう」

 そう言うと、絵里香ちゃんが答えた。

「ナポリタンだと吉祥寺の『カヤシマ』もいいよ。日本酒も呑めるし」

 しげさんが続けた。

 

「絵里香ちゃんは、どこの出身?」

「鎌倉です」

「おーやっぱ、お嬢さんだね」

「近いな。オレ、今住んでいるのは茅ケ崎。元々は東京の港区なんだけど」

「うわー、おぼっちゃんじゃないですか」

「いやいや過去の栄光」

「しげさんは…東北?」

「なまってる?」

「いいえ、大学で仲の良い福島出身の子がいるので…」

「ピンポーン。福島のいわき」

「じゃ、311たいへんだったんじゃないですか? ともだちは福島でも、西のはずれのほうだから、そんなでもなかったみたいですけど」

「いやータイヘンだったよ。誰も怪我なかったのはよかったけれど、家のなかはもうメチャメチャ。その後は余震が何度もあったし、原発は爆発するし、逃げられるなら、どこかへ逃げたかったね」

「…放射能、大丈夫でしたか?」

「う~ん、いろいろな話聞くけどさ、なんか自分の体調もいまいちなんだけど、元々酒呑み過ぎだし、糖尿もよくないし、よく分からないよ」

 仕事に復帰してから、すぐに外を走り回って宅配便を配っていたしげさんには、聞いて欲しくない話題だったけれど、絵里香ちゃんは事情を知らないから仕方ない。

「原発、どう思います? イタリアは反原発だけど、フランスは推進国なんですよね」

「いらね。

 キヨシローも歌ってたじゃん。電力は余ってるって。金儲けしたいヤツががんばってるだけだ。身近でも、泣く泣く引っ越した人もいたもん」

 そりゃ、ふくいちに近いしげさんがそう思うのは当然だ。


「事故の後始末ができないものはいらないよね。安倍首相の第一次政権のとき、国会で『福島第一原発に大津波が来たらどう対処するのか』って質問が出たら『心配ありません』って言ったらしいけど、結果これだもんなあ

 当事者だった菅内閣も酷かったけれどね。さっさと家族を海外に逃しておいて、『問題ありません』と繰り返し言ってた幹部もいたし。

 オレの連絡網に入ったメールに、自衛官が『メルトダウンだからみんな逃げろー』って発信したっていうのがあって、最初はジョークだろと思っていたら、本当だったんだよな。

四日目の月曜にJRがストップしたけど、あれ『放射能汚染がコワいから』って理由だと、パニックになるから、そう言わないでおいて、人が外にあまり出られないようにしたんじゃないかな」


「へーえ、そうなんですか。

 あたしは、計画停電で暗い街並み、薄暗い都心とか、なんかパニック映画に自分が出ているみたいな、不思議な感じをうっすらと覚えているくらいですね」

「もう、六年経っちゃったもんね。

 でも副産物も酷いのがあった」

「放射能ですか?」

「いや、それもあるけど政治不信。民主党がいかにヒドイか分かっちゃった。自民党にみんなうんざりして期待していただけに、がっかり度も高かったよね。

 だからその後の自民党政権に不満がある人も多いんだけど、安定政権になっちゃっている」


 オルセーの建物が見えてきた。

「あーパリまで来て、日本の政治のハナシなんかもーやめよー」

「そーだそーだ」

 しげさんが相槌を打ってくれた。


「ここ、元は鉄道の駅だってねー。

 駅ってなんかいいよなー。出会いがあるもんな。

 今でもなんかあるかもね」

 しげさんが大きな声で言うと、チケット売り場近くの日本人らしい高齢者のグループが振り向いた。

「おー、なんか福島弁だなー」

白髪の品のよさそうな男性が聞いてきた。

「えっ福島の人?」

 


 しげさん、やや千鳥足だったが、すぐに全開。

「オレ、いわきなんだけど、どこから?」

「白河だ」

 ケバい化粧の女性が答えた。

「おー、新幹線通ってるからねー、いいよねー。

 いわきは特急だけだもんなー」

「いわきかあ、さかな食えるようになるといいんだけどな」

「いやー、小名浜も建て直しは終わったから、港にも揚がるようになるよ」

「でも韓国や台湾では、日本の東北の水産物は食わねって」

「いんやーそのうちそのうち」


 あれ、なんか見た帽子が…イヤミだ。


「え~、マドモワゼル エ ムシュー、ここは一四ユーロかかります。後でオランジェリー美術館も案内します。あちらは九ユーロですね。ご用意ください」

「あれ? なんかお得な共通券あるって聞いただけどよ」

ケバ女性が声を上げた。

「パルドン、今月からなくなったんですよ。観光客がたくさん来る時季なのに、フランス人てケチなんざますよ」

「え? 共通券なくなったんですか?」

 絵里香ちゃんが前に出た。そして窓口へ向かった。

「山形さん! 共通券売ってますよ」

「あれ? 

…あー勘違いでした。エクスキュゼモア。確かにネットで見たんだけどなあ」

 しきりにアタマをかいている。

「みなさーん、ラッキーでした。一六ユーロで、ふたつ行けまーす。フランスやっぱりよい国ですね。セ・ボン。

 さー、チケット買ったら渡しますね。印象派の素晴らしい世界へヴィエンブニュ」

 絵里香ちゃん、しばらくふくれ顔で睨んでいた。



「まったく。油断も隙もってヤツ!」

「まあまあ。ああいうヤツは世界中にいるからさ。

 最近は厳しくなったけど、昔は日本の添乗員でもヒドイの多かったよ。

 添乗員専門の事務所から、前職の会社に入社したヤツなんかさあ。ウラ金で儲けて、家の食器み~んなマイセンで揃えてたもん。そいつとふたりで吞んでて、酔っ払ってくるとぺらぺら話してきて、酔いが醒めるほど呆れた。

 今みたいのもそうだけど、バレても詐欺になんないのもあるからね。例えば現地でビザ取るときに、お客からは米ドルで集めて、払うときは自分で現地通貨に替えて払う。これだけでお客が二十人以上いれば、為替差額で数万円儲かる。

