フランツ・ルシナの場合<3>
Ⅵ
売り始めてから二時間ほどで、最後のオルフェの怪しげな道具まで全て売り切って、商品は完売した。目深に被った帽子の中で、フランツは大きく安堵の吐息を漏らした。上手く売れたし、自分の正体をバラされてもいない。朝市での商売は上出来だった。
お金と金額を書いた紙を黙ってアンナに手渡すと、予想以上の売り上げにアンナが目を丸くした。
「うわぁ……」
そういうとアンナは感嘆のため息を付いた。
「お金がないから代わりにどうぞって、野菜貰ってたのに、その野菜が大金になっちゃったよぉ」
何か騙されているんじゃないかといったような夢見る目つきで、しげしげと感慨深げにアンナは手渡された金額表を、幾度も見直す。やがてその大金が本物だとようやく納得したアンナは、彼女の相棒であるリッツに向き直った。
「ねぇねぇリッツ、どうしてこんなに高い値段で野菜が売れるのに、私の村は貧乏?」
フランツにとってそれは、商売上でもっとも簡単な質問だ。だがリッツはその答えをアンナも分かるよう簡単にするのに、やや手こずっているようだ。
「それはな、ヴィシヌの村を出る時、野菜は安いから、村にはあんまり金は入らないんだ」
「だけど野菜高く売れたよ?」
聞いていると、アンナに分かり易く商売のことを説明するのは難しそうだ。運び屋の手間賃、商人の取り分、街の商業権料のことを行っても分かるまい。フランツは黙ったまま、苦悩するリッツの説明を聞いていた。
「まず村から運ぶ人が給料を受け取るから、野菜はその分高くなる」
「うん、それで?」
「売る人が給料を受け取るからまたその分野菜は高くなる。それからお店を出すのにかかる金があるから、またそこで野菜が値上がるんだ」
つまりリッツが言いたいのは、ヴィシヌに入る金額は、野菜の原価。今日、直接持ち込みで野菜を売った値段は、フランツとオルフェが市場の野菜の基準額を元にして決めたもの。すなわち原価に上乗せされた利鞘を、産地から持ち込むことによって全て手中に収めたということだ。
「それを全部自分たちでやったから、野菜が大金になったんだぁ……」
「そう……だよな、フランツ」
面倒になったのか、リッツはフランツに話をふった。間違ったことはいっていないし、アンナも納得しているようだから、フランツは無言で頷く。
そんな時、またいつの間にかどこかへ行っていたオルフェが人数分のミルクティを持ってあらわれた。
「いやいやみんな頑張っちゃったね~。私からの奢りだ、飲んでくれ」
もう片方の手には、何やら紙袋が提げられている。紙袋の中に何があるかぐらい、瞬時に見当が付いた。今日ここで売り払ったがらくたと、全く大差ない代物に違いない。黙ったままオルフェを睨みつけると、オルフェは引きつった笑みを浮かべて、フランツを両手で取りなした。
「そんなに怒らないでくれよフランツ。今度は自分で片付けるから」
いつもそういいつつ、オルフェが片付けるのを見たことがない。
「はい、君にもちゃんと買ってきたから飲んでね」
まだ視線を外さないフランツに、オルフェは無理矢理ミルクティを押しつけてきた。これで誤魔化そうというのだろう。毎回のことだが、いつもオルフェはこうして何かをフランツに与えて誤魔化そうとする。いつもはなお一層怒るフランツだが、今日は特別に喉が渇いていたから許すことにする。
ため息を付くと、ミルクティをリッツとアンナにも手渡すオルフェを無視して、広くなった空間に座り込んだ。帰る前に一息入れたかったから丁度よかった。
「それにしても助かったぜフランツ。俺たちだけじゃあんな沢山の人捌けないからな」
フランツの隣に座り、リッツがそういって笑った。そんなリッツの隣で、アンナがニコニコとフランツを見ている。結局朝市の後半、リッツとアンナは金勘定に一度も関わっていない。全てフランツが一人でこなしたのだ。
「どうなることかと思ったけど、意外と頼りになるじぇねぇか、お前」
軽口のようなリッツの言葉の中には、確かに相手を信頼する響きがあった。人に信用されることが嬉しいと、フランツは初めて知った。それは決して嫌なものではない。どちらかと言えば心が温かくなるような、そんな性質のものだ。フランツも金勘定に専念しながら、他のことは何となくリッツとアンナに任せていれば大丈夫だと思っていた。これもまた信用というものだろうか。
それは初めて感じる、少し心地の良い感情だった。フランツは生まれて初めて、楽しかったと感じた。こんな風にずっといられたら、もしかしたら少し楽に生きられるのではないだろうか。そう思ったのだ。
やはりこの街にとどまることは間違いなのかも知れない。外に出れば、自分の力に見合う何かがあるのかも知れない。そうすれば、炎の精霊がフランツに力を貸してくれるかも知れない。そうなれば嬉しいのに。
のんびりと心地よい充実感を味わう彼らの元に、突然無粋な荒々しい足音が聞こえてきた。何気なくそちらを見ると、朝市の門からは数人の傭兵と思われる人物が急いで入ってくるところだった。
「何かあったか?」
小さな声でフランツは呟くと下を向いた。彼らはサラディオ護衛団と呼ばれる私兵集団だ。彼らに顔を見られることが一番まずい。こちらに来るなと願うフランツの考えとは裏腹に、彼らは迷わずこちらへとやってきた。
「……?」
帽子の隙間からそっと伺うと、何も分からないアンナがきょとんとして彼らを見ていた。彼らの代表らしい男が前に進み出た。
「代表者のオルフェは誰だ?」
高圧的な男の問いに、師匠オルフェは全く動じることなく飄々と立ち上がった。
「私ですよ」
周りにいた人々は何事かと立ち止まって、声を潜めながら事の成り行きを見守っている。緊張と嫌悪感に微かに拳を振るわすフランツに、おそらく気が付いているだろうオルフェは、フランツの師として傭兵の威圧に全くひるむこともなく男を見返している。
ふと気配が動く。隣に座っていたリッツが、口を付けていたカップを音も立てずに床に置くと、俊敏な動作で大剣に手をかけたのだ。
緊張で身を固くした瞬間、リッツの口から驚きの声が漏れた。
「……あっ!」
相手の男も同じような声をあげる。次の瞬間二人が口にしたのは意外な言葉だった。
「お前、ジン!」
「た、隊長!」
