<6>
アンナは、額にあてがわれた布の冷たい感触で目を覚ました。誰かが頭に濡らして絞った布を乗せてくれているのだ。静かに目を開けると、目の前にアンナよりも少し年上らしい少女が、かがみ込んでいた。
焦点のぼやけた視界が徐々に合い、少女と見つめ合った。どこかで見たような顔だ。
「生きてるみたいね」
意識が戻ったアンナに、少女はそう言って笑う。
「……ここ、どこ? 今、何時なの?」
随分長いこと気を失っていたのか、声が掠れ幾度か咳き込んでしまう。そういえばやけに寒い。それに頭が痛い。そう言えば殴られたんだっけ。
「無理にしゃべんなくてもいいよ」
少女はアンナが咳き込んだ時にずれ落ちた布を、洗面器に放り込んた。状況が分からずに戸惑っていると、少女はアンナの隣に遠慮無く腰を下ろした。
「ここ地下牢。あなたはここに監禁されてるってわけ。時間は朝ご飯時ってところよ
監禁している犯人にしては。少女は妙に明るい。悪いことをしている人には全く見えなかった。
「ま、人質のあなたに、朝ご飯は無いけどね」
少女はそういうと、肩をすくめた。
「……そっかぁ……」
朝食が貰えないのは、大変だ。でもよくよく考えてみれば、少女が介抱してくれているし、当分危機は去ったと考えていいのだろう。
アンナは大きくため息を付いた。生きていてよかったと、しみじみ喜びを噛みしめる。生きていればどんなチャンスでもある。
だが体が動かない。足は何とか動くけれど、手は完全に後ろ手に縛られ、封じられていた。
「精霊使いでしょう? 悪いけど精霊を使えないように手は縛らせて貰ったからね」
「うん。仕方ないよね」
ここに水が大量にあれば、両手を封じられていても水竜が呼べるのだが、そうは上手くいかないらしい。運の良さには自信があったが、いつもそう言うわけにはみたいだ。
「怪我は痛む?」
首を少々傾げながら少女がそう尋ねる。心配しているのではなく、興味で聞いているようだが、その言葉には心配の気配もきちんと含まれている。
「うん。痛い」
正直に答えると、少女は笑みを浮かべてアンナに最もらしく頷く。
「そうだよね痛いよね。あの女、乱暴だもん」
この少女はあの中年のメイドが好きではないらしい。仲間では無いのだろうか? アンナが戸惑っていると、少女は手際よくアンナの周りにあった薬箱を片付け終えた。
「傷の手当て一応終わったよ。っていっても消毒だけだけどね」
「ありがとう」
「いいの、私一番下っ端だからね。これが仕事」
「そうなんだ」
少女と会話をしつつ回りを見渡して、ようやくアンナは今の状況を理解した。
自分が寝かされているのは、堅いベットだった。いやベットというより、木の台といった方がいいかもしれない。回りの壁は全て冷たい石造り、明かりは壁に取り付けられたランプが一つ。
窓はない。地下牢なのだから当たり前か。とにかくこの少女に色々と聞いてみよう。分からないことが少しは分かるかもしれない。
「私はアンナ。あなたは?」
いつものように笑顔を作って名乗ると、少女は呆れたように首を傾げた。
「……あんた、怖くないの? 今の状況」
「怖いよ。でも黙ってたらもっと怖いもん」
「それもそうだね」
納得したように頷いた少女が、倒れたままのアンナを覗き込んできた。
「私は、ジニー。あんたの前にシンシア様だったの」
多少いたずらっぽい表情で、少女はそう答えた。彼女にとってシンシアを演じるのは、アンナと違い心苦しいものではなかったようだ。
だが驚いたのはそれではない。アンナは穴が開くほどマジマジと少女を見つめた。部屋が暗かったからいまいち分からなかったが、確かに少女の髪は赤毛だ。それに高いところでひとつに結っているから気が付かなかったけど、長い髪をしている。
「ダンのお姉さん?」
アンナがそう尋ねると、ジニーは驚いた声をあげてから、慌てて口を塞ぎ、小声で尋ねた。
