57 生理的嫌悪
「はぁ……」
シアンを席に残して一人でお手洗いに行ったシルヴァは、手洗い場の鏡の前でため息をついていた。
自分の至らなさとシアンの前向きさに、どんどん気持ちが沈んでいっている気がする。これではダメだ、と濡らした手で自分の頬を叩いて鼓舞させた。
「くそっ……かっこ悪いところだけは見せたくないな」
シルヴァは鏡に映る自分を睨みながら、そう小さく呟いた。
シルヴァがお手洗いに去った後、シアンは一人静かに待っていた。畳の上に座る感覚が気持ちが良い。シアンは帽子に隠れた獣耳をそわそわとせわしなく揺らしながら、シルヴァの帰りを待っていた。
カウンターの向こう側からは、黙々と料理を作る音が心地よく聞こえてくる。シアンは静かにそのひと時を体感していた。
それはシアンにとって、とても平和でくつろげるような時間だった。今の今まで、特にシルヴァと出会う前はこんな普通の贅沢にありつけない状況下にあったシアン。その時の苦しさが、今の見逃してしまいそうな普遍的の幸福をより深く噛みしめられる要因となっている、というのも否定できない。
ただ、シアンは過去の苦しみを今再び思い返すことはしようとしなかった。過去は過去、今は今。今が幸福ならば、わざわざ暗い過去を思い出す必要はないのだから。
そんなわけで、シルヴァの心配していたことは杞憂に過ぎなかった。シアンはシルヴァを待ちながら、いつか出てくる料理にも気持ちを馳せていた。
シアンはわくわくをかみしめて、体を少し左右に揺らしながら静かに正座していた。
そんな中、突然店の戸がガラガラ! と大きな音を立てて開く。静かな空間で安心していたシアンは、その唐突な音に思わず体を震わせた。
「いらっ……」
その音を聞いた女性店員はいそいそとカウンターから出てくるが、戸を開けた人物を見た瞬間、そのにこやかな表情が一瞬だけ崩れた。
「しゃいませ……」
しかし彼女はすぐににこやかな表情へと戻す。
シアンはそれを見て、これが接待業を営む人の技……! とコロリと変わった表情を前にごくん、と息をのんだ。
「ふん。辛気臭い店だな」
「あ、あははは……」
戸を開けて入ってきた人物は、入るや否や低い声でそう唸った。付き人の小太りの男が困ったように相づちをうつ。
苦言を申した男は細い目に茶色の短髪。全ての指に宝石のついた指輪をはめていて、服は緑色のスーツを着ていた。いかにも『偉そう』な態度で店の中をじろりと見渡す。
「それらしい内装を安く仕上げた内装に、安っぽい臭い……」
思いっきり店を小ばかにしながら、中へ進んでいく男。女性店員はそれに対して、にこやかな表情をぴくりとも動かさないが、その瞳の奥は笑っていない。連れの男も見えないところで、偉そうに店を否定する男へと抗議の視線を向けていた。
「それでいて、そこにいるのは安っぽい客……ん?」
店内を見渡す男の瞳がシアンを捉えるまで、そう時間はかからなかった。
男はシアンを見つめると、唇を緩めゆっくりと彼女のいる畳の席まで歩み寄る。そして靴のまま畳に上がると、その場でしゃがんでシアンの顔のすぐ目の前まで自らの顔を近づけた。
彼からは鼻に香水の濃い臭いが漂っており、シアンは思わず顔をしかめる。
そんな男に、背後から女性店員が困った声色で呼びかけた。
「困ります……靴は脱いでいただかないと」
それを聞いた偉そうな男は女性店員の方を顔だけ振り返る。それからじっと女性店員を睨むと、すぐに立ち上がり、体も彼女の方を向けて、忌々しそうに彼女を見下ろした。
その力の込められた男の視線に、それを直接向けられている女性店員と、男の付き人は警戒するように少し構える。シアンは事態の異様さに気づいて、そっと男から距離を置いた。
