21◇松永慶
……思わず呼び止めてしまったけれど、何を話すかなんて考えているはずもなく。
少し廊下の少し先で振り向かず固まった有村は、きっと俺が何か言うのを待っているのだろう。 喉になにか詰まったみたいに言葉は出ず、じゃあどうして有村を探してまで引き留めたいのか。
お互いに動けない冷たい廊下。 少しでも動いたら空気さえ割れて崩れそうだ。
しびれを切らしたのは有村が先だった。 俺を見ないまま振り返って頭を下げる。 うつむけた頭からは表情は読めない。
「遅くまで残っていてすいませんでした。もう帰ります。先生、1年間どうもありがとうございました」
言うだけ言って、走りだそうとした。
────そうじゃないだろ!
「待って、有村!」
負けじと踏み込んで有村の手をとる。 ビックリした顔をして遂に俺を見た。
……こいつ、こんな顔してたっけ。
小さい、頼りない、まだ子供の時代を残した顔。 少しふっくらとしている頬は青みがかっている。 手を加えていない髪は黒く、まっすぐ胸まで伸びている。 幼い印象だがそのなかにハッとするような意志の強い瞳。 それを真っ赤に泣き腫らして。
今日まで隠してたんだな、っていうか、隠さないといけないように、俺がしてたんだよな。
「……ごめん、有村。俺は辛いこと全部お前に押し付けて、卒業させちまうところだった。許してくれなんて、言えないけど……」
「………」
有村は何も言わず、俺を見ていた。 瞳が細かく揺らいでいる。
「いろいろ、ありがとう。有村ががんばっててくれたこと、俺、知らなくて……」
「何、何の、こと……」
こっち見ろよ。 目をそらすなよ。 なんで、そんなこと思うんだろう。
「俺に……本当のことを隠して、鳴海の仲間だと思わせようとしたのは、なんで?」
*
「有村さんが松永先生に言わないで欲しかったことが2つあってね」
大橋先生が言いづらそうに教えてくれた。 有村と約束したのだそうだ。 何があっても、絶対に誰にも言わないでほしいと。
「ひとつはなぜあの場所に彼女がいたのか。もうひとつが有村さんは、『なにもしていない』こと」
「そんなことに何の意味が?」
「あの場所を知っていた理由を話せば、鳴海さんが不利になるって考えたのね。有村さんはあの日、鳴海さんに『売春してみないか』って誘われたから、2人が会う場所を知っていたの。だから言えなかった。」
さっきから真っ白な頭にもやまでかかってくる。 そんなこと知らなかった。 鳴海はただ、悪い大人に操られていたいわば被害者なのだと、今日まで。
「……鳴海が、有村を?」
「ああいうおとなしそうで可愛らしい女の子は需要があるらしいわよ。吐き気がするわね」
「でも……それを誰かに言えない理由って」
本当にわからなかった。 有村が今日まで、誰にも言わずに秘密にしていたこと、その意味。
「……おかしなもので売春防止法って、本人がしただけだと、つまり売ったところで罪にならないんですって。だけど誰かに斡旋すると法に触れる。」
「え?」
「自分は誘いにのらなかったけれど、そんなことがあったことを話せば、躍起になって他にも誘われた人を捜し出すかもしれない。それでもし、そんな人が出てきてしまったら鳴海さんが退学だけでは済まないかもしれないって考えたのね。」
「なんで……」
「逮捕なんてされたら、あなた、傷つくでしょ。」
「……」
「それで万が一、鳴海さんが罪に問われたとして、有村さんも『なにかしていたかも』っていう疑いを松永先生に残すことで、保険にしたかった。」
「保険、って、なんの」
声が震える。 この先を聞きたくない。 自分がもう這い出せない落とし穴に堕ちてしまうような気がする。
「有村さんが鳴海さんと一緒に売春してたとして、ひとりだけ逃げおおせていたら、松永先生は有村さんを恨んだり、憎んだりするでしょ。有村さんいわく、何か悩みがあってもお腹が痛くなったりすると、とりあえず忘れちゃうのとおんなじで、自分を憎く思えば、鳴海さんに対する憤りも軽くなるんじゃないかって考えたのね」
そんな。 一瞬目の前にいるはずの大橋先生の声さえ遠くなる。 なぜ?どうして?なんのために?