 ほかにも小サギも飛ばしまくり。

 例えば、近年は機内預けの重量が厳しくなっているからできないけど、辺境の国で自分が団体チェックインに行って、お客は待たせておく。時間がかかっているふりをして、ムズカシイ顔をして帰る。

『すいません、ほとんどの方のお荷物が重量超過だって言われて…問題ないはずなんですけれどね、遅れている国ですから、係員が言い出すと聞かないんですよ。でも、もう会社のお金で払いましたから』

 お客さん、気になるから『いくら?』とか聞いてくるけど、深刻な顔しながら『いいんです』と答える。それでもお客さんが重ねて言うと『じゃあ…すいません。おひとり千円で』。

これでまた数万円儲かる。

 このほかコミッションてのもあって、お客さんを店に連れてって売り上げの十パーセントもらうなんて、あちこちでできるからね。ひと昔前なんか、ロレックス三つくらい買う人がいたから、高価な商品は二十パーのバック。それだけで二十万くらい儲かってた。

 だからプロの添乗員で、スペインにヴィラ(別荘)持ってるなんてのもいたよ」

「じゃ、まさあきちゃんなんか、相当貯め込んだんじゃない?」

「オレはそんなにやってませんよ。添乗員専門じゃないし」

「少しはやったんでないの」

「正直、コミッションはやったことはありますよ。

でも、そういう金の儲け方ばかり考えていると、ニンゲン腐るんですよ。店に行こうとしないお客や、あまり買わないお客に腹が立ってくるし」

「添乗員もなんかミズショーバイだね」

「ええ。いろいろありますよ。堅気じゃないな。

 人間のウラっ側も見ちゃいますね。だから自分に娘がいて、添乗員やりたいって言ってきたら、させなかったかも。絵里香ちゃんは、ガイドだから添乗員とはちょっと違うけど、気を付けてね。旅って、している間にニンゲンのいろんなところが出て来るからさ」

「はい。また、いろいろぜひ教えてください」

 大きな目の両端を下げた。

 素直だな、この娘。いい日々を送って欲しいな。


 チケットは、またしげさんが百ユーロで払ってしまった…

「ガイドしてもらっているんだから、払うのが当たり前じゃん」


 こと名画の数ということで言えば、オルセーのほうがルーブルより凄まじい。あ、どこかで見たという絵がいくらでもある。

 しげさん、「あ、これ知ってる」と大騒ぎ。周りから「シーッ」と何度も言われていた。

 ここでは名画の森にゆったりともたれているのが楽。

「絵里香ちゃん、どれがおすすめ?」

「そんなー、ここでは無理ですよー。好きな絵がいっぱいあって、今回も五回は来てるけど、全然飽きないー」

「じゃ、あえて『今』好きなのは?」

「モネですかねー。

 なんだか『日傘の女』が気になって…」

「そしたら『ルーアンの大聖堂の連作』、よく見とくといいよ。

『積み藁』の連作は、ここ一点しかないからなあ。明日はさー、マルモッタン行こうよ。それからオランジェエリー行こう」

自分で予定を勝手に決めつつ「しめた!」と思ってしまった。


「明日は…えーと、午後からならご一緒出来ます」

「おけおけ。しげさん、明日は午前中ベルサイユ行って、午後はまた絵里香ちゃんと一緒に美術館行こう」

「おー、ベルサイユ宮殿は行かないとねー。

 オスカルに会えるかなあ」

「え! 『ベルサイユのばら』ご存知なんですか?」

「ご存知もなにも、リアルタイムで読んでたもん。妹いたからさー。自分で『マーガレット』買うのは恥ずかしかったけどねー」

「あ、オレも同じ! 叔母さんと妹のお陰」

「あたし、宝塚も観ましたよ」

「まだ、続いているんだ」

「これからも、たくさんの少女に夢を与えてくれると思いますよ」



 外へ出ると六時近く。ようやく、日が傾く気配がはっきりとしてきた。

「昨日は寝ちゃったけど、こっちはなかなか日が暮れないね」

「八時にならないと暗くならないですね」

 しげさんに、絵里香ちゃんが答えた。

「冬は、逆に暗い時間が多いんだよね」

「だからヨーロッパの人は夏が大好きです。北欧の人は、みーんなスペインとかギリシャとか、南へ行って長いバカンスを取ります」

「日本でも、バカンスとかあればいいんだけどなあ。なんか、何十年も、ずっと働き続けてみんな疲れちゃうもんな―」

「ドイツとか、あまり時間を働かないで、それなりのお給料もらえるシステムが流行ってます」

「あーいいな、それ。

 日本じゃ、長い時間働くのが。まだまだエライと言われるもんね」

「近年は、残業させないようにしているけれど、給料が減るだけですよ。会社は損しない。仕事が終わらなくてサービス残業とか、家に持って帰る社員も多いし。

 残業させない係とか、任命しているバカな会社も多いですよ」


「オレ、リーマン経験あまりないっていうか、ほとんどないんだよね」

 しげさんが、少し下向いた。でも、

「だからよかったかもしんない」

 と言ってジャンプした。


「…どこか、しげさんて浮世離れしてますよね。なんか仙人みたいな感じがします」

「そーかな。仙術でも使ってお金ざくざく出すかな」

「しげさんは仙人と言っても、久米の仙人じゃないすか」

「なんですか? 久米の仙人って」

「雲に乗って飛んでいたら、川で洗濯している若い女性の太ももに目を奪われて、雲から落っこちたっていう仙人」

「やっだー」

「いいね。オレ、そういうキャラは好きだよ」

「そういや、久米仙ていう手ごろな価格の泡盛があったな。しげさんに今度送りますよ」



「さて、メシどうしようか? 昨日は焼肉にしちゃったんで、今夜はパリらしいところがいいですね」

「あ、ビストロでよければ、近くに安くていい店ありますよ」

「いいねいいね、ビストロ。そこにしようよ」

「『シャルージュ』って店です」

「赤猫かあ。ルパンかホームズもののタイトルで、出てきそうだね」

「ちょっと変わってるんですけど、安くて美味しくて、いいワインもあります」

「じゃ、決まりだね」

「あの…猫、キライじゃないですよね」

「あー動物は好きだよ」

 と、しげさん。

「ウチで三匹飼ってるよ」

「よかったー。じゃ、行きましょう」



 まだ明るいなか、路地をいくつか歩くと、緑色に塗られた枠に窓が多い、伝統的な雰囲気のビストロが見えてきた。

「ちょっと先に行って、席取れるか聞いてみます」

 絵里香ちゃんが小走りして行った後、店に近づいて驚いた。

 猫だらけだ。

 窓際に黒猫、茶と白のブチ、ペルシャ風の白い長毛、ほかにもあちこちに猫がいる。カウンターを歩いているし、床でもあちこちで丸くなっている。なかにはお客の膝で寝ているのも…

