89 土煙
「まったく……なんつーか」
屋根から屋根へと飛び移りながら、自由の身となったバロットはぼやく。彼らはすでにさっきまでいた建物の屋上からは大分離れたところまで逃げていた。
「初心者でよかった、というか」
なんとも言えないような表情とそれに連動する声色で、バロットは次の言葉をひねり出す。
隣で彼と同じように屋根の上を跳んでいるサラは、彼の言葉に反応せずにそのまま前を見ていた。彼女の反応がないことを知るや、バロットはため息をついて口を閉じた。
その二人はキリの良いところで屋根から降り地面に足をつけ、そのまま路地裏へと駆けこむ。そして辺りに人の気配がないことを確認すると、サラはその路地裏の壁にもたれかかり、大きくため息を吐いた。それから自分の震える手を広げて、その平を淀んだ瞳で見つめる。
「……っ。問題は増えるばかりね」
サラはそう言って震える手を握りしめると、腰に差している刀の柄にその手で触れた。その瞬間から手の震えは止まり、サラは再び大きく息をつく。
「俺たちが失敗することも含めてな。……いや、それこそが"問題"だったのか」
腕を組み、バロットもサラとは反対側の壁へともたれかかった。そしてしばしの沈黙が流れた後、バロットは低い声でサラへと告げる。
「――ちょっと、仕掛けてみるか」
「……本当に? 向こうにはシェルムがいるのよ」
いつになく真面目な相貌でそう告げたバロットに、サラは怪訝そうな視線を向けた。バロットはそれを聞くと、目を閉じて顎を引く。
「真偽はどちらか一つだ。そしてそれは結果的に、俺たちが弾くか、俺たちが弾かなかった場合はあいつらが弾くことになるだけだ」
そういったバロットは大げさに壁へもたれかかっていた体を上げると、瞳を開けてサラの前へと立った。そして袖も内側からナイフを一本スライドさせて右手に持つと、それを縦にかざして見せる。
「こういうことは、俺たちの方がお似合いだ」
バロットはニヤリと笑ってみせる。同時に、彼の縦にかざしていたナイフがすーっと暗闇の中へ消えていったのだった。
◇
ぐわんぐわんと頭に痛みが波及し、それに誘発されるかのように視界も濁っていて眩暈が起こっている。シルヴァは砂の臭いが漂う砂埃の中で、静かに意識を回帰させた。
「一体なにが……シアン!? シアンは!?」
ふと自分を助けてくれた彼女の名前を叫びながら、辺りを見回した。そして右手に暖かい感触があるのに気づき、視線を下へと移す。
そこには自分の手を握りながらも気を失い倒れているシアンの姿があった。気絶しているものの、まだ息はあるようだ。シルヴァは慌ててうつぶせに倒れているシアンを仰向けに直す。
その体を見る限り、幸いなことにどこからも出血はない。どこか骨折などをしているかもしれないが、それは把握できなかった。とりあえず、出血で死んでしまうようなことはないだろう。
安心したところで、何だか体が火照っていることに気づいたシルヴァ。汗をぬぐおうと腕を額にやった。その後、その汗をぬぐった自分の手が赤く濡れていることに気づき、初めて額から出血していることに気づいた。手で額をペタペタと触ってみて、一体どこから出血しているのか確かめてみる。
「……まあ、生きてるだけマシか」
出血原因の傷口を見つけながら、シルヴァはぼそりと呟いた。それは砂埃の中でうっすらと透ける、さっきまでシルヴァ達がいた建物の姿を見たからだった。
屋上から斜めに切り口を入れられたように、シルヴァ達のいた部屋だけが切り取られ、崩落していた。それ以外の部屋には直接的な害はないようだが、ここまで建物が壊れているのであれば、今後この状態のままのこの建物に住むのは気が引けるだろう。というか、普通に危ない。
辺りを見回すと、部屋の残骸が大や小となり散らばっていた。粉々になった壁の破片を拾って、自分たちがこんな肉片にならなくてよかった、とシルヴァは一人で苦笑する。笑いごとではないけれど。
「……奴らは流石に逃がしちゃったか」
それは確認するまでもない事実だった。バロットを捕らえてサラを追い詰めたというのに、その状況から巻き返されてしまった。
けれど、それはそれで新たな疑問点が生まれる。
奴らの本来の目的敵はシルヴァとシアンを連れていくことだったはず。だったら、今さっきまで気絶していたシルヴァと、今もなお眠っているシアンを放置していたのはおかしい。
「とりあえず、ドルフさんのところに戻るか……」
シルヴァは気絶しているシアンをおんぶすると、少しふらついた足取りでその場から歩き出す。この惨状を前に何もせず逃げ出してしまうのは良心に欠ける行為かもしれないが、後で役人のディヴィにでも対応してもらおう。
シルヴァは敗北の土煙を吸いながら、夜の街を歩いていったのだった。