5◆有村未央
先生が特別な人になったのは、2年になってすぐ。
春休みのある日、私は中学の時の友達と待ち合わせをしていた。 電車で15分ほど、駅前にあるカフェは、日曜っていうこともあって賑わっていた。 コーヒーで有名な店だと知らずに待ち合わせを決めてしまって、苦手な私はアイスティーをオーダーする。
友達は遅れていた。 あまり社交的ではない私の数少ない友人。 中学の時、必ず参加しなければならない部活動で選んだ科学部で一緒だった。
運動神経は恐らく途中で切れてるし、音楽的な才能もない。 絵を描かせれば子供も泣き出す怪奇絵しか描けない私に、ほとんど選択肢はなかった。情けない。
薄くなったアイスティーをくるくるかきまわしながら(遅ーい!絶対にランチはあいつのオゴリだ!)とかぼやく私の耳に水の弾ける音がした。 反射的に振り向くと音は少し離れたテーブルからそれは発せられたと気づく。
そこには、立ち上がって怖い顔をしてグラスを握る、それでも綺麗な女の人と、恐らく彼女にコップの水を浴びせられた男の人がいる。 周囲の視線も気にならないように女の人は怒りを立ち上らせていた。
……あの人、どこかで見たことがある。 男の人の方。 横顔しか見えないからはっきりわからないけれど、どこかで。
彼女がなにか言い放ったがここまでは聞こえない。 ガツンと音をたてグラスをテーブルに置くと颯爽とカフェを出て行った。 怒っている姿も美しいというのは、もはや尊敬に値するのではないか。
そんな彼女を見送るように顔を動かした男の人を見て、音速で顔をそらす。 心臓がいきなり3倍速で駆け出した。
あれは、うちの学校の先生だ。名前は知らない。習ったことがないから。
前髪からは水がポタポタと滴っている。 店員さんが慌ててタオルを持ってきてくれたけど、あんなに濡れていたら帰るのも大変かもしれない。
店員さんにお礼を言いながらも、先生の目は彼女が消えた重厚な一枚板のドアを見つめていた。
その顔が学校でちらっとみかけるどの顔とも違って、私は全速力で走ったみたいに(大した早さではないけれど)ドキドキした。
その横顔が、頭から離れなかった。
友達が来たら教えてあげようかと思ったけれど、言えなかった。 彼女が先生を知ってるわけじゃないし、これからも知り合うはずはないと思うけど。 軽い会話のなかで話題にしてしまうのは申し訳ないと思った。
そうしちゃいけないと感じるほど先生は苦しげに見えた。
この時は、ただそれだけで。
それから数日後の新学期。英語の担当はあの先生だった。
松永 慶、先生。
1年の時は全く接点がなかった。 時々廊下ですれ違う、職員室で見かけるその程度の。
春休みのことはずっと心に残っていて、それが初めて男女の修羅場を目撃したからなのか、それが薄くでも知っている人だからなのかはわからない。 もう、その前髪からは水も滴っていないけれどあの日の印象が強すぎて、今でも悲しいんじゃないかと思ってしまう。
始めての授業の時、先生は同じクラスの男の子と楽しそうに話していた。 前にも教科担任をしていた子みたいで、とても親しげだった。 映画の話をしていた。
先生はからりとした笑顔で話している。 あんなことがあったのに、忘れちゃったみたいな自然な優しい笑顔。
たぶん、先生の恋人だったんだろう。 別れちゃったかもしれない。 人前で水ぶっかけられて、平気な顔で仲直りなんて、きっとできない。
私は、恋なんてしたことがない。 だからわからない。
────大人は、あんなこと、何でもないんだろうか。眠ってご飯食べたら忘れてしまうんだろうか。
それとも、この先生は女の人がいっぱいいて、あんなこと日常茶飯事だから平気なんだろうか……
「先生!」
「んー、どした?」
授業が終わってすぐ、私は廊下で先生を呼び止めた。
どうしてあんな行動に出てしまったのか、今でもよくわからない。 人にそんなに興味もないし、話しかけるのも苦手だ。 でもどうしても先生に聞きたかった。 忘れないうちに、心がドキドキしている間に。
先生は男の子たちに向けていたような優しい笑顔だったから、ちょっと目を見られなくなって、反らした。
