(4)
乙女がそこにいるだけで、そこは天界と化した。
乙女の肌はミルクのようでくすみひとつなく、暁に染まる空のようにバラ色の頬をしていた。乙女の瞳は暖かく、どんな宝石よりもきらきらと輝いて見えた。宮女の染めぬいた白い髪ではなく、雪よりも白い髪。真珠の光沢を帯び、朝露のようなきらめきを放っている。白銀の髪には、あいかわらず石のバラが飾られていた。
あらゆる花よりも美しい花が、あらゆる宝石よりも色鮮やかな宝石が、次から次へと宮殿を埋め尽くし、国の全ての人間に分け与えてもあり余るほどだった。
王は幸せだった。妃が微笑んでいれば。
年月は安穏と過ぎていき、いつしか王は影との約束を忘れた。
一年も過ぎないうちに、妃は身ごもった。若い王は狂喜乱舞し、前にも増して妃を片時も離さず、春の庭園、夏の庭園、季節が巡る毎にともに過ごした。
王子が生まれた朝、バラの香が爽やかに宮殿に漂い、ほころぶ花が産湯を満たした。
王子も不思議な力を持っているのだろうか? 人々は思わずにはいられなかった。しかし、王子は父親に似て、玉のように愛らしいだけだった。
それでも小さな悲しみがあった。妃の乳が白いかすみ草になってしまうのだ。王子は乳母に預けられ、妃はそれを寂しげに見送るだけだった。
「しかたがない……おまえは世界にひとりの女なのだから」
王は真珠の涙をこぼす妃を抱き締めて、慰めた。
しかし、これから起こる、そして、今すでに起こっている悲劇のために、妃は泣いていた。
泣きぬれる妃をなだめつつ、王は占い女を呼んだ。王自身も赤子の時、国の繁栄を込めて未来の占いをしてもらったのだ。老いた占い女は灰色のうす汚いフードつきのマントに身を隠し、しずしずと宮殿の正面のきざはしのもとにひざまずいた。
石の滝が、占いを聞こうと集った人々の頭上にそびえる。白い鳥までもが遠巻きに群衆を眺めている。
占い女は空色の石だたみに広げた黒の布の上に、子供のおもちゃのような色つきの小石を放り投げた。石はころころと転がり、四方に散らばった。
誰もが、赤子の王にかけられたものと同じ言葉が聞けるものと思っていた。
「立派な王になられるでしょう。王様の国は今まで以上に栄えるでしょう」
たとえ、そのあと王や妃が病に伏そうとも、王子は若木のようにすくすくと育ち、国を支える立派な若き王になるのだ。
王は満足そうに笑みを漏らし、傍らの妃を抱き寄せた。
占い女は、じっと黒い布の上の石を眺めていた。黙したまま、うつむいたきり。
「どうしたのだ ? はやく申してみよ」
占い女は王にうながされ、戸惑いながら口を開いた。
「王子さまが成年に達せられたならば、王さまのお命を奪い取りましょう。そして、母君のお妃さまとご結婚なさいましょう」
一瞬、水を打ったように辺りはしんと静まりかえった。
「なにを……! なんということを!! 無礼な……!」
王はすぐさま占い女を捕らえさせ、妃の見えない所で処刑させた。
しかし、王はすっかり忘れていたあのことを思い出した。新しい不安が古い傷をえぐったのだ。王は震える手でしっかと妃の肩をつかんだ。
見ると、妃すら身を強ばらせ、不安な紫色のアイリスを足もとに散らしている。
「妃よ……あの老婆の言葉は全くの偽りだ。嘘なのだ。だから、心配しなくていい。王子は……王子は何事もなく立派に育ってくれるよ」
妃は王を見上げた。
「あなた……あなた、門はまだ閉まっています。だから……だからこの子を殺さないで……」
妃の言葉を王は深く理解しなかった。問い返しもせず、不安を押し隠して、言った。
「勿論だとも。なぜ、この子を手にかけねばならないのだ? おまえ、不安にかられることはない。何も起こらない」
「いいえ、あなた……王子を殺さないで。門を開かないで……わたしは今のままがいい」
妃は王子をぎゅっと抱き締め、王の胸に青冷めた顔をうずめた。王は、ざわめきうろたえる国民の目から、妃を隠した。
「笑っておくれ。みんなが不安がってしまう。おまえの天上の花々と麗しい声で、私の不安を吹き飛ばしておくれ」
「あなたがそうおっしゃるなら……でも、ゆめゆめわたしの言葉を忘れないでいて」
「わかったとも、勿論だとも」
妃はためらいがちに微笑んだ。金のミモザが唇の端からこぼれ、王子の顔を飾った。
妃の魂は知っていた。自分がここにいる理由を覚えていた。ここでは、あの世界にいる時のような強い意志で、あの醜い魂が自分を支配することは不可能なのだ、とも知っていた。しかし、この赤子が死んでしまえば、それは別の事。
死骸にたかるハエのように、王子の魂と入れ替わりに、完全に開いた門から飛び出してくるに違いない。醜い魂は今か今かと門が開くを待っているに違いない。それだけで何百年たとうと、気にもしないのだ。たった今であろうと、王子が成年に達しようと、時間はさしてあの世界に影響しない。あそこには時間などないに等しいのだ。
そうすれば、自分の役目は終わり、かりそめの体なので容赦なく奪い取られてしまう。またいつ生まれ変われるか分からないあの世界に突き返されてしまうのだ。
それ故に、自分ほどは王子を愛していない王の手から、王子を守ったのだ。
毒をもられないように妃が毒味をし、王子の首を締められる前に乳母を退け、ギラギラとしたナイフから守り、偶然の災難を避けるために宮殿の奥深くにかくまった。
矢のように年月は過ぎて行き、王子はいつのまにか成年に達していた。父親ゆずりの美貌。四肢は力強い駿馬のよう。しかし、泥沼に住むカエルよりも愚鈍だった。魂の半分が人間ではなかったからかも知れない。それとも、妃から甘やかされて育てられたせいか。無垢だが、手の施しようのない愚かさを持っていた。
王は変わらず妃を愛したが、王子には目もかけなかった。王子の声を聞こうものなら、小鼻にしわを寄せ、その場からさっさと立ち去るのだった。あれほど愚かであれば、王子に自分を殺せるはずがない。王はそう考えていた。
剣も持てない、馬にも乗れない、弓も引けず、あろうことか、字さえまともに読むことができない。
明けても暮れても、年下の宮女たちとかくれんぼをしたり鬼ごっこをしたり……妃自身がお遊戯を命じることもあるのだ。
王は苦み走って考える。王子のことは忘れてしまって、ふたりめを望もうか。自分は年を取ってしまったが、妃は若々しいまま。当たり前になってしまった不思議な力も色あせず、昔のままに自分をときめかせる。若かりしころ、白亜の乙女につぶやいた言葉を、ときおり、今も繰り返してみせる。王妃は笑い、あでやかな赤いボタンの花が褥を埋め尽くす。
あの不気味な影は気の迷いだったのだ。絶望に曇った瞳が捕らえた、自分自身の心の歪みだったのだ。王は自分にそう言い聞かせ、信じ込んだ。