「ちょうど、窓際のテーブルが空いてました」

「ね、猫だらけだな」

「日本では、猫カフェがたくさんありますよね。最近はふくろうカフェなんかもあるけど。ここは猫ビストロなんです」

「猫が食べもの取ったりしないの?」

「ヨーロッパでは、犬猫のしつけに厳しいので、人の食べ物には手を出さないんですよ」


「Bonsoir」

 ウェイトレスが注文を取りに来た。なんかヘンなバンドをアタマに付けてる。これは…

「日本ではおなじみだけど、猫耳?」

「ここのスタッフはみんな付けています。実は、ワタシがネットで注文してあげたんです。

 もっともフランスでは、日本のアニメとかマンガがすごい人気なんで、みんな知っていましたけどね。

 あ、なんにします? 」

「ヴァンドルージュ」

 覚えたんだな。

「しげさん、赤ワインね。ボトルでもらうか…この、一五ユーロのロワールのがいいかな。

 絵里香ちゃん、料理のおすすめは?」

「えーと、『猫の耳のパスタ』なんてどうですか? 猫の耳に似たパスタで、ベーコンとクリームソースです。それから…『猫の足跡』。肉球の形をしたサーモンのパイです。それと『猫の尻尾』。自家製の長いソーセージです」

「ひゃー徹底してるな。ホントに猫マニアのための店だ」

「絵里香ちゃん、注文はおまかせ。いろいろ頼んで、お皿もらってみんなで食べよう」


「後で紹介しますけど、この店のオーナー兼シェフは、お分かりのように『チョー』が付く猫好きで、レストランをやっていると余った食材で餌もつくれるからと、動物愛護団体から猫を何匹ももらっているんです。今、全部で一八匹だったかな」

「そういやパリでは、散歩している犬はよく見るけど、野良猫とかはあまり見てないね」

「いえ、路地とかにはいますよ」

「フランスでは、保健所が捕まえて殺処分なんてあるの?」

「保護はしますけど、殺処分はそんなにはないらしいですよ。動物愛護団体がたくさんあるから、そこで引き取って里親探しをしています」

「日本はまだ、かなりやっているからなあ。止めて欲しいね。ウチの地域じゃ、里親になろうとしても五五歳超すとダメだもんな」

「フランスだと、べべが有名だったよねー。毛皮の反対運動とかで、過激なことやってたのテレビで見たよ」

「ああ、ブリジット・バルドーね」

「セクシーでさあ、子どもの頃に映画観ても、ドキドキしたよ。太もも見るだけでさあ…」

 だいぶ目じりが下がっている。

「やっぱり、久米の仙人だなあ」

「昔は世界的なアイドルだったとは聞いてますけど、あたしは、ケバいおばあちゃんの印象が強いですねー」

「話変わるけどさ、オランダではペットとしての動物の売買禁止になったんだってね」

「いえ、それはデマらしいです。オランダにはまだ行ってないけど、ペットショップはあるらしいです。でも、UK(英国)とともに検討課題には、なっているみたいですよ」

「日本のブリーダーやペットショップは、あこぎなところが多いからね。高く売るのに血統書重視の近親交配で、生まれつき虚弱だったり、障害持ちだったりするからなあ。

 法律でもっと厳しくして欲しいよ。殺されてもペットは『器物損壊』扱いだもんな」


 猫だらけの店で、猫尽くしのメニューを味わって、ワインのボトルはきれいに空いた。

 猫たちは本当によく躾けられ、お客の食べ物にはいっさい手を出さない。しかし、客の様子をみながら、ごろごろと言ってひざの上に乗ってきたりする。

しげさんに「ボギーの好きだったカルヴァドスっていうリンゴのブランデー」と説明して、みんなで小さなグラスで乾杯した。

「おー甘い。ボギーって、こんな酒が好きだったんだ」


「しかし、絵里香ちゃんも強いねー」

「…すいません。実はお酒は、ほとんど酔ったことないんですよ。父が日本酒好きで、小さい頃から熱燗のおこぽれもらっていたせいもあるのかなー」

「おーどんどんいこう! もう一杯!」

「じゃ、カマンベールも頼みましょう。カルヴァドスとのコンビは定番です」


 そこへ、にこにこしながら大柄なオヤジが来た。

「Merci Beaucoup!

 Comment allez-vous?」

「Ce Bian!」

 思わず大きな声で言ってしまった。

 少し鼻の先が赤くなったオヤジで、立派な口ひげを生やしている。眉毛は黒々としているが、髪は耳の周りぐらいしか残っていない。温かい大きな手と握手。


「アルベールさんです」

「えーと、猫が好きなのは分かっているけど、どうして『赤猫』なんですか?」

 気になっていたので聞いてみた。フランス語を、頭のなかで組み立てるのが億劫なほど酔っていたので、日本語で言ったら、絵里香ちゃんが訳してくれた。


「ふんふん…」

 目じりを下げながら話すムッシュ・アルベール。少しして絵里香ちゃんが通訳する。

「独立して店を出す準備をしていて、いちばん最初に拾った猫が、虐待されていたのか、からだのあちこちに赤ペンキを塗られていたんですって。そのときはペンキをおとすのがタイヘンだったけれど、怯えていたのが元気になった猫のことを忘れないため、店の名前を『赤猫』にしたそうです」


「Rouge!」

 ムッシュが声を出して手招きすると、少し太り気味の白い長毛系の猫が寄って来た。

「これがそのときの猫で、もう一六歳だそうです」

 ムッシュがかがむと、肩の上に乗った。黒い目がエメラルド色にときどき光る。


「ムッシュ・アルベールは、ミシュラン二つ星のレストランに長年いて、後を継いでくれと言われたけれど、自分のペースで生きたいからと、断ってこの店を開いたんです」

「いいなあ、美味しいもの毎日つくって食べて、たくさんの猫たちと暮らして…」

「Cat,Love,Foods!」

 まるで、こちらの言っていることが分かっているかのように、英語の単語三つを並べてにっこりした。


「では、最後にスペシャルデザート!」

 出てきたのは、にっこり笑った猫の顔が、ショコラやフルーツソースで描かれたグラース(アイスクリーム)のひと品。バニラアイスにつけて食べると風味が変わる。子どもも大喜びだろう。


「よし、お礼に一曲歌おう!

