<13>
王城にある執務室で、エドワードは書類の整理をしていた。年末に一月以上も城を空けてしまったせいで、大量の未決済書類がデスクに山を成していたのだ。
年末には駆け込みの、決裁書類が意外と多い。仕事を新年に持ち越したくないのは、皆同じだ。
シャスタがある程度、片付けてくれてはいたようだが、彼は緊急以外の国王の決裁待ち書類に、手を付けることは全くしていなかったようで、面倒な物ばかりが残っている。
これは一種の仕返しだろうか? このような状況に陥ってみて初めて、リッツの『事務仕事は嫌だ。俺は逃げる』という愚痴に共感できる。
だがこれが自分の選び取った道、そう文句をいってはいられないだろう。隣国の王たちに比べれば、一月も放浪できる自分の方が、まだましだ。
ため息をつきつつ、窓の外を見る。よく晴れた日だ。部屋の暖かい空気が、窓を微かに曇らせている。おそらく外は寒いだろう。
一体、今ジェラルドとリッツはどうしているだろうか? そう思うと落ち着かない。
シャスタには『あいつが死んでもしばらくは俺が王でいられる』とはいったものの、自分の子の生死がかかった状況で、落ち着いていられる父親なんぞいるわけがない。
確かに覇気がない息子ではあるが、リッツと何やら話しをしたらしく、真っ直ぐに前を見て出陣していった。今まで見られなかった心境の変化に、内心エドワードは満足している。
きっと親のエドワード、養育担当だったシャスタでは教えられないことを、今回の任務で教わるだろう。それは確信した。だがそれが無事に帰ることと、何ら結びつくことではない。
それにリッツもリッツで、心配だ。王都に来て王城に勤めるようになってからのリッツは、何やら少々変わってきている。
ファルディナの街で再会した時は、昔の少々思い詰めたところがすっかり消え、陽気な男になったと思ったのだが、最近はまた、昔と同じような影が差すことが多々ある。
心当たりは勿論ある。自分やシャスタ、パトリシアに再会したことだ。遠く離れていれば、いくら時間が流れたとて、そんなに時の流れの違いを実感することはあるまい。だが会ってしまえば、自らの時間の流れが、完全に昔の仲間と違うことを自覚してしまう。
それが知らず知らずのうちに、リッツを苦しめているのだ。やはりあの陽気で明るい態度は,リッツの演技だった。リッツは昔と変わらず、やはり今も自分の寿命に苦しんでいる。
長い別離の後に帰ってきたリッツは、昔のようにそんなことを口にしない。真剣に問いつめても、きっとはぐらかされて終わるだろう。きっと長く傭兵として過ごしていた時間の中で、装うことに慣れたのだ。
それは友であり、兄のような立場であったエドワードにとって寂しいことでもあるが、それで強くなれたのならばいいとも思っていた。
でも現実はやはり違ったようだった。
エドワードには、あのリッツの自分の命に無頓着である言葉がどうにも気に掛かってしょうがない。
『もしジェラルドが死にそうになったなら……俺が替わりに死んでやるよ』
思い出して大きく息をつく。ジェラルドに死なれたら自分は大いに嘆き悲しむだろう。それは親として当然だ。たったひとりの息子が可愛くない親などいない。
自分はともかく、ジェラルドの母親であるパトリシアは更に悲しみ嘆き、エドワードを憎むこともあるかもしれない。母親とはそういう物だ。
しかも原因が、自分の命じた作戦の遂行にあるとしたらなおさらだ。取り返しが付かなくなるかもしれないと知りつつ、それでもエドワードは息子が王にふさわしいのかを試すことしかできなかった。
