1.荒野の一人
1.荒野の一人
「ここはどこ?」
目の前に広がる光景に少女は目を白黒させた。確か自分は小さな町にいたはずだ。自分の師匠である男と椅子に座り、のんびり茶を飲んでいた。
それなのに今目の前に広がっているのは一面砂、砂、砂。水平線の向こうまで砂で覆われている。
少女は砂漠のど真ん中に一人立っていた。
ぐるりと辺りを見回す。どこを見ても建物はおろか、木も草も何も見当たらない。ただただ砂漠が続いている。
「まいったな」
どちらに進めば元いた町に帰れるのか見当もつかない。少女は首を上げ、太陽の方を見る。
「んー、あっちが南かな?」
立ち止まっていても干からびるだけだ。とりあえず歩いてみようと太陽の方向へ足を進めることに決めたようだ。
事の始まりはこうだ。
少女、セレンは自分の師匠の琉烏と共に一仕事終え、砂漠に隣接する小さな町に戻ってきた。
彼らの仕事は賞金稼ぎ。依頼を受け、悪さをする怪物や魔物を退治したり、こらしめたりして賃金を貰う仕事である。
早朝から灼熱の砂漠の中で魔物を倒し、二人は汗だくになって町へ戻ってきた。喉もからからに乾き、町で何か飲もうと熱射茶屋というその店へやって来たのだ。
店の椅子にゆったり腰掛け、セレンはココナッツ茶を、琉烏ヤシハイを食らっていた。
「いやー、一仕事した後の一杯はたまらないな」
いい感じに酔いが回った師匠の顔は赤くなり眠たそうに目をとろんとさせている。
「師匠、飲み過ぎるなよ。それで3杯目!」
窘めつつもセレンは残り少なくなったココナッツ茶をあおった。
その時だった。
「あーらー?琉烏ちゃん?」
低い声を無理やり高くしたような不思議な声が耳に飛び込んだ。
師匠が「琉烏ちゃん」とちゃん付けで呼ばれている!滅多にない面白い状況だ。反射的にセレンは口に含んだお茶をブフーっと吹き出した。
飛沫がもろに琉烏の顔にかかる。
「あら、きったないわね!」
セレンが声の主を確かめようと振り向くと長身、長髪の男がむすっとした顔で立っていた。
「んー?ちんちくりんの子どもがいる。琉烏ちゃんの子ども?」
セレンは吹き出したかと思えば、今度は口に残っていた液体が気管に入り込み、激しくむせ込む。
「だれが!師匠の!子どもだっ!!!」
涙目になりながら、噛みつくセレン。そんな少女を冷ややかに見下ろしつつ、長身の男はレースのハンカチを取り出し、琉烏の顔の液体をゴシゴシぬぐい始めた。
「おまえ、カシャロット?」
憮然とした表情でされるがままになっている琉烏が口を開く。
「ピンポ~ン!あなたの可愛いカシャロットですよ~」
「どこが可愛いだ!」
「ちょっと師匠!こいつ誰?」
ちゃっかりと琉烏の隣の椅子に腰掛け、店員を呼びつける男をセレンは睨みつけた。
「あんた誰?」
「あんた?ってあたしのこと?失礼なちんちくりんだこと」
「人をちんちくりん呼ばわりする奴はあんたで充分だ!」
「言葉遣いが悪いわね~、あたしには可愛いカシャロットて名前があるんだから!そうねえ、カーシャちゃんって呼んでもいいわよ?」
「きもちわるい、誰が呼ぶか!」
「生意気なちんちくりんね!そんな子には、え~いっ!」
カシャロットが長い人差し指をセレンに向け、指をくるくるっと回す。するとセレンの周りの空間が急にとろけ始めた。
「ちょっ、ちょっと、何?」
「ふふーん、ちょっとお外で遊んでらっしゃ~い」
くるくる回した指を弾くように上に振り上げると、セレンの姿がふっとその場から消えた。
「おい、おまえ!セレンになんてことするんだ」
けらけら笑うカシャロットに琉烏が詰め寄る。
「えー、ちょっとしたイタズラよ。子どもはお外で元気に遊ばなきゃね?ちょーっと灼熱地獄のお外だけど♪」
「おまえ、まさかっ」
「んっふ♪砂漠にとばしちゃったー」
セレンが二人の会話を知る由もなく、冒頭の事態に戻るのである。 そんなわけで何がなんだかわからないままセレンは砂漠に突っ立っていたのだ。
そして太陽を目指して歩き出したセレンにさらなる脅威が迫っていた。
砂漠は昼間は暑く、夜は凍える場所であり、ほとんどの人間が住まうのに適していない。しかし、そういった場所を好む者、いや物達もいる。
それが大蠍である。
ギュフューーー!!!