傭兵部隊の男は驚いてリッツに駆け寄った。フランツも思わず顔を上げて二人を見上げてしまう。ジンと呼ばれた男は、堂々と相手を見るリッツに比べて卑屈な感じの笑みを浮かべた男だった。だがリッツと同じような、雰囲気も身にまとっている。腰に差した剣は使い込まれていて、実力者であることを思わせる。
「隊長、こんなところで何を?」
もっと驚いたのはジンと呼ばれた男の部下達とフランツ達だった。
「お前こそ何やってんだよ」
リッツの声から一気に緊張感が無くなる。呆れたような口調で大剣を背負い直し、まじまじと男を見つめた。それに対して、ジンと呼ばれた男は、困惑したまましどろもどろに返事をしている。
「いや、俺は……ここの私兵を……ちょっと」
「何でこの国にいるんだよ?」
「隊長を捜しに来たんじゃないですか!」
ジンが叫んでから急に周りを見渡して黙る。そのあとは小声になった。
「またお前、金に目が眩んだのか」
「そんな身も蓋もない言い方を……」
「違うのか?」
「……違いませんがね……」
決まり悪そうにジンがため息をついた。どうやら彼はリッツを探してきたのに、この街で金に目がくらみ、護衛団にフラフラと雇われてしまったらしい。そういえば護衛団の給料は腕に応じて相当な金額になる。
「そういうヤツだよな……」
ため息を付きながらリッツが頭を掻いた。呆れられていると知ったのか、ジンは愛想笑いを浮かべてリッツを見ていた。街の人々と同じように、媚びる目だとフランツは思う。だからか、その笑いが卑屈に見えてしまうのだが、気のせいだろうか。
しどろもどろのジンをまじまじと見て、リッツがため息をついている。リッツにしても、彼がここにいたことがとても意外だったらしい。アンナが何事かとリッツの服をつんつんと引っ張る。
「ああ、こいつ俺が傭兵だった時の元部下」
アンナとオルフェは顔を見合わせる。フランツの驚きはそれ以上に大きい。リッツは傭兵だったのか。初めて知った。どおりで初めて見た時、普通ではない目をしていたはずだ。
「名誉と金に弱い奴で、腕はあっても信頼とは無縁の欲深だ」
あっさりとそう評したリッツに、ジンは苦笑いしながらも、情けなく呻いた。
「言い過ぎですぜ、隊長」
「だけどこの男は確か、護衛団の中でもトップをいく実力の持ち主で、ヴィル・ルシナが大金で無理矢理彼を召し抱えたって聞いたけど?」
不思議そうにオルフェがそういった。どうやって情報を仕入れいているのか知らないけれど、オルフェはこの街のことにとても詳しい。時々フランツはその事にかなり驚かされる。当然のことながらフランツはそんなこと一つも知らなかった。
リッツをじっと見上げた。そのジンの元上官とは、一体リッツは何者なのだろう。
「俺はしばらく戻らねえぞ? いっつも何年放浪するか分からねえっていってるだろうが」
「分かってますよ。でも上司の命令は絶対でしょ?」
「……傭兵のくせに何いってんだか」
リッツはため息をついて頭を掻いた。あきれ果てたといった感じのリッツに、薄ら笑いを浮かべつつ、ジンは愛想笑いを浮かべて答えた。
「いいっす。多分俺も戻らないし……」
「だろうな」
どうやらリッツを探しに来たのは建前で、彼にリッツを連れ戻す気はないようだ。おそらく彼の待遇はかなりよく、ここにいることが幸福なのだろう。
「でもお前、あこぎなことしてんだろ?」
「う……」
ジンは口ごもった。
「後で痛い目に遭うのは自分自身だぜ? せいぜい気をつけるんだな」
「分かってますよぉ」
へらっと、情けない顔で笑ったジンの目は笑っていない。何だか不気味な男だ。でもこんなやりとりを、他の私兵が見ている義理は当然ない。痺れを切らした他の私兵が、彼らに向かってがなった。
「オルフェさん、あなたを誘拐で連行します」
「はぁ?」
リッツとアンナは意外な罪状に思わず素っ頓狂な声を挙げた。
「誰が誰を誘拐したって?」
リッツがジンの首根っこを掴んで持ち上げながら、尋ねた。ジンの足が空中で苦しげにぶらぶら揺れた。
「サラディオ領主の息子ですよ~」
真っ赤な顔で必死に息を吸おうとするジンの苦しげな言葉に、フランツは思わず目を見開く。押さえていた怒りと、それに伴う震えがまた襲ってくる。
「サラディオ領主の息子~? んなもん、どこにいるんだよ?」
心当たりのないリッツが驚いた声を挙げた時、フランツの我慢は限界を迎えた。ゆっくりと立ち上がると、フランツは被っていた帽子を思い切り地面に叩き付けた。
「誘拐なんてされてない!」
怒鳴ると、リッツがハッとした顔でこちらを見た。
「……フランツのことか?」
リッツが持ち上げたままのジンに尋ねると、ジンは苦しげにコクコク頷いた。リッツが呆然と手を離したので、やっと解放されたジンが床に転げ落ちる。
ようやく立ち上がり態勢を立て直したジンは、他の私兵たちの前で威厳を取り戻そうとするかのように一つ咳払いをし、リッツにはっきり告げた。
「彼がサラディオ領主ヴィル・ルシナの一人息子、フランツ・ルシナ様です」
Ⅶ
店を畳んだ彼らは、護衛団に囲まれてルシナ家の敷地へとに足を踏み入れた。門の中は広く、整備された巨大な庭園がある。広い敷地内にはいくつかの建物があり、その中央にある巨大な建物が目的地らしい。
リッツはいくつかの自治領主の館を見てきたが、その中でもここサラディオは一、二を争うほど大きかった。ここサラディオの領主は、代々商人であり、かなりの資産家だから、この大きさも同然だろう。
「教会の丘が全部はいるよぉ……」
アンナも大きな瞳をまん丸く見開いて呟いた。確かにあの教会ならばこの敷地内に丘ごと引っ越すことが可能だろう。いや、それでも土地が余るかも知れない。街道沿いの街の中心にこんなに大きな家を建てるルシナ家の財力がこの家を見れば一目瞭然だ。
ちらりと横に立つフランツを見ると、先ほどから黙りこくったままで、怒りに燃える青い瞳は険しいままだ。いつの間にやらオルフェの馬とボロ馬車はどこかへと片付けられてしまった。
庭園の中央を通り、予想通り巨大な中央の館へ入った四人は、一緒に応接室へ通された。豪邸の中にはいると私兵と使用人がフランツをすぐに別室に連れて行こうとしたのだが、フランツの激しい拒否によりそれが出来なかったのだ。
四人だけしかいない応接室だというのに、何だか妙な沈黙が支配している。この緊張感と怒りの中心にいるのはフランツである。今のフランツは、とてもじゃないが話しかけられそうな雰囲気ではない。
