奴隷と巨躯の白狼
全身を突き抜ける、激しい痛みと共に意識が浮上した。身体がバラバラになりそうな痛みをそこかしこから発し、身体をうまく動かす事も出来ない。痛みと共に、全身の圧迫感があり、呼吸すらままならない。
目を開いているはずなのに、目の前は暗闇を映している。
どうにか身体を動かそうと身体を捩ると、前に隙間が生まれたように淡い光が差し込んだ。
「……っぐ、ううっ」
身体を捩りながら光の元へと前進する度に圧迫感は増すが、それを我慢しながら前へと進んでいく。どれくらい経ったのか、かなりの時間をかけて光の元へ到達すると、そこは屋外であった。
光の正体は闇の中に浮かぶ小さな月の光であり、その光の下へと届いたのは顔のみ。腕や足は未だに圧迫されて動かせない。
「うっ、ぐうう……ううっ!!」
必死に身を捩り顔から肩、腕と共に何とか全身を月の下へと出した。ぜぇぜぇと息を荒くしながら自身を圧迫し閉じ込めていたものは何か、と振り向くが、そこには月の光が満たされず何となくだが何かが折り重なっているように見えた。
そもそもここはどこなのか。月の光へ目を向けると深い渓谷の、谷底とした言いようの無い場所にいるようだ。見上げると左右を切り立った崖が囲み、ほんの少しの隙間から、月の光の恩恵を与えられていた。
一体ここはどこで、俺は何をしているのか。
曖昧なままの意識がオーバーフローを起こし、地面へ静かに倒れこみ、やがて再び意識を失った。
次に目が覚めたのは、朝靄が渓谷を覆う時間だった。ひんやりとした空気に身じろぎしながら身を起こし、やはり自分が屋外に居る事を確認する。
身体の痛みは既に無いが、目を覚ましてから自身の身体を見渡すと、あちこちに赤茶色の液体がこびり付いた跡があった。そして何より、自身が感じている身体の大きさよりも、異様に小さかった。
「一体何が……、ここはどこだ……」
その声も自分の記憶しているものよりいやに高く、まるで子供に戻ったような気分になった。
その瞬間、今まで意識した事の無い記憶の奔流が起こり、自分に様々な情報を提供してくる。特産品も何もない、厳しい環境に育まれた集落。日本という国で仕事をして生活を送っていた日々。飢饉による食料の枯渇に喘ぐ村。普通の日々を過ごし、普通に生きてきた日本の記憶。集落の口減らしと収入を見込んで食物と交換で人買いに売られた事。
記憶の奔流が収まった頃には、自分が何者であったのか整理ができていた。
日本で一社会人として生活していた意識が、集落で暮らしていた貧乏な村人の肉体に宿った。
言ってしまえばそれだけで、けれど確かにその事実を、身をもって確認していた。
身体を動かしてその場に立ち上がれば、到底大人とは言えない身体が自分の身体として動く。腕も足も、まだ成長期の来ていない子供のものが、自分の意識で動く。とりあえずその事を確認してから、背後へと振り向いた。
そこには、大人と思われる男達が、折り重なって倒れ、死んでいた。
人買いに売られた後、荷馬車で檻のような粗末な箱に詰められ運ばれていた途中、渓谷の下り坂で荷馬車の車輪が岩を踏み、大きく跳ねると同時にその粗末な箱が荷馬車から落ち、そのまま渓谷へと真っ逆さまに落下した。
男達の周囲には檻のような箱の残骸が散らばっている事が、その事実を後押ししている。
落下した自分達は切り立った崖に幾度も衝突しながら落下し、最終的にこの谷の底へと到達した。見上げれば途方もなく高い崖が聳え立ち、間違いなく落ちれば死ぬであろう事は予想しなくとも簡単に思いつく。
だが自分は生き残り、けれどこの肉体に宿る意識は貧乏集落に生まれた子供のものではなく、自分のものになっている。