「何で知ってるの?」
まん丸に見開かれた瞳は、ダンにそっくりだ。アンナは正直に答える。
「私、ダンに頼まれてジニーを探しに来たの」
「嘘!」
驚きの声を上げたが、慌ててジニーは口を塞ぐ。扉の外で人の気配がするから、その人を気にしているのかもしれない。アンナも釣られて声を潜める。
「嘘じゃないよ。ジョーと二人で調べてたんだもん」
「……ジョーと?」
またも意外な名前を聞いたというような顔で、少女は声を顰めた。
「うん。ジョーは友達なの」
アンナがそう言うと、ジニーはしばらく考えた後、暗い声で呟いた。
「……そうか、ジョーはお金持ちの養女になったんだっけ」
「お金持ちじゃないよ、クレイトン家は」
何やら複雑な顔をするジニーに、アンナは一応訂正する。
クレイトン家は決して裕福ではない。なにせ家は現在リッツ名義だし、元当主エヴァンス・クレイトンは光の正神殿の神官で、奥さんはメイドで幽霊だ。世間一般的に、これを裕福とは言わないだろう。
黙ってしまったジニーが話すのを、アンナはじっと待った。空気の流れさえ無い冷たく冷えた地下室は、驚くほど静かで、互いの吐息が聞こえるほどだ。
だいぶ経ってからジニーは顔を上げた。そこに先ほどまでの、親しげな感情を読み取ることは全くできない。
「……何で探しに来たの?」
「え?」
思いも寄らない言葉に、アンナは絶句した。
「ちゃんと家にはお金を送ってるはずでしょ? 何でダンが探すの?」
「……」
言葉が出ないアンナを、ジニーが睨みつける。
「おかしいじゃない、私はここで働いてる事になってるんだよ? その証拠にお金だって送ってるもの。それって元気でやってるって事でしょ?」
「そんな……」
ジニーの言葉はアンナの理解を超えた。アンナには『お金が送られることが元気でいる証拠だ』という考え方が分からない。
「そんなの変だよ」
「何が?」
「お金送ってるから元気だなんて、そんなの変だよ」
転がったままアンナはジニーを見上げた。目があった瞬間ジニーは目をスッとそらす。
「変じゃないよ。普通でしょ?」
「変だよ、普通じゃないよ」
どうしたらいいんだろうか。自分の常識がこの子の常識ではないのだ。どう言ったら気持ちが伝わるんだろう。分からずにアンナは黙り込む。
「ジョーはそう言わなかった? それともあの子、もうすっかりスラム街での生活なんて忘れてお嬢様をしてるの?」
すっかり黙っているアンナに背を向けて、ジニーがそう言う。
「そんなことない。ジョーは頑張ってるよ」
「どうだか。ここのお婆さんのシンシアみたいな生活してるんじゃない?」
「してないよ」
「うそよ。あの子はきっとお金持ち生活で、頭が脳天気になってんのよ。だから常識がなくなっちゃったのね」
「ジョーを馬鹿にするのはやめて!」
友達を馬鹿にすることは、許せない。アンナは思わず大声を上げていた。
「なによ、大声出して」
「ジョーはそんな子じゃないもん。分かってるんでしょう、ジニー?」
「……分かんないよ。そんなの」
「嘘。ジョー、ジニーは友達だって言ってたよ。分かんないわけないでしょ?」
「分かんないって言ってるの!」
ジニーはふて腐れたように俯いている。その背中に向かってアンナは語りかけた。
「ダンは、心配してたよ。連絡取れないって」
「……」
「ジニーが大好きなんだよ、ダンは。いくらお金が送られても、それでいいなんて思わないよ」
ダンのことを言われると、ジニーの肩が小さく震えるのが分かった。気にはしていたのだろう。
「ねえあんた……アンナっていったよね?」
「うん」
ジニーはようやく振り返った。その目は相変わらず冷たい。
「アンナはお金持ちの子でしょう?」
唐突な問いかけにアンナは首を傾げるしか無い。
「え?」
「私みたいに、お金持ちを夢見たりする必要のない子なんでしょう?」