仕方なくリッツはソファーにもたれかかって大きくため息をつきつつ周りを見渡した。誰もいないというのに、応接間は赤々と高級なシャンデリアが灯され、炎がキラキラと壁に反射していた。
壁際にあるチェストは重厚な木質で存在感を醸しだし、その上には明らかにこのユリスラ王国製の物ではなさそうな色鮮やかな大きい花瓶が飾られている。そこに飾られた大輪の花も、この北方の地で取れるものではない。かなりの値段がするのだろう。
床はふかふかと毛足の長い真っ赤な絨毯が敷き詰められていて、部屋の中央に重厚なソファーセットが置かれている。ソファーセットのテーブルは、天然木を贅沢に継ぎ足しせずに作ったもので、その中心の隙間には、クリスタルガラスがはめられていた。これもこの国ではあまり見ない物だ。
「すげぇな……」
リッツが口に出したのはこれくらいのことしかなかった。とてもじゃないがこの高級で極彩色の部屋では落ち着けそうにない。だから正直言って羨ましいとも何とも思わないのだ。
「は~」
アンナもポカンと口を開けてキョロキョロしている。初めて見る珍しい物が沢山あるようだが、アンナはあまりお気に召さないらしく、小さく『何だか好きじゃないなぁ』と呟いた。リッツも同感だ。きらびやかに仕立て上げられたものよりも、使い込んだなじみの品の方が、よほど味がある。
しばらく待っているとでっぷりと太った男が、片手で美しい女性を絡みつくように抱き、後ろに傭兵のジンを伴って入ってきた。てらてらと脂ののったその顔が、年相応とはいえず、少々不気味だった。
「お帰りフランツ、心配してたんだよ」
猫なで声で声をかけられたフランツの顔は、嫌悪感で奇妙に歪んだ。この男こそが、このサラディオの商人達を牛耳る領主、ヴィル・ルシナであるらしい。
アンナもポカンと口を開けて男を見ている。初めて見る人種が物珍しいのかも知れない。リッツとしても、この男に親近感をひとかけらも持ち得なかった。どちらかと言えば、近づきたく無いタイプの男である。
街道沿いの商売権の高さや、街全体に漂う、金さえあればいいという感覚は、この男から発せられているような気がして仕方ない。おそらくこの男の見るからに醜いこの体は、他人の金を吸い上げて作られている。
男の笑顔は虚偽と偽りの象徴だ。これが一般市民ならば鬱陶しい奴ですむのだが、自治領主となると、その存在は鬱陶しいではすまなくなる。
サラディオ自治領区に住むものも大変だろう。しかもそれが父親ともなるとまさに悲劇だ。見るからに潔癖そうなフランツには、心から同情を禁じ得ない。
吐き気を堪えるかのように顔をしかめているフランツの感情を知ってか知らずか、ヴィルはガマガエルのような笑い声をあげた。
「ようやく帰ってきてくれて、嬉しいよ。フランツ」
フランツはその言葉にさらに顔をしかめた。無表情かと思ったが、不満や嫌悪感は外に出てくるものらしい。親子をぼんやりと見ていたリッツは、こんな不細工な親で、よくフランツみたいないい男が生まれるものだなと、不謹慎なことを考えていた。きっとフランツは母親似に違いない。
じっとこちらを見つめるヴィルの視線に気が付いて、リッツは眉を寄せた。女性なら別だが、不男に熱心に見つめられるのは良いもんではない。
「お前はこのジンと同じ部隊で傭兵をしていたそうだな。鬼のように恐ろしい戦いをしていたとか。一体その大剣で何人の人間を切り捨ててきたんだ?」
ヴィルの顔が、残忍な興味で輝いている。全く持ってつまらない男だ。傭兵に何人斬り殺したかを聞くなんて、ナンセンスとしか言いようがない。そんなことを数えて悦に入る傭兵なんぞ、戦場では馬鹿扱いだ。
「さあてね。あんたの想像に任せるよ」
吐き捨てるように言ってソファーに寄りかかる。すると隣から少しだけアンナが離れる気配を感じ取る。ちらりと横を見ると、アンナの目がリッツを見て少し怯えている。おそらく今自分は、普段の人の良さそうな明るさが消え失せて、冷酷な目をしているのだろう。
これが傭兵をしていた時の彼の姿なのだが、アンナには、それがやはり怖いようだ。リッツは少し体勢を変えるふりをして、ヴィルに背を向け、アンナに顔を向けた。不安そうにリッツを見ていたアンナに向かって、明るくウインクして見せた。
冗談を言って誤魔化しているように見せかけたのだ。だがそれだけの事で、アンナは少し安心したのか微笑んだ。リッツは心の中だけでやれやれとため息をつく。アンナと共にいる間は、傭兵としての自分はどうやら封印する必要がありそうだ。
傭兵のふりをする時は、嫌な相手に対する時のリッツのポーズなのだとアンナには納得して貰うほか無い。アンナの信じるようないい人でいるだけでは世間を渡っていけない。特に傭兵の世界では。
ヴィルの言葉は、リッツがそんなことを考えている間も続いていた。
「君は相当優秀な傭兵だったらしいじゃないか。経験だってうちのジンを遙かに越えている。どうだ、サラディオ護衛団の指揮権を君にやろう。勿論金は望むだけ出そうじゃないか」
粘り着くような、値踏みするようなヴィルの目と言葉をリッツは冷淡に退けた。
「願い下げだね」
「何故だ?」
「気にくわない仕事は受けない。俺の信条でね」
「計算のできん男だ」
吐き捨てるようにそういうと、ヴィルはジンにリッツをつまみ出すよう命じた。だがジンは全身から脂汗を流して拒否する。ジンという男はコウモリだ。金に釣られてふらふらと敵と味方を行き来することもある。その度にリッツは粛正を加えることもあったから、ジンはリッツには素手でも敵わないことなど、身に染みて分かっているだろう。
リッツはよく、外見上はたいして強くもなさそうだといわれる。この見かけのお陰で、昔は無駄な喧嘩に巻き込まれることも少なくなかったのだが、今の戦場にはリッツに食ってかかる奴など誰もいなかった。そんなリッツの実力をこの場でただ一人知っている彼にとって、リッツに挑むことは自殺行為と同じなのだ。
「俺には出来ません」
自分の命が惜しくなったのか、ジンはあたふたと部屋を飛び出していった。雇い主よりも、金よりも保身が一番重要な小さい男なのだから、仕方ない。
「使えん男だ」
まるで物か何かのようにジンのことを吐き捨てるヴィルに、リッツは小声で呟いた。