 ギター、ないかな?」

「ムッシュ、音楽好きだから持ってるかも。聞いてみます」

 しげさんの問いに絵里香ちゃんが答えた。


 少しすると、ムッシュがギターを持って出てきた。

「おー、メルシーメルシー」

 この店で歌うなら、多分…


「I Hear The Clickclack…」  

 やっぱり。『Stray Cats Blues』だ。

 「迷い猫」みたいに、行きっぱぐれた不良に仲間になれよって歌だけど、なんだか夜の街を行く、猫たちの姿が浮かんできた。


 ほぼ満席の店内では、歌声にぎょっとして振り返るお客もいたけど、ほとんどのお客が聞き入っていた。ムッシュはまったく気に欠けずに手拍子していた。

 どこか呪術みたいなリフで終わると、「Viv Le Chat!」なんて掛け声もかかった。

「メルシー、メルシー。ありがとー」

 一部では「アンコール」なんて声もあったけど、立ち上がったしげさん、ちょっとたたらを踏んだ。


「これで帰ろ」

 絵里香ちゃんにお勘定を聞くと、彼女の分を含んで、しげさんとふたりで払った。

「えー、すいません」

「いーからいーから、お兄さんたちに任せて。

 今度、パリに来たらおごってもらうからさー」

 

「少し、歩いてから帰ろうか?」

 セーヌ河畔に出ると、しげさんが言い出した。


 九時過ぎで、さすがに真っ暗。治安はそんなに問題ないパリのこの辺りだけど、絵里香ちゃんもいるから気をつけないと。

「なんかさあ、ちょっとだけだけどさ、墨田川のほとり、歩いているような気がする」

「墨田川ってことはないでしょ。セーヌですよ、セーヌ」

「墨田川もいいよー、夜の屋形船なんて一度乗りたかったなあ。ほら、あの船より風情あるぜ」

 夜のバトームシュー(遊覧船)が、照明を灯しながら川面を渡っていく。周囲の石造りの建物がぼんやりと浮かび上がる。ゴッホだったら、どう描いたか、とふと思った。


 ほどなく中州の端にかかるポン・ヌフが見えてきた。

「いい感じだねー。半分くらい渡ってみようよ」

 橋の上に出ると、遠くにノートルダム大聖堂の塔が見える。


 すると、橋の向こうから「連中」が来るのが見えた。

 黒の皮ヂャン上下で、みんな髪を赤とかオレンジに染めている。全部で五人。オトコのバンクスだ。今どき、まだいるんだ。ひとりはチェーンを肩から下げていて、あまり友好的には見えない。フランス人だろうか、それともロンドンから?

 ムカシ、ロンドンで身長一九〇センチはありそうな、モヒカンのパンクスのおにいちゃんとぶつかってしまい、どうしようと思っていたら、向こうから「I,m Sorry」と言ってきて驚いたことがある。個人主義の強いヨーロッパでは、こういうときにすぐ謝罪しないのは無茶苦茶な無礼。しないのは異常者だ。日本みたいに無言では済まされないと、滞在の長い人に昔聞いた。

 でも、こいつらは…なんか、近づいてくると口の端に血がにじんでたり、目にあざをつくったヤツもいるのが分かった。


「じゃじゃじゃじゃーん、じゃじゃじゃじゃーん、じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃー」

 こ、これは…しげさんが、口ギターで奏でるのは、あの曲のイントロ…

 つい歌い出す。


「God Save The Queen! 」

 ジョニー・ライドンになった積りで、司会マイクを握るように手を口元に当てて歌った。

 五人は口をぽかんと開けて止まっている。

 しげさんは口ギターを続けながら、少し早足になった。自分は歌いながらついていく。絵里香ちゃんは後ろに下がらせた。


「No Future,No Future For You…」

ラストのサビを歌うと、向こうでもふたりくらいが同じように歌っている。笑顔になっているらしい。バイバイと手を振ってやった。


 …無事、橋を渡れた。

「…移民が多い北東地域は、治安が悪くなっていて、そうなると、ああいう人たちも多くなるんです。今はイスラーム系をターゲットにしているみたいですけど、ちょっと危なかったかも」