まぁ、いいと思った。自分は死んだ訳ではない。この肉体に本来存在していた子供の精神、『魂』と呼ばれるものが存在するのなら、その魂は死んでしまったのかもしれない。だが『自分』は生きている。社会構造どころか、恐らく世界すら違う意識がこの身に宿ってはいるが、それでも自分が生きているなら、それでいいだろう、と思った。
まずはこの谷底からどうやって脱出するか。それを考える前に、まずは全身に被った大人達の血を洗い流そうと、谷底に流れる緩やかな流れの川へと浸かった。身体にこびりついた血はみるみる浮き出て流れ、衣服に付いた汚れも可能な限り落としていく。それと同時に、川に写される自身の姿を見た。
顔は特に言う事は無いが、頭上の方へと移動している、茶色い産毛に覆われた二つの丸い耳。耳と耳の間に生える、密度の高い茶色い髪の毛。そして尻の辺りから生えている先端に毛を蓄えた尻尾。この世界で「獅子族」と呼ばれる、日本で言うならファンタジーアニメや小説で呼ばれる『獣人』というものの特徴があった。
さりとて、特に違和感を感じる訳でもなく、見た目上はこうなっているのか、という感覚だけを感じていた。
ともかく身体にこびりついた血をこそぎ落とし、川からあがって粗末な服を絞り再び着てから周囲を見渡す。
目の前には大人の積まれた死体群と、檻の破片。そして、破砕された木箱と思われるものと、その周囲に点在する革で出来ているだろう何かのベルトがあった。
そのベルトを拾い上げると革ベルトのようになっている、ポケットのついたベルトだ。そのポケットの中から柄が飛び出しており、その柄を握り引き上げると、刃幅の広い、短剣のようなものが出てきた。恐らくこの世界で一般的な、作業用の短剣の類だろう。装飾もなく、包丁のように刃が鋭い訳でもなく。恐らく尖った先端であれば何かを刺す事ぐらいは出来そうだが、刃物としてはなまくらもいい所だろう。
そんな物でも多少はあれば助かるだろうと思い、周囲に散らばっていた短剣の入ったベルトをいくつか拾った所で、背後から声をかけられた。
『人の子よ。ここで何があった』
慌てて振り返ると、そこには白銀に輝く毛を全身に蓄えた、体長5メートルはあろうと思われる、巨大な狼に似た存在がこちらを見ていた。
その毛並の美しさ、悠然とこちらを見ている姿に羨望を思い暫く黙って見つめていたら、再び巨躯の狼が顔を発した。
『今一度聞く。人の子よ、ここで何があった』
「っ!! ……こ、ここに上から、籠ごと落ちて、それで」
再びの、一度目よりも強い問いかけに漸く言葉を発し、身振りを交えながらたどたどしく説明する。右手で空、切り立った崖の上を差し、左手で地面を指さす。それで、巨躯の持ち主には通じたようだった。
『ふむ。崖から落ちたのだな。……それにしては、貴様は何故生きている? 人の子よ。そこに積み重なっている骸と同様に死していても不思議ではない。いや、あの高さであればむしろ生きている事の方が不思議よ』
「……この身体の持ち主はきっと死んだ。だけど俺という意識がこの身体に入った事で、俺は生きている」
『この身体の持ち主、と。貴様は死したモノを操る死霊術か何かの使い手なのか?』
「いや。俺にそんな力は無い。ただ単純に、昨日まで別世界で生きていた俺の意識が、この身体に入っているだけだ」
そう言うと、狼の姿が一瞬消えたかと思うと、いつの間にかすぐ隣に存在していた。まるで瞬間移動でもしたかのようなその動きに身体を強張らせるが、狼はそんな様子を気にする事無く、身体の匂いを嗅いでいた。
『なるほど、死者のような饐えた匂いはしないな。貴様は今、ここに生きている。とすると、珍しいが来訪者という奴か』
「来訪者? ……それと俺の、何の関係が」
『その昔、こことは異なる世界より現れた異邦人の事よ。言葉で魔物を従え争いを止めさせた、祈りにより火山の噴火を沈静させたなどの話を昔人の子より聞いた事がある。が、まぁいい。貴様が死者を弄ぶ邪悪な存在でないのなら我には関係の無い事だ』