「お前には使えんだろうが、俺は使えたよ」
力量の差か、力の差かは知らねえけどな。心の中で呟く。おそらくリッツは力で従えていたのだ。金で命は買えない。だが、ヴィルはもうそのことに興味を失ったらしく、今度はオルフェに向き直った。
「オルフェ先生、あんたがフランツを騙して朝市で働かせているという話は、聞かせて貰ったよ」
オルフェは首を傾げた。一体全体どうしてそういう話になってしまったのだろう。その疑問は、あっさりとヴィルによって解決された。
「あんたがフランツをいいように利用してるのは、八百屋に聞いた。よそ者とお前は共謀し、フランツを利用しているのだろう? 証拠は挙がってるんだぞ!」
八百屋……そういうことをしそうな八百屋には心当たりがある。おそらく朝市で野菜を売っているところを、昨日野菜を売らせてくれと頼んだ八百屋が見ていて、告げ口したのだろう。やれやれだ。
ため息を付くと、リッツは頭を掻いた。
高値で取引される商業権、金が最も重要な人々。本当に面倒な街だ。ユリスラでは一二を争う商業都市が聞いて呆れる。
「はぁ……そうなんですか?」
ヴィルの大声に対して驚きもひるみもせずに、オルフェが鼻の下をこすった。のんびりしたものだ。だがその落ち着いた動作がヴィルの気に障ったらしい。
「聞いておるのか!」
ヴィルはもの凄い勢いでテーブルを叩いた。だが驚いたのは彼に付き添っている女性だけだった。そんなものでは、場慣れしたリッツも、飄々と受け流すオルフェも、世間知らずのアンナすらも動かすことなど出来はしない。
何しろリッツたちは、ヴィルの前に這いつくばらねばならない商人たちではない。ヴィルの機嫌を損ねたことに怯える必要なんて万に一つもないのだから。
今迄その手で何人もの商人を震え上がらせてきたヴィルには、彼のことを意識していない彼らの態度がまた癪に障るらしい。
「フランツ、戻ってこい。お前はこのサラディオを繁栄させ巨大な利益を手に出来る、このルシナ家の人間なんだぞ。それにルシナ家に精霊力を持った人間などおりはせん。精霊使いなど、やるだけ無駄だ」
ヴィルは他の面々に話をすることを諦め、フランツの説得にかかることにしたようだ。だがヴィルの勝手な言葉は、精霊を扱えないことに苦しむフランツを傷つけただけだった。
その挑発に乗らないようにと、フランツが唇を噛みしめるのを、リッツは痛々しく思いつつも見ているしかない。フランツはきっと、何もかもを自ら押さえつけすぎて、感情を表に出すことが出来なくなったのだろう。だがフランツを抑圧し、支配しようとするヴィルはそれに気がつかない。
自分にたてつく者など、いてはいけない。そう思い込んでいるから、息子が理解できないのだ。愚かな奴だ。親子といえども、信頼を無くせば他人よりも遠い存在になるだろうに。
その時、オルフェが不意に頭上を振り仰いだ。リッツもつられて見上げる。オルフェが見ているのは、豪華なシャンデリアだった。リッツも同じように見上げて違和感に気がついた。心なしかシャンデリアの炎が少し大きくなり、部屋の温度が微かに上昇したように感じる。
気のせいだろうか。
「大体お前は騙させていることに全く気が付いておらん。何処の骨とも分からん精霊使いの言葉に載せられ、好きなように使われておるだけだ。わしの元に戻ってくれば、富も名声も思うままだぞ」
ヴィルのまくし立てる言葉は、いちいちフランツの心に怒りの油を注いでいく。フランツの両手は怒りに震えつつ、膝の上で握りしめられている。
やがてャンデリアの炎が、パチン、パチンと音を立て始めた。やはり炎は大きくなり、部屋の温度が上がっている。今度はオルフェだけではなく、アンナも頭上を振り仰ぐ。
「リッツ、聞こえない?」
小声でアンナがそういった。
「何が?」
「『怒れ……破壊しろ……焼き尽くせ』って、すごく怒った声」
リッツには聞こえず、アンナには聞こえる声。それは精霊の声だ。再びリッツは炎が踊るシャンデリアに目をやった。先ほどよりも炎は大きさを増している。
「それに今度は傭兵崩れの男に、子供。お前が付き合うのは屑ばかりだ!」
「屑?」
フランツが低い声で呟いた。シャンデリアの炎が燃え上がり、中心のガラスにひびを入れる。アンナが耳を塞いだ。
「リッツ、声、大きくなるよ」
「これは……そうか!」
アンナとほぼ同時にオルフェは大声を上げた。自分の言葉を遮られたヴィルは逆上し、それ以上の大声で怒鳴り返す。
「今話しているのはわしだ! 黙れ、えせ精霊使い!」
豪奢なシャンデリアの、炎が入っていた十数個のグラスが、内側で大きく激しく猛る炎に負けて一斉に砕け散った。炎の輝きに照らされ、輝きながらガラスがヴィルの上に降り注ぐ。とっさにリッツはアンナを抱きかかえた。オルフェも身を守るように身をかがめる。
「な、に……?」
突然のことに動揺して、ガラスの破片の直撃を受けたヴィルが、血を流しながら言葉を失う。
「炎の精霊……怒ってるよ。すごく怒ってる……」
腕の中のアンナはそういうと、こわごわと視線をフランツに向け、体を硬くしてリッツの服を掴んだ。
「どうした?」
「フランツが取り込まれちゃう」
「何?」
リッツは精霊を見ることが出来ない。だがフランツの異常には気が付いた。彼は体中に怒りを纏って、実父をにらみ据えていたのだ。その表情と、瞳が尋常ではない。
「アンナ、どう見えてる?」
「炎の精霊が、破壊の衝動に駆られて、フランツの周りを渦巻いているの」
アンナの言葉と同時に、部屋の壁に取り付けられていた幾つもの小さなシャンデリアのガラスが割れて飛び散った。部屋の温度はどんどん上がる。もう涼しい季節だというのに、真夏のように部屋の中は暑い。
リッツは小さく舌打ちしてフランツを見た。異様な気配に満ちてきた中で、フランツは静かな怒りを燃やし続けている。フランツは、降り注ぐガラスを避けようともせず、青い目を憎しみと嫌悪感で燃え上がらせている。その目の輝きは、まるで青い炎だ。
一同が混乱する中で、フランツの恐ろしく冷然とした声が響いた。
「黙るのはお前だ」
フランツの氷のように冷たい口調に、ヴィルは震え上がった。そこにいるのはもう、彼の溺愛するフランツ・ルシナではないことに気が付いたのだろう。