「先生、あの、あのですね。私の……年上の友達にすっごく悲しいことがあったみたいなんです。でも、顔にも出さないし何にもなかった振りをするんです。大人になると、みんなそうなんですか?何があってもあっという間にケロッとできるの?それとも、ちょっとやそっとのことは何にも感じなくなっちゃうんですか?」
笑われるかと思った。 あんまり前のめりに話してしまったから。 なんか……鼻の穴とか膨らんでそう……。
先生は『うーん』と天井を見上げて少し考えると、私に向き直り話しだした。
「ニ十年も三十年も生きてっと、色んなことがあるわな。悲しい事が多すぎて麻痺してる人とか、すっげえポジティブシンキングで何でもいい風に考える人もいるよな?そういう人はおいといて、例えば俺の場合はな、我慢する」
「我慢」
出席簿や教科書を持つ指先はチョークで汚れていた。 手は大きくて、ジャケットの下のワイシャツからゴツい時計が見えている。 その秒針よりたぶん私の脈は早く駆けている。
「そ。どんなに悲しいことがあっても、朝になればお前らに会うだろ。悲しい顔してたら心配する奴もいるかもしんないだろ?『あんな青い顔で授業できんのかよ!』とか、『憧れの松永先生!何か辛い事があったの?』とかさぁ……後の方は、ねぇか」
体をよじるアクションつきで先生が話すから、少し笑ってしまった。 でも、次の言葉で息を飲む。
「まぁ、そういうコト。実際今だって、俺、そんなにキツイ顔してないだろ?ここだけの話。すげぇヤなことあったんだけど……」
私はびっくりして先生の顔を見つめてしまった。
ははっ、と笑うと続けた。
「だからね、その人がお前に助けを求めてこないなら知らない振りをすればいい。大人なんだから、きっと大丈夫。でも、もし打ち明けられたら、聞いてやれ。それだけでいい。俺ならそれで十分………それよりさ。」
先生は急に真剣な顔で私の顔を見た。
「俺に相談したってことは、そいつ、男だろ?大人の男って……彼氏か?」
「え。ちちちちちがいますっ!」
「はは、慌てすぎ。いや、人の恋路をどうこう言うつもりはないけど、お前まだ16?17か?お前も相手の男も傷つくからな。──そいつ、お前のこと、大事にしてくれんのか?ちゃんと、守ってくれる奴か?」
この話はもちろん、もちろん架空の男の人、っていうか先生のことなんだけど。 先生の顔がすっごく真面目で、わたしの結構走っていた心臓をさらにぎゅっとつかんでしまったので、苦しくなってうっかり涙まで浮かべてうなづいてしまった。
「そっか。背伸びすっことなんかないからな。まだ、高校生なんだ。向こうに合わせてもらってゆっくり大人になれ。困ったことがあったら、言えよ」
そこで、予鈴が鳴った。
「やべ。じゃあ、またな。」と、私の頭をクシャっとかき混ぜて先生は走っていった。
走り去る先生に私の心は連れていかれてしまった。 廊下や教室、歩いている他の生徒は一切消えて、先生の後ろ姿しか見えなくなった。
その日から、先生は私の特別な人。 片想いの相手で、理想の大人。 目標の人で、宝物。
私は、先生に褒めてもらおうと頑張った。 とりあえず、私と先生を繋ぐものは英語の授業しかないから、とにかく授業を真面目に受けること。 定期テストで高い点数を取ること。 ほんとは、理数の方が得意で、英語は少し苦手だったけど。
校則からはみ出るような服装や髪型にしないこと───まあ、したところでこっけいなだけだけど。 少し悪くてお化粧とかして綺麗な子の方が、怒られながらも先生と楽しくお話ししてるのを知ってたけど。 でも、そんなふうに先生の回りにいるより、テストを返してくれる時、『今回もよく頑張ったな』と私だけに微笑んでくれる方が100倍嬉しい。
先生が笑ってくれる、それだけを楽しみに1年間生活してきた。 だって、あんな悲しい顔、もう見たくなかったから。
そして、3年生になった。 私のクラスの担任は、松永先生だった。
去年までは、とりあえず英語の成績さえ良ければと思っていたけど、今年は違う。 全教科の成績を上げ、各行事で素晴らしい結果を残したい……って、それは私が36人じゃなきゃ同じ志ではないから、無理だけど。
とりあえず、今月末の合宿オリエンテーションで、少しでも先生とお話し出来るように、がんばろう。
こんばんは。
本日もどうもありがとうございます
。
明日も23時頃上がって参ります。
うえの