(8)
「あっちにどれほどいいものがあるっていうの?」
「わからない」
「わからないのに行くっていうの? あんたって変わってるのねぇ?」
少女の面差しは幽霊のようにぼんやりとかすんでいるが、非常に美しかった。青冷めた瞳、青冷めた唇、青冷めた頬。髪すら青く沈み、明るい陽の下で見たとしても、その髪が何色なのか想像もつかない。
「あたしをどう思う?」
少女の笑みはネコのようだった。月の光をあびて、死人のように無表情ではあったが。アラバスターの人形めいた顔の作りに、男は魅せられてしまった。思わず、手が少女の顔に伸びていた。
「そう……あたしをどう思う? あたしが好き?」
男は戸惑い、手を引っ込めようとした。少女はその手を捕らえ、自分の胸に当てた。
「あたしを幻だと思う? 心臓の音を聞いて……音はしてる? 耳を当ててみて……鼓動は聞こえる? 唇を当ててみて……血の熱さを感じる?」
少女の胸はゆるやかに上下し、体中を駆け巡る血の流動が男の指先に伝わってくる。
少女の小さな鼓動が、男を震えさせる。男は自然の欲求を感じていた。
男は無意識に仮面をさぐった。冷たい鉄の感触が、血のほてりを少しずつ冷やしていった。少女の胸から手を離し、男は口走った。
「どういうつもりだ」
少女はしばらくまじまじと男を見つめてから、ささやいた。
「あたしたちは闇よ……仲間がお互いを慰めあうのは当たり前じゃないの。あたしはあんたの恋人。定められた愛を演じるために、あんたとあたしはここにいるのよ……どうして拒むの?」
男はまだ仮面をまさぐっていた。それで不安が癒されるとでもいうように。少女の言葉も否定できず、男は困惑したまま黙っていた。
「でも、あんたは男だもの。そうそういつまでもあたしを拒んではいられないはず……」
少女は男から離れた。
「夜が明けるまでは一緒にいるわよ。その間にあんたの気が変わらないとも知れないものね」
男は迷った。小男の言葉。少女の言葉。仮面の衝動。どれに従えばいいのか。
ただわかることは、小男も少女も自分をいいなりにしようとしている。
仮面は何も語らないけれど、その衝動に魂が揺さぶられる。単純に、はっきりと繰り返される、あの国へ行き王を殺せ……という衝動。理由も意味づけも何もないが、確かな目的だけがあった。男は両手でしっかと自分の体を抱きとめた。この手を離せば、いつのまにかもやもやとした霧となり、自分の存在も何もかもが消えてしまいそうな錯覚を覚えた。
馴染みのある不安に身を任すうちに、男は夢にうなされていた。
声が響く。
信ずるべきは仮面のみ。目的を映し、自分自身を映した内なる仮面の姿のみ。
男は目を覚ました。ぱちりと目を見開き、明るい太陽を直視した。
少女はいなかった。代わりに小男がいた。その手に服を持っていた。カラス色の服。
「処刑人に相応しい服さね。首をちょんぎる輩の着る服だ。街の通りで、大手を振って行列を作れよ、あんたは山のように首を刎ねるんだろ? え? 誰か処刑すんだろ?」
小男は病気のイヌじみた様子で男をねめた。言葉を剣の代わりにして、男を傷つけようというのか。挑発して、男といがみあいたいのか。しかし、人のいない山の中では思ったほど効力はなかった。男は服を受け取り、小男の言う処刑人の服を着た。あつらえたようにぴったりと体にあった。
マントの厚い襟を立て、肩の留め金に襟元の紐をかけた。腰のベルトには太い鎌を引っかけるための輪がついていたが、そこにいたはずの主は服についてこなかったようだ。
「首刎ね道具はどうした、処刑人?」
男は肩をすくめた。衝動は人殺しを命じているが、人を殺せるような状態ではない。武器はなく、手を見れば自分は武器すら握ったこともないようだ。べったりと汚れた髪を手で撫でつけ、つばの広い帽子を目深に被った。
その風体に、小男は手を叩いて喜んだ。
「この服はどうやって手に入れたのだ?」
「そりゃ、芸人一座の服だよ、あんた。崖から転げて笑いをとったのは、何もあんたひとりじゃないのさ」
小男は泣くふりをして、上目づかいに男を見た。
「ひとつ、悲しい話をしてあげやしょう。おつむの弱い美しい若者。何ひとつできねぇ。人買いは金持ちと思った男に売った。金持ち男はひと財産つぎこんで、クジャクのように若者を養った。商売が滞り、若者は借金のかたに人手に渡った。渡り渡ってただ同然で芸人一座が買い取った。何ができるというわけでもねぇ。嘘を喚く小鳥の真似しかできねぇんで、ぼろを着せて喚かせた。ただ飯食らいのお荷物さ。かわいがってくれる芸人もいたけれど、もめごとのタネにしかならねぇ。そんである晩放り投げたのさね、崖の下目がけて。ところが、因果は応報。馬車馬が足をくじいてひと山こえねぇうち、自分たちも崖の下。ぴゅーっとまっ逆さまさね」
身振り手振りを交えながら、笑い声を立てた。
「おつむの弱い若者とは私のことなのか?」
「なにをおっしゃる。あんたは自分のことを馬鹿だと思ってんのか?」
男は肩をすくめた。
「自分が何者なのか、何をするべきなのか、忘れてしまったという点では大馬鹿だろう」
小男は体を揺らし、笑い続けた。
「それじゃあ、この世は馬鹿ばっかしだ。自分が何者なのか、何をすべきなのか知ってる人間がいたら、ぜひお目にかかりたいもんだね」
「おまえにはわかっているのか?」
「そうともさ、あっしにはわかってる。あっしは約束を破った奴に引導を渡してやるつもりなのさ」
「どんな約束をしたのだ?」
小男は牙をむきだして笑った。
男は肩をすくめて峠を下った。