すでに炎の気配は、フランツの周りで激しく燃え上がり始めている。彼は炎の精霊使いなのだろう。それに初めて気がついた。フランツがリッツやアンナの前で精霊を使うことなど無かったし、オルフェも何も言わないから、知らなかった。
「僕を理解しようとしたのは、師匠だけだ。僕はお前に理解されたくなんてない。お前は汚れた金まみれの豚じゃないか。恥辱にまみれ肥え太った醜い豚に、師匠を馬鹿にする権利など無い」
「ひっ!」
ヴィルが自分に向けられる感情に全身を振るわせながら逃げだそうとした。そんな実父を見据えながらフランツはゆっくりと立ち上がり、ヴィルを指さした。
「お前なんて……消えてなくなれ」
その言葉は明らかにフランツの声ではなかった。だがフランツの口から発せられたことだけは確かだ。
リッツがギョッとしてフランツを見ると、彼の瞳には感情の色がなかった。ただただ怒りで青く燃え上がっている。この状態が何であるかは傭兵であり、精霊使いと共に戦ったこともあるリッツは知っている。
精霊に心を乗っ取られかけている……。
精霊は体を持たない。彼らは自然に存在する万物を身にまとう。だが術者と精霊の思いが重なり、精霊使いが精霊たちに体を明け渡すと、精霊たちの暴走が始まってしまう。自らの力を無尽蔵に仕える精霊使いの身体は、精霊たちにとっても都合がいいのだ。
フランツは表情のない能面のような顔で手を胸の前で静かに合わせた。
「全てを焼き尽くす死と再生の炎よ、我にその力を与えよ」
「やめろフランツ!」
リッツは詠唱の完成をさせぬよう、慌ててフランツを後ろから羽交い締めにしたが、一足遅かった。
「駄目だリッツ君! フランツはトランス状態に陥っている!」
オルフェはフランツを揺さぶる。だがすでに遅く、炎は部屋中に広がり始めていた。まるで生き物のように、滑らかな動きで炎が床を這う。
「フランツしっかりしなさい! 炎に支配されるんじゃない! 聞こえないのか、フランツ!」
オルフェの必死の言葉も今の彼には届いていないようだ。事の成り行きが全く掴めないヴィルは、呆然とソファーに座り込んでいる。どうやら腰が抜けてしまったらしい。
傍らにいた女性は、フランツの豹変以後、とっくに部屋から逃げ出していた。もはやヴィルを気にする人間は、この部屋には誰もいない。
「いったいどういう事だよ?」
渦巻き始めた炎の中で、リッツは怒鳴るようにオルフェに尋ねた。
「今迄彼は、感情を封印することによって精霊を扱う能力すらも体内に封じてしまっていたんだ。だから驚くほど才能を持っているのに、炎の精霊が使えなかった。でもその感情のたがが外れたんだよ。今迄抑えつけた感情が一気に解放され、同時に炎の力も一気に解放され爆発したんだ」
こんな状況で冷静に説明されても仕方ない、彼が聞きたいのは、これにどう対応するかだ。
「だから、どうしたら止まるんだよ!」
これに対するオルフェの答えは絶望的だった。
「私たちにはどうすることも出来ない。彼が心の中にある怒りに勝たない限り、この炎は押さえることが出来ない」
「馬鹿な……」
「フランツの素質は炎の精霊使いだ。炎の精霊は総ての精霊の中でもっとも激しい精霊なんだ。その精霊に選ばれたと言うことは、本当のフランツは激情の持ち主ということになる」
「おいおい。冗談きついぜ」
異様な気配を漂わせるフランツに目を向けると、陶酔したような表情のまま、残忍な笑みを浮かべ立ち続けている。彼を支配する炎は、完全に破壊を楽しんでいるようだ。
炎の渦は、やがて徐々に形を取り始め、やがて大きな火の竜に姿を変えた。
「火竜……」
オルフェが呆然と呟いた。リッツもオルフェと同じようにただ驚くことしか出来ない。フランツが体内に閉じこめていたのは、炎の精霊の中で最上位に当たる火竜だったのだ。
それほど彼の激情は、強く心に封印されていたということだ。
火竜は広い応接室の中をなめ回すかのようにゆっくりと回転した。火竜が触れたところから激しい炎が燃え広がっていく。炎に巻かれた部屋の中で、必死に対応策を考えていたリッツは、ようやくアンナの水の力を思い出した。
「アンナ、水竜だ! 水竜を呼び出せ!」
「ええっ! ここで?」
「それしかないだろう!」
「そっか!」
アンナに指示を出しながら、リッツは大剣を抜いた。驚いたのはヴィルだった。
「お前、フランツを斬るのか!」
ヴィルのあまりにも短絡的な思考に、リッツは呆れ果て、大剣をヴィルに向かって一降りした。
「ひぃぃぃっ」
「そういやあ、お前を斬ればフランツの奴も落ち着くかもしれねえな」
「ひぃっ!」
「そもそもあいつを怒らせたのはお前だもんな」
ヴィルはまん丸の体をこれ以上ないほどに丸く縮めた。親なのだから、少しは息子を何とかしようと思わないのだろうか。まあ出来た親だったら、このように息子を追い詰めてはいないだろう。
「俺はこんなくだらないことで死にたくないからな、この剣で突破口を開くのさ」
崩れ落ちたヴィルを無視して、リッツは部屋を見渡した。そうこうしている間にも炎は燃え広がっていく。アンナは何故だかぱたぱた走り回っている。かなり焦っているらしい。
「落ち着けよアンナ!」
「だってだって!」
「どうした?」
「水がないと水竜呼べないよ!」
アンナはついにその場でじたんだを踏み始めた。のんびりした田舎から出てきて、突然実戦だ。相当混乱して当たり前だろう。だが今はアンナの力を借りるしか、助かる術がない。一瞬でもいい、炎の力を弱めなくては脱出出来ない。
素早く部屋中に目を走らせたリッツは、アンナに再び指示を飛ばした。
「その花瓶の花を引っこ抜け! 水入ってるだろ!」
アンナは花瓶に活けてある大きな花束を力任せに引っこ抜くと花瓶の中を覗き込んだ。
「どうだ?」
「いっぱいある!」
「いけるか?」
「ちょっと待って!」
アンナは力任せに花瓶を転がす。絨毯のない場所まで花瓶を転がしたアンナは、その場で床に水を撒いた。水は床に見る間に広がり、大きな水たまりとなる。
「いけるよ!」
「よし! 頼むぜ」
リッツが言うのとほぼ同時に、アンナの詠唱が始まっていた。
「大地を潤す水の精霊よ、我に力を与えよ! 水竜来て!」
床の水たまりから、巨大な水の竜が現れた。水竜は水という媒介をゲートにして召還される。だからこのように少ない水であっても、精霊である水竜を呼び出すことは出来るのだ。
