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城を出たアンナは、急ぎ足で自宅に帰り着いた。今日は夕飯に久しぶりに全員が揃う、それだけで嬉しい。
「アニー、聞いて聞いて!」
弾む息のまま、いつもアニーがいる調理室に飛び込むと、アニーは驚いたように目を丸くした。
『どうしたの、アンナ?』
「リッツがね、帰ってくるの! フランツも今日は夕飯食べるって言ってたから、全員いるんだよ!」
『まぁ、久しぶりね』
「でしょう? 今日はごちそうにしようね!」
調理台の上には、大量のアップルジャムと練り途中のパイ生地がある。アニーはどうやらアップルパイを焼こうとしていたらしい。
「買い物に行かないと。ジョーは?」
アンナは防寒具を脱ぐこともせず、アニーに尋ねる。一旦脱いでしまうと、また寒くなってしまうから、このまま買い物に行くのが一番いい。
『お庭にいるわ。剣のお稽古ですって』
「わぁ……頑張ってるね」
ジョーは約束通りリッツに剣の稽古を付けて貰っている。といってもジョーことジョセフィンが養女になってからリッツがこの家にいたのは、たったの三週間ほど。その間に教えて貰ったことは、もの凄く少ない。
だけどジョーは自分が助けて貰った時に見た、リッツとエドワードの戦いを、心の中にずっと大事に焼き付けている。そしてそのほんの少しの教えを、律儀に覚えて練習しているのだ。
アンナは一度だけリッツが、ジョーを褒めていたのを聞いたことがある。リッツのことだから本人に向かって褒めたのではない。ジョーには内緒にしておけと前置きして、アンナにこっそり『フランツよりは、筋がいい』と言ったのだ。
ジョーは将来傭兵か軍人になるといっているが、アンナは正直な話、ジョーにはあんまり危険な仕事について欲しくない。だけど今まで孤児という状況にいて、夢を持つことすら出来ずにいたジョーにはそんなことは言えない。
希望に燃えるジョーに余計なことを言って、その夢に水を差すことはしたくないのだ。
「アニーは今日のごちそう、何がいいと思う?」
ジャムに突き刺さっていたスプーンを取って、アンナはリンゴジャムを口に運んだ。
『こら、駄目よ』
「だってお腹空いちゃったんだもん」
リッツが帰ってくる、全員で夕ご飯が食べられると浮かれていたせいで忘れていたが、アンナはお腹が空いているのだ。ずっと城にいて、珍しく昼食を抜いたから、空腹がきつい。
『じゃあ、パンを焼いてあげる。ジャムだけ食べないで』
「は~い」
だがのんびりしていたら、食事の支度に間に合わない。アンナはマフラーだけを取って、アニーからパンを受け取った。
軽くあぶったパンにこんもりとジャムを塗り……というより盛って、ジャムがこぼれないよう両手で支える。頬張ると口いっぱいに甘酸っぱい味と、ほのかなシナモンの香りが溢れた。絶妙な味のコントラスト。ヴィシヌで作っていたジャムと比べたら、雲泥の差だ。
アンナはいつも砂糖が多すぎて子供たちには甘すぎると不評を買っていた。冬の間は腐らないように保存したいから砂糖をたっぷり使うせいだ。それはジャムを購入することができないから、せめて腐らず長い時間持たせようというアンナの努力の成果であり、貧乏のせいだ。
「う~、おいひい……」
『口に入れたまましゃべらないこと!』
「うん」
アニーの作るジャムは相当に甘さ控えめだけど、それがほどよいさわやかさを演出していて、美味しいのだ。こんなにいっぱい盛っても、甘さでうんざりするということは全くない。しばし口の中に広がる幸福に酔っていたが、アニーの一言で我に返る。
『リッツはずっと王宮にいたのよね?』
「うん」
思案顔のアニーに、アンナはパンをほおばりながら答える。そういえば、何の料理がいいか質問していたんだっけ。すっかり忘れていた。
『じゃあ、あまり豪華な食事にしなくても、家庭料理の方がありがたいかもしれないわ』
確かにそうだろう。あの面倒な食事を二週間していたのなら、面倒な食事は絶対になしに違いない。だとしたら寒いし、暖かいもの……。
