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石の花  作者: 藍上央理
11/13

(11)

 男は小屋を出て行った。少女を残して。どうせ、近くであの小男が男と少女を覗き見ているに違いない。

 男は空を仰いだ。

 月が世界を照らす。

 空気が冷たい。

 男は苦痛に肩をかきいだいた。影は影に沈み、照らし出されるものは青白く浮き上がり。少女と同じ鉱物めいた静けさの中に男は佇み、青冷めた失望のただ中で息を飲んだ。

 足は村に向かっていた。厚手のマントにくるまり、夜の一部となって村をさまよった。叩いてくれとでもいうような、大きな扉があるみすぼらしい殿堂があった。男は疲れ切って、その門戸を叩いた。小男と少女の言葉以外のものが聞きたかった。自分の声に答えてくれる言葉を。

 しばらくしてようやく門戸が開き、蝋燭の微かな灯火が男を中へと招いた。

「こんな夜中に申し訳ない」

 男はやっとそうつぶやき、急いで戸を締め切った。灯火を持って立つのは、年老いた僧侶。老僧は丸めた頭に滑り落ちそうな平たい帽子を被り、古ぼけたローブを身につけていた。

「安眠を妨げてしまったか?」

 僧侶は首を振り、

「耳が遠くなりましてな……気の急いた呼びかけに気付くのが遅くなったのですわ」

 僧侶の視線が男の怒りの仮面に注がれているのに気付き、男は急いで言った。

「これも話したいことのひとつだ。他にもある。ここしか逃げ込む所がなかったのだ」

「とても信仰に厚い生活をしてきた方には見えませんがな」

 腰の曲がった僧侶について、本堂へ通された。本堂と言っても、あの水車小屋と大差ない。祭壇には、男が見たことも聞いたこともない神を祭ってある。異質なものを男は感じた。記憶を無くす前、男は何かを信じたことなどなかったかも知れない。

 僧侶は勝手に話し出した。

「寺は村人が作ってくれたのですわ。国王はあまり神の存在を信じる方ではないらしくてな……街には寺もないし、もちろん僧侶もおりません。寂れた村だけがわしらの安住の地なのですわ」

 男は仮面に手を添え、言った。

「これをどう思う?」

 僧侶は目も悪いらしく、灯火で男の仮面を照らし、長いこと見つめていた。

「贖罪というものがあります。罪業を償うということですわい。怒りの面は、あなたさまが大きな怒りを抱えているのか、おおいなる怒りのためにその仮面を被らせられたか……」

「仮面に触っていると、声が聞こえてくるのだ……ある男を殺せ……と」

 僧侶は声を一層低めた。ただでさえしわがれた声が、蚊のような声になる。

「殺せ、と? ならば、罪はその男にあり、あなたさまはその仮面をつけられたかたの代行者なのでしょう。どんな罪かわかりますかな?」

 男は首を振った。

「私は何も覚えていない。他に何か考えあたらないか?」

「あなたさま自身に罪があるとは?」

「この仮面が誰かの罪ならば、誰の贖罪なのだ?」

「あなたさまの身なりは?」

「これか?」

 男はマントの襟を引っ張った。

「これは世話やきの小男が持ってきたのだ」

「その方が事情をよく知っているのではありますまいか?」

 男は軽く笑った。

「あれがか? 確かに知っているかもしれない。知り過ぎている気もする。しかし、聞こうとすると話を逸らすか、笑うか、どちらかだ」

「あなたさまに課せられたことまで知っていると?」

「それをやりおおせると、私が自分たちを裏切ることになると言っていた」

「自分たち!?」

 男は僧侶の言葉を遮って続けた。

「約束をしたというのだ。私には自分たちに支払うべき代価があると」

「小男の他に誰か……?」

 男は深く息をついた。

「女だ、小男の情婦だ」

「どんな約束をしたと言っておりました?」

「教えてくれないのだ。私が忘れていると責め立てるだけで」

 そして、からかうのだ。男は苦々しく口許を歪めた。僧侶はぎこちなく体を動かし、小さな椅子を引きずって持って来た。男は僧侶を見下ろした。

 灯火が暗闇に光の穴をくりぬいている。男は光の中心に身をかがめ、僧侶に近づいた。

「どう思う?」

「あなたさまのお手伝いをするようでいて、そんな衣服をきせたり裏切り者と呼ぶというのなら、わしがわざわざお答えしなくともよいのでは ?」

 男は僧侶の顔のしわを目で数え、すぐに目を逸らした。

「おまえなら、どう考えるか、と聞いているのだ」

「あなたさまが殺すはずの方に恩がある、と考えますな」

「恩……」

「あなたさまには、もしくはそれを望む方にとっては、仇なのでしょうが」

「では私が交わした約束とは?」

「ひとつわからないところがあるのですが、そのおふたりとあなたさまは一体どういう繋がりがあるのですかな?」

 男は困惑した。男の戸惑いを察して、僧侶は話を変えた。

「あなたさまは、一体誰のお命を咎めようとなすっているのです?」

「この国の王だ」

「お若く、お美しい、あの王さま?」

「それは知らない」

「ご結婚もまだで、ご自分に相応しいお妃さまを探していらっしゃるとか」

 男は少女のことを思い浮かべた。月の光でできている儚い面影。

「私を愚かだと思うか?」

「なぜ?」

「ある少女が言ったのだ……」

「愚かだと?」

「私を誘惑しようとするが、私がなびかないので」

 僧侶は相槌すら打たず、黙って聞いていた。

「私はすでにあの娘の虜なのに、あの娘には愛がないのだ」

 男は両の手の平を広げ、しみじみと見つめて、握り締めた。

「娘は言うのだ、今しか生きられない気持ちがどんなものかわかるか、と」

「今しか?」

「自分には過去と未来がないというのだ。闇の生き物だと。自分と私は偽りの恋人だと。自分には足りないものがあると……約束と予言。木陰のトカゲ……」

 しばしの沈黙。

「門が与えた機会。正しい道。定められた愛……夜だけの恋人……謎かけのようだ……」

 男の最後の言葉は、僧侶には聞こえていなかった。

「その娘は娼婦なのでは? 小男に雇われた。娼婦の中には、自分を生きた死人呼ばわりするひねくれ者もおりまする。死人には過去も未来もありませんからな」

「死人にしては暖かい。生気は感じられないが」

「偽りの恋人、愛していないという言葉の婉曲ですな、小男に命じられたのでしょう。今しかない、足りないもの、小男に自由を奪われて、自分の意志がないということを言いたいのでしょうな」

「そうなのか?」

 そうならば、まだ男にも救いがあるというもの。少女を悪辣な小男の手から救い出せばいいだけなのだから。僧侶は骨張った肩をすくめた。

「さぁ、わしが女にうつつを抜かしたのは何十年も昔のこと。ひとに説教できるほど経験をつんじゃおりません」

「私は娘を受け入れたほうがいいのだろうか?」

 僧侶は首を振った。

「そんなことをすれば、小男の思うつぼじゃありませんかな?」

 僧侶は男に寝る場所を与え、土間に行けば食いものがあるから勝手に食えと告げて、灯火を持って本堂を出て行った。

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