58 ピリッと
シルヴァは鏡の前で、水に濡れた頬を軽く数回叩くと、そのままお手洗いの出口へ歩き出した。ずっとここで落ち込んでいるわけにもいかない。くよくよするのはこれで終わりだ。
表情と一緒に気分も切り替えて、お手洗い場と店内を隔たる戸に手をかける。
――その瞬間、店ごと揺れるほど振動で足元が揺れた。
コンマ一秒、シルヴァは動揺してその場で立ち尽くしてしまったが、脈の僅かな振動を自らの体で感じ、その拍子に意識は回帰する。
「――シアン!」
あの振動は家鳴りとか眩暈による錯覚だとか、そういう次元のものではない。実際に店が揺れたのだ。
シルヴァは勢いよく戸を開けて、シアンのいる店内へと駆け出した。暗く短い廊下を抜けて、魔石により明るい店内へと到達する。
「しあ……ん?」
シルヴァの視界が店内を映すも、そこ映ったシアンの姿はちょっと予想外なものだった。
床よりも一段高い畳の上で、両足をしっかりと軸に立っており、その両手には大きな鎚――すなわちハンマーが握られていた。
一瞬だけ、見たことのない武器を彼女が手にしていることに疑問符が浮かんだが、その黒い色合いを見て何となく察した。あの質感はアレンから貰った『液状武装』で変化したものだ。つまりあれは、シアンが『液状武装』を変化させたものということになる。
さて。では、どうして彼女がそれを握りしめて構えているのだろうか。
「あっ、シルヴァ!」
何故かこちらの方を見ていたシアンは、廊下からシルヴァが出てきたのを見て表情を少し明るくした。
ふとしてみると、店内の床にはさきほどの女性店員ずぶ濡れになって座り込んでおり、二人の男がその周りに立っていた。そしてやはり、その二人もシルヴァの方を見ている。
――いいや、違う。シルヴァのいる方向を見ているわけであって、シルヴァを見ているわけではない。彼らの視線は、シルヴァの横にある壁に、
「いたい……っ! くそッ!」
シルヴァの隣から声がした。ふと横目でその方向を見ると、割れた壁に叩きつけられている人影を見つけた。
その人影は唸りながら顔を上げる。
「……ゴブリン?」
ゴブリンと一瞬空見してしまうほど、その顔はまさしく崩壊していた。鼻はぐにょりと曲がっていて、その二つの穴からは鮮血があふれ出ている。前歯は半分ほど抜け落ちており、ガタガタで不格好だった。
崩壊したその顔面を見て、シルヴァは一瞬それが人間であることに疑問を持ったが、どうやら彼は人間のようだ。ギリギリで。
その男は揃っていない歯で歯ぎしりをして、垂れ下がった目でシアンを睨みつける。そしてついに、自分の隣にシルヴァがいると気づくと、血の混じった唾と飛ばしながらシルヴァに向かって怒鳴りつけた。
「おい、おまへ! あほこの女をふっ潰へ!」
歯の揃っていない口で言うその言葉はどこか間抜けだった。故に活舌が笑ってしまうぐらいにおかしかったが、その場の雰囲気がそうはさせない。シルヴァは何とも言えない表情で、怒鳴る彼を見た後にシアンの方へ視線を向けた。
シアンは裸足で畳から一段したの床に飛び降りる。その着地の小さな衝撃で、取れかけていた帽子がついには頭から零れ落ちた。帽子が落ちると共に、シアンの頭が露出する。
シルヴァの隣にいる――どうやら、シアンのハンマーに吹っ飛ばされたのであろう――男が、そのシアンの露出した頭部にある獣耳を視界に入れると、細い目を見開くと同時にさらにシルヴァへと怒鳴った。
「じゅうひん……! ひんへん様に逆らふドブネズミだ! あのむふめ、汚らふぁしい血の――」
無様な顔で吠える男は明らかにシアンを侮辱していた。獣人である証の獣耳を見て、彼女を謂れもない外見で否定した。それはさっきまでシルヴァがシアンのことで悩んでいたこと、まさにそのことだった。
故に、であろうか。その汚い言葉を吐いた男に、シルヴァはむかついた。瞬時に、瞬間的に。トウガラシを舌に転がした時に『ピリッ』と辛さが伝わるみたいに、そのムカつきは電流が走るが如く通り過ぎたのだった。
「ひんるいの面汚……っ!」
その男がそれ以降の言葉を紡ぐことは叶わない。シルヴァはその男に対し、『支配』の力を発動したからだ。彼の体はシルヴァの能力によって制御され、自らの力では動かせない。
男からすれば、何故いつも通りに言葉を吐けないのか分からず、ただならぬ意味不明の恐怖に捕らわれるだろう。男の額には汗をひねり出すかの如く、流血と共に流れ出していった。
そんな男を横目で冷たく見たシルヴァは、それからまたシアンの方へ向いた。そして、
「……で、この男は何?」
と笑って問いかけたのだった。