「リッツってさ、クリームシチュー好きだよね?」
前に寝込んだ時に、リッツが口にしていた好物を思い出して、アンナは呟いた。
『そうね。意識がないのに食べたがったんですもの』
思い出したのかアニーはくすりと笑った。あの時にリッツがそれを食べたいと言い出さなければ、アンナひとりでスラム街に迷い込むこともなく、従ってジョーはこの家にやってこなかったのだ。
考えても見れば、ここクレイトン邸にとって運命的な料理かもしれない。
「じゃあ、今の季節に美味しい、サーモンと茸のクリームシチューなんてどうかな?」
『いいじゃない』
「あとね、チキンガーリックステーキに、た~っぷりトマトソースをかけたのを、オーブンでチーズと一緒にカリッと焼いたのは?」
手に付いたジャムまでなめてから、アンナは思いついた自分の好物を口に出した。
『うん、合うわよ、その二品。あと温野菜サラダがあれば完璧ね』
「じゃあ決定! ジャムパンごちそうさまでした。いってきま~す」
再びマフラーを巻き直すと、アンナは庭に出た。剣の練習をしているのなら、いつもジョーは勝手口に近い裏庭にいるのだ。
今まで暖かい調理場にいたから、余計に寒さが身に染みる。暖まったばかりの頬に当たる風が、突き刺さるようだ。
キョロキョロと見回すと、ジョーがいた。薄着なのに心持ち汗をかいているようだ。きっと長い時間掛けて鍛錬しているのだろう。ジョーの努力には頭が下がる。
手にしているのは、剣ではなくほどよい長さに切られた、木の棒だ。それを幾度となく振り上げては、振り下ろしている。表情は真剣だ。ジョーはアンナに見られるとすぐに照れて練習をやめてしまうから、アンナは黙ったまま一段落付くまで、勝手口の石段に座って待った。
リッツが言うように、フランツに比べるとジョーは力強い気がする。といっても自分は素人だから、明確な違いが分かるわけではない。
「百っ! う~っ、きっつーい!」
ジョーが一言そう叫んで、前屈みになり膝に手を突いた。どうやら一応一区切り付いたようだ。
「ジョー、買い物に行かない?」
アンナの声に、ジョーは文字通り飛び上がった。
「いたの」
「うん、いた」
「びっくりした~」
ジョーは本当に驚いたようで、目を白黒させている。
「えへへ、ごめんね。一段落するまでと思って、見てたの」
「何だよ、いってくれればいいじゃんか」
照れたように口を尖らせながら、ジョーはアンナの隣にやってきた。手にしていた木の棒を勝手口の横に立てかける。
「何の買い物?」
動くことをやめたらそれなりに寒いらしく、ジョーは手に息を吹きかけながらアンナに尋ねた。
「夕飯の買い物だよ。あのね、リッツが帰ってくるんだよ!」
「本当?」
ジョーの栗色の瞳が輝いた。
「本当に本当! 二週間ぶりだよね!」
「ほんと久しぶりだよ! 剣の稽古付けて貰えるかな?」
「きっと付けてくれるよ」
ジョーにとってのリッツという存在は、剣の先生以外の何者でもないらしい。アンナとはだいぶ違うが、一緒に喜べる友達がいるのは嬉しい。
「それにね、リッツ、ケーキ買ってきてくれるんだって! 苺のクリームの、おっきいやつ!」
リッツ本人には、買って来れたら買ってきてとはいったものの、アンナは本当にケーキが届く事を信じて疑っていない。今まで一度もリッツが約束を違えたことがないからだ。
「ラッキー! 早く買い物行って、ケーキに備えようぜ!」
「うん!」
ジョーは家に駆け戻り、ほんの数分で防寒着を着込んで戻ってきた。ジョーの身支度は、アンナが知る誰よりも早い。
「さ、行こうぜ」
二人はよく晴れた冬空の元、並んで買い物に出掛けた。
午前中は国王の演説を聞く為に、いつもは静かなこの住宅街が、城へと向かう人々の喧噪で覆われていたが今はすっかり静かになっている。
二人は本日のメニューのことや、剣の稽古のこと、などを話しながらのんびりと住宅街を歩く。年がら年中一緒におしゃべりしていても、全く話のネタがなくならないのが不思議だ。
