31. 魂祓え
拝殿の戸を前に、みちるさんは一度立ち止まり、大きく息を吸った。
それから「ふっ」と鋭く息を吐き、拝殿の戸を開けた。
拝殿の中央に、ニオが座っている。
わたしとのどかを見て、ニオはほのかに笑みを浮かべた。けれど、黙ったままで一言も口にしなかった。
その様子を見て、息をのむ。
これは、真剣な儀式なんだ。
みちるさんの指示に従い、わたしとのどかは、拝殿の壁や祭壇を大幣で祓い浄める。
それからみちるさんは祭壇の前、ニオに背中を向けて立ち、大きく二回拍手を打った。
そして振りかえり、大幣でニオの全身を祓い浄める。
いつまでたっても何も起きない。
と、思っていたけれど。
ふと違和感をおぼえる。
拝殿の中が心なしか暗く、重い。
わたしは左手で垣間見の術をおこなった。
暗さの正体は、黒いかすみだった。
特にニオの周りが濃い。
墨汁に血をたらしたような色のかすみが、ニオを囲んでいる。
ほのかに花の匂いがただよってきた。
秋の匂い。
金木犀? ちょっと腐りかけているような。
背筋に汗がはしる。
手を伸ばし、隣に座るのどかの手をにぎった。
のどかはちらりとこちらを見てから、わたしの手を握りかえした。
みちるさんが御解し、御寧めと祭祀をすすめていくと、次第に赤黒いかすみはうすれて消えていった。
みちるさんがまた大きく二つ拍手を打ち、祭祀は終わった。
「ありがとうございました」
ニオが頭をさげると、みちるさんは満足気に笑って、ニオの頭をなでた。
いつの間にか、みちるさんは汗だくになっていた。
祭祀が終わった後、ニオはわたしの顔をのぞきこんで「顔色悪いけど、だいじょうぶ?」と心配してくれた。
わたしは「だいじょうぶ」と返すのが精いっぱいだった。
ニオは明日の準備をするからと、あいさつもそこそこに帰っていった。
「みちるさん。ニオについていた、あれって」
わたしの問いかけに、祭祀の後かたづけをしていたみちるさんの手が止まる。
「なんか赤黒くて、乾いた血の跡みたいな色のかすみ。あれも神気なの? 今まで見た神気は白に薄紫色だったけど、それとはちがうっていうか」
みちるさんはわたしにうなずいてから、のどかに聞いた。
「のどかには見えなかった?」
「うん。ただ、嫌な感じは伝わってきた」
「そう。のどかもそのうち見えるようになるわ。見えるようになってしまう」
みちるさんは腰を低くして、わたしたちの顔を正面から見た。
「あれは神気じゃない。今日ニオちゃんについていたのはね、幽気。神気は神世のものだけど、幽気は幽世のものなのよ」
「幽世?」
「いわゆる、あの世ね」
「……あの世って。ニオには、そんなのがついてるの?」
「もしかしてニオの不運体質って、そのせい?」
のどかがそう聞くと、みちるさんは重々しくうなずいた。
「そう、ニオちゃんは幽気につかれやすい体質なの。これまで何度も事故にあったり、病気をしたりしてるわ。幽気が魂を引っぱってるのね」
「……引っぱられちゃったらニオは、」
みちるさんがひとさし指でわたしの口をふさぐ。
「不吉なことは言葉にしない」
小声でささやくみちるさんに、うなずいて返す。
「今日のは魂鎮めじゃなくて、魂祓えだって、みちるさん言ってたよね」
というのどかの質問に、みちるさんは「ええ」とうなずいた。
「魂鎮めとは、何がちがうの?」
「相手にするものがちがう。魂鎮めは神気を御解しし、御寧めする。魂祓えでは幽気を相手にする。このちがいは大きいわ。わたしたちの本分は魂鎮めであって、魂祓えではない。それでもやらないわけにはいかない」
幽気。あれを相手にする。想像しただけで身ぶるいがしそうだ。
あの漆黒に血の朱色をたらしたようなかすみ。腐りかけた金木犀の匂い。
その先には、幽世がある。
「しずか。そんなに心配しなくてもだいじょうぶ。今日も、ニオちゃんについた幽気はそんなに多くなかったでしょう?」
「……うん。ちょろっとだった」
「それはね、いつも風にあたっているから。風には、わずかだけど祓う力がある。それに琵琶湖には姫神さまがいる。姫神さまのご加護をうけた風には神気が満ちているわ。幽気はとても近づけない」
そういえばニオは言っていた。ニオの一家は、みちるさんの助言にしたがってみずうみに近い場所に住んでいると。
今日、魂祓えを前倒しでおこなったのもそのためだったんだ。近江八幡の町に行くとなると、琵琶湖からはなれることになるから。
「むやみに恐れないで。あんたたちは日々の修行やお勤めをがんばればいいの。修行で神通力は強くなる。神社でのお勤めは、人や土地との縁をつくる。魂を現世に強くむすびつける」
みちるさんはわたしとのどかの肩にぽんと手を置いた。
「目の前のこと、自分にできることをすればいいの」