なんとも形容し難い耳障りな雄叫びを上げながら鋏と尾の毒針をこれでもかと誇示させセレンに向かってくる。その丈セレンの5倍である。
「あー、もうあの変な男!許さんっ!今度会ったらしばく!」
蠍の食事にされるのはごめんだ。セレンは大蠍の目を睨みつける。ここで目を離したら最後だ。
視線を真っ直ぐ前に定めたまま、右手で自分の服、スカートの裾を摘まむ。
そして右裾をさっと上に振り上げ、言葉を、否、言ノ葉を発する。
「我、汝に命じる、毒針をおろせ!」
そのまま長いスカートの裾を素早く前に回し、蠍の前で揺らす。
セレンの赤色のスカートがゆらゆらと揺れると同時に蠍の目がとろりと眠そうに焦点が定まらなくなっていく。
そして張りつめていた体も弛緩したように鋏がゆるゆると地に着き、毒針もだらりと垂れる。
「我、汝に命じる、眠れ」
今度は先程とは違い、優しく静かな口調で蠍に言ノ葉を発する。右手を止めることなく、ゆらりゆらりと揺らす、視線を外すこともない。
大蠍は体をもぞもぞと動かしつつ、砂漠の砂の中に体を埋めるように後退する。
「我、汝に命じる、眠れ」
もう後一息、もう一息で蠍は眠る。セレンがそう思った時だった。
突如背後に衝撃音がすると共に、砂ぼこりが立ちこめる。そして聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。
「お・ま・た・せ~♪」
セレンが振り向くと、左手を腰に当て、右手の人差し指を自身の頬にぷにゅっと押し当てて笑顔を浮かべる長身、長髪の男が立っていた。
そして前方の砂埃が晴れると、そこには目に怒りの色を浮かべた大蠍が毒針を振り上げていた。両手の大きな鋏をガシャガシャと鳴らし、今にも切り刻まんばかりに立ちはだかっている。
セレンの額に冷や汗が流れる。絶対に顔を逸してはいけない。顔を前に向けたまま、一歩ずつゆっくりゆっくりと後退りをする。
そうやってカシャロットのいるところまでどうにか後退した。
蠍は目玉をギョロギョロ動かし、増えた獲物のどちらを先に襲うか考えているようだ。
「ちょっと、あんた!あと少しだったのに!」
何てことしてくれるんだと言わんばかりの表情でセレンはカシャロットをちらりと睨む。
一度こうなってしまうとセレンの言ノ葉はもう効かない。普段こういった時は師匠である琉烏が魔術を使い対応する。しかし今ここに師匠はいないようだ。
「あんたが蠍のご飯になるのは勝手だけど、私は絶対イヤだからね!」
吐き捨てるように叫びながら、セレンは一目散に走り出す。
言ノ葉は言葉の力を用いて、相手に一種の催眠をかける方法である。相手がこちらに油断している時であればうまくかかってくれる。しかし一度解けてしまえば、相手は警戒し再度はかかることはない。
幸い大蠍は力が強いが歩く速度は遅いのだ。うまく逃げれば撒けるかもしれない。
一方カシャロットはそのまま微動だにせず突っ立っている。
「ちょっと!あんたも逃げないと危ないぞ!」
ちらりと後ろを気にしつつ、それでも足を止めることなくセレンは声をかける。
このままカシャロットが蠍に食われてしまったら寝覚めが悪い。師匠の知り合いのようだし。
すると男は一度セレンの方を見やり、にぃっと笑みを浮かべた。その笑みは先程までの笑いと違い、どこか怪しく、妖艶という言葉のふさわしい笑みだった。
そしてカシャロットは前を向くと、右腕を伸ばし、人差し指をピンと伸ばす。そして腕を大きく回し、蠍に向かって大きな円を描く。
すると突風がおこり、大蠍の体が後ろに吹き飛ぶ。カシャロットはちらりとセレンの方を見やる。
「もーお、ちんちくりんちゃん。あたしがこんな
蠍ごときにやられる筈ないでしょ♪」