どうしてそう言う話になるのか分からないけど、アンナはジニーの言葉を黙って聞いていた。
「だからシンシアお嬢様を演じていても、こうゆう生活が出来る人を恨まなくて済むんでしょ?」
「……私、お金持ちの子じゃないよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ。私ね、ここからず~っと北にある、ヴィシヌっていう小さな村の孤児院で育ったの」
孤児院という言葉に、ジニーは驚いたように目を見開いた。かえってアンナは慌ててしまった。
「孤児院っていっても教会でね、神父さんに養女として育てられたの。だから正式には孤児じゃないかな?」
「……ふうん」
つまらなそうにジニーは横を向いた。仕方なくアンナは話を続ける。
「両親を知りたくて旅に出たの。村で採れた野菜を売って旅費を作って」
「一人で?」
「ううん、仲間が二人いるよ。仲間がいたからここまで来れたんだもん」
アンナはふとおかしくなった。フランツと出会った時の、あのもの凄く困惑した顔を思い出す。今日は随分と旅に出た頃を思い出す日だ。
「それで仲間の一人が、高級住宅街に邸宅を持ってるわけ?」
「……そうなるのかな?」
確かに間違いではない。幽霊退治の代償で手に入れたものだけど。
「それで憲兵隊に関係があるんだ、その仲間は」
「憲兵隊というか……」
ユリスラ王国の大臣なんだけど、という言葉は、すんでの所で飲み込んだ。いけないいけない、今アンナは憲兵隊のアルトマンの部下を名乗っているのだ。必死で口を噤むアンナをどう見たのか分からないが、少女は言葉を吐き捨てた。
「運がいいのね、あんたは」
「え?」
「スラム街ではアンナみたいな孤児はいない。みんな必死で人扱いされない底辺で生きてる」
「……」
「さぞかし底辺の生活を必死で送る私は、あんたには滑稽に見えるでしょうね」
「そんなことない!」
「孤児だったのに教会の神官に見初められでもしたの? 旅をしている金持ちをたらし込んで、豪邸買わせて金を貢がせてるの?」
「そんなことしてないよ!」
「何にせよ楽な生き方ね。幸運よね。底辺から抜け出そうと必死に暮らしている私の生き方なんて分からないでしょうけど」
アンナは言葉が何も見つからなかった。幸運と言えば幸運だとアンナも思う。養父に娘として可愛がられ、リッツには庇護されている。でもそれは必死に生きていないということなのだろうか?
彼女が言う必死に生きるって何なのだろう? 日々を大切に一日一日を暮らすことと、違うのだろうか。
そもそもアンナには苦労するという感覚がない。冗談でその言葉を口にすることはある。だがそれは女神様からの試練であり、自らを高めることだと教わってきたからだ。
苦労は自分を成長させてくれる、大切な要素。だから笑って毎日を乗り越えていけばいい。それは養父からの教えでもある。
でもジニーはきっと、そんなアンナの生き方を理解してくれない。アンナがジニーにとっての幸福な生活を想像できないように。
アンナがそんなことを考えているとは知るよしもなく、ジニーは続ける。
「アンナも私みたいに貧しい中で金持ちに憧れて、それを妬んで、苦しんで育ってればよかったのに!」
「ジニー……」
どうしたらアンナの気持ちが分かって貰えるのか、さっぱり分からなかった。この子と自分は根本的に考え方が違う。違いすぎるのだ。
お金持ちに憧れた事なんて一度もない。アンナはいま自分が生きている中で、精一杯のことをしてきただけだ。誰かに憧れても、何かを妬んでも自分は幸せになれないとそう教わって生きてきた。アンナは今もそれが正しいと信じている。
でもそれはもしかしたら運がよかっただけで、スラム街で生まれ育ったジニーと立場が逆なら、こう考えているのは自分なのだろうか?
もしもアントン神父に育てられなければ、リッツに出会わなければ、フランツに出会わなければ、これが自分だった?