フランツに言わせると『無駄な話を繰り返してるからだろう?』とのことだけど、アンナにはそうは思えない。だって本当に、いっぱいいっぱい話すことがあるのだ。
ジョーはアンナに聞く城の話や、今までの旅の話が面白いようだし、アンナは今までジョーが経験してきた、おもしろおかしい街の出来事を聞くのが楽しい。
お互いに一生懸命話しているけど、ふとした時にまだ話していない話を思い出して、またしゃべるといった具合に、止めどなく話し続けてしまう。それにジョーは、アンナ以外にはまだそんなに心を開いていないから、二人の時間を楽しみにしているようだ。
ジョーにはまだまだ知らないことが沢山ある。それは主にリッツやフランツのことだ。
特にフランツにはまだ全く慣れないようで、いまだにアンナに『フランツ今日ああいっていたけど、あれは怒ってる?』などと聞いてくる。その度にアンナは『フランツってああ見えて怒ってること、あんまりないんだよ』と答えるのだ。
実際フランツは表情がなくて、感情表現に相当乏しいだけで、そんなに不機嫌でもなければ怒ってもいない……とアンナは思っている。
それに本当に怒る時は、相当な怒り方をするのだ。はっきり言って、半端じゃない。アンナは常々リッツに『フランツの奴をからかってもおちょくってもいいけど、目つきがやばくなったら速攻で切り上げろよ』と言われている。
そのわりにはいつもフランツを怒らせるのは、リッツのような気がするが、気のせいだろうか?
いつものごとく、フランツのことを話題にしていた時、突然後ろから誰かに体当たりをされた。よろめきそうになると、その誰かはそのままの勢いでアンナに抱きついてきたのだ。
しかもその背丈が小さい。よく見るとアンナの身体に回された手が子供の手だった。
驚きのあまり立ち止まると、隣のジョーも立ち止まった。振り返るとアンナのコートに顔を埋めるように六、七歳の帽子を被った子供がしがみついている。
「姉ちゃん! どこ行ってたんだよ!」
アンナが口を開く前に、少年はそうアンナに向かって叫んだ。
「姉ちゃん?」
戸惑ったようなアンナの声に、少年が顔を上げた。
「もう一ヶ月も帰ってこないじゃんか! 俺も母ちゃんも心配してるんだぞ」
涙をボロボロこぼしながらアンナを見上げるその顔に、全く心当たりがない。
「え~っと、人違いかも……」
戸惑いながらそういうと、少年はぐいっと拳で涙を拭き、まじまじとアンナの顔を見上げた。とたんにもの凄く気まずい表情が浮かぶ。
「……あ、やべっ……」
おずおずとアンナから少年は離れ、それと同時に駆け出そうとする。だが少年はそうすることが出来なかった。
「は、はなせよ!」
少年はジョーに、しっかりと手首を掴まれてしまっていたのだ。
「放すか! こう言う時は一言あるもんだぜ」
逃れようとして少年は必死で前に向かって駆けようとするが、ジョーは放さない。
「放せブス!」
「何だって? この俺の顔をちゃんと見てからいいやがれ!」
「やだ! 顔なんて見るもんか!」
何だかその二人の、妙に喜劇がかったやりとりが可笑しくなってしまい、アンナは吹き出した。
「ジョー、いいよぉ」
「でもアンナ、街で人に抱きついといて、とっとと逃げるなんて、怪しすぎるぞ。財布ちゃんとあるか?」
言われて初めて気が付いた。なるほどこうして突然接触されるのは、スリの常套手段なのか。さすが元スリ、目の付け所が鋭い。確認すると財布はきちんとあった。
「あったよ、大丈夫みたい」
「そうか、よかった」
言葉ではそういいつつも、まだ手を放さないジョーの横を回り、アンナは少年の隣にしゃがみ込んだ。
「何か事情があるんだよね? ね?」
アンナのその態度に少年は力を抜いた。がっくりと項垂れて、座り込む。そんな少年の頭にアンナは手を乗せた。
「私に出来ることがある? 話なら聞くよ?」
「ったく、アンナってば、人がよすぎるよ」
ジョーが手を放しても、少年はもう逃げなかった。ジョーは警戒心を解くことなく、腕を組んで少年を見下ろす。そんな冷たい視線を浴びながら、少年はアンナの手が乗った頭を、帽子ごと払った。茶色がかった赤毛が露わになる。