 時計を見ると十一時近い。こりゃ、もうタクシーだな。

「タクシーにしよう」

 パリにも流しのタクシーはいるが、東京ほどはいない。しかし、料金はずっと安い。

 運よく、青のランプが来た。



「じゃ、また! Bon Nuit」

 先に絵里香ちゃんをエレベーターに乗せた。

「コラ! 夜遊びダメ」 

 あー、びっくりした。マダムだ。

「ジジイども、早く部屋行って寝る。

 …そうそう、オペラ取れた。いい席だよー」

 ウィンクしてきた。

「Merci! Bon Nuit」


部屋に入ったら、目が半分塞がった。

「しげさん、おやすみー」

 ベッドに倒れ込んだ。

「おやすみ」

 ゆっくりした声だった。



 …眩しい。

 しげさんが、窓をいっぱいに開けて外を見ている。ギターがあったら、なんか歌っていそうだ。

「おはよう」

「おはようございます」

「街並みがいいねえ。

石の街はいいなあ。木の街は消えちゃうけど。

煙突がいっぱいあるんだね」 


 時計を見ると六時ちょうどくらいだった。

「ああ、煙突はですねえ、部屋の数だけあるらしいです。昔、暖炉を使っていた名残」


「連れて来てくれてありがとね。オレだけだったら、タイヘンだったかも」

「とんでもない、こちらこそです」


「しげさん、夕べ聞こうと思っていたんだけど…

 なんで結婚しなかったの?」

「あー、よく聞かれるネタだなあ。

 オレ、性同一障害だからさー…


 …なんてウソウソ。そんなんジョークで言ったら、怒られるなあ」


 しばらく黙っていた。しかし、

「Happyは自分だけじゃダメなんだよ」

「相手と自分だけ幸せになるのもね。

 …四十くらいの頃、Stones大好きで、オレみたいないい加減なヤツでも、一緒に毎日いたいって女性がいたんだよ。

 でも、そう言われて考えちまったんだ。妹は既に結婚してるし。オレ、両親と暮らしてて…

 向こうもひとり娘でさ。みんな一緒にHappyになれるかなと、ずっと考えたんだけど、あっちのお父さんが反対で…

 縁談来てたんだよ。その相手は次男坊で金持ち。

 何回も彼女と話したんだけど、どう考えてもそっちのほうがいいんだよな。

 それで…あるとき、彼女が見に来ているとき、地元のライブで『Heartbreaker』とか『Mixed Emortion』とかヤケクソでやってさ、さっさと彼女残してウチ帰って、それから電話に一年出なかったんだ。

 別のケバいねーちゃんとつきあってるフリもして。

 ちょうど一年くらいで婚約決まって、結婚したよ。

 幸せな人は多い方がいいよ。

 オレも、両親のそばにいられてるし」


 オレは幸か不幸か、母親と、離婚した父親も亡くなっている。カミさんの両親もだ。だから老いた親の世話はないけれど、反面なんか空っ風も感じる。

「まーそんなとこだけど…

今日の午前中はどうすんだっけ?」


「ベルサイユですよ。午後はまた絵里香ちゃんと美術館。

 それからオペラ」

「あーオペラも楽しみだなあ」



 七時に朝食のフロアへと降りた。

 お、絵里香ちゃん発見。

「おはよー」

「Bonjour」


「よかったー。部屋番号分からないから、早めに来たんです。マダムに聞いてもいいけど、めんどくさいこと言われるかな、と思って」

「襲わないから、部屋番号交換しとこ」

「いいですよ、襲っても。

 でも合気道で撃退しますよ。あたし二段だから」

「あ、オレ勝手にボクシング三段。剣道はホントに二段」

「おー勝負しますか」

 絵里香ちゃんが拳を構えた。

「いやー若いヒトには勝てないさー」

 

 この鼻息なら、夕べバトルしても…いやーいかんいかん。

「えーとさ、午後二時にマルモッタン美術館前で」

「りょーかいです」


「じゃ、オスカルとアンドレに会いに行きますか」

「アンドレ・ザ・ジャイアントも、フランス人だったよね。本名ジャン・フェレ」

「はいはい」

「フランスってプロレスあるのかな」


 …そんな話をしているうちに朝食を食べ終わり、ロビーに下りた

「ほら、オペラのチケット。いい席だよ。一枚手数料入れて二五〇ユーロ」。

マダムが出てきた。

あちゃー、そうだった。バスティーユは安いけど、ガルニエは高かったんだ。

「しげさん、二枚で六万円以上ですよ。自分の分は出します」

「いいって。ほら、マダム、このカードで」

 えっ、しげさんがカード?

「オレがカード持っていると意外? 

 ストーンズの来日チケットの予約のためつくったんだよ。

 よし、ベルサイユだー」



 メトロとRERを乗り継いでベルサイユへ。

「駅からは、ちょっと歩きますよ。十分くらいかな」

 ツアーに乗るって手もあったけど、五千円以上かかるし、拘束時間が長い。自分は二度行っているし、ガイドもなんとかできるだろう。

 ちなみに、ふたりだったらモンダイないけれど、お客さんをぞろぞろ連れて添乗員がガイドを兼ねると、逮捕される場合がヨーロッパではある。

 例えば、オーストリアではバスの車中から、添乗員が指さして建物の説明をするだけでアウト。フリータイムに美術館に連れて行っても、もちろん絵について語ってはいけない。「ひとり言を聞いている」風でないとダメ。

 これはガイドという職業の権利保護のため。イタリアでは、日本人のガイドを雇うとき、必ずイタリア人のガイドも付いてくる。絵里香ちゃんも初めはそうなるのかな。イタリア人の彼と結婚して、国籍を取れば、事情が変わるかもしれないけれど。


「ムカシは、マリー・アントワネットも馬車でこの道通って、パリ行ったんかなー。ナポレオンもかなあ」

 しげさんは、ちょっとテンション上がったらしい。


 ほどなく門が見えてきた。

「うわあ、本当にホントに宮殿だあ。スゴいね」

「まずチケット買います。たまにはオレに出させてくださいね」

 心配していたが、チケットの行列はさほどでもなかった。二十分くらいで買えた。

 その間も、しげさんは目をキラキラさせながら周囲を見ていた。

「外側から見ているだけでも、圧倒的だなあ。これ全部見たら、一日以上かかるんじゃないの?」

「内部をすべて見るわけじゃないから、せいぜい二時間ですよ。だいたい全部巡るなんて無理。一週間くらいかかるでしょ」

「でも文化の違いというかなー、修学旅行で京都も行ったけど、寺とかお城は木造建築じゃん。こんな石と金属のどでかい建物なんか直接見たことないよ。映画とかテレビで見ても、実感ないもんなー。

 また装飾がスゴいよね。絢爛豪華きんきらきん。『ベルサイユのばら』がヒットするわけだわ。

 『門前の小僧』だな、入る前に出ちゃうよ」

 んな卑猥なことを…


「さ、入りますよ。個人の入り口はこっち」


 最初に、王室礼拝堂をちらっと見て、「宮殿の歴史回廊」へ。

「カッコいー。大理石だね。あれはフレスコ画。また石の彫刻もスゴいね。オルガンもでかい! あれ鳴らしたら強烈だろなー。ヘヴィメタより音出るんじゃない?」

「後で、また来ましょう。先に、宮殿の歴史が見られる部屋をざっと見ます」


「最初は狩りの館だったんですけどね、フランス国王の権力が強くなるにつれ大きくなって行って、ルイ十四世の時代にほぼ、今みたいな規模になったわけです」

「ルイ十四世って『太陽王』だよね。それくらいはオレも知ってるわ」

 ここで、あまり細かい説明してもつまらないだろうと思い、次々に建物の変遷を模型などで見た。

「だいたいバロックの時代かな」

「おーよく知っているじゃないですか。

 クラシックの音楽家で言えば、ラモーとかクープランですね」

「あのほら、ピアノの前の楽器でチェンバロってのあるじゃん。BeatlesとかStonesも使ってるじゃん。なんかあの響きって好きなんだよね。なんかこう奥床しいっていうかさ」