運……。
それがジニーと自分の間にある、決定的な差なのだろうか? でもスラム街にいたジョーは、真っ直ぐに生きている。ジニーと違って親も兄弟もいないのに。
考え込むアンナに耳に、ジニーの後悔が入り交じった小さな声が聞こえた。見るとジニーは俯いていた。
「私だってアンナみたいに幸せに育ったら、きっとこういうことになってない」
「こんなこと?」
アンナが尋ねると、ジニーは顔を上げた。
「……シンシアを演じてたら、何だか妬ましくなったの。ラッセル夫人が。だって惚けちゃっても裕福に暮らせるんだよ? 娘が生きているって思いたいから女の子を雇ってさ」
妬ましいなんて思いもしなかった。ただただ可哀相な人だと思っただけだ。だから助けてあげたかった。
「私が一生懸命洗濯物を洗って、あかぎれとしもやけを作ってる時、あのラッセル夫人は、いもしない娘の幻とお茶を飲んで、おしゃべりしてるの。不公平じゃない、そうでしょ?」
そんなことない……。そう言いたい。だけどそれを口にすると話が終わってしまいそうだから、アンナは黙って聞いていた。
「だから……シンシアのクローゼットから宝石を盗み出したの」
「そんな……」
言葉がない。不公平で妬ましいから宝石を盗むなんて、アンナの感覚ではあり得ない。だがジニーはそれをしてしまったのだ。
「今考えたらそれは罠だったのね。宝石を盗み出した直後にあの執事って男に捕まったの」
アンナは目つきの悪い、あの男の事を思い出していた。陰険で、底意地の悪そうなあの顔……。ジニーはそのまま言葉を続ける。
「殺されるのかと思ったけど、違った。あいつ、金持ちになりたくないかって聞いたのよ。その宝石よりももっと高価な物を手に入れたくはないかって……」
ジニーは詳しく話をしてくれた。宝石を持ち出そうとしたことは黙っていてやる、その代わり手伝えと言ったのだ。
……城の地下宝物庫をこの地下からトンネルを掘って襲う計画を……。
あの庭いっぱいに積まれた土は、地下を掘るために出た物だったのだ。そしてアンナが聞いていた何かを叩く音は、掘り進んでいる音だったのだ。
アンナが理解して青ざめても、ジニーの話は続いている。
赤毛のメイドはラッセル夫人のため必要だった。だがそれをスラム街から選び出したのは、この計画に参加する人間を増やすため。彼女たちは、あの執事の話を聞き、強盗の仲間を集めるのに協力した。自分の仲間の中から向きそうな人間を選んで紹介したのだ。
お金儲けの話となれば集まる人間は少なくない。そして残ったメイドは、今も地下で男たちの世話を焼いている。分け前を貰えるまでは、彼女たちは逃げるつもりはないのだ。
「今日の夕方には城の地下宝物庫にトンネルが通じるんだって。それで明日、宝物庫に入って宝を持って逃げるって」
「それって大変な罪だよ?」
真っ直ぐにジニーを見つめてそう告げると、ジニーは横を向いた。ジニーは分かっているのだ。だけどその計画が成功すれば、大金が入ることも知っている。だからジニーは、ここを抜け出そうとしない。
「……すぐに船で隣国に逃げるって言ってた。私もそうするつもり」
「駄目だよそんなの! ダンはどうするの?」
唇を噛みしめてジニーは押し黙った。
「憧れがあるなら、それに近づくよう努力しようよ。ジョーはね、今、私の仲間に教わって剣の練習をしてる。軍人か傭兵になるんだって」
「傭兵? ジョーが?」
驚いた顔でジニーがアンナを見た。アンナは必死で言葉を続ける。
「うん、すごいの。毎日毎日何時間も一人で練習してるんだよ。それで家事を手伝って、買い物にも一緒に行ってくれるの」
アンナは真っ直ぐにジニーを見て、必死で語りかける。ジョーは憧れを形にしようとしている。どういう形であっても、それがすごいことだと分かって欲しい。
「……」
「宝物庫を荒らすことは、重罪なんだよ? お願い。犯罪なんて絶対に幸せになんてなんないよ!」
だがジニーはゆっくりと、首を横に振っただけだった。
「ジニー、お願い……」
なおも食い下がるアンナを、ジニーは振り返って力無く睨みつけた。
「そんな同情の目で見ないでよ」
「同情なんてしてないよ」
「じゃあ哀れまないで。私もう決めたの。戻れない」
