(7)
衝撃とともに男は目を覚ました。
ぼんやりと薄目を開け、目に映るものをしばらくの間、理解せずに眺めていた。ずんずんと痺れるような痛みが、打ち寄せては引いて行く。かろうじてわかったのは、自分がどこか高い所から落ちたのだということだけ。
しかし、自分が何者なのか、なぜこんなことになったのかという記憶は、不思議なほどに欠落していた。
手で顔をさぐってみると、ひんやりとしたものに触れた。
仮面をつけている。顔の上半分が、鉄の仮面に隠されていた。それに触れていると、なにやら自分の本来の目的を思い出してきた。自分は、とある国の王を殺すために、蘇ったのだ。
男は起き上がった。ぐらりとめまいがし、男は側の岩に手をかけた。
男はびくりと手を引っ込めた。その岩に人が座っていたのだ。
醜い背中にコブのある小男がにたにた笑いながら、男を見つめていた。
男は目を細め、当惑した面持ちで小男を見返した。
「これはこれは、仮面男さん、ようやくお目覚めかな ?」
男は答えなかった。乾きで舌が口の中にひっついて、喋る気にもなれなかったのだ。
「落ちたのは夕べ、すでに陽も高い。お友だちは薄情にもとっとと先に行っちまったよ」
男は崖を見上げた。怪我はなく、立って息をしていることこそ奇跡だった。男は小男を無視して、崖を登る道を探した。
小男は岩からぴょんと飛び降りると、ちょろちょろ男の回りを駆け回った。
「なんだなんだ、あっしを無視するのか? あんまり醜いんで見たくもねぇのか?」
男は立ち止まり、小男に言った。
「おまえはなぜここにいるのだ?」
「あっしの勝手だろ。じゃ、なんであんたはここにいるんだ?」
男は気の抜けた笑みを浮かべて、崖を指さした。
「あの崖から落ちたからだ、あの上から……ずっとここにいるつもりはないが」
「じゃ、どこへ行くんだ ?」
男は上へ向けた指先を、もっと向こうへ伸ばし、答えた。
「あちらに国がある。ひとりの王がいる。その王に会うのだ」
小男はけたけたと笑った。
「王に会ってどうするんだ?」
男は口をつぐみ、小男をじっと見た。
「その仮面、怒りの仮面なんかつけたみすぼらしい男に、王が会ってくれると思ってんのか?」
「怒り?」
男はもう一度仮面に触れてみた。くっきりと刻みつけられた、眉間の溝。男は自分の身なりを調べた。フレアのきいた茶色のローブを肩から羽織り、木綿の質素なシャツとズボンを着ていた。身元を示すようなものは何ひとつなかった。髪は脂ぎっていて、かなり長い。スス汚れてはいるが、色の薄い金髪だとわかった。
「乞食男で、しかもその仮面。黄泉の国の死刑執行人の仮面のようじゃねぇか」
男は小男を見た。
ぎょろ目で両目の瞳は別の方向を向いている。穴があいただけの鼻。ガマガエルのような口。大きな耳は外に反り返り、髪の毛は荒れ地に生える情けない草のよう。
「おまえの顔も私の仮面に劣らず、できのいいほうではないようだな」
小男は怒りもせず、尖った歯を見せて笑った。
「その仮面の下の顔はどうした? あっしのように醜いか?」
男は仮面を外そうと両手を添えた。しかし、仮面は顔に張り付いて取れなかった。男はうろたえ、必死で仮面を外そうとした。
小男は引きつった笑い声をあげながら、ぴょんぴょんと身軽に男の回りを跳びはねた。
男は顔の皮をかきむしり、頬の肉がそげて血がにじんだ。男は呆然と両手の指先についた血を眺めた。
「なぜだ……?」
男の沈んだ声に、陽気な小男の声が答える。
「なぜか? そうさな、あっしは気がつけば、この風体だった。魂の姿が形になるというじゃねぇか。醜い魂は醜い姿。美しい魂は美しい姿。その点で言えばだ、あんたはようするに醜い魂の持ち主なんだよ」
小男の言葉は幼い頃、誰かは思い出せないが、幾人もの人々から聞かされた言葉のように思えた。ある種の信仰と同じで、何の根拠もなく、だからと言って誰かが覆すというわけでもない。
困惑して男が首を振ると、小男はやれやれと肩をすくめた。
「それじゃあ、あっしの存在は気がついたときには呪われていた。呪いはつむじ風みてぇにあっしを巻き込んだ。あっしは生き残るためにその呪いを利用した。利用された呪いは、呪いじゃなくなる。生き方になるんだ。あんたは呪われた。仮面が顔になっちまうような生き方をしたのさ」
「なぜ、おまえと私を比べるのだ?」
小男は火の中でトウモロコシが弾けるように笑った。
「あんたはあっしと切っても切れない間柄なのさ」
「それはどういうことだ?」
男は岩を乗り越え、崖を登る道を探しながら、小男に尋ねた。
小男は笑うだけで答えなかった。
ようやく崖から這い上がり、まともな山道に出ることができた。
いつのまにやら小男は姿を消し、男はため息をついて、陽の落ちかかった山の峰を見上げた。
尖った山峰に気がつけば、骸骨じみた月が引っ掛かっている。あっというまに夜のとばりが空を覆い始めた。数多くの厚地のカーテンが閉じられていく。紺色の、ところどころ灰色にくすんでいる。虫食いのカーテンから、空のカンテラの光がチラチラと漏れて見える。
空気が突然冷たい風を運んででくる。うなじに寒気を感じて、男はローブをかき寄せた。昼間の陽気は嘘のように姿を潜め、夜と月の娘たちが氷のため息で世界を震えさせる。男は木の幹に身を寄せ、縮こまった。薄い木綿の服ではとうてい寒さを凌げない。
雪の山から風が下り、弱々しく木々がざわめく。いつのまにか、ひとりの少女が男の前に立っていた。まるで、幻のように突然のことだった。
男ははっとして少女を見つめた。
少女は裾の短いドレスを着ていた。かわいらしい繊細なひざが見え隠れしている。白く長い手足が少女を支えている。
月の光の下、少女は消え入りそうに青白く見えた。
「寒くはない?」
少女は氷の声で尋ねた。その声に空気すら凍りつきそうだ。少女は妖精めいた体つきをしていた。
男は夢を見ているのかと、目をしばたいた。
「あたしはここにいる……あんたに会いに来たのよ……夜の間だけ」
少女は男に寄り添い、そのひざに手をかけた。一瞬、ビリビリと男のひざが痺れあがった。少女の手は驚くほど暖かだった。しかし、冷たい雪のイメージは消え去らない。凛と澄んだ声がなおも言い募る。
「あんたはこれからどうするつもりなの? どこへ行こうというの?」
「あの向こうの国へ行くのだ」
男は昼間指さしたのと同じ方向を、再び指し示した。少女は笑い、男に身をすり寄せた。