59 男のうしろには
店内の雰囲気は色んな意味で異様なものとなっていた。
シルヴァは知らないが、シアンのハンマーによってぶっ飛ばされた偉そうな男は、女性店員を燃やし店の中で好き放題に叫び散らした人間だ。シルヴァはそのことを知らないので、その男の口を『支配』の力で押さえつけてはいるものの、それ以上のことはしなかった。
「えっと、シアン? 知ってる? こいつが何なのか」
「シルヴァ! その人は――」
「だ、ダメですっ!」
その場から動かず、シルヴァはシアンに質問した。シアンが彼の言葉に答えきる寸前で、ずぶ濡れになって座り込んでいる女性店員が叫んだ。事情を知らないシルヴァはともかく、その男の悪事を見ていたシアンは驚いて弾かれるように彼女の方へ視線を向ける。
女性店員は地面につけた右手をぎゅっと握りしめると、もう一度振り絞るように言った。
「もう、やめてください……」
「ニーナ……」
女性店員が座り込むすぐそばで、料理人と思われる少し老いた男は彼女の名前を小さく呟く。
ニーナと呼ばれた女性店員の視線はシアンに向けられたあと、ゆっくりとシルヴァの方へ移動してきた。シルヴァはそのどこか悲しみに満ちているものの、汚れない真っすぐな瞳を見て、何故だか分からないが、彼女の言う通りにした方がいいと思った。
そのニーナの意思を尊重したシルヴァは彼女に向かって小さくうなずくと、男に対する『支配』を解いた。ニーナはシルヴァの能力について知らないはずだけれど、その場の流れで何となくシルヴァが彼に小細工をしたことに気づいていたのだろう。
シルヴァの『支配』から解放された男は、自分の体が解放されたことに気づいた瞬間にビクリと肩を大きく震わせ息を吐くと、地面を蹴ってすぐさま店の出口へと駆け出した。そして戸の場所まで着くと、その戸をがっしりと手で掴み、顔面に流れる血を振りまきながら振り返る。
振り返った男は細くぎらついた目で店内を見渡すと、男は大きな口を開けて、汚い罵声を店の中にいる全員にぶつけた。
「おまへら……ッ! へったいにひゅるさないからな……っ!」
唾と血を飛ばしてそう言い残した後、その男は外へ駆けて行った。
男がいなくなった店内。それはさっきまでの喧騒とはうってかわって、静寂に包まれている。
シルヴァは男がさっきまでいた場所である、ヒビの割れた壁際をしばしの間だけ見つけた後、ゆっくりとシアンの方へ歩き出した。シアンも自分が靴を履かないまま床に降りてしまっていることに気づいて、すぐに靴を履く。
「すみません……。ご迷惑を……」
シルヴァがシアンのすぐそばまで来たところで、ずぶ濡れのニーナが小さくひねり出すように言った。
シルヴァは今の状況すらろくに把握できていない。彼女の謝罪にどんな意味が含まれているのか、現時点では不格好な推測でしか捉えられない。
けれど、彼女がずぶ濡れであるという事実ぐらいは理解できる。
「えーっと、とりあえずタオルを……」
シルヴァはとりあえずしゃがんで、自分の着ていた上着を脱いで彼女にかぶせた。確かに状況の理解もしたいが、まずは目の前の彼女をどうにかしなければ。
「はい……ありがとうございます……」
シルヴァの上着のすそをつかんで、ニーナは静かにうずくまったのだった。
「……はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
シアンにぶっ飛ばされ、シルヴァの『支配』の能力を食らった挙句、自分が嫌がらせをした女性の言葉によってようやく解放されたその男は、街中をひたすらに無様な恰好で走っていた。
「くそっ……! くそっ!」
その男――アントはただ一つの場所へと向かっていた。その胸の中には、高位で権力もある自分に対して、身の程を知らない無礼を働いたシアンとシルヴァへの憎悪を募らせている。
人通りの多い道を必死にぬけ、アントはなんとかその場所へ着いた。その光景を眼前に入れたアントは思わず笑みを浮かべる。
アントの目の前には、探索して遊べるぐらいに大きな屋敷が佇んでいたのだった。