ジニーはゆっくりとした足取り頑丈そうな扉に歩み寄る。アンナは縛られたままずるずるとジニーの方へ体を動かしたが、上手くいかない。かろうじて見える視界の中で、ジニーはゆっくりと振り返ってアンナを見た。
「明日の朝、女達は港の船に乗るの。宝物庫の宝を載せたら、そのままこの国を出るわ。さよなら、アンナ。生きて帰れたらジョーとダンによろしく伝えて。私は幸せになるってね」
「ジニー!」
アンナの声に答えることなく、ジニーは頑丈そうな扉を閉めた。外側から鍵のかかる音が聞こえる。 体中からぐったりと力が抜けた。腕に食い込む紐が痛い。今まで必死だったから気が付かなかったが、後頭部がズキズキと痛む。体もあちこちが痛い。蹴られた時に痣にでもなったのかもしれない。
手が自由なら、治癒魔法を掛けられるがそうも行かない。
「どうしよう……。宝物庫に強盗なんて」
誰かに知らせなければと思うが、どうすることも出来ない。
しばらく悶々とした後、アンナはとりあえず寝ることにした。どうしようもならないなら、今は体力温存が一番大事だと思う。生憎食事はないようだから、このまま眠ってしまうのが一番いい。
目を閉じると、痛みのせいか静かに引き込まれるように、アンナは眠りに落ちていった。
一方クレイトン邸でも、ことが動き出そうとしていた。アンナが出て行ってから五日がたった、朝食前の早朝である。
ここ数日の間、夜出掛けることもなく規則正しい生活をして、すっかり早起きになってしまったリッツは、部屋に置かれた机に頬杖を付いて背を丸め、窓の外に向かって考え事をしていた。
外は少々曇っている。かなり冷え込んでいるから、もしかしたら雪になるかもしれない。
暖炉に火を入れるのも面倒だから、リッツは軍から支給されて、そのまま自分の物にしてしまった防寒用のマントを被っていた。
「寒いな……」
そもそも部屋自体が殺風景なのだ。元々はこの家の主が使っていたと思われるこの部屋は二間続きになっており、ベットルームは奥にある。今いるところには、大きく重厚な書斎用の机があり、本棚に応接セット、酒や美術品を飾るガラスのサイドボードがが置かれている。中は勿論空だ。
空間をほんの少しだけ埋めているのは、蒸留酒のボトルが数本。家で飲むことは少ないから、ほとんど減っていない。ここは仮の宿だから、殺風景な風景を埋めようとは思っていない。奥にあるベットルームだけで十分だ。
今リッツの手元には、アンナからジョーへ宛てた手紙と、自身が書いたアルトマンへの手紙がある。アンナの手紙をまとめてみると、彼女が潜入したラッセル邸には何が起こっているのか、知り得そうな手がかりがいくつかあった。
そのいくつかを調べるため、リッツは仕事に向かうふりをして、ラッセル邸を探っていた。シャスタには、書類がとても終わらないから家でやるといってある。
ひとつは、近所で行われている工事の話。アンナが執事が庭を土置き場に貸していてひどい、と手紙に書いていた話だ。
ここ数日一人でその周囲を歩き回って見た結果、工事がその周辺で行われている形跡がない。つまりその土の出所は、現在の所不明である。不明だが、この家の執事が知っていることは間違いない。夜中に何か音がするというのと、関係があるのではないだろうか?
次に何かの犯罪が行われているとしたら、惚けている女性の為に、メイドを雇う必要性がないと言うことだ。極端な話、その女性を殺して埋めてしまえば、いくらでもその家で犯罪を行えるではないか。なのにあえてそうするのには、わけがあるに違いない。
その可能性のひとつはリッツの頭の中にあるが、実際にその場へ行かないと分からない。実際に聞き込んでみると、ラッセル夫人は昔から聡明な人であったという。
そしてもう一つ、雇い人があまりに少ない。リッツの住むクレイトン邸よりも、遙かにラッセル邸は大きい。きっとラッセル夫人は、貴族にか何かなのだろう。それにしてはメイドが二人に、執事が一人、その甥が一人というのはあまりに少なすぎる。この家を支えるにしても、大量の山を作るくらいの工事を必要とする悪事を働くにしても……。
だとしたら、アンナの知らないどこかに、工事をしている連中を住まわせるくらいの部屋があるのではないだろうか?