有村は自分を落として俺を救おうとしていたというのか。
「鳴海さんが補導されたあの日も、待ち合わせ場所を知っていた有村さんは止めようとしたのね。でも、駄目だった。」
「あ、あそこは繁華街で大声あげれば誰か助けたんじゃないですか?」
「それじゃあ、きっと学校に通報されちゃうから、有村さんは一人で何とかしようと思ったのね。とにかく、あなたに知られないように解決したかったのよ。あの子普段はぼんやりしてるみたいに見えるけど、自分の決めたことに対する計算はすごいわよね。松永先生のために一瞬でこんな予防線を張っちゃうんだから」
「そんな……」
あの時、身体中に傷を作って泣いていた有村。 次の日かたくなに口を閉ざしていた有村。 俺を避けるようになった有村。
でも、いつでも俺を守ってくれていた、有村。
「有村さん、実は1年の時にも鳴海さんに誘われたんですって。そのことを誰にも相談しなかったことをとても悔いていてね。誰かに言っていれば、鳴海さんがどうなったかは、それは分からないけれど、少なくとも松永先生を今ほど苦しませることはなかったって」
「………」
「松永先生は、鳴海さんの事が好きだったの?」
「……かわいい子だとは思っていました。でも、どうこうしようなんて、生徒だし……そんな度胸、俺には……」
「有村さんは、松永先生のそんな気持ちを守りたかったのね。」
「大橋先生…俺、有村に会って来ます。」
*
「……」
目に一杯の涙を溜め込んでそれでも溢すまいと頑張るこいつの荷物を下ろしてやりたい。 そんで、笑えばいい。 ずっと見ていなかったこいつの笑顔。 きっと意識して俺の前では笑わなかった。
「俺の鳴海に対する怒りや憤りを、軽くしてくれる為だったんだな。」
「………」
ごまかしきれてると思ってるんだろうか。 顔をそらして踏ん張っているけど、肩が震えてる。
有村の肩を掴みこっちをむかせた。
「そうなんだろ?」
「だって……だって、あの時先生泣きそうな顔してたんだもん。もう、悲しくなってほしくなくて……わ、笑っててほしくて……私、何にもできないから、わかってたから……た、ただ、笑ってほしかったから……」
「…あの時?」
「桜ヶ丘の、喫茶店。」
……………見られてた、んだ。
思い出す2年前の春。 付き合っていた彼女に水をぶっかけられて振られた。 あの、情けない瞬間を、有村は見ていたというのか。
「先生の為に出来ることなんて、私にはなかったから。それでも、勉強や行事で結果出して、先生に笑って欲しかった……先生が鳴海さんの事、特別に思ってるかもって気付いた時には、とにかく鳴海さんにもう、あんなことさせちゃいけないって、それだけで……。でも、それだって全部自分の為にしたことだから、先生が謝ったりするようなことじゃないんです。すいませんでした、かえって困らせてしまって……」
観念したのかつっかえつっかえ話す有村に、今まで感じなかった感情が芽生える。 淡くてぼんやりとして、まだとらえどころがないけれど。
「俺な、有村。鳴海のことそういう風に好きだった訳じゃないよ」
「だって」