「チェンバロはドイツ語で、フランス語ではクラブサンと言います。正確には撥弦楽器で、弦をひっかいて音を出します。だから打鍵楽器のピアノとは違って、ギターの仲間とも言えるんですよ。鍵盤で奏でる楽器ということでは同じですけれどね。

 後のハンマーフリューゲルとかが、ピアノの前身です」

「お、さすが詳しいねえ」

「なんかしかし、いいなあ。オレもいっぺん王様になってみたかったなあ。美味いもん毎日食べて、ハーレムつくってさあ。ぐししし」

「ハーレムは、イスラーム圏でトルコのスルタンとかのもんですよ。ルイ十四世については、また後で話しましょう。

 王立礼拝堂に戻ります」


「うわっこの天井画がフレスコってヤツだよね。美しいよな、天井の天上の世界だね。

まさあきちゃんは添乗員」

「はいはい(苦笑)。

 フレスコ画って描くのたいへんなんですよ。漆喰を塗って、乾く前に絵具沁み込ませなきゃいけないし。上見ながら描くから体力もいる。システィーナ大聖堂の天井画をキツい態勢で描きつづけて、ミケランジェロは、ほとんど障碍者になっていますからね。

 でもフレスコ画はそのために『もち』はいいんですよ。ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』はフレスコ式で描かず、テンペラっていう壁の上に描く手法だったんで、あちこち剥がれちゃって…でも、近年に大修復をしましたからね」

「あー、あのオルガンの音聞いてみてえ」

「今でも、宗教音楽のコンサートやることがあるみたいですけど、毎日じゃないからなあ。

 でも、こういうとこの音はいいですよ。教会も説教がよく聞こえるように、合唱や演奏がよく聞こえるようにと、音響に気を遣った建物は多いですけど…

 ちょっと反則します。怒られっかな」

 両手を軽く叩いた。

 きれいに音が反響していく。周囲の何人かが「しー」っと指を口に当てた。

「やっぱ怒られました。

でもベニスのサン・マルコ寺院の反響音もすっごくいいですよ。あんまり長すぎるのはダメですけど、だいたい残響が長いほど、音楽の演奏にはいいんですよ。

ピサの大聖堂とか、イランのモスクなんかだと、声出すとぐるぐる回るようなところがあって、神秘的な感じさえします」

「さすが音楽好き」

「近代的なホールも音のいいところはありますけど、歴史的なホールのほうが味わい深いですね。なんか熟成されてきた音というか。

 日本には、そういうホールは残念ながらないですけどね」

「武道館の音のヒドイのなんかしょうがないよな。元々、音楽目的じゃないもんね。でも、ムカシよりはよくなってるよ。PA(音響係)さんの苦労はタイヘンらしいけど」


「今晩は、そんなホールのひとつでもある、ガルニエ劇場へ行けますよ。

 えーと、そうそう『ベルサイユのばら』の世界として言うと、マリー・アントワネットとルイ一六世の結婚式はここで行われています」


 さあ、それからは、しげさんハイになりっぱなし。唸りっぱなし。

 「豊穣の間」では「このテーブルだけで数千万円するんではないの?」。「ヴィーナスの間」では「これがバロックの美ってヤツかな。全部が重い感じだけどキラキラだなあ」。「戦争の間」では、大理石のレリーフを「すっげえ細かい細工」など、素直に驚くので連れて来た甲斐があり過ぎ。

 なんとかウィーンとベニスには連れていけた、母親のことを思い出した。亡くなったとき、整理していると、行ったときに買った絵ハガキとかがすべてまとめられていて、もっとあちこち連れて行けてたら…と思った。


 しげさんも、ほかにシェーンブルン宮殿とか、パラッツォ・ドゥカーレなんかに連れていきたくなる。また、素直に美しいものに感嘆できるのがうらやましい。自分はつい、なにかを見ても「あれと比べたら、いや、これよりは、どこそこのほうが…」と、余計なことを考えてしまう。

 でも建築物だって、それぞれだ。人がそうであるように。それぞれの良さをよく見ればいいんだ。ベルサイユは、確かに有数の規模があるとしても。

 

 「鏡の間」に来た。

 しげさん、何度もスケールを実感するように、左右や前後を見回している。

「さてと…ベルサイユ宮殿の美は十分体感したところで、ルイ一四世のことなどを話しましょう。汚いハナシもあります。性格が汚いとかではなく、ホントにばっちいハナシ。

 ルイ一四世は王の子ではなく、マザランとかリシュリューとか、王妃が宰相と浮気をした結果の子とも言われています。なんか秦の始皇帝も思わせますが(彼も父王の子ではないと言われています)、確かにフランス歴代の王のなかでは、飛びぬけて有名です。実際、戦争を度々仕掛けてフランスの領土拡大には貢献しています。

 芸術にも援助を惜しまず、『太陽王』の名は、自分が劇のなかで太陽の役でメヌエットを踊って、それからそう呼ばれたと言われています。なにをしてもデラックスで、すっごいんですが、じゃ、幸せだったかと言うと…

 まず、歯が悪くてぼろぼろ。歯槽膿漏が酷くて口が滅茶苦茶臭かったらしいです。また美食の挙句、胃腸も悪くて、痛風を病んでいたとも。

 痛風は、ハプスブルク最大の王カール五世とも同じですね。糖尿もあったかも知れないです。また、カール五世と同じなのは、戦争などに金を使い過ぎて、深刻な財政悪化を次世代に負わせていることです。フランス革命の遠因になったとも言えますね。