「どうしたの?」
戸惑うアンナに、少年はきっとした顔で怒鳴った。
「金持ちになんて分かるもんか!」
「金持ちって……」
「イーッだ!」
怒りを満面に浮かべる少年に、アンナは戸惑った。金持ち扱いされたのは初めてだ。確かにここは高級住宅街だし、来ている物は王妃に貰ったお下がりだから、古くはあるがそれなりに高めではある。
いやそんなことじゃない、この少年に敵意を持たれるその状況が分からないのだ。
「詳しく言ってくれないかなぁ?」
振り払われた手をもう片方の手で包みこみながら、アンナは尋ねた。だが少年はぷいっと横を向いて答えてくれない。
どうしようかと思っていた時、ジョーが動いた。突然少年の顎を掴んで上を向かせ、マジマジとその顔を覗き込んだのだ。
「ジョー、何して……」
アンナが言いかけると、ジョーは突然大声を出した。
「やっぱりお前、ダンじゃねぇか!」
瞳がこれ以上ないくらいに、大きく見開かれている。
「似てるとは思ったけど、本人かよ! 何でこんなところにいるんだよ」
いわれた少年は、しばしポカンとジョーを見上げた後で、思い切りジョーを指さして叫んだ。
「ジョー姉!」
二人は驚きのあまり言葉もなく向き合っている。
「……あれ、知り合い?」
間に挟まれたアンナは、二人を幾度か交互に見た後でジョーに尋ねた。
「ああ。スラム街で世話になった、洗濯屋の息子で、ダンっていうんだ」
ジョーに言われて少年……ダンは地面に落ちていた帽子を拾って、それを被ってから顔を上げた。
「さっきはよくもブス扱いしてくれたな」
「ジョー姉だって気付かなかったんだよ! それよかジョー姉は、こんなところで何してんの?」
心底不思議そうにダンは尋ねた。ジョーはひょいっと肩をすくめた。
「忘れちまったの? 俺はこの上にある家の養女になったんだよ」
「そっか……忘れてた」
少年は相手がジョーだと知って、気が抜けたようにしゃがみ込んでしまった。その様子は、普通ではない気がする。初めて会ったアンナがそう思うくらいだから、ダンの異変を先に察していたジョーは、ダンの隣に片膝を付く。
「ダン、この子は友達のアンナだ。お前アンナを姉ちゃんっていったよな? ということは、ジニーに何かあったのか?」
「そうだよ、ジョー姉。ジニー姉ちゃん、一ヶ月前から行方不明なんだ」
「行方不明?」
ダンはこくりと頷いた。
「姉ちゃんさ、高級住宅街にメイドとして上がったんだよ。最初の一ヶ月はきちんと連絡が来てたんだ。なのにここ一ヶ月、全く連絡ないんだ」
心底心配そうなダンを見ていると、可哀相になってきた。自分の中の人助け魂が、ムクムクと頭をもたげてくる。
「それは心配だよねぇ……」
そう言って頷くと、ジョーは片膝を付いたまま呆れたような顔でアンナを見上げた。
「アンナ、もしかしてジニーを探してあげようとか思ってんの?」
「そうだよ。だって可哀相だもん」
何故呆れられているのか分からず、アンナは首を傾げた。まるで不出来な妹を見るかのように、ジョーが、溜息交じりに立ち上がる。
「メイドに上がって一ヶ月はさ、仕事になれなくて色々泣き言とか家族に言ってくんだよ。んで仕事になれて楽しくなってくると、なかなか連絡しなくなるんだよ。そう言うもんなの、普通」
「そうなの?」
「そうだよ。常識だろ、そんなの」
全く知らなかった。でもこんなに心配そうにしている子がいるのに、放っておくなんてそれではあまりに冷たすぎる。
「でもでも、ダンはすごく心配してるでしょ? それってきっと何かあったんだよ!」
なおも食い下がるアンナに、ジョーはため息を付きつつ肩をすくめて言葉を続けた。
「ない。ダンは昔っから姉ちゃん姉ちゃんってジニーの後をくっつきまわってんだ。会えなくて寂しいから探しに来ただけさ」
「なんだよジョー姉、そんな言い方ないだろ!」
立ち上がって猛抗議をするダンを冷めた目で未来だしつつ、ジョーはゆっくりと腕を組んだ。