そのために友を巻き込むことになってもだ。
本心から言えば、ジェラルドもリッツも安全な手元に置いておきたい。でも次期国王の息子と自分の相棒に対してできないことだった。
もしリッツに死なれたら、ジェラルドと同じぐらいの悲しみを覚えるだろう。リッツは部下ではない。王となるために戦乱の世を生きたエドワードにとって、唯一無二の心を許せる大切な親友であり、弟のように心配な存在なのだ。
生きていて欲しいのに、リッツは何故死に急ごうとするのか。エドワードはそれにいつも悩まされる。
理由は自分たちの老いにあるのだろうか。若い被保護者と共にいる間は忘れていた、時の流れの問題が重くのしかかっているのか……。
「やれやれ、これでは俺は死ねんではないか……」
一応ケニーにもリッツにも気を付けるよう言ったのだが、ケニーに守りきれるとは全く思えない。気休めだがないよりましだ。
これ以上心配していたら、また書類を放り出してどこかへ出掛けてしまいそうだ。今回は自分がジェラルドに課した指命だ。自分がのこのこ出掛けていってどうする。
待つしかないのだ。それしか……。
エドワードは何の気なしに、壁際の大きな振り子時計を眺めた。
時刻は十一時五十分。
そこでふと思い出した。そういえば、今日は王宮に、現在リッツの被保護者であるアンナとフランツが来ているのだ。グレイグも含めて、一緒に昼食をとる約束をしたではないか。
「そろそろ行かねば、間に合わぬな」
呟きながら書類をさっとまとめていると、慌ただしく扉が叩かれた。
「陛下、私です!」
シャスタの緊迫した声。こんなに緊迫した声を聞くのは久しぶりだ。これはただごとではない。
「開いている」
短く答えると、シャスタは転がるように部屋に飛び込んできた。扉の外で護衛している親衛隊以外の数名もシャスタと共に執務室へなだれ込んできた。
「何事だ?」
短くそう問いかけると、シャスタは青ざめ興奮のあまり震える声で叫んだ。
「怪物です!」
一瞬執務室内を奇妙な空気が流れる。困惑しながらシャスタを見ると、シャスタの目が血走っている。
「シャスタ……落ち着け」
「本当に怪物なんです陛下!」
シャスタは共に入ってきた中で最も若い、一人の男を前に押し出した。濃紺の制服は近衛部隊だ。何故近衛兵が一人でここに居るのだろう。訝しげに青年を見ていると、シャスタが説明した。
「ウィスラー、近衛部隊王城警備大隊教育小隊の新兵です。彼の話によると、本日午前十一時過ぎ、食堂で近衛兵四十人分の昼食に毒が盛られた模様です」
「毒だと! 近衛兵はどうしたのだ? まさか……」
全滅したのかと言いかけたエドワードの言葉を遮って、シャスタが続ける。
「生きています。ですがすでに彼らは人間ではありません」
あまりの言葉に、エドワードは口を閉じた。毒を盛られて、人間ではなくなっただと?
「状況がよく分からん。ウィスラー」
呼びかけると若い近衛兵はその場に膝を付いた。
「はい陛下」
「順を追って説明せよ」
「はい」
顔を上げたウィスラーは、近衛部隊兵舎食堂で起こった惨事をつぶさに報告した。先ほどシャスタに同じように報告したのであろう、比較的意味の通りよくまとまっていた。
「筋肉の異常膨張と、攻撃性か……」
エドワードは奇妙な胸騒ぎを覚えた。先ほどまでジェラルドとリッツのことを考えていたせいか、麻薬の効果とその状況が重なって見える。
確か麻薬も、攻撃性と筋力増強効果があるとされていなかったか? 何故同じような効果がある物が、あちらにもこちらにも転がっているのだ? そしてそれは、何故今日起こったのだ?