 当時のベルサイユには、王様と妃以外のトイレがなかったとも言われています。ほかの人たちは、持参のおまるで用達していました。女性のスカートの幅が広いのは、おまるをなかに入れて用を足しやすいこともあったとか。中身はあっこっちに捨てていたらしいです。香も用意されていたようですが、それでも臭い臭い。さらに風呂にはほとんど入らない。だから香水をやたらとつける。もっとも、シャワーをよく浴びる現在でも、白人の体臭は腋臭とか、かなり臭い人もいる。だからオーデコロンや香水の匂いも強烈です」

「そだね。飛行機に乗ったときからそう思ってたよ」

「ちょっとハナシの方向が違うけど、出産のときもたいへんでした。間違いなく王妃が出産するのを確認するため、民衆までもが立ち会ったと言います。公開出産ですね。

 絶対王政と言っても、今みたいに国のトップのプライバシーは守られていなかったんです。でも、だからある意味、今より民主的な部分もあったと言えるかな」


 しげさん、にこにこしながら聞いてくれている。

「そういうハナシ聞くと、かえってルイ一四世に親しみわくな。今の政治家は、日本でも人間味がないもん」


 その後は、庭園をざっと巡って、プチトリアノンは止めておいた。この後は美術館ふたつとオペラもある。

「お、この角度からの写真見たことある。誰かに写真撮ってもらおうよ」

 通りかかった白髪の夫婦に、英語で話しかけたらすぐ通じた。ネプチューンの像と噴水を背景にすると、にこにこしながら写真を撮ってくれた。

「ウェア カムフロム?」

「トロント。カナダ」

「オー、ロッキーマウンテンハイ。サンキューベリマッチ」

「ユーノウ、フジヤマ マウンテン?」 

「オー、ベリイビューティフォ。ツーイヤーズビフォー ウィ ビジテッド ジャパン」

「サンキュー、サンキュー」

しげさん、カタコトで話して、旦那さんと握手までしている。


「歳とっても、ああして夫婦で海外旅行ってのもいいなあ。

 宝くじ当って、両親になんかとも思ったけど、親父はほぼ寝たきりで、ボケもあるから旅行なんか無理だもんなー。おふくろも足弱っているし『お金はお前が好きに使いなさい』って言われたよ」


 しげさんは、旧家の息子で昔はお金に不自由してなかった。しかし、詳しくは話してくれないが、いろいろあって没落したらしい。ほかの同輩からは「騙されて財産なくしたらしい」という話を聞いた。


「さてと、もうお昼前ですよ。メシどうしましょうか」

 宮殿内にもカフェや軽食の店があり、なんとアラン・デュカスの店も出来たらしいが、予約してないし、間違いなく予算オーバーだろうな。


「あーどこでもいいよ。オレは軽くていいな」

 帰り道、適当な店がないか見渡してみる。

「あーここ、ツーリストメニューで八ユーロだってさ」

「う~ん、ツーリストメニューの店って、だいたい不味いんですよ。団体観光客の食事とおんなじレベルですからねー」

 団体の旅だと、いくら事前に吟味しても、ひっどい食事のときがある。大都市や、有名観光地ほどその確率は上がる。明らかに冷凍食品のメインディッシュを出されたこともある。


 あ、ここはどうだろう。薄い緑とクリームに前面が塗られた、目立たない小さな店だ。キッシュやクレープの店らしい。

「しげさん、ここにしましょう」


 入ってあちゃと思った。み~んな客は若い女性だ。東洋のおっさんふたりじゃ、明らかにミスキャストだ。

 すぐ出ようかと思ったら、マダムと目があってしまった。

「Bonjour! ウェルカム」

 窓側の席をすすめられてしまった。

 仕方なく座ってしまったが、若い女性のグループからは、冷たい視線が送られてきている気がする。絵里香ちゃんがいればなあ。


 しかし、ブロンドの長い髪をアタマの上でまとめているマダムは、陽気にシャンソンらしき歌を口ずさみながら、ムニュ(メニュー)を置いていった。

「『デズューキフォンバスレミエン…』」

 としげさん、いきなり歌い出した。

 驚いたことに、マダムも和して歌う。

「『アンリルキセ…』」


「『La Vie en Rose(バラ色の人生)』じゃん…」

 ふたつ目の歌詞までデュエットが続くと、みっつ目では、周囲の若いねーちゃんのなかで、おそらくリセ・高校生くらいだろうか、フランス人らしき子も唱和し出した。

 ひとつ目のリフで終わったが、周りからはパチパチと笑顔と拍手。


「ダーバンだけじゃなく、コレも練習してきたのさ」

 しげさん、お見事!


 お陰で周囲からモテたこと。「どこから来たの?」「トーキョー」「『セーラームーン』知ってる? おしおきよー」。なんて古いアニメの話から、一緒にスマホの写真に入って、なんても言われた。

しげさんが歌うと、必ずイイことが起きる。



 それから、またてくてくと歩き、駅からRERとメトロに乗り、パリに戻ってマルモッタン美術館へ。

 ここは広大なブーローニュの森の近くにある。

 東京は緑がまったくない、ということはないが、世界の大都市のいくつかは広大な緑地を持っている。ニューヨークにはリスがたくさん棲むセントラルパークがあるし、ベルリンには野生の鹿さえ棲むグリューネバルトがある。東京大空襲で焼けた後、緑地をもっと確保できなかったのか。事情はいろいろあったろうが、残念な気がする。いつか来るであろう、直下型地震への対策としても。


「ブーローニュの森っていうとさ、立ちんぼのおねえちゃんのいるとこだよね」

「今もいるかなあ。おとこのおねえちゃんも、ムカシはたくさんいたらしいですけれど」

「見物だけでも行こうよ」

「う~ん、治安がよくないですからね」

「いや、ちょっと見るだけ」

「考えときます」


 確か、近年は取り締まりが厳しいはずだ。

 ヨーロッパでは、売春に関して不思議な原則がある。組織としてやると即犯罪だが、個人はお目こぼしされる。「個人営業」つまり、勝手にひとりでやるのには寛容なのだ。しかし、もちろん闇の組織もいろいろあるから、まったくフリーでできるということは少ないだろう。

 ところで作家のジャン・ジュネは最底辺の出身で、自身が男娼経験もあるというが、彼の作品でブーローニュでの夜のお勤めを終えて、公衆便所で男娼たちがからだを洗い、身づくろいをするという場面があった。不思議に美しいと思わせる描写に、心から天才だなと思った。

