83 闇夜の薄ら笑い
「……っ」
こちらへと走ってくるバロットとサラを屋上から見下ろしていたシルヴァだったが、不意にバロットの黒い瞳と視線が完全にかちあってしまった。
「気づかれてる……!」
シルヴァがそう言うと、シアンは忌々しそうに歯を噛みしめる。それから『液状武装』を鎌に変化させて、両手で構えた。シルヴァも手すりから一歩離れて、彼らが来るのを見越して『支配』の力を顕現させる。
「……技量では完全にあいつらが上、僕らが下。だけど、あいつらは下で、僕らは上にいる……。この高低差の優位性を……くそっ」
シルヴァは何とかして彼らに勝つための策を持ち出そうとするも、全く持って聡明な案が浮かばなかった。高低差で優位を築けるほど、シルヴァ達と彼らの力量差は小さくはない。
「――シルヴァ!」
シアンは手に持った鎌を変化させ、大きな鎚へと変化させた。そしてその場で振りかぶる。
その意図に気づいたシルヴァはその場から引き、シアンは鎚を思いっきり屋上の床に振り下ろした。
大きな鎚に叩きつけられた床は一瞬で崩壊し、ヒビが下のそのまた下の階にまで広がるほどに損害を与える。その建物に乗っていたシルヴァが揺れを感じるほどに大きな衝撃だった。
勿論、鎚を叩いた地点の床は崩れ落ちて、下の階の部屋を覗ける穴が開いていた。まだ微かに残る屋上の小さな瓦礫が、パラパラとその穴から下の部屋へと落ちていく。
「……っ」
幸いにも下の階は空き部屋だったらしい。シルヴァはその事実にちょっぴり安心しながら、『支配』の力を解放する。その大小に崩れ落ちた瓦礫の数々を支配下に置いた。
そしてその『支配』した瓦礫を浮遊させて、それをこちらへ向かってくるバロットとサラに向かって放つ。
上から下に向かって、大小の瓦礫が降り注いだ。それらはバロットとサラが走っていくその先に着弾する。目の前で巻き上がった砂埃でその攻撃に気づいた二人だが、それはもう遅い。幾多の瓦礫のつぶてが地面を伝ってどんどん二人へと迫り、ついに二人へと着弾する。
「――っ!」
二人の周辺は夜の暗闇に加え、砂埃でさらに見えなくなった。しかしその直後、闇夜の中で揺れる砂埃が不意に不自然に揺れたのに、シルヴァとシアンは気づく。後ろに跳ぶシアンと同じように、慌ててシルヴァは体をのけぞらせ、その場からに数歩下がった。
途端に、シルヴァの前髪がふわりと揺れる。前髪の前に何かが通り過ぎて、それはその後背後にあった貯水槽に鈍い音をたてながら突き刺さった。――バロットの異能によって、透明になった投げナイフだ。
「油断できないな……」
あの攻撃の直後、的確にナイフの投擲をしてきたバロットの腕前に、シルヴァはごくんと息を呑む。背後の貯水槽のナイフが刺さった部分から、静かに水が滴っていた。
シルヴァとシアンはもう一度、屋上から眼下に広がる砂埃を見下ろす。
「くるっ!」
シアンの獣耳がピクリと揺れた。同時に、漂っていた砂埃は一閃の太刀筋により、斬られたかのように霧散する。そしてそれを境にこちらへ駆け出した影が一つ。――バロットだ。
「くそっ!」
シルヴァは再び残っている瓦礫で迎撃しようとするも、バロットの手さばきの方が速かった。駆けながら、手に持った複数のナイフを透化させると、シルヴァとシアンに向かって一気に投擲する。
それを察知したシアンは手すりの上に飛び乗ると、透明になって飛んでくるナイフを『液状武装』によって変化した鎌で弾き落とした。それでも一つ見逃していたようで、そのナイフが彼女の肩をかすめる。
「っ……!」
「シアン!」
よろめいて、金属の手すりからこちら側へ落ちたシアンを、シルヴァは何とか駆け寄って受け止めた。そしてシルヴァは駆け出してきたバロットを見下ろす。
彼はすでにシルヴァ達のいる建物の下までたどり着いていた。しかしシルヴァ達がいるのは屋上。建物は五階ほどあり、ハーヴィンのように飛翔能力でもない限り、彼は建物内部の階段を使ってここまで登ってくるしかないはずだ。
まだ時間は稼げるはずだ。そう判断したシルヴァであったが、その想定は次の瞬間に裏切られる。
「なっ……!」
バロットはそのまま地を蹴り、壁を伝って登り始めた。窓も少ないこのレンガ調の建物のどこを掴み、足をひっかけて登ってくるいるのか。
――いいや、彼はどこにも掴んだり、足を引っかけたりしていない。なんと虚空を掴み虚空に足を引っかけて、軽やかなペースで登っていたのだ。
「何を……! いやこれは!」
虚空を掴んでいる? いや違う! シルヴァは事実に気づいて舌打ちをする。
彼は虚空を利用して登っているわけではない。透明になったナイフを利用しているのだ。
さっきシルヴァに向かって投擲した一度目の数発のナイフ、そして二度目のシアンが弾いたナイフ。その際に、一緒に他のナイフを透明にして飛ばしていたのだろう。しかしそれは屋上にいるシルヴァとシアンに向かってではなく、建物の壁に突き刺していたのだ。登るときに利用するために。
「くそっ!」
シルヴァはすぐに腕の中のシアンを下ろすと、虚無の短銃をバロットに向けた。バロットに『支配』の力は通じない。だからこうするしかない。
「――」
シルヴァの右腕から一気に力が抜かれる。しかしそれにビビっているわけにもいかない。すぐさま引き金を引いて、存在しない弾をバロットに向かって発射した。
シルヴァの短銃から火花が散る。その瞬間、バロットの動きが急激に変化した。さっきまで軽やかな動作に登っていたものに、さらに速さが加わって隣の窓へと体を飛び乗らせる。そして狙いを定めた短銃の射撃をすらりと躱した。
「……!」
バロットは今まで手を抜いて登っていたのだ。彼はシルヴァが虚無の短銃を持っていることを身をもって知っていた。だからシルヴァが短銃で迎撃するだろうということも織り込み済みだったということ。
だからわざと遅めに登って攻撃を誘い、見事にその迎撃を躱した。そしてその速さのまま、彼はシルヴァ達のいる屋上へと到達する。
「くっ……!」
手すりを飛び越え、屋上へと足をつけたバロットにシアンは鎌で斬りかかった。それをバロットは軽々しくかわすと、両手にナイフを取り出して切りつける。シアンはそれを紙一重で鎌を動かし防御した。そして彼女はバロットと距離をとる。
バロットは距離をとった彼女を見ると、それからシルヴァの方へ視線を向けた。シルヴァは反射的に短銃を彼に向ける。それを見たバロットはナイフを構えなおしながら言った。
「よお。さっきぶりだな」
息を呑むシルヴァとシアン。その前で、バロットは余裕そうに笑ってみせたのだった。