巨躯の狼はそう言うと、身体から離れ、積み重なった死体の傍へとゆっくり近づいた。
『ふむ……やはりどれも瘴気を纏い始めているな。人の死というものは、得てしてこういうものだ』
「瘴気? それを纏うと、どうなるんだ?」
『死霊となり、彷徨う事となる。腐肉喰らいとなり獣を襲い、瘴気を振りまき自然を汚す。故にこういうものは、塵と化さねばならぬ』
そう言うと、積み重なった死体から激しい炎の柱が立ち上がった。急激な温度上昇に顔を歪め、肉を焼くその匂いが鼻につく。バチバチと弾ける音と高温で炎の吹き出す激しい音が谷底に響く。
やがて、炎の勢いが収まるとそこには炭化し人の形を留めていない、黒い山の塊が現れた。
『これで後は塵となり風と共に消えるか、土に還るだろう。さて、人の子よ。貴様はどうしたい』
何気なく言った狼の言葉だが、言葉としては自分も同様に炎で燃やされるのかと一瞬思った。だがその瞳を見るに、そういう意図は無さそうだ。
「……そうだな。何とか生きて、この谷底を脱出したい」
『まぁそうであろう。だがこの谷底を抜けた先には大森林が広がり、野生の獣や魔物が多く生息する場所に辿りつく。人の子の力では到底生き延びる事は出来まい』
「そうなのか、まいったな」
軽くそう言うが、実際には何の実感も湧いていない為、精神的には全く参っていない状況だ。とそこへ、巨躯の狼が理性的な瞳で見つめた後、言った。
『この森で飢え死にしても、魔物や獣に襲われ死しても死霊となるのは収まりが悪い。故に、我が人の子でも人の集落へ辿り着ける場所まで連れて行こう。我の背に乗れ』
そう言うと、狼は身体を地面に寝かせる。どうやら言葉通り背中に乗って連れて行ってくれるという事だ。慌てて未だ周囲に落ちている短剣を拾い、木箱の破片の近くにあった麻袋を見つけ、その中に短剣を放り込んでから背中に背負い、狼の背に乗る。狼の背はとても大きく、子供の足では跨ぐ事など出来ず、背中に全身を預けてその綺麗な体毛を掴む格好で乗る事になった。
狼はその体勢に全く文句を言うこと無くスクリと立ち上がり、背中を見つめてきた。
『人の子の足で一日あれば人の集落に辿り着く場所まで行く。そこまでは凡そ、一日二日あれば十分だろう。それで、人の子よ。お前の名前は何だ』
「俺の名は――俺の名は望。ただのノゾムだ。巨躯の白狼、命の恩人のあなたの名前が知りたい」
『我はエンシェントウルフ。名前など無い、ただの古代狼よ』
それだけ言って、古代狼は風の如く走り出した。
◇◆◇ ◇◆◇
エンシェントウルフ。古代狼という種族は今は伝説上の存在と言われているエンシェントドラゴン、古代竜と同列に語られる存在だ。
その身体は美しく、強靭であり、知性があり、だが獰猛だ。その昔人間の国の王がエンシェントウルフを捕えて我が物にしようと兵士を派遣し捕縛しようとしたが、逆に兵は追い立てられ、その国までエンシェントウルフに襲われ壊滅したという物語がある。
その話は吟遊詩人の語る所の訓示であり、欲を出せば国を滅ぼすという教訓になっている。
そんな伝説にも残るエンシェントウルフだが、人の目に留まる事は殆ど無く、今は実在しているのかどうかも怪しまれている。それほどに、エンシェントウルフの目撃例は無い。
そんな事も露知らず、ノゾムはその伝説上の存在と言われるエンシェントウルフの背に身体を預け、風のように駆けるその体躯に身を任せていた。
これほどの速度を出せば風が強く目も開けていられないだろうとも思ったが全く身体に風を感じず、その体躯の揺れで振り落とされてもおかしくないとも思ったが、何となく上から柔らかく押さえつけられているような感覚があり、身体はその駆ける体躯にしっかりと固定されていた。
