経営者の【夜逃げ】
「志○けんが宇○宮中央病院で亡くなった」
という偽情報が流れた頃、
私は地方の塾で働いていた。
もう二十年以上昔の話である。
「東京は暑過ぎる!」
という事で、
(夏の間だけ涼しい地方でも行くか?)
と思って。
私は、
とある地方都市の責任者に、
その年の七月一日から就任していた。
八月二十五日だったと思う。
夜九時過ぎに、
業務終了の電話連絡を経営者にして、教室を閉めて帰ろうとしたら、
突然、
経営者が「来る」と言い出した。
本部から車で三十分以上かかるので、
今まで、
一度も来た事が無い。
そして、
経営者が到着すると、
いきなり二十五万円を渡された。
この給料を私に手渡しするために、
わざわざ来たのだそうだ。
「今後も働き続けてくれるか?」
と、
その経営者に聞かれたので、
(ああ、
もう夏休みも終わるな。
地方の秋じゃ物寂しいから、
東京が良いか?)
ちなみに、
東京のアパートは借りたままだったので、
いつでも東京へ戻れた。
そして、
「塾を買わないか?」
これにも、
私は答えなかった。
それから三日後だったと思う。
いつもの様に午後一時に教室入りし、
エアコンの前で涼んでいた時、
本部から電話が架かって来た。
「△△が逃げた」
△△は経営者の偽名である。
それに続いたのが、
「やっと、
【夜逃げ】してくれたよ」
電話の主は、名目上、私の上司だった。
でも、
その上司から指示された事は一度も無い。
「お盆の夏季合宿で、
数百万円集まっただろ!
それ持って逃げる様に奨めたんだけど、
何をトチ狂ったのか?
夏季合宿やっちゃって!
今頃、
やっと逃げてくれたよ」
その上司は喜んでいた。
経営者が【夜逃げ】したのに。
「どうも、
八月十八日に新入塾生が入ったらしい。
その金を持って逃げた様だ」
その塾は、
入塾金、授業料を一括で百十八万円払うと、
大学に合格するまで、何浪しても追加料金が発生しないシステムだった。
電話は、それで切れた。
経営者が【夜逃げ】をしたという緊急事態なのに、
今後の指示とか、
全く無かった。
ただ、
「東京へ戻る?」
と聞かれたので、
「もう少しだけ居ますよ」
と答えた。
『東京へ帰って遊ぶ』という選択肢も有ったのだけれど。
理由は、
1 東京は、まだ暑い。
2 塾での労働は、
仕事とは名ばかりで、
実質、遊びだった。
その塾では、
講義は行われず、
講師は生徒の質問に答えるだけ。
このシステムだと、
前もって予習するのは不可能なので、
その御蔭で、何も準備しなくて良い。
しかも、
質問に来るのは、
一浪の女の子と高三の女子の二人しかいない。
話はズレるが、
この時代は、
女子高生のスカートが極端に短く、
スパッツの様な『スカートの中を見せても良い物』は、
当時の女子高生の感覚では、
「中坊みたい」
でダサかったらしい。
私の様な親父が、女子高生と会話するためには、
『お金を払う』のが一般的だと思うが、
私は、
『お金を貰って』おしゃべりを楽しんでいた。
実際に、
とある女子生徒は、
近所の公園で一人でボーッとしていたら、
知らないオッサンに、
いきなり一万円札を四枚見せられて、
付いて行ってしまったそうだ。
3 展開に恵まれたら、
塾を乗っ取るつもりでいた。
「塾を買わないか?」
と、
経営者に聞かれて、
何も答えなかったのは、
実は、
金の計算をしていた。
塾を買って利益を上げるための。
でも、
タダで手に入るのなら。
ちなみに、
この時は、
『居抜き』という言葉は知らなかった。
まさか、
その後に、
『朝鮮人と私~朝鮮人八人にボコられそうになりました、もちろん日本でです』の第十七話で書いたK君が、
『居抜き』で有名になるとは!
そして、
その次の日、
教室のエアコンで涼みながら昼メシを食っていると、
また本部から電話が架かって来た。
今度は前日の上司とは、
別の幹部から。
「昨日も労基署へ行ったんだけど、
今日も行って圧力をかけるから、
応援に来てくれないか?」
そう、
前述の上司や幹部連中が経営者の【夜逃げ】を望んでいたのは、
この労基署が、
お目当てだったのだ。