「かわいいとは思った、でもそれだけだ。見てたんならお前もわかると思うけど、前の彼女に似てたんだよ。それだけ」
「じゃ、じゃあ私は、余計なことして先生に嫌な気持ちだけさせてた、んですね?」
「違うよ。有村が色々工作してくれたから、俺はここにたどり着いたんだ」
新しい涙を目のふちにためて、有村が見上げてくる。 辛い思いをして報われないかもしれなかった1年。 かわいそうでかわいいこの子に、まだ俺は卑怯な質問をする。 俺からは言えそうにないから。
「……有村。変なこと聞いてごめん。先に謝っとく。……俺のこと、どう思ってんの?」
「……え」
答えてよ、有村。 気持ちを聞かせて。 お前が隠してきた秘密をたどりながらここまで来た俺に、最後の答えを教えて。 この感情の尻尾をつかみたい。
「……わ、私は……私……」
「教えて、私は、何?」
有村が顔を真っ赤にして、動揺してる。 それをかわいいと思ってしまうのはなんでだろう。 有村の口から聞きたいんだ。 全ての行動の持つ意味を。
「……先生のことが、好き、です。」
「………」
ぽたりと大粒の涙が有村の目から涙がこぼれて、制服を濡らす。 飾りもてらいもないまっすぐな告白が、ズドンと体の真ん中に突き刺さった。
しばらく、呆然として見ていたけれど、ハッと気づいて、指先で有村の涙を拭う。 頬にはうっすら夏の傷が残っている、女の子の顔にこんなものを残してしまうなんて、悔やんでも悔やみきれない。
「……俺、情けないけど、有村のこと探してる間、見つけたらお前が気持ちを、言ってくれたらって思ってた。こんないい大人になってさ、教師なんて仕事してるのに自分のこともわかんないってどうかと思うけど」
「……」
「……有村が、可愛くて仕方ない。このまま離れたくない。もっと、いろんなこと知りたい。」
内蔵を押し上げて熱い固まりがせりあがってくる。 有村がしまっていた秘密が自分のなかで何かの化学反応を起こして身体じゅうで小さな爆発を起こす。
有村は、そんなにしたら落っこちるぞ、っていう位目を見開いて、俺を見た。
「……せ、先生…?」
「好きだ、有村。俺」
言葉の途中で自分の異変に気がついた。
「……うそ」
涙が落ちた。 ほとんど下ろし立てみたいなブラックスーツの胸を、しずくが転がっていく。 気持ちが急いて、体のコントロールが効かない。 有村が大事で、重すぎる秘密が申し訳なくて、バカな自分が許せなくて、溢れていく後悔のかたまりが止まらない。
人を好きになることを、自分は何か勘違いしていたのかもしれない。
別れた恋人が自分と誰かを比べていたとわかったとき、失望と怒りしか感じなかった。 そのときはそれが当たり前だと思った。 自分と付き合っていながら他の男に目をやるなんてとんでもないと。
でも、そのときの、そういった外野のことは全部取っ払って自分の気持ちはどうだっただろう。
彼女のことを許せなかった、傷ついた、悔しかった。 その気持ちは純粋に彼女のことを好きだったからではないか? 好きで、離れたくなくて、それがわかってもらえなかったから怒りだけが表面に噴き出してきたのではないか?