「ダン、いい加減、姉離れしろ」
「姉離れしてるよ!」
「嘘つけ。ジニーの性格分かってんだろ? そこでの生活が楽しけりゃ、今までの暮らしを平気で捨てられる性格じゃん」
「う……でもそれだけじゃないやい!」
圧倒的に不利な状況だが、ダンは必死の反撃に出た。
「姉ちゃんのメイドに上がった先は、次々とメイドが行方不明になってんだぞ! しかもみんな髪の長い赤毛の女ばっかり! ぜ~ったい姉ちゃんにも何かあったんだ!」
その言葉にアンナは驚いた。それが本当なら、やはり剣呑な話だし、下手すれば事件だ。だがそれでもジョーは冷静だった。
「……どっから聞いた、その話」
「みんな言ってるぞ!」
「みんなって、誰? もしかして噂じゃないだろうな?」
あまりに冷たい言葉に、アンナは困惑した。
「ジョー、みんなが言ってるって事は、きっと何かがあるんだよ。ね、ダン?」
「アンナは甘い。スラム街って所はね、ちょっとの話がどんどんでっかな噂になるんだ。例えばアンナが前にスラム街近くの店で暴れた話、今はどうなってるか知ってる?」
「え? 知らないよ?」
あのあと店がどうなったかも、リッツに聞いたことくらいしか知らなかった。あのおじさんは元気で、相変わらず料理が美味いらしいことは確かだが。
「すっげーぞ。見た目は子供なのに凄腕の精霊使いが、何百もの水の球を意のままに繰り出し、敵をばったばったとなぎ倒してから、スラム街で剣を繰り出してウォード一家を叩きのめした……」
「うそ!」
「ホントホント。しかもこの少女は、憲兵隊に送り込まれた凄腕の捜査官で、腕の立つ沢山の男を従えてるんだってさ」
現実とのあまりの違いに言葉が出ない。大体においてアンナは凄腕の精霊使いではない。あの時にアンナがやったことと言えば、敵と店の中をずぶ濡れにしたことだけだ。
しかも襲われてたところをリッツとエドワードに助けられただけのことなのなだ。
「そうか……それじゃあ信憑性ないね……」
「だろ?」
そっとダンを見ると、がっくりと項垂れている。もし噂に信憑性がなくても、彼の姉を思う心は真実だろう。やはりこんな悲しい顔をしている子を放っておくことなんてできない。
「ジョー、あのね、それでも可哀相だと思うの。もし噂の出所が分かって、それで何だか本当かもしれないってなったら、助けてあげようよ」
両手をお願いするように胸の前で合わせて、アンナはジョーを見た。あきれ顔のジョーはしばらくアンナを見つめていたが、やがて諦めたように大げさにため息を付いた。
「……もう、アンナは本当に人がいいよな。分かったよ、今度スラム街で情報を集めてみて、本当だったらアンナに報告する」
「ありがとうジョー!」
嬉しくて飛び上がると、アンナはジョーの手を取った。諦めの顔でジョーは呟く。
「だ・け・ど、今日じゃないからね? 今日は師匠が帰ってくるって言ってたじゃん? 明日以降だよ、それでいいなら調べてやるよ」
「うんいい。お願いね! ダンもそれでいい?」
「うん」
噂を調べてみるといっただけなのに、それでもダンは少しだけ嬉しそうだ。これでお姉さんが見つかれば、もっと喜ばせるだろう。
やはり困った時は助け合わないと駄目だ。
「そうと決まれば、今日は買い物をして早く帰ろう。それで早く食事して、そんでもって明日早起きしようね!」
「はいはい。じゃあな、ダン」
今日仕事が終わってよかった。明日からあの子のために頑張ろうとアンナは決意も新たに買い物へと歩き出した。
まさかこれが色々と面倒なことになってくるなんて、今の彼女が知るよしもない。
そしてそんなアンナ同様に、とてつもない目に遭いそうな予感に頭を抱えていた人物がいた。
フランツ・ルシナは、不機嫌だった。何が不機嫌かと尋ねられれば、少し前にしていた自分の言動に不機嫌になっていたのだ。
話は数時間前に遡る。
今朝はフランツにしてみれば、とてつもなく早起きだった。国王の演説があり、その隣に立つから、早朝のうちに礼服と変装グッズを持ってきてくれと昨日リッツに頼まれたせいだ。