そんな中、男は黄ばんだ刃を力強く噛みしめると、スーツの懐に手を突っ込む。そして、その男は女性店員に唾を飛ばしながら叫んだ。
「お前! このぼくに命令するな!」
――なんとその男は癇癪を起こしたのだ。シアンはそれが突然のことだったのでびっくしり、反射的に帽子の中にある獣耳を両手で抑える。
子供の様に突然怒り散らかした男が懐から取り出したのは、紅く光る石だ。手のひらにギリギリ収まりきらないぐらいのその石を、男は女性店員に向かって投げつけた。
「――キャァァ!」
それが女性店員に当たるや否や、なんとその石は自ら発火し、女性店員を火柱に包み込んだ。
火炎に呑まれ、痛ましい悲鳴を上げる女性店員。男の連れ人はそれを見て、顔を青くして厨房の方へ飛び込んでいった。シアンも、まさかの唐突すぎる炎上に、何もすることができず、その場で唖然としていた。
それに対し、彼女に発火した石を投げつけた男は、その姿を見て面白おかしく笑っていた。
「あははは! いい気味だ! このぼくに逆らうなんて、そんな奴は人じゃない! 家畜さ! ブタのように燃えてればいいんだ!」
笑っているうちに、先ほど厨房へ飛び込んだ男が、料理人の中年男性を連れて戻ってきた。二人の手には水の入った大鍋があり、それをすぐさま炎上している彼女へとぶっかける。
「はぁ……はぁ……!」
ずぶ濡れになりながらも、何とか火は消えて、焦げた髪に水を滴らせながら、その女性は座り込んで疲れ果てていた。
男はそれを見て満足そうにうなずくと、気持ち悪いぐらいに素早く振り返る。そしてその後ろにいたシアンを見ると、疎ましい笑みを浮かべて言った。
「ぼくはお前が気に入った! ウチに持って帰るぞ! 持ち帰たらお着替えをさせて、しつけをして、一生ぼくのペットにしてやる!」
「ひぃ……っ!」
シアンはようやくここで、現状を飲み込めた。そうさせたのは、真正面から見たその男に対する生理的な嫌悪だった。身の毛がよだつ、という表現をシアンは知っているが、今の感覚はまさにそれだ。
シアンは立ち上がって、一歩男から距離をとる。
しかし男は気にする様子などなく、ニヤケた口の端からよだれを垂らしながらずんずんと近づいていき、さらにはシアンの腕をブヨブヨとした自分の腕でがっしりと掴んだ。
――その瞬間。
「――嫌ァー!」
シアンの中で、その男に対する気持ち悪さが爆発し、その腕を全力で振り払った。その衝撃に、男はその場で尻餅をつく。
ここでシアンの足首につけていた『液状武装』。それがシアンの意思と共鳴したのか、液状になって彼女の右手に向かって飛び出していった。
それは瞬時にハンマーへと姿を変え、固形化される。無意識にそれを理解したシアンはそのハンマーを握りしめると、振りかぶる。
「……うん? ……なっ! やめ……っ!」
いきなり尻餅をついた男は、ようやくシアンの方を見上げた。
そして彼女がどこから取り出したのか分からないハンマーを持ち、さらにそれを振りかぶっているのだから、困惑は必至であっただろう。瞬時に拒否の言葉を漏らすが、その声はシアンには届かない。
「どっかいって!」
シアンの心の中に芽生えていた、その男に対する不信。
他人の店に罵倒しながら入った挙句、土足厳禁の畳の上に靴を脱がずに踏み入れ、さらにそれを注意した店員へ放火した。
それもシアンの心の中で、大きな嫌悪となって風船のように膨らんでいき、ついには男がシアンへ触れて物理的な嫌悪を感じた途端、それが爆発したのだ。
「あがぁ――!」
ハンマーを振りかぶり、それはちょうど尻餅をついた男の顔面へ直撃した。
シアンにハンマーで思いっきり殴られた男は、そのまま店の奥に吹っ飛ばされたのだった。