ただこの炎の中だ。威力は半減だろう。
「水竜お願い、火を消して!」
アンナの声に答えて水竜は咆哮した。水竜が翔たところはたちまち鎮火していく。だが炎の大元である火竜はすぐにそこへ火を付けてしまう。これでは意味がない。まさに焼け石に水である。
「リッツ駄目だよ~、火竜が止まんなきゃどうしようもないよ~」
アンナが涙目で訴える。水竜は健闘しているが、火竜の勢いが強すぎてどうにもならない。部屋の中は、水竜と下流のぶつかり合いで、あっという間に蒸し上げられそうな程の蒸気に包まれていく。このままでは水竜がもたなそうだ。
もちろん人間も……。
「くそっ!」
火竜の主であるフランツはまだトランス状態で、炎に身を任すようにゆっくりと揺れている。相変わらず瞳は何も映していない。
「どうする……どうしたらいいんだ!」
リッツの絶叫も虚しく炎は燃え広がるばかりだ。このままでは本当にここにいる全員が焼死を免れない。考えれば考えるほど思考回路がこんがらがっていく。リッツは無意識に自分の懐に入っている蒼い珠に手を触れた。
一瞬こんな時に母シエラがいたら、炎の精霊を説得して貰うことが出来たのに、などと考えても仕方のないことを思ったが、今そんなことを考えていてもどうしようもない。
こんな時にもかかわらず、リッツはふと父カールのとある行動を思い出していた。精霊の悪戯で湖から敷いた水道管が詰まってしまった時カールは、水道管を斜め四五度の角度から叩いていた。
そして得意そうにリッツにいうのだ。
『リッツ、斜めに叩くのがこつだよ』
『え~? 精霊なのに?』
『そうさ。古来から中身が得体の知れないものは、斜め四十五度で叩くという言い伝えがあるんだよ』
『そうなんだ』
何で今そんなことを思い出したのか分からないが、それもありだ。フランツの中に入っているのは水道管と同じく精霊なのだし、正気を取り戻させるために、衝撃を与えるのも有効な手段の一つだ。
「ええい! こうなりゃヤケだ!」
リッツはフランツに駆け寄り、彼の正面に立った。ためらいもなくフランツの頬に平手打ちする。炎の音に負けないくらい大きな音が部屋に響いた。返す手でもう一撃平手で打った。拳で殴りつけたらフランツを気絶させてしまうから、これがぎりぎりの衝撃だろう。
痛みなのか、衝撃なのか、かすかにフランツが反応したのをリッツは見逃さなかった。
「師匠が大事だっていってたのに、焼き殺すのか?」
フランツの目がかすかに揺れた。
「俺たちも殺すのか? 一緒に仕事して、結構楽しかったろ? なのに俺とアンナをお前はその手で焼き殺すのか? お前、それで満足するのかよ!」
表情のなかったフランツの瞳に感情の光が戻った。
「僕は……」
「気がついたか。 じゃ、火竜を引っ込めろ!」
「無理だ……」
「無理って……」
「引っ込め方が分からない」
「あー……お前見習いだっけ」
万事休すか。
「みんな……逃げてくれ。僕には止められない……」
淡々としたフランツの言葉だが、その表情は苦痛に満ちていた。自分のふがいなさをフランツは自分で責めているのだ。
何だこいつ、やっぱりいい奴じゃないか。
そもそもリッツとアンナを無条件に助けようとしたのだから、見た目の性格に反して、本人が気がついていないだけで、かなりお人好しだ。
フランツ自身がそれに気がつかせないうちに死なせるのは少し惜しい。リッツは自分がどうしようもない男であることを嫌と言うほど知っている。だからこそ、自分を見失ってそのまま命を落とす若者など見たくない。きっと彼らはリッツなどよりも輝かしい未来を背負っているのだろうからだ。
フランツも、そしてアンナもだ。自分にはない未来を持つ彼らを死なせるわけにはいかない。
リッツは大きく息を吸い込んだ。それならば、多少の危険があろうが、ここから無事に逃げ出してやる。もちろん、フランツも抱えてだ。
「ば~か、仲間を見捨てて逃げるか。な、アンナ」
不敵な笑みを浮かべながら振り返ってみると、アンナもリッツの問いかけに頷いて微笑んだ。
「うん! 一緒に頑張ったもん。もう仲間だよ。絶対に一緒に助かろうね!」
Ⅷ
フランツの怒濤のような怒りの中に、ぽつりと一滴の水が投じられたような気がした。
怒りに支配されていた心が、少しずつ静まりかえっていくのをフランツは確かに感じた。
二人の笑顔にある、暖かな何かを逃したくなくて、フランツは静かに目を閉じた。
……これが人を信じるって言うことなのか。
計算高さも、裏の意味もない。理屈などもなくて、ただ言葉通りに相手を信じること。喩えそれが相当な危険にさらされていたとしても。
リッツもアンナもフランツが炎を操ることが出来ると信じて、火竜を押さえてくれている。なのに、ここで自分が諦めてはなんにもならない。
火竜の勢いが少し収まった。このチャンスを見逃す手はない。決意を持って再びフランツは目を開いた。リッツがアンナに指示を飛ばしているのが分かった。
「火竜を追いつめて勢いを落とさせるんだ!」
肩で息をしていたアンナが顔を上げて頷いた。
「やってみる! 水竜、お願い!」
水竜は火竜を絡め取るように取り囲んだ。火竜は苦しげな咆哮をあげる。
「フランツ、お前一人で何とかするのは無理だ。だから俺とアンナがフォローする! 頑張って火竜を押さえろ!」
一歩踏み出そうとしてよろけた。誰かに支えられてかろうじて踏み止まる。
「大丈夫かい、フランツ」
オルフェだった。見たことがないくらい心配そうな顔をしている。
そうか、とフランツは不意に悟った。オルフェもフランツをずっと支えていてくれたのだ。何の感情もあらわにしないフランツを、面倒がらずにずっと……もう五年も。
それなのにフランツはオルフェを少し疎ましく思うこともあった。精霊を扱えないことを、少しだけオルフェのせいにしていたこともあった。
師匠なのに、どうしてもっと効果的な方法を教えてくれないのか、どうして何年も共にいるのに、精霊を扱うことができないのか。本当は便利な使用人が欲しいだけではないのか。そんな風にオルフェを見ている部分も、自分の中には確かにあった。
でも違う。違った。フランツは支えられていることに気がつかず、一人きり殻に引きこもり、支える手を見て見ぬふりをしていた。