寝不足でよろめきながら王宮にたどり着き、リッツに頼まれていた物を渡すと、フランツはその足で自宅に帰ろうとした。帰ってとりあえず寝直そうと思ったのだ。だが非常に運の悪いことに、この間の事件後、面倒ながらも友達にされてしまった、ユリスラ王国親王グレイグ殿下に捕まってしまったのだ。
「おはようフランツ、お祖父様の演説を聴いていくんだろう?」
まずい奴に会ったと思ったが、それを口に出すほどフランツは馬鹿ではない。ちらりとグレイグを見ると、フランツが帰るとは思っても見ないような顔で、自信満々にこちらを見ているのが分かった。敢えて振り向かず、フランツは短く答えた。
「……遠慮する」
「何でだよ。お祖父様は最近、あまり民衆の前でお話になられないんだぞ? 聞いとかないと後悔するぞ」
エドワードの話を聞いて、いったいフランツに何の得があるのか分からない。フランツだって一般民衆だ。その自分はたまにエドワードと話をしている。同じ民衆への話ではないのか? それでいいと思うのだが……。
だがそれを口に出すのも面倒だ。とにかく帰りたい。だがフランツは知っている。帰りたい時は帰れないものなのだ。特にこのグレイグという少年にかかると。
「聞いていけよ、絶対為になるって!」
「為になる?」
「当然だ。お祖父様の演説だぞ? 為にならないわけがない!」
「……そう」
全く理由になっていない。これでは議論のしようもない。グレイグは、祖父エドワードを心から尊敬しているのだ。だから何の根拠もなく、ただただ真剣にそう思っているのである。
フランツにとってのエドワードは、確かに敬愛すべき国王陛下……でなければいけないのだが、それ以上に自分の仲間の喧嘩友達なのだ。最初にあった時に、リッツをひねりあげていた姿を思い出すと、どうもグレイグほどに心酔は出来ない。
もしも仮にこのグレイグに、エドワードに対する嫌みなことをいいでもしたら、斬られるかもしれない。無論、本気で。
「いい場所があるんだ。特等席だぞ?」
なおもフランツに食い下がるグレイグに、もはや抵抗するのも面倒だ。どうせエドワードの演説が始まったら、自分のことなどそっちのけにされるのだろう。だとしたらそこで寝ていても問題ない。
「分かった、行くよ」
そんなわけで、フランツはグレイグの言う特等席とやらでエドワードの演説を聴くことになったのである。その場所とはまさに意表を突いた場所だった。なんとエドワードやリッツ、ジェラルドにシャスタがいる真下……つまりテラスの真下にある、渡り廊下の通路の隅だったのだ。
エドワードの演説の間、フランツは夢中で上からの声を聞くグレイグをよそに、日だまりの中でうとうとと微睡んでいた。演説の内容は昨日、おおよそリッツに聞いている。この間の事件の噂が変に民衆の間に広まってしまい、不安の声が聞こえ始めたので、その火消しだ、とのことだった。だとしたらその事件の真実を知るフランツには、聞いても意味のないことだろう。
だが穏やかな微睡みは、グレイグの大声で妨害された。
「フランツ、聞いたか」
「……何?」
「お祖父様が、退位されるって!」
一瞬何のことか分からず、退位? 退位って何だったかな? と頭の中で考える。今まで寝ていた頭がその意味を理解した時、ようやくグレイグが何を言ったのか分かった。
「国王陛下が、退位するってこと?」
「そうだよ!」
エドワードが退位する……。もしかしてこれは決まっていたことなのではないだろうか? リッツが帰ってきてから。そんな予感がした。だいたいリッツが、あんなにいやがっていた大臣職を、国営農場での一晩の後あっさり受けた事が、フランツの中で最大の疑問だったのだ。もしこれが分かっていたなら、十分に納得がいく。きっとリッツはこれを機に、大臣職を捨てるつもりだろう。
となるとリッツはどうするつもりだろう? 旅に出るんだろうか? またアンナとフランツを連れて行ってくれるのか? まさか置いて行かれることはないだろうが。
