79 それしかない
視界がくらむ。体中を内側からも外側からも強く押しつぶされているかのような痛みに、シルヴァは喉からあふれ出る血液を足元に垂らしながら、脱力していく体で思わず後ずさった。
「……なん、で……!」
ふらふらと体を左右に揺らしながら、シルヴァはこちらへと駆けてくる男を睨んで忌々しく吐き出した。
シルヴァの『支配』は完全に男へ入ったはずだ。一度は支配化に入れた感覚があった。それなのに何故、逆にシルヴァがこのような大きなダメージを負うことになったのか。
「いや……!」
流血のよって崩れていく体内の体調に反して、シルヴァの脳内は妙に冴えていた。
『支配』の力が命中し、支配下としてシルヴァはあの男を捕らえた。その次の瞬間にシルヴァへと不可視の力が働き、体が潰されたのだ。
つまりそれらを考慮するに、シルヴァは『支配』の力に対して男のカウンターを受けたということになる。
「……っ!」
シアンはシルヴァの異常を悟るや否や、悲鳴を上げたりやシルヴァへの心配の言葉をかけるよりも先にシルヴァの前に立ち、走ってくる男に対して鎌を構える。
それは、以前に彼女が語っていた『シルヴァの隣で戦いたい』という言葉の、そこに孕んでいた覚悟だった。
シルヴァはその後姿が視界に入るのを悟ると、どうしてだか自然と腹の奥に力が入る。棒切れのように情けなく頼りなかった足がその力に奮起させられて、倒れそうになっていたシルヴァの体をがっしりと支えた。
――巡り変わっていく戦況。その一瞬一瞬を導いていく刻はその速さに付いていけなかった者を容赦なく振り下ろしていく。シルヴァはまさに、降り落とされそうなギリギリの境にいた。
シルヴァの腹の奥で倒れそうな体に力を与えたその不確かなもの。それは彼女に守られることになった自分の不甲斐なさへの怒り、彼女が目の前で傷つけられることに対する恐れや不安。そして何よりもシルヴァの足を支えたのは、彼女に置いていかれるわけにはいかないという、ある種の"誇り"だった。
「っ!」
シアンの獣耳が動き、それに反応するように彼女の腕が動いた。鎌は彼女の操るとおりに動き、虚空に混じって飛んできた何かを弾く。鎌で空振りをしていたように見えたが、金属と金属がぶつかり合う甲高い音が響いていた。彼女は飛んできた『目の見えない何か』を耳で探知し、見事弾いたのだろう。
その攻撃は男の持つ能力か何かか――シルヴァは頭の片隅でそれを考慮しながらも、瞬時に再び『支配』の力を男へ向けた。さっきの吐血や痛みついて、この『支配』の力を使用したことが原因であるのはほとんど明確だ。けれど、だからといって、行使しないわけにはいかない。シルヴァにはこれしかないのだ。
『これしかない』、それはとても小さく思えるような言葉。けれど、必死に生きようと足掻く人間の持つそれは、とても簡単に表せるような単純なものではないのだろう。
「見えない、ものを、……」
シルヴァの狙いはただ一転。『支配』の力は透明でどう作用しているのかシルヴァ自身にすら分からない。
だから、今シルヴァの考えていることができるかは分からない。でも、やるしかない。やってみるしかない。
こちらへ駆けだしてくる男の距離はもう数メートル。シアンが鎌をぎゅっと強く握りしめていた。
シルヴァはただただ『支配』という、視・聴・嗅・味・触を司る五つの感覚の外側に位置する、未知の感覚に全ての意識を集中させる。見えないものを、見えないもので絡めとること――距離は問題ないのだ。あとは、シルヴァの精度とやり口だけ。
「……っ!」
そんな中、シアンの青い瞳が大きく開かれた。その瞳に映っているのは、夜の暗闇に溶け込んでいく男の姿。――そしてそれは、完全に姿を消した。
さきほどの、シアンが虚空に鎌を振って何かを弾いた事実。その『シアンに弾かれた何か』というのは、彼の能力によって透明となった投げナイフだったのだ。姿を消し、投げられたナイフ。その風を切る音をシアンの獣耳が感知し、目には見えないそれをシアンはギリギリで弾いたのだった。つまり、男の持つ能力は、物を透過させる能力。
それをシアンが理解したとしても、今回は投げナイフではない。消えたのは男本体である。
シアンの首筋に冷たい汗が流れた。彼がシアンの獣耳をもってしても聞こえないほどに精度が高い隠密行動ができるということは、ドルフ家が襲撃された際に証明されている。投げナイフはともかくとして、そんな彼を感知するのはシアンでも不可能かもしれない。
――しかし。
「……捉えた」
ぼそりと、シルヴァの口から呟くように吐き出された言葉。それが何を意味するのか、シアンが理解するよりも早く事態は動き出す。
「――なっ……!?」
突如、爆音と共に暗闇に火花が散った。その瞬間から、姿を消し闇夜に紛れていた男の体が聡明に顕著していく。その現れた体が露見するや、その右肩はぱかりと裂かれていた。そこには飛び散る血飛沫と共に、硝煙も小さく漂っていたのだった。