外から一日見張った限り、この家の出入りはほとんどなかった。たまに出掛けるのは執事の甥とされる男と中年の女のみ。
ただこの家へ日常生活品を一括納入している業者を捕まえて話を聞いたところ、注文の量が相当多いことが分かった。どう考えてもその数量は、五人しかいないラッセル邸にはあり得ない。
時期は一年ほど前から。そしてその量は徐々に増えているということだ。消えたメイド、それと比例して増える日常生活品。
つまりこの何やら怪しい事件が動き始めてからいままで、少しづつ犯罪に関わる人間の数が増えてきている……そう考えてもいいだろう。
リッツは大きく伸びをして立ち上がった。そろそろ朝食の時間だろう。
「痛てててて……」
腰が軋む。リッツは右手で腰の辺りを強く叩いた。だいぶ凝っている。
「たく、これくらいで痛むなよな……」
ラッセル邸の調査のため、リッツは毎日背中を大きく丸め、この防寒用マントを頭からすっぽり被って物乞いの格好でうろつきまわったり、座り込んでいたのだ。
そのせいで朝など、起きあがる時に少々痛む。だが仕方ない、姿形のせいで変装でもしないとかなり人目を引いてしまうのだから。
「アンナの奴……この礼は高く付くぞ」
せめて腰くらいは揉んで貰わないと、割に合わない。おっさんくさい考えに、密かに苦笑しながら、リッツは扉に手を掛けようとしたが、その直前に扉が誰かによって思い切り開かれた。危うくぶつかる寸前で一歩下がり避ける。
「あ、危ねぇ……」
詰めた息を吐き出して呟くのと、扉を開けた張本人が喚くのが同じになった。
「師匠! 手紙がなかったよ!」
飛び込んできたのは、ジョーだった。相当に焦って青ざめている。
「……ちゃんと周りも見たか?」
「見たよ! 見たけどなかったんだ!」
ついに来たか。リッツは小さくため息を付いた。アンナのメイドの仕事は、五日しか保たなかったようだ。それともあの性格で敵を探っているのに、よく五日も保ったな、という方が正しいだろうか?
「アンナは? アンナはどうなってるのさ!」
「……さあな」
アンナが今どういう状況なのか、想像はつかない。生きているのか、殺されたのか……。
だがリッツはメイドが消えるたびに犯罪者が増えていく、という状況から、アンナが殺される確率は低いと推測している。
それにあの、異常なまでに運がいいアンナが、こんなところで死ぬわけがない。リッツはそれを固く信じている。
……信じる以外に、一体何が出来るというのだ。この状況で、この場所で。リッツは焦りを押し隠す為に、グッと拳を握りしめた。
ジョーにあまり不安を与えてはいけない。もしリッツの焦燥感を悟られたなら、ジョーはアンナに対する責任を痛感して、何か無茶をやりかねないからだ。この件の始まりは、もともとジョーの友人の失踪にあるのだから。
「とりあえず、飯を喰おう」
「何呑気なこと言ってんだよ!」
静かにそう提案したリッツに、ジョーが噛み付いた。だがこうなった以上、焦っても結果は同じだ。
「大丈夫だ。準備は出来ている」
「でも……」
「大丈夫だと言ってるだろ?」
「そんなこといってもさぁ……」
なおも渋るジョーに、リッツは微笑みかけた。
「弟子は師匠の言うことを聞いとくもんだぜ」
ジョーがその言葉に弱いことを、リッツはよく知っている。
「ずるいな、その言い方は」
むくれるジョーに、リッツはなおも畳みかける。
「ほれ、返事は?」
「はい……」
「じゃあ先に降りててくれ。仕度してすぐ行く」
防寒用マントを脱ぎながら奥の部屋に向かうと、後ろで小さくジョーが呟いて出ていく。
「飯の仕度、しとく……」
リッツは無言のままクローゼットから、国王から支給された階級章のない軍服を取りだして、普段着に替わってそれを着る。
一般人が乗り込むよりも、憲兵隊が乗り込む方が、犯罪者に与えるインパクトが強い。今回はその効果を利用する。おそらく敵の戦意をくじくには有効だろう。