心の中でグルグルと疑問が渦巻く。ふと横を見ると、グレイグがぶつぶつと呟いているところだった。
「急だよな……驚いたな……。父上は知ってたのかな?」
混乱しているようだから、このままグレイグを置いて、自分は真相をリッツに尋ねに行こう。そう思って立ち上がった時、何かに防寒具の裾が引っかかった。見るとそこにはグレイグの手があった。どうやらフランツが勝手に立ち上がったので、反射的に掴んだらしい。
「どこいくんだ、フランツ」
「帰るよ。グレイグは今、僕と話している場合じゃないだろう?」
冷たくそう言い放つと、フランツはくるりと出口に向かって踵を返した。だがグレイグは放してくれない。
「何だよ。冷たいじゃないか、フランツ」
グレイグの顔を見ると、不満そうに口を尖らしている。流石は十二歳、子供だ。グレイグにとってフランツは友人と言うより、小難しい説教をしない唯一の相談相手なのである。その相談相手がとっとと帰ろうとしたら、それは面白くないだろう。
だがフランツは、素直に相談相手になるような性格ではない。それは自分で自覚している。
「国王陛下に退位についてお聞きするのも、王太子殿下にお聞きするのも君だ。僕じゃない」
「ちっ、冷たいな」
グレイグはむくれた。だがむくれられたからといって、気持ちが動くフランツではない。なおも冷たくグレイグにたたみかける。
「冷たくはないつもりだ。ただ陛下が冗談で退位を口にされるとは思えない。僕を連れて行って、一緒に何かを聞き出そうという、君の考えは無意味だ」
フランツは一応グレイグの前で、エドワードを陛下と呼ぶことにしている。彼はエドワードが一月ほど王都を留守にし、リッツ達と旅をしてきたことを知らない。そんな彼の前で彼の敬愛する国王陛下を、名前で呼ぶのは非常に危険なのだ。
「友達がいがないな、フランツ」
「……どうとでもいってくれ」
今度こそグレイグの手を放させ、フランツは出口を探した。とりあえずリッツを見つけて、真相を聞かねばならないだろう。
だがフランツは、リッツの元へすぐに行くことが出来なかった。
「……王冠ってさ、どういうのかな……」
変に気になるグレイグの言葉に、フランツは足を止めた。
「お祖父様が王位につかれたのは、ずーっと昔だろ?だから今まで王冠を見たことないんだ。お祖父様は戴冠式以外使わないって言ってたし」
確かに新年の行事でもなんでも、エドワードが王冠をかぶっているのは見たことがない。
「宝物庫の一番奥にさ、秘密の通路があるんだよな……あそこからきっと王冠が置いてある部屋に行けるんだろうな」
何が言いたいのだろう。全く見当が付かない。だがグレイグはフランツが少しだけ興味を持ったことに気が付いているようだ。自分へと向けられる人の気持ちを一瞬にして理解し、それを利用するのがグレイグは得意だ。多くの人にちやほやされて育ったから、そうやって自分に有利な状況を作る事を覚えたのだろう。
「なぁなぁフランツ、古文書とか好き?」
ほら来た、痛いところをついてきた。フランツは内心でそう思いながらも、振り返らずに黙ったままいた。グレイグはフランツが大量の本を読みあさり、古文書の解読を学んでいることを知っているのだ。何かの時にぽろりと口にしただけなのだが、グレイグはそう言うことは忘れない。
そんなフランツにお構いなしに、グレイグの声がフランツの心をくすぐる。
「フランツ、古い書物を探してるって言ってたよな? 宝物庫の奥に、建国から今までの色々な資料が保管されてるって知ってる?」
「……知らない」
実は知っている。それは国の重要機密に触れるもの、一般の人間には決してみられないのだ。色々な本にそう書いてあった。それを見るには、国王と宰相、大臣三人の許可がいることも知っている。だが明確な理由がない限り許されることはないだろう。
フランツにはそれを見たい明確な理由がある。勿論彼の師匠、オルフェのことだ。実はフランツはオルフェのフルネームを知らない。知る必要はないと思っていたのだ、弟子だった頃は。