溢れ出した涙の意味を汲み取ろうとじっと俺を見る有村の恋は、どうだ。
俺がそっけない態度でも傷つけるようなことを言っても、彼女にできる精一杯で好きでいてくれた。 好きという気持ちはそういうことだったんだろう。 答えてもらえなければ曇ってしまうものではない。自分の心の中で芽吹いて育っていくものなんだろう。 相手に届いて受け入れてもらえばそれは幸せだ。 でもそうではなくても、一人で育てていけばいい。 もしかしたら途中で枯れてしまうかもしれない。 思っていたのと違う花が咲くかもしれない。 でもそれでいいのだ。 誰に美しいと愛でられなくとも一人で温めればよかった気持ちだったのだ、人を好きだということは。
そんな、きっと昔は知っていただろうことを、そして忘れてしまったことを有村は思い出させてくれた。 わかろうともしなかった俺に教えてくれた。
はっとするほど鮮やかに優しく咲き、でも芯の通った強い気持ち。 こんな小さいからだに、それを秘めていたなんて。
「先生、やだよ、なかないで」
有村がポケットから薄い水色のハンカチを出す。 ガーゼのような柔らかそうな生地。 有村みたいだ。
受け取って顔を押さえた。 優しい、いい匂いがする。 有村がおずおずと濡れた顔のまま近づいてくる。 もうひとつ持っていたハンカチで俺の上着に残った涙のあとを拭いた。
ハンカチの隙間から有村の額が見える。 もう、息もかかるくらいに近くにいる。 俺は、顔から手を離しその小さな背中を引き寄せた。
「え、せっ!」
腕の中に抱き込んだからだは緊張で一気に固くなった。 その存在を、さっきのハンカチと同じ香りを切ない気持ちで抱き締める。
「本当にごめん。お前のこと、気がつかなくて。こんな傷も、嘘もつかせて、俺は」
「……私は、よかったと思ってます。先生に秘密にしてたことも騙せてたことも。先生のおかげで友達たくさんできたし、すっごく楽しい1年だったんです」
「だけど、俺が有村の秘密にもっと早く気づいてたら」
うだうだと許しを乞おうとする俺の言葉を有村がすっぱりと切る。
「気づいてたら、いま、きっとこんな風にしてない」
そうかもしれない。 有村が決心を押し通さなかったら、こんなに気になっていただろうか。 好きなのだと気づいて、誰もいないとはいえこんな校舎のなかで抱き締めるなんていう暴挙に出ていただろうか。
ひとつ曲がり角が違っても、きっとこの場所には出てこられなかった。 せっせと有村が秘密を作って隠してきたから、それを守ってくれていたから。 そして俺は落ちてこぼれた秘密の欠片を、拾い集めてここまでこれた。 それは、奇跡のようなものじゃないだろうか。
「あー、いたいた。有村、こんなところにいたのかー?」
……笹島に中村、になんで細野と赤坂?
「先生、有村さん泣かしたんですか!?」
「ていうか、有村も先生泣かせちゃってるわけ?」
「まあまあ、細野ちゃん、赤坂ちゃんヤボなこと聞かないの!慶ちゃん、さっきのカラオケ屋に戻ってるから、ありちゃん連れてきてよ!絶対だからね!」
「あ?あぁ……」
「有村!絶対こいよ!」
………あれ?
恥ずかしいことにあいつらが好き勝手しゃべってる間、俺と有村は抱き合ったまんまだった。 有村も放心して気がついてないみたいだけど、あとで覚醒したら恥ずかしくなんだろうなー。
「……行くか?」
「え、えっと……」
「ほれ」
そっとからだを離す。 急になくなる温もりに寂しくなった手を差し出すとボンヤリとそれを見つめている。 さすがにおかしくなって、有村の手をサッととった。
「せ、先生っ!」
「ん?」
「だだ、誰かに、見られたらっ」
「だって、お前、もう生徒じゃないし」
「だ、だからって!」
「こまかいことは気にすんなー。行くぞー!」
生徒の前で、しかも私情100%で泣くなんて恥ずかしくて死にそうだ。 だけど気分もいい。 あいつらには明日から会わないしな。
有村はアワアワしながらそれでもついてきた。 ちらりとみると更に赤くなってうつ向く。 その姿を見ていたら胸が熱くなった。
恋、とか、愛、とか。 今のこの気持ちがなんなのか、本当はよくわかっていない。 だいたい、今日の朝まで、もう会うこともないからと胸を撫で下ろしていた生徒の手を握っているんだ。
愛しい、切ない、苦しい
この数時間で形をすっかり変えた気持ちを手放したくない。 必死で踏ん張りそれでも俺を見ていてくれた、その想いに答えたい。
俺は手の中にある小さな手を握り締めて、もう決して間違えたりしないと、強く強く思っていた。
今日も読んでくださってありがとうございます。
明日からも少し続きがあります。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
うえの




