60 ライニー家
『食事処-彩食絹華』の入り口の戸は閉まっていて、そこには『休業』という看板がかかっていた。
中は嵐が過ぎさった後のように静かな雰囲気に満ちている。
「ライニー家?」
さっきまでシルヴァ達か座っていた畳の席。そこには今、シルヴァ、シアンと続いて、この店の料理人であり店主の男――ドルフが向かい合って座っており、その隣にはさっき店内で暴れていた男の付き人として来ていた男――ディヴィがいた。
「ええ……。私どもも、困っておりまして」
小太りのディヴィはポケットから出したハンカチで汗を拭きながら、苦い笑いを浮かべる。
「先日、この町『コルマノン』に越してきた貴族です。町中に新しく大きな屋敷を建てて、そこに住み始めたのです。自らの身分のコネと金をバラ撒きながら」
さきほどずぶ濡れになっていた女性店員のニーナは料理人ドルフの娘であり、今は店の二階で着替えている。どうやら彼らは普段は一階で店を開き、二階で生活しているようだ。いわゆる、二階は居住スペースというところか。
「つまるところ、奴らは引っ越してきた途端からイキリ散らしてるってことね」
シルヴァはため息をつきながら彼らの言ったことを簡単に要約した。その言葉にドルフとディヴィは困ったようにうなずく。
ディヴィは語った。
「ええ……。私は町の役人なのですが、越してくる前に王国の方から彼らを優遇しろ、と釘を刺されましてね……」
そう言いながら頭をかくディヴィに、その隣に座って腕を組んでいるドルフはため息をつく。
まあよくある職権乱用ならぬ貴族の思い上がりによる弊害だろう。『貴族の思い上がり』だけならまだ良いが、それに王国からのお墨付きがつけば、ただの自惚れではなくなる。その態度に王国という大きなバックがあるせいで、ただの『思い上がり』は事実になってしまった。
「大変だね……」
シアンは目と獣耳を伏せる。
さっきの出来事の中で彼女の帽子は脱げてしまった。だから今、シアンは帽子を膝の上に乗せている。
再び帽子を被らないのは、恐らくこの状況下でシアンの『獣耳』について悪い言及をするようなことはないと判断したからであろう。
「……貴方たち、悪いことは言わない。この町から早く出た方がいい」
ディヴィはハンカチをしまい、二人を真剣な表情で見据える。
その視線を受けて、シアンは二人へ聞いた。
「やっぱ、その貴族に嫌われた人がひどい目にあったりしたの?」
「……いや、違う」
その質問に答えたのはさっきまで黙っていたドルフだった。それに続くように、シルヴァが言う。
「多分、その前例がないんだね。貴族の反感を、僕たちみたいに真っ向から買った人は今のところ出ていない」
「そういうことだ」
シルヴァの言葉にドルフはそういってうなずいた。その隣に座るディヴィも困ったように薄ら笑いを浮かべる。
正直、彼らの言葉だけではアント・ライニーを含む貴族『ライニー家』がどれほどの権力を持っているかは計り知れない。しかし、もしもの事態を想定して、想像よりも一回り程危険であると考えておいたほうが良いだろう。
ただ、シルヴァには少し思うところがった。シルヴァはちらりと隣に座るシアンを見る。真剣な表情をしているが、焦りなどの感情は少なくても外見からは把握できない。
その横顔を見てシアンも同じ感覚に陥っているとシルヴァは推測した。
シルヴァとシアンが感じている『感覚』。それは危険に対して鈍くなっているということ。いわゆる『油断』に近い感情だった。
二人は昨日、ハーヴィンを筆頭に、それとは漠然と次元が違うアレンと殺陣傀儡の圧を目の当たりにしていたのだ。ハーヴィンクラスでさえ、普通に生きていれば遭遇できないぐらいの規格外な強者だったはずなのに、それ以上のものを見てしまった。
故に、二人の中で『危険』の基準がほんのそこらの貴族程度に対してでは揺るがない。『ライニー家』が雇っているであろう私兵か何かが襲い掛かってこようとも、恐らくハーヴィンを相手にする方がつらいだろうし。
「……まあ、『何をされるか分からない』という点では看過できないね」
シルヴァはそんな思いを抱きながらも、手を顎の前につけた。どれだけこちらに分があるとみても、やはり前例がなく具体的なことが分からないとなると、ちょっと不安になる。
そんなシルヴァの隣で、シアンは彼に向かって口を開いた。
「シルヴァ、思ってること言ってもいい?」
「いや、たぶん僕も……」
同じことを思ってるよ、と言いかけたところでその言葉を飲み込んだ。そしてすぐに言い直す。
「どうぞ。ぜひとも」
「うん。あのさ、私たちが今日ここを去ったとしたら、さっき押しかけてきた貴族の怒りはどこに行くのかな? このお店の人たちに向かっちゃいそうじゃない?」
「……そうなる可能性は高いな」
シアンの言葉を聞いて、シルヴァはそれに肯定する。同時に、シルヴァとシアンの基本的な考え方の違いが少し垣間見えた気がしたのだった。
シルヴァの考えとして、まずは身の安全を考えて思考を進めていた。自分の感じている余裕とその危険性。
しかしシアンは、恐らくそういう感覚も持ち合あせていたのだろうけれど、シルヴァが保身を考えているころ、彼女は自分たちではなくドルフやニーナたちの、つまり他人の心配をしていたのだ。
自分よりも他人。その思考がシアンには根付いている。シルヴァにはとても真似できない優しさだ。
けれど、そうやってシアンに対して誇りのようなものを感じる反面、シルヴァはシアンにもう少し自分のことも大切にしてほしいと思った。そのシアンの思考回路の根本は生まれや境遇が関わってきているのだろう。獣人という、差別の対象となって軽蔑され蔑まれていく中で、無意識化に自分の存在がぞんざいになってしまっているのかもしれない。
そこまで考えたシルヴァだったが、頭を振ってとりあえずその思考は振り払う。今考えるべきことではない。しかもこれはシルヴァがそう思っているだけのものであり、必ずしもそうとは限らないのだ。
シルヴァは話題をシアンの言った、お店に対する人的被害に対して変えた。
「うーん。こういうのは元を絶つ、っていうのが一番安全だと思うんだけど……」
「……それは厳しいですなぁ……」
それができればすでにやっているだろう。ディヴィの苦い表情の返答を見て、どうしたものかと再び悩んだ。
「とりあえず、今日この町を出るのは悪手っぽいよね」
「うん」
シルヴァは軽く息を吐きながら、後ろへと姿勢を緩く乱した。隣のシアンも彼に倣って、肩の荷を下ろしたかのように姿勢を軽くする。
「……すまないな。この店に入ったばかりに」
そんな二人にドルフは申し訳なさそうに言った。ぎょっとしてシルヴァは姿勢を戻して反論する。
「いやいや、貴方が謝ることじゃない」
「それは分かってはいるんだがな。でもこの状況じゃ、お客さん、アンタらは完全に巻き込まれなくてはならないじゃないか」
ドルフの言葉に二人は一瞬見合わせるが、その後すぐに小さく笑った。
ドルフの言う通りだ。どうであれ、このままこの問題を野放しにて去ることはできそうにない。それはとてもかっこ悪いことだし、もし全てを放棄して去ったとしたら、そのことを長い間ひきずって生きることになる。要するに、とても後味が悪くなる。
「あくまで善意だけどね。ま、こればかりは仕方ないさ」
シルヴァがそうやって笑みをドルフとディヴィに向ける。その笑みを受けた二人は、つられるようにして小さく微笑んだのだった。