運の悪いことに、今日はフランツがいない。単独でどれだけ敵がいるか分からないところに侵入するのだから、これくらいのはったりを効かせてもいいだろう。何しろ今のリッツにはアンナとの約束がある。問答無用に全員を切り捨てるわけにはいかないのだ。
机にあったアルトマン宛ての手紙を、胸ポケットに突っ込む。
「頼むから、生きててくれよ、アンナ」
祈りを込めて呟きながら、大剣を右手に防寒具を左手に持ち、リッツは部屋を後にした。
食堂に降りると、奇妙な空気が漂っていた。見慣ない大きな男が、体を小さくして椅子に座っているのだ。エヴァンスが隣に座っているが、大きな男は緊張したように固まっている。慌てていたはずのジョーも、すっかり緊張して固まっていた。空気が凍り付いたように動いていない。
一番始めにリッツに気が付いたのは、その大男だった。体のわりに身軽に椅子から飛び上がって、男はリッツに頭を下げる。
「おはようございます、閣下」
身長がリッツほどもあるその男は、リッツと比べると肩幅が広く、筋肉が発達していて非常に逞しく見える。その上この寒さの中、シャツの上にジャケットという軽装である。
そして大きくふさふさと毛に覆われた尖った耳と、同じく大きな八重歯を持っていた。一般的に怖そうな印象だが、そのくせ目が優しく、人なつこい印象を与える。
「お前……レフ?」
「はい」
嬉しそうに大男は笑み崩れた。きっとしっぽがあるならば、必死で左右に振り回しているところだろう。
「……そうか、今日だったか。忘れてた」
そう、ここにいるのは間違いなく、あの麻薬組織に幽閉されていた獣人、レフだった。あの時の印象とは相当に違っている。
闇の中で出会ったのだから、印象が変わっていて当然なのだが、何だかあの時以上に懐かれている気がするのは何故だ。レフと会ったのは、あの日とそれからしばらく面倒を見ることに決まった日に一度だけだ。なのにこれはいったい……。
「面倒を見てくれた皆さんに色々聞いています。閣下はすごい人なんだそうですね」
いったいどういう話を聞いているんだ……。想像したくない。
「とりあえず……飯を喰おう」
リッツがそう言うと、ようやく食堂の面々が動き出す。ほとんど並べ終わっていた朝食を前に、リッツは自分の席に座った。
「悪いな、今日立て込んでんだ。すぐ出掛けちまうけど……」
パンに手を伸ばしてそう言いながら、リッツはふと気が付いた。
「……レフ、お前今日暇か?」
「はい、閣下」
「いや、リッツでいい」
「はい、リッツ」
律儀だ。獣人は素直で真っ直ぐだと言うけど、レフはその中でも相当正直者なのかもしれない。
「お前、剣は使えるか?」
唐突なリッツの質問に、レフは首を傾げた。
「使えません」
「そうか……」
やはりこれから戦闘が起こるであろう、ラッセル邸に連れて行くのは無理か……。そう思った時、レフがのんびりと言葉を続けた。
「我々獣人は、武器を必要としませんので」
そう言えばそうだった。リッツは自分の質問が見当違いだったことに、ふと笑みを漏らした。その事はあの地下室で重々承知していたはずだった。
「リッツ、困っているんですか? 体術のたしなみは有るからお手伝いできますが?」
心配そうに首を傾げるレフに、リッツは顔を向けた。真っ直ぐにその目を見る。
「手伝ってくれ。俺の仲間が監禁されているんだ」
「……! 監禁?」
「ああ。女の子だ」
「女の子! それはいけない、すぐ助けましょう。お手伝いします」
「じゃあとにかく、飯を喰おう。それからすぐに出掛けるからな」
「はい」
リッツは目の前に置かれた朝食を、猛然と片付け始めた。ジョー達もレフを不思議そうに眺めながら、各々の席に着く。
レフは少々居心地が悪いのか、大きな体でモジモジとリッツから渡されたパンを千切っている。食事を半分ほど終えたところで、リッツは顔を上げた。
「これはレフ。見ての通り獣人だ。今日からしばらくこの家で暮らすから、よろしくな。アニー、使ってない部屋あったよな?」
『ええ、あるわ』
「それじゃ、帰ってくるまでに片付けておいてくれないか?」
『わかりました』
