恋愛未満
ホテルのエントランスは賑わっていた。
床には赤いじゅうたんが敷き詰められ、靴音が吸い込まれていく。
中央に大きな階段があり、階段の中ほどで、純白のドレスを着た花嫁がこちらを振り返り、美しく微笑んでいた。
カメラマンがシャッターを切り、フラッシュが天井に反射する。
階段の下では、グレーのフロックコートを着た新郎が、階段を見上げていた。
ドレスを着ると、みんな美しくなるのかしら。
訪れるその時はまだ先でも、少しずつ心が熱くなる。花嫁を横目にエントランスを抜け、目的地に向かうため、エレベーターに乗り込んだ。
ここに来る途中、弓を持つ学生に会った。
弦は外されて布が巻かれ、外からはわからない。でもあれは弓だ。
社会人を数年経てしまった自分には、学生は眩しい存在。
懐かしく遠い記憶が蘇った。
あれは高校に入る前だった。
近所の体育館に併設されている弓道場で、弓道教室が行われていた。
当時三十三間堂の通し矢をニュースで見た私は、猛烈に弓道がやってみたくて仕方がなかった。
両親を説得して、週一回の弓道教室に通いだした。
始めて一か月ほど経った頃、年上のお兄さんが入会してきた。年上、と言っても、私より年下は一人しかいなかったので、ほぼみんな年上だったけれど。
その人は数野さんと言って、歳は五つほど上だった。
高校を出て、もう働いているのだと言っていた。
自転車に乗って通勤していて、自転車を色々いじるのが好きらしい。
弓道歴で言えば、私の方が少しだけ上。
子ども心の競争心なのか、負けるわけにはいかなくて、競うように練習用の巻き藁で弓を引いた。
的の前で引いてもいい、と許可が下りてからは、当たった数を競争することもあった。
でも、先生は美しい型が大事! という人だったので、当てにいくとすぐにばれて、よく怒られた。
それさえも楽しかった。
元々仲の良かった年下のみーちゃんと、数野さん、私、そして数野さんと同じ時期に入ってきた高本さんと四人で、順番待ちの時は良く話した。
数野さんが自転車で走っているとき、とても後姿がきれいな人を見つけて、思わず前に回り込んだけどタイプじゃなかった話とか、高本さんに彼女ができない話とか、私とみーちゃんの学校の話とか、色んな話をした。
数野さんはとても面白くて、私は彼と話すのがとても好きだった。いつも、わたしとみーちゃんを笑わせてくれた。働いていて、少し髪は明るくて、猫っ毛で。
思えばこの時から、私は彼のことを少し意識してたのかもしれない。
それを振り払うように、私は弓に熱中した。
美しい型から生まれる静と動に魅了された。澄んだ弦音に何度も心を満たされた。
私は、その感情が何という名前なのか、知りたくなかった。
そうこうしているうちに、二年がすぎ、私は順調に審査を通過して二段を取った。
高校二年生の事だった。
三十三間堂に行くために必要な切符は手に入れた。
みーちゃんは高校に入ってから部活や勉強が忙しくなって、少し前に辞めてしまっていた。
私がいない時に挨拶に来たらしい。手紙を言づけてくれていた。若くかわいらしい字で、たくさんお話できてとても楽しかった、と書いてあった。
それを読んで、私は寂しくて少し泣いた。
高本さんも仕事が忙しいようで、ほとんど来なくなっていた。
そして数野さんは、月に一度会えればいい方になっていた。
だから、潮時だったのかもしれない。
私も受験を控えていた。両親と相談して、高校二年生で弓道教室は一度退会することにしていた。
そして、春が訪れる前に、私は弓道教室を退会した。
退会した翌週、忘れ物を取りに道場の倉庫に向かった。
練習時間には、倉庫には人が来なくなる。少し気恥しいのもあって、こっそりとばれないように、静かに忘れ物を取りに行くことにしていた。
もくろみは成功して、道場内では弦音が響き、倉庫には誰もいなかった。
倉庫に入ってしまえば通路以外からは見えなくなる。ほっと一息ついて、共有のロッカーを開けた。
たくさんの弓や矢筒がしまわれたロッカーから、自分の探し物を見つけた時だった。
「どちらさまですかー?」
後ろから声をかけられた。びくりと肩が震えたのを覚えている。
私は、その声の主が誰かすぐに分かった。
彼は仕事の関係でよく遅刻してきていたから。
「忘れ物を、取りに」
私は振り返った。
そこにはひと月ぶりに見る、数野さんがいた。彼は私がいつものように反撃するだろうと、笑っていた。
でも、私はそれ以上答えることができなかった。
だって、驚いた以上に、心臓が高鳴って仕方なかったから。
しばらく見つめあった後、ふーん、と数野さんは言って、怪訝な顔をしながら道場の中に入っていった。
私はこの時しまった、と思った。
うまく答えられなかったことと、退会した、と挨拶をするのを忘れてしまったから。
今から追いかけるのこともできない。
後悔する中で、ほんのりと自分が満足していることに気が付いた。
そして私は自分の矢筒を手に取った。普段なら絶対に忘れないであろう、大きな忘れ物を。
帰り道は気持ちがふわふわして、よく覚えていない。
ただ、彼と最後に話せたことは、とても嬉しかった。
そして私の恋にもならない恋は、甘い余韻を残したまま、記憶の一部として沈んでいった。
「こちらへ」
誘われるまま、白い布の波の中、渦の中心に足を伸ばす。
中心に収まると、ふわりと布が持ち上げられた。
白い波が揺れる。
幾重もの布が、さらさらと音を立てた。
「お似合いです」
崩れがないか確認して、スカートの広がりを気にした後、美容師が後ろに下がる。
私は壁いっぱいの鏡に映る自分の姿を眺めた。
純白のドレス。美しいレースがトレーンを華やかに見せる。
髪は綺麗に整えられ、控えめなティアラが飾られている。化粧を施された顔を動かすと、ティアラが光を反射した。
ベールも付けましょうね、とベールを付けられる。長いベールには、美しいレースが縫い付けられていた。
これは、私が今日の日を楽しみに選んだものだ。
鏡の中の自分と目が合った。
昔の私が問いかけてくるようだ。あの時、もしかしたら、なんて。
私は軽く首を振る。
あれは、恋なんてものじゃない。
もっと浅くて、もっと淡いものだ。
温まる前のカイロみたいな、もどかしいものだ。
高校生の多感な時期に、何も進めなかったあの一歩。
一目見るだけで満足してしまった自分。
その後も、たくさんの勘違いや早とちりもしたけれど。
あんなに淡いものは最初で最後だった。
「新郎様がお見えです」
ブライズルームの入り口が開く。
私の心を熱くする人が、こちらを見ていた。
私は思わず微笑んだ。
この熱が、彼に届くようにと願いながら。