先程の妖艶な笑みとは違ったニコニコした顔でセレンを振り返る。
一方のセレンはその場で尻餅をつき、動けない。
その顔はおびえ、ひどく混乱したような表情を浮かべている。
「あっ、あ、あんた……」
口をパクパクさせるも、次の言葉が出てこない。
「んっふ♪なあに?」
「ま、ま、魔物……」
セレンは言葉を絞り出す。
逃げなければ、こいつは危険な存在だとセレンの本能が告げている。
大蠍など比ではない、恐ろしい存在だから今すぐ逃げないといけない。しかし足が動かない。立ち上がれないのだ。
「んふふ、ま・も・の、なんて失礼な物言いね」
ゆっくりと男が近づいてくる。あの時見せたと同じ妖艶な笑みを浮かべながら。
セレンは顔を下に向ける。目を合わせてはいけない。
怖い怖い怖い、セレンの頭の中は恐怖でいっぱいだった。灼熱の砂漠にいるはずなのに体は氷のように冷えている。それでも何とかしないといけない。
セレンは拳を握りしめる、そして顔を上げる。そしてこちらにゆっくりと向かってくる男の視線を捕らえる。
「わ、我、汝に・・・・・・」
「んふふ、あたしに言ノ葉使おうなんてなかなかいい度胸じゃない」
「わ、我汝に……命じ……」
言葉が震えて続かない。それでも発さなければ。
「わっ、我、汝に、命じる、とっ、止まりなさいっ、止まれ、止まれぇーーーっ!!!」
セレンは目を瞑り、無我夢中で叫ぶ。しかし、その肩に冷たい物が当たる。
「は~い、つかまえた」
セレンが目を開くと男はその手をセレンの肩にのせていた。そして肩から首を、そして頬を撫でる。
「ちんちくりんちゃん、あたしのような上級の魔物に言ノ葉が効かないの、あんただって知ってるでしょ?」
耳元で囁かれ、セレンは息を飲む。
呼吸ができない。息の仕方がわからない。苦しい、苦しい、苦しい。
苦しさを和らげようと目を閉じるが、そのまま意識が朦朧としてしまう。
「ちんちくりちゃんに罪はないんだけど、ね」
ぼそりと聞こえた言葉がギリギリと心を、いや、心臓を締め付けてくる。
セレンは体を砂に横たえた。体が動かない。指一本すら動かせずただ地面に倒れていた。
このまま自分は魔物に殺されるのだ。
「ーい!」
意識が朦朧とする中、どこか遠くから懐かしい声が聞こえた気がした。
「あーあ、来ちゃったか。君、命拾いしたね」
最後に耳元で聞こえた声は予想外に優しい口調で、それから息苦しさはすっと引き、意識だけが沈んでいく。それはまるで眠りに誘われるようで。セレンは目を閉じた。
「おーい!セレン!カシャロット!」
近づいてきたのは駱駝を馬のように操り、走ってきた琉烏だった。
「カシャロット!セレンは?」
駱駝から飛び降り、駆け寄る。カシャロットはセレンを抱き上げ、琉烏の元へ近づく。
「ごっめーん、おいたが過ぎたみたい。気絶しちゃった。てへっ♪」
「なーーーにが、てへっだ!おまえ、セレンに何かあったらただじゃおかないぞ!」
詰め寄る琉烏にカシャロットはセレンを手渡す。
「寝てるだけよ。いい夢でも見てるんじゃない?」
琉烏はセレンが穏やかな顔ですやすやと眠る姿に安堵のため息をつく。
「それにしても君がそんなに執着するなんて珍しい。それ、そんなに大事?」
にこにことした表情を変えずにカシャロットは尋ねる。魔物にとって人間はただの物と同じかそれ以下の存在である。
「それ、じゃない。セレンだ。俺の大切な弟子だ」
「ふーん?」
つまらなそうにぷいっと横に顔を向け、ぶうっと頬を膨らませる。
「ほら、みんなで帰るぞ」
駱駝にセレンを乗せ、手綱を引くと琉烏は来た方へ引き返す。
「えー、歩くの?砂漠を?めんどくさーい」
ぶぅぶぅと文句を言いつつ、後に続くカシャロット。
砂漠の太陽はいつの間にか赤みを増し、西に沈んでいこうとしていた。