アニーはスーッと姿を消した。彼女は家のどこへでも、そうして移動できるのだ。それに食事をとる必要もないのだから、幽霊というのは意外と便利な体をしている。
「エヴァンス、レフはまったくこの国のことを知らないんだ。今日は連れて出ちまうけど、色々教えてやって欲しい」
「分かった」
エヴァンスはレフの方へ微笑みかけた。
「よろしくレフくん。私はエヴァンス・クレイトンだ。光の正神殿で神官をしている」
「レフです。よろしくお願いします」
ようやく緊張が解けてきたのか、レフはエヴァンスに呼ばれるままに隣へと移動する。
エヴァンスは……神殿の神官とは、常にそう言うものかもしれないのだが……ジョーを引き取った事からも分かるように、大変に世話好きなのだ。
そんな和気あいあいとした雰囲気の中で、ジョーだけが暗く沈んでいる。この場でアンナの状況を知っているのは、リッツとジョーだけなのだから仕方ない。
アニーとエヴァンスの二人には心配を掛けまいと、アンナは城の王妃のお手伝いをしに、泊まりがけでしばらく出掛けていると嘘を言っている。だからリッツのこの格好が、アンナの危険に絡んでいるとは夢にも思わないだろう。
「ジョー、大丈夫だ。任せておけ」
朝食をあらかた片付けたリッツは、エヴァンスとレフがぎこちなく話し込んでいるのを、確認してからジョーにそう言った。
「……俺も行きたい」
決意に満ちた言葉だが、リッツにはジョーがそう言い出すことの見当が付いていた。だから静かに答える。
「駄目だ」
「でも俺が言い出さなければアンナは……」
「分かっている。だけどお前は連れて行けない」
恨めしそうにジョーはリッツを見上げる。
「俺じゃ力不足だっていうんだろ?」
「……分かっているなら、聞くな」
苦笑しながらリッツはジョーにそう言った。可哀相だが、まだ連れて行けない。フランツでも危ないというのに、ジョーなど連れて行けるわけがなかった。
「でも何か手伝えることが有るかもしれなよ?」
なおも食い下がるジョーに、リッツは胸ポケットに入れてきた手紙を差し出した。
「お前の手伝いはこれだ。城門の門番に渡せ。お前がこれを持ってきたら、すぐアルトマンに引き合わせてくれるよう話は通してある」
「……どうすればいいの?」
「手紙を渡せばいいんだ。それでアルトマンに今までの話を全部するんだ。最後にラッセル邸に俺がいることを話せ」
前々から勝手に段取りが決められていたことに気が付いて、ジョーはむくれた。
「なんだよ、最初から連れて行く気なんてこれっぽっちもなかったんだな?」
リッツは頷くと、最後の目玉焼きを口に放り込んだ。納得いかない顔でいるジョーに、微笑みかける。
「悪いな」
むくれたままジョーはそっぽを向いた。その横顔に更に話しかける。
「正直に言うと、俺は今普通じゃないんだ。お前から見れば落ち着いているかもしれんが、実は結構焦っている」
リッツの言葉に、ジョーは真面目な顔で押し黙った。
「もしもアンナに何かあったら、多分俺は取り乱す。俺にだってあいつを預かった責任ってものがあるんだよ。そうなったらお前を敵から守ってやる余裕はない」
「……分かった。そうだよな、師匠ってアンナのために必死になるもんな」
「……そうか?」
思いも寄らないことを言われた気がする。そうだっただろうか?
「うん。俺とアンナが初めて出会った時さ、師匠高熱でフラフラだったじゃんか。なのにアンナのためにウォード一家と戦ったしさ」
「……」
黙っていると、ジョーがため息混じりに呟いた。
「アンナから話を聞いてるとさ、羨ましいよ。師匠はきちんと守りたい物を守れるんだもん。俺なんて友達一人守れないよ」
落ち込むジョーの頭に、リッツは立ち上がって手を置いた。
「大丈夫だ。お前も守れるようになる。きっとな」
照れたようにそっぽを向いて、ジョーが小さく答えた。
「師匠がいいからっていうんだろ?」
「その通り」
リッツはそのまま席を立った。
「レフ、飯喰ったか?」
「はい」
「よし、じゃあ行くか」
リッツは大剣を背負い、防寒用マントを身に纏った。




