98 取捨
ヘルネヴァルト戦争。それは王国『グルテール』と帝国『ルトブルク』の間で勃発した戦争であった。
その舞台は『グルテール』と『ルトブルク』の国境近くに位置していた『ヘルネヴァルト』という大きな森林地帯。『ヘルネヴァルト』は王国『グルテール』の領地であったが、それを欲した帝国『ルトブルク』が『グルテール』へと徐々に揺さぶりをかけ、最終的には本当に戦争が勃発してしまった。
その争いで投入された多くの人員。その中でも、ある程度の成果が見込める人材で構成された戦闘部隊が存在した。それは通常の兵士とは括りが異なり『グルテール特異戦闘部隊』と名付けられ、第一部隊から第八部隊まで編成されていた。
バロット、サラ、そしてシェルムはその『グルテール特異戦闘部隊』の第六部隊に配属されていた。
「……」
シェルムは白くなってしまった不格好な髪を揺らし、屍が重なり合う森の中で、静かに死臭を感じていた。
――このヘルネヴァルト戦争に巻き込まれる前のシェルムの人生は、至って至極真っ当だった。争いなんてものとは程遠く、普通の子供と何も変わらない。朝から学校に行き、昼まで級友と学び、午後はたまにサボって近くの商店街で暇をつぶす遊びをする。そして夜は自然と襲ってくる眠気に身を任せた。
そんな平凡な日常の中に、シェルムはいたのだ。
「……」
シェルムは屍を踏みしめて、瞳を閉じた。視界が黒く閉ざされ、感覚が視覚以外のものへと鋭くなり、生き物を気配を感じ取る。
――待て。
シェルムの意識が現実へと回帰する。場面は視覚と聴覚を失って棒立ちのバロットに、シェルムが刀で斬りかかっていた場面。
――違う! 奴はこの一瞬を狙っていた!
シェルムがどうして戦争中の一幕を思い出したのか。それはシェルムにも経験があったからだ。
そしてその"経験"が本能に働きかけた。いや、"本能が古の経験を呼び起こした"のかもしれない。
シェルムはすぐさま身を引こうと動きをかける。しかしそれよりも先に、バロットの腕が動いた。
シェルムが斬りかかるのを予測していたように、バロットは何も見えず聞こえない中で、袖の奥に仕込んでいるナイフの中の一つを手のひらへと滑らせ、握ったのだ。
聴覚や視覚がない中でそのような動作を行えたことに疑問はない。彼はその動作を何百回、何千回と行ってきたのだ。体に染みついている動作なのだ。そんなことは今やどうでもいい。
着眼点は、どうしてシェルムが攻撃するタイミングをバロットが気づいたのか。
僅かな動きを気配で察知したわけではない。察知するよりも速く、シャルムの刃はバロットの体を刻めていた。
刀を振った際の圧で刀の接近を気づいたわけでもない。素早く振り下ろされている刀の微弱な風圧を感知し、それに対応するなんてできるはずもなかった。
そもそも、サラの『幻惑』は『視覚』と『聴覚』を完全に奪い取る以外にも、『触覚』をも付随するように狂わせる。それは異能からなる能力ではなく、恐らく人間の性質に由来している。
しかし、ただ一つだけ奪えない感覚があった。『触覚』にもある程度の猶予があると分かっていたからこそ、シェルムは油断していた。
"視界が黒く閉ざされ、感覚が視覚以外のものへと鋭くなる"――シェルムがあの時、利用したことだ。それと同じこと。
聴覚、視覚は失われ、触覚も狂っている。故に、今バロットを司る残り二つの感覚は味覚ともう一つだけ――。
「――ッ」
「くッ……!」
――『嗅覚』。
シェルムにこびりついて取れない血の匂い。それをバロットは嗅ぎ分けた。
シェルムがが回避するにもすでに遅かった。
バロットの両手にある二本のナイフが、シェルムが操るサラの体を容赦なく八の字に切り刻む。
舞う血飛沫。歪む視界。熱暴走する脳内。シェルムの中の規律は完全に崩れ去った。
「っ!」
それはつまり、シェルムがバロットにかけた『幻惑』を維持するに使う、注意やら意識やらを乱されたということ。シェルムは不格好に映る視界の中で、今の状況は最悪に近いそれであると実感していた。
シェルムのかけた『幻惑』の大半が解かれた。バロットはその目で彼の姿を細くすると、そのまま追撃の姿勢に入った。
「終わりだ」
「――! くっそォぉおお!!」
ナイフで迫ってくるバロットに、シェルムは吠える。倒れそうになる体をふらついた足で無理やり立たせると、自らの刀を振り、そのナイフよりも長いリーチを扱い、何とかバロットをよせつけないように立ち回った。
しかし、その太刀筋はいとも簡単にバロットに弾かれた。
目を見開き、けれど次の回避に移ろうとするシェルムだったが、それよりも早くバロットの蹴りが彼の傷口へとさく裂する。
「ぐぁあッ!」
バロットの蹴りをまともに食らったシェルムは衝撃を少しも受け流すこともできず、その力を全身に味わいながら吹っ飛んだ。
部屋に入ってきた窓を勝ち割り、そのまま庭へと投げ出される。そしてそのまま、庭の噴水へと派手に着弾したのだった。