だが今は知ろうとしなかったことを、大いに悔やんでいる。師匠のもう一つの名前が『アーティス』というらしい事を知ったのは、つい最近だ。彼はどっちも本名だと言っていた。
だが今フランツが閲覧を許されているレベルの資料には、その名前はない。せめてスチュワート元王太子が使った『無限の悪夢』を作ることを依頼したエドモンド国王の生きていた年代と、制作者のフルネームが分かればと思うのだが、それは確実に国家機密に当たるだろう。
とすれば、フランツの欲する真実は、今グレイグがいったその宝物庫の奥にある。だが理由を話すことは、オルフェの事を話すことになる。フランツはまだ、それをみんなに話す気にはなれなかった。
「フランツ、王冠を見に行こう! それで王冠を手に取ってみようぜ!」
「馬鹿なことを言うな」
反論の声に力がないことは自覚できた。正直もの凄く迷っている。
「馬鹿な事じゃない、本気だ。戴冠式の時に見れるって言ったって、絶対に触れないぞ。この俺様が戴冠式で手にするのは三十年以上後だぞ? そんなに待てるもんか!」
「……くだらない」
言葉とは裏腹に、フランツの心は期待に膨らんだ。今息詰まってしまった資料調べに、グレイグのその提案は非常に魅力的だった。
心が揺れる……。揺れるが、国王と宰相と大臣の許可がいる所に勝手に侵入するなんて……それは犯罪ではないのか?
「なあに、バレたって王族の俺がいるから絶対に大変な目にあったりはしないぞ!」
本当だろうか? グレイグの自信は、リッツのはったりよりも信用できない。しばし黙ったまま心の中で葛藤する。行くべきかいかざるべきか……。
そんな苦悩の中フランツはふと最後に会った時のオルフェの言葉を思い出した。
『僕の正体を最初に知るのは、君かもしれないね』……師匠は確かにそう言った。それならたった一人、最初で最後の弟子である自分が期待に添わずに、誰がオルフェの正体を知るというのだ。
決意が固まった。
「フランツ行こう。絶対面白いもんがみれるからさ」
グレイグの何度目かの誘いの言葉に、フランツは振り返った。
「分かった。つき合う」
「やった! さっすがフランツ。友達なだけあるな」
何だか上手く乗せられた気がしないではない。だが古文書をみることが出来る、たった一度のチャンスかもしれない。これを逃したら、きっと後悔する。
「じゃあさ、一週間後に探検開始だ! ちゃんと地図を盗んどくからな!」
「……盗む?」
何だかさらっと、とんでもないことを言ったグレイグに思わず聞き返す。
「そうさ。地下宝物庫の地図はお祖父様の部屋にあるんだ。この間偶然見つけてさ」
顔面から音を立てて血の気が引いていく。これはもしかして大変なことなのではないだろうか? 今更ながら後悔したが、もう遅い。グレイグは確実にやる気だ。
「行くっていったもんな、フランツ。俺はこの耳で確実に聞いたからな」
もはや引き下がれるような状況ではない。
「ああ言った」
「もしばれたら、フランツも連帯責任な」
「……ああ」
連帯責任……。親王と一般人の自分では、罪の重さが全く違うではないか? そこの所を分かっているのだろうか?
「お尻百叩きとか、お祖母様にやられるのはやだもんなぁ」
「……」
フランツは思わず天井を仰ぎ見た。どうか地下宝物庫の探検がばれた後、グレイグのお尻百たたきくらいで済みますようにと。グレイグがお尻百叩き、自分が打ち首では洒落にならない。
「……もう帰る。用事があるから……」
よろりとよろめきながら、フランツはグレイグに背を向けた。
「気を付けてな。ちゃんと準備しとけよ」
グレイグの声が痛い。早まったと思っても、もうこれでは遅すぎる。今からリッツに全部白状して、グレイグを止めることは可能だろうが、それでは自らの希望は叶えられることがない。
とりあえずリッツに、色々聞き出すことは延期しよう。今リッツと二人で話をしたら、あることないこと色々と鎌を掛けられて、うっかりこの件がバレる可能性がある。そうなるとお終いだ。
未だかつてない苦悩を抱えながら、フランツはその場を後にした。