そんなフランツに、精霊たちは歩み寄ろうとしなかった。当然だ。フランツが歩み寄りもせずに命令を聞けと一方的に命じていただけだったのだから。そんなことをされたら、フランツは心をよりきつく閉じてしまう。
そうだ。オルフェは決してそんな風にフランツに命じ、フランツを押さえつけることなどしなかった。きっとフランツが足りない何かは、そこにあったのだ。
「フランツ?」
「大丈夫です」
「そうかい? 手伝えることがあったら手伝うよ?」
「本当に大丈夫です。僕が押さえます」
オルフェに離して貰うと、フランツは一人で火竜に向き直って立った。
「お願いすること……信頼すること……」
アンナが水竜を自在に操る時に言っていた言葉を思い出し、フランツは火竜をまっすぐに見つめた。
大丈夫だ、今まで無かったぐらい落ち着いている。心の中に苛立ちや怒りのような焦りはない。
もしかしたらこの状況が見せた幻かもしれないが、彼には今、信じたいものがあり、信じてくれるかもしれない人がいる。
今なら火竜を操れる。
「火竜よ、我の求めに応じよ! 戻れ……戻ってくれ、僕の中に!!」
火竜は鋭い咆哮を放ち、眩い光になった。
「フランツ!」
リッツとアンナの声が聞こえたが、答えることなど出来ず、その場に必死で立ち続ける。やがて眩い光は、一直線にフランツの中に吸い込まれていく。
「うっ!」
体中が燃えるように熱い。まるで体の中から焼かれているみたいだ。歯を食いしばっても、苦痛の声が漏れるが、体に感じる痛みよりも、火竜を従えようとする意志が勝った。
絶対にここで投げ出したりしない。痛みに反して、恐怖を感じてはいなかった。ただ火竜を収めたかった。
信じてくれた人たちのために。
光が彼に全て収まった時、彼の手元に小さな光が残った。無意識にそれを握りしめる。
フランツは初めて炎を操ることが出来たのだ。
自分を見つめている三人の心配そうな顔に、大丈夫だと微かに微笑みを送りながら、フランツの意識は徐々に遠のいていった。
「突破口を開く! 脱出するぞ!」
消えゆく意識の中で、自分を支えるオルフェとアンナの腕と、リッツの大声だけが残った。
Ⅷ
「こりゃ見事に焼け落ちたもんだな」
リッツが感嘆の声を上げた。広い庭と本館の左右に建つ建物はそのまま残っているが、本館があった部分には、真っ黒に焦げた家の残骸が散らばっているだけだ。
「よく助かったよね、私、駄目かと思ったもん」
アンナは心の底から安堵の吐息を漏らしつつ、しみじみと頷く。あの館から必死の思いで脱出した後、庭園で見上げた本館は激しい炎を吹き出しながら怖いぐらい美しく夜の闇の中で燃えていた。
怪我人は多少でたものの、これだけの規模の館が燃えたのに死者が出なかったのは本当に幸いだった。もしこれがヴィシヌの教会で起こった火事だったらと想像してしまうと、本当に怖い。
柵から遙か奥に見える大邸宅の回りで、沢山の人々が取り壊し作業に追われていた。本邸が燃えたものの、ヴィル・ルシナの敷地内には、別宅がいくつかあるから、住むところに困らないそうだ。それにオルフェによるとルシナ家には、どうやら大量の隠し財産があちらこちらにあるようだから、あっという間に本邸も再建するだろうとのことだ。
それなら貧乏人のリッツとアンナが心配する必要など、何もない。
不意に頭の上に、リッツの手がポンと載せられた。少し重たくて、でも温かい手だ。
「ま、怪我人もなかったんだから、よかったよな」
「本当によかったよ。安心しちゃった」
暖かなリッツのその手が、アンナの頭を軽くぽんぽんと叩く。それからちょっと撫でられる。見上げるとリッツはいつものように楽しげな笑みを浮かべてアンナを見下ろしていた。それだけのことなのに、アンナは心から安心した。
リッツはアンナにとって不思議な安心感をもたらせてくれる大人だ。今まで子供の中で世話役として生きてきたアンナにとっては、養父以外に初めて頼れる存在で、そして無理して大人のふりをしなくてもいい存在でもある。
つまりアンナはリッツといると気が楽なのだ。そのせいかリッツの言うことは何でも信頼できる。
「んじゃ、いくか」
「うん」
火事の後、疲れ切った体をオルフェの家でゆっくり休めたリッツとアンナは、午前中から買い出しに歩いていた。改めてアンナの旅装を整えたり、携帯食料を買い込んだりするためだ。ここから先は、どこへ行くにしてもしばらく街道で野宿の生活が続くのだそうだ。
ルシナ邸が燃えても、サラディオの街はいつも通りの賑わいに溢れていた。領主の家が燃えたからって、流通が止まることがないんだと、アンナは妙に感心してしまった。
街の中をそぞろ歩き、そしてリッツのすすめでいくつかの必需品を買い込んで鞄に詰めた。とたんにずっしりと鞄が重くなった。その重さの中に、アンナの思いも含まれている。ヴィシヌからここまで来るのだって、ヴィシヌを出たことがなかったアンナからすれば旅だったのだが、ここサラディオで本格的に旅装を整えて初めて、アンナの本当の旅が始まるのだと実感した。だからアンナの決意と同じぐらいの荷物の重みが肩に掛かる。
この旅の先に、いったい何が待っているんだろう。両親を捜す旅の果てに待っている両親って、いったいどんな人たちなのだろう。期待と不安で胸がぱんぱんだ。
「そろそろ行くか?」
リッツが明るい笑顔で荷物を担ぎ上げ、アンナの頭をまたぽんと軽く叩き、アンナを促した。それだけで少し気が楽になった。
まだ始まったばかりなのに心配してても仕方ない。
「うん!」
アンナは荷物を肩から斜めにかけ、元気にリッツを見上げる。持ってきた野菜が思いの外高値で売れて、これからの季節に必要な暖かい服も防寒具も結構いいものが購入出来た。お世辞にも美味しいと言えないけれど、最低限の携帯食料も買った。これでもうサラディオの街を出ることが出来る。
アンナはふと焼け跡の方に目をやった。フランツはこれからどうするのだろうと思ったのだ。
二人がオルフェ宅を辞する時、フランツは疲れてまだ寝ていたので、結局何も言わずに出てきた。精神的にも肉体的にも、フランツは疲れ切っているとオルフェの聞いたからだ。黙っていくのも悪いかなと少し考えたけれど、それはそれでよかった気がする。
きっとフランツはこれからの修行で、立派な精霊使いになるだろう。感情的になっていたとはいえあれだけ立派な精霊を扱えるのだから。
負けないでね、フランツ!