 自分は性同一障害に理解は持ちつつ、ノーマルだけど…



「Giorno! あ~違う。Bonjour」

ほぼ時間通りに、絵里香ちゃんがやって来た。

 今日は、紺のワンピースで地味な感じだ。

「今晩は、オペラを観るので、着替えが面倒だからコレくらいならいいかなと思って」

 ! そうだった。自分は麻の上着なので、これでもいいだろうけど、しげさんはジーパンに、上は黒地に『Voodo Rounge』のヂャケットの図柄のTシャツ。コレじゃあなあ。近代的なバスティーユ劇場ならともかく、クラシックなガルニエではまずいだろう。


「この服装じゃ、ちょっとダメだよね」

 しげさんのほうを見ながら絵里香ちゃんに言うと、

「そうですね…ジーパンのひとはたまにいるけど、ヂャケットがいるなあ」

「なに、リーマンみたいな恰好しないとオペラはダメなの?」

「入場拒否とかはされないですけどね。周りの人の視線がイタイかも…

 あ、そうだ。彼氏の上着が一着、宿にあります。だいたい背丈はおんなじだから、貸しますよ」


「オーケー、じゃ、なかに入ろう」

 ここは美術館というより、実際にそうであったように大きな邸宅という外観だ。収蔵されている絵画の多くが、モネの作品であるため「モネ美術館」と呼ばれることもある。


「え~と、絵里香ちゃん、モネはオレに解説させてくれる?」

「もちろん。ぜひぜひ」

「モネって、いい画家だなとは思っていたけど、あんまり関心はなかったんだよね。それがさ、ここで一枚の絵をずっと見て、がらっと変わったんだ」

「『印象 日の出』?」

「違うんだよ。え~とこっちだ…」


 しげさんと絵里香ちゃんを、廊下のような部分に展示されている一枚の絵画の前に連れていった。


「この絵をずっと観ていてください。なんか感じたな、と思ったら言ってください」

 絵は『アルジャントゥイユそばの散歩道』。田舎道を歩く夫婦と子ども。ただ牧歌的な場面の描写といった感のある絵だ。

ちょっと難しいかな。でも、しばらくじっと集中してもらえたら…

「はいはいはい」

 と、しげさんが手を上げた。

「どうぞ」

「プチブル的な社会に対する反抗心」

「そんな学生運動の頃みたいなことじゃないです」

「いいですか?」と絵里香ちゃん。

「どうぞ」

「日差しをすごく感じますよね。気温も伝わって来るみたい」

「おーいい感じ。だけどもう少し観てみて」

 そのまま観てもらった。

 五分ほど経って、

「風を感じませんか? そよそよと吹いてくるような。

 オレ、ひとりで来たときにずっと観てたら、急に風が画面に流れるのを感じたんですよ。

 それでモネがなにを描きたかったのか、分かったと思ったんです。

 『印象・日の出』っていう、モネを一躍有名にした、というよりスキャンダラスに取り沙汰されたここにある絵は、全体にぼわっとしていて何を書きたいのかよく分からない。

 そして、その後にモネは評価されて、売れっ子画家になっ

ていくんですが、『積み藁』『ルーアンの大聖堂』『睡蓮』なんてテーマは、何枚も何枚も描いています。なんで似たような絵を何度も描くのだろうと思っていました。

 でも、同じようなテーマのなかで、描いているときそれぞれに日差しも気温も誓うし、水面の色や温度が同じということはないんですよ。モネはそれを捉えたかった。その場そのものを絵のなかに描きたかった。

 評論家も同じこと言ってますけど、俺はこの絵を観て、風が吹くのを感じるまでは分からなかった。

 晩年、モネの絵はますますぼんやりしていって、象徴派・サンボリズムに移行したと言われているけれど(自分の家の近くの『サン・ヴィクトワール山』を繰り返し描いたセザンヌもおんなじです。だんだん抽象的になっていきます。見た目だけでなく、自分のこころのなかのサン・ヴィクトワール山を描こうとしたからです)、モネとしては、ただそっくりに描写するより、自分が感じた対象の本質を、その場の空気もろとも表現しようとした。

それだけ。

 こういう流れがシュルレアリスムなんかにつながっていくんです。ただ、外面を写し取るだけでなく、自分が感じたそのままに本質を表現していくっていう。

 そういう意味では『印象・日の出』から、モネはずっと終始一貫しています。

 『睡蓮』もよく見ると一枚一枚、水の様子が違っていて、また、水が『生きている』のがよく分かります」


 ぱちぱちぱちとふたりが拍手してくれた。

「まさあきちゃん、評論家のセンセできるよ」

「…同じこと思っていたけど、深いなあ。素敵ですよ。

 あたしも『積み藁』何枚か観ていて、日差しの違いがすごく捉えられているな、なんて思っていましたけどね。

 それぞれ、そのときの『一瞬』を捉えようとしていたんでしょうね」

「評論家のよく言っていることと同じかも知れないけど、自分で分かった、と思えるとなんだかうれしいんだよね」

「でも、直感ていうのも大事だ。BeatlesやStonesなんかは、オレ、直感でイイと思って聴き始めたもんなあ」


 それからは、昔のパリのお金持ちの暮らしなんかも想像しながら、モネやカイユボットの『パリの通り、雨』なんかをゆったりと見た。それからブーローニュの森もちょっと散策して、自転車に乗った一団とあいさつを交わしたりした。さあ、次はオランジュリー美術館だ。


 メトロに乗って、パリ中心部に戻る。

 名前の通り、元は宮殿のオレンジのための温室だった建物だ。そのため自然光が館内にも降り注ぐ。

規模が小さい割には、秀作揃いで気軽に観られる。近年には、そんなところから日本人に人気だそうだ。

 圧倒的なのは、なんと言ってもモネの『睡蓮』の大作が並んでいる部屋。ソファに座ってゆっくり鑑賞できる。

「なんだか、あっちこっちから水の音が聞こえて来そうですね」

「んー、カエルが跳ねたり、魚が泳いだりするのが見えてきそうだ」

 もし、ふたりがさっきの自分の話から、よりモネを楽しめるようになっていたらウレシイ。(つづく)

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