この身体の持ち主の僅かばかりの知識の中にある、魔法によりそういった安全が確保されているのだろうと感じた。
周囲は既に谷底、切り立った崖の間を抜け、森林へと景色を変えている。その森の姿を見れば、古代狼の言った『人の子では生きられない』といった理由も分かるというものだ。
鬱蒼と生い茂った森の中にあり、何となく幾多の気配を感じる。視界は木々の木漏れ日で照らされた場所にしかなく、谷底から続く川の流れの横を進んでいても、上部は木々で覆われ暗く見える。伸びるに任せた自然の森林だからこその視界の悪さであり、なおかつ足元も様々な草で覆われていて歩いて進むのも危ぶまれる。
そんな中を風の如く駆け抜けているこのエンシェントウルフが、異常なのだと考えた。エンシェントウルフは谷底を出発してから一度も止まる事無く、森の中、川沿いをひたすら風の如く走っている。既に谷底からは、数時間は経過しているだろう。
ノゾムが起きたのがどの程度の時間だったのかは分からないが、明るい木漏れ日を放っていた太陽が、既に夕日となって空を照らしていた。
エンシェントウルフがそれに気付いたのか、徐々に走る速度を落とし、ついに川辺りにて足を止めた。
『ふむ、この程度の距離であれば大丈夫だろう。もうじき日が落ちる。今日はここで夜を明かす』
そう言うと、エンシェントウルフが身体を伏せる。恐らく降りろという事なのだろうと理解してから、ノゾムはその大きな背から地面へと降りる。
谷底を出てから久方ぶりの地面だが、しっかりと土を踏みしめる感触をじっくり確かめる。エンシェントウルフの背の居心地が悪かった訳ではないが、やはり自分の足で大地に立つというのは大事なのだなと実感した。
『人の子よ、ここで待て。我は一度巣へ戻り連絡をしてくる』
「……巣を構えているのか」
『そうだ。一時ここを離れるが、ここから動くな。野獣や魔物の餌となるのが落ちよ』
「分かった。ここで待っている」
『すぐ戻る』
そう言うと、白銀の巨躯が一瞬で消え失せる。木々の間の草木が揺れた事だけが、エンシェントウルフが移動したという事を物語っている。恐らくノゾムの乗せていた時よりも数段速く動いた。それだけなのだと思うが、その速さの凄まじさに、どう見ても瞬間移動でもしたかのように見えてしまう。
さて、ここで待つようにと言われたノゾムだが、今は川辺りの、比較的森の中でも木々の薄い場所だ。空からの光は多少地面を照らし、川にあたり輝いている。中々に幻想的な風景だなと感じながら、まずは川の水で喉を潤す事にした。
生水は腹を壊すと言われているが、現状川を流れる水以外に、水分補給が可能な手段など有りはしない。これで腹を下したらそれはそれ、運が悪かったと思おうなどと考え、川から手で水を掬い、迷うこと無く口に入れた。
美味い。単純に感じるほどに、その水は美味かった。
遡ると湖なのか川から川へ繋がっているのか、分からないが透き通った透明度の高いその川の水はノゾムの身体に深く染み渡った。
意外と飢えていたんだな、と思いつつノゾムは川の水をガブガブと飲み続ける。喉の渇きが潤せたと思ったら、急に腹が鳴った。そう言えば起きてから何も食べてはいない。その事に思い至ったら余計に腹が空いてきた。
目の前の透き通った川には川魚がそこかしこに泳いでいるのが見える。これほど透き通った川だ、きっと焼いて食べれば全く問題無いだろうと思い立つが、道具が何もない。
網などがあればいいが、ノゾムが持っているのはなまくら同然の短剣のみ。突き刺す事は可能だろうが、返しが存在していない短剣ではそのまま持ち上げても魚は捕れないだろう。それに、短剣を泳いでいる魚に当てる事すら難しい。
仕方無しに、ノゾムは川辺りに座り、大人しくエンシェントウルフの帰りを待つ事にするのだった。