心の中でアンナはフランツにエールを送る。
その時、リッツが足を止めた。そこはサラディオの街の中心に近いところで、西と東へ行く旅人の街道と王国の南に向かっている細い国人の街道が交わった場所だ。そして北に向かえばアンナの故郷ヴィシヌがある。リッツが軽く身をかがめてアンナを見つめ、いつも通りの陽気で気軽な調子で尋ねてきた。
「さてアンナ、お前何処に行きたい?」
賑わう街道のざわめきの中でアンナは足を止め、背の高いリッツを見上げた。
「え? 私が決めていいの?」
意外な提案にアンナが驚くと、リッツは楽しげな笑顔で後ろ髪をかき混ぜた。一房だけ長い髪が、それに合わせて弾むように揺れる。
「今迄あちこち行ったから、別に行きたいところもないんだよな。お前が行きたい方にいこうぜ」
「いいの?」
「いいさ。まだ行き先すら決まってねえしな」
そういわれると迷ってしまう。行きたいところ、見てみたいところ……。アンナは地理に詳しくないからどこに行きたいのか自分でも分からない。
迷っていると、ふと頭の中に大きな大きな青い世界が広がった。絵本でしか見たことがないあの景色。
「海が見たい! 山しか見たことないんだもん」
海を見られる日が来る何て絶対に無いと思っていた。海はヴィシヌからは遠すぎるし、アンナには村を出る事など考えられなかった。
でも許されるなら、海をこの目で見てみたい。
「よし決まり! 海へ行こう!」
明るくそういったリッツが荷物を背負い直した。
「本当!?」
「もちろん。楽しみにしとけ」
「うん!」
すごい。何だか夢を見ているみたいだ。軽い足取りでステップを踏みながら、アンナは街道を歩く。その後をのんびりした足取りでリッツが歩いてくる。なのに身長差があるから、歩く速度は一緒だ。そんなことが妙に面白い。
「いい天気で良かったね!」
アンナは大きく息を吸い込んだ、朝の空気は一日の中で一番澄んでいて、美味しい。
「そうだな、まさに旅立ち日和だ」
ご機嫌な二人が街の出口に差し掛かった時、無愛想で顔に負った火傷に絆創膏を貼った男が、足下に荷物を置いて立っているのが目に入った。
「あ、フランツだ~!」
アンナは気が付いた瞬間に駆けだしていた。
「リッツ、早く!」
振り返って呼ぶと、リッツは笑みを浮かべてゆっくりと歩いてくる。二人揃ってフランツの前に立つと、フランツは相変わらずの仏頂面で二人を見た。
「何処へ行くの?」
何気ないふりを装って尋ねてくるフランツに、リッツもフランツの荷物には気が付かないふりをしていう。
「決まってんだろ、行きたい方にぶらぶらいくのさ」
リッツの言葉に、フランツはポケットからリッツとアンナが持つのと同じ珠を取り出した。
「これ師匠が見せろっていうんだ。二人に見せたら分かるからって」
リッツとアンナはその珠を見てから顔を見合わせた。それからおもむろに自分たちの珠を出してみた。
それは彼らの物と全く同じだった。
それにしても見せた覚えのないオルフェが、何故知っていたのだろう。
年齢といい、なんでも見通すようなあの視線といい、オルフェは謎の人物だ。
「これは火竜が僕の中に戻る時、僕に授けたものだ。この珠の意味を知るにはリッツ達と一緒に行けと」
笑みを浮かべながら聞いていたリッツが、不敵な笑みを浮かべてフランツを見た。
「とか何とかいってお前、仲間に入りたいんだろ?」
やっぱりそうなのかと嬉しくなって、アンナはフランツを期待に満ちた目で見上げた。黙ったまま二人を交互に見ていたフランツが、小さくため息を付いて、顔を上げた。前髪に隠れた青い瞳が、じっと二人を見つめる。
「金勘定の出来ない二人がこれから旅を続けていくことは不安だろ」
リッツは懐に手を入れて、何かを取り出した。
「じゃ、お前に任せる」
それはアンナの野菜を売って稼いだお金、全額だった。リッツはあっさりとフランツの手のひらに載せると、それを彼に託した。アンナもそうすることに異存なんてあるはずがない。その重みは、リッツとアンナがフランツを信用しているよという証なのだから。
不意にフランツが目を細めた。これはもしかして……。
「もしかして笑ったか? アンナも見たろ?」
「うん、見た! 絶対笑ってた!」
「……笑ってないと思うけど……でも……」
元の通り無表情ではあったが、フランツは二人を交互に見た。確かに無表情だ。
「少し、嬉しいんだ」
だけどアンナはフランツが嬉しいと感じていることがちゃんと分かった。不思議だ。フランツに表情は乏しいけれど、びっくりするぐらい瞳に表情がある。
これなら無表情でいられても、ちゃんとフランツの感情を読み解けそうだ。といってもすぐには無理だろう。時間を掛けて読み解くしかない。
「んじゃ、とりあえず旅立ちますか」
のんびりとそういったリッツにアンナは元気に返事をし、フランツは無言のまま頷いた。
快晴の空には雲一つ無い。
◇ ◇ ◇ ◇
「フランツ、お前街の外に出るのは初めてか?」
街道を歩き始めてしばらくした時、リッツが不意にフランツに言った。フランツは背の高いリッツを見上げながら小さく頷く。
「初めてだ」
「そっか。じゃあ、あんまり辛かったらアンナに面倒見て貰えよ」
そういうと、リッツは荷物を背負い直して数歩前に歩いて行ってしまう。
「……は?」
「そうだよ。遠慮無く言ってね!」
アンナもフランツを見上げて微笑む。何だか妙に楽しげだ。
アンナはどう見ても年下だ。それなのに何故年下に面倒を見られなくてはならないんだ? 思わずアンナを見据えてしまったのだが、アンナは全く動じずにニコニコと笑顔をフランツに向けた。
「いつでも言ってね! そういうの得意だから!」
困惑しているフランツが顔をしかめると、アンナは胸を張ってフランツに向き直った。
「それに私の方がお姉さんだもん!」
「え……?」
絶句するフランツ相手にアンナは胸を張る。
「だって私、三十歳だもん」
「え……?」
「フランツは?」
「……僕は……もうすぐ十八」
今は十七歳。誕生日までは十日もないから、ほとんど十八歳だ。
「そうなんだぁ~。若いね」
しみじみとアンナが頷く。
「アンナは……人間じゃない?」
「う~ん、その言い方だとちょっとやな感じだけど、種族的にはそうみたい。リッツと同じ血が流れてるのかもしれないって」
「精霊族の血が混じってるって事?」
「うん。そうかもって。でも本当は正体不明なんだ~」
とんでもない告白だというのに、何故だか楽しそうにアンナが笑顔で言い切った。フランツは呆然としながら呟く。
「……そうだったのか……」
「うん。そうだよ」
フランツは、軽く額を押さえて呻いた。
「……精霊族みたいな人間が、唯一の人間なのか……」
その声に先を歩いていたリッツが振り返った。
「ん? 何か言ったか?」
「別に」
フランツは空を見上げた。フランツの出がけに、師匠オルフェはフランツにこういった。
「フランツ、君はきっと彼らと一緒にいることによって、色々なことを知るだろう。そのことが君の力になってゆくよ。さあ、行きなさい。今なら追いつくはずだよ。君が自分自身の手で未来を切り開くんだ。分かったね?」
少しだけだけど、フランツにはその言葉の重みが分かったような気がした。
「遅れてるぞフランツ!」
「早く早く!」
気がついたら足を止めていたらしい。フランツは黙ったまま頷くと、早足に二人の背中を追いかけた。
呑気者旅に出る!<了>
こちらで1巻終了です。
お楽しみいただけましたか?
次は2巻を続けてアップする予定です。2巻は一本の長編ですよ。
3人揃ってようやく旅が始まったのに、どうしてそうなるの?
というお話です。
1巻と同じく、月・水・金曜日更新で、行けるといいなと思います。
皆様、お楽しみに~。