ジェラルドとリッツがいない今日という日に。
頭の中には疑問が渦巻くが、口からは状況確認の言葉が出ていた。
「いまその怪物はどうなっている?」
「は、正規軍と交戦中です。ですが王城は狭い上、このような事態の想定はしていないので難航しております」
シャスタが正確に答える。エドワードは内心舌打ちした。外での訓練にばかりなれている兵士では、この王城を守る役に立たないか。それなら、室内戦闘になれている憲兵隊の出番だろう。
「憲兵隊はどうした?」
「憲兵総監が見あたらず、全部隊に怪物排除の命は伝わっておりませんが、第三課には怪物退治の命令を下しました。彼らは特殊事件担当ですので」
確か今回の麻薬捜査に関わっているのも、第三課だ。アルトマンという男が小隊長を務めていた。
それにしても何故憲兵総監がいないのだ。今日は麻薬組織の掃討作戦決行の日だと分かっていながら、出勤していないのはどうにも理解に苦しむ。
だが考えている余裕はない。
「シャスタ、王宮に戻って親衛隊と、朝番の近衛兵と共にグレイグ、パトリシアそれからアンナとフランツを守れ。なるべくそちらには敵を行かせないようにしたいものだが、万が一の時は頼むぞ」
剣を持つと、エドワードは扉に向かった。
「お待ちください陛下! どこに参られますか!」
シャスタが慌てて止めようとするが、エドワードは笑ってそんなシャスタを手で制した。
「状況が分からんと動きようがない。自ら状況をみてから、指示を出して王宮に戻る」
自分は必ず最前線に立ってきた。その自負がエドワードにそういわせる。状況も分からず、正体不明の敵と戦う兵士を見捨てて、自らが王宮に籠もることなど出来はしない。
「ですが陛下!」
「シャスタ、グレイグを頼むぞ。ジェラルドもいない今、グレイグにまで何かあったら目も当てられぬ」
じっとシャスタを見つめると、不本意な顔で彼はは頷いた。有無を言わせぬその口調に、頷くしかなかったのだろう。
それにシャスタは、グレイグの性格を一番熟知している。もし怪物騒ぎがしれたら、一番に剣をとって走り込んでいくに違いない。
自分の実力が単なる武芸であり、実戦とはほど遠いなどとは、知るよしもなく……。
それを止められるのは、シャスタとパトリシアしかいない。
「親衛隊は余について参れ」
エドワードは黙り込んだままのシャスタを置いて、執務室を出た。もしウィスラーの言っていることが全て本当なら、今城内は大混乱に陥っているに違いない。
エドワードは新年の祝賀行事の時に立った、中庭を見渡す広いバルコニーに上がった。城の中庭は近衛部隊の兵舎に面しているため、状況が見えやすいと思ったのだ。
中庭の光景に、エドワードは息を呑み、眉を顰める。
「なんだこれは」
そこには数人の怪物と、王国軍正規部隊がいた。怪物の筋肉は極限にまで張りつめ、その上を走る血管が蛇のようにまとわりついて蠢いている。
怪物……確かにそれ以外の表現の仕方がない。
「ウィスラー、あれは本当に近衛兵だったのか?」
「はい陛下。間違いございません」
「何とむごいことを……」
上から見ているだけで、胸の悪くなるような光景だ。兵士たちの無数の矢が降り注ぐ中、怪物は全く動じる様子はなかった。
避けるわけでもなく、体中に矢が突き立っても、怪物は奇妙にねじれた笑みを浮かべて、動じない。反対に動揺し、浮き足立つ兵士たちに突入し、素手で兵士たちの腹を突き破り、首を締め上げる。
「がぁぁぁぁぁぁぁ!」
怪物の雄叫びがあがった。その破壊衝動を満たすことで、なおも興奮を高めているのだろうか?
うっとうしいのか、突き立った矢を引き抜くものもあり、その傷口からはおびただしい量の黒い液体が流れ出ている。それは怪物の血液だった。
だがそんな体の痛みにも、筋肉に閉め出され飛び出た目は、動かない。
「やつらには痛覚がないのか……。これは厳しい」
怪物の動きを止めるには、両足を切り落とすか、頭を落とすしかないだろう。両足を切り落とすには手間は二回、首なら一回で済む。それなら首を狙うしかない。
「我が兵よ、聞け!」
エドワードは混乱する兵士たちに、よく通る大声でそう呼ばわった。後方で矢をつがえていた兵士たちが、エドワードの声に気が付き、顔を上げた。その顔に希望の灯が灯る。
「怪物には痛覚はない! 両足を断つか、首を落として動きを止めよ!」
武の王と称されてきたエドワードの力強い声に、励まされるように、兵士はじりじりと怪物から離れて隊列を組み直し始めた。兵士が落ち着いてきた状況を見計らって、エドワードは再び上から指示を出す。
「敵の動きは速い、弓部隊は足をねらえ。怪物が倒れるまで、歩兵は怪物に近寄るな。倒れたところで首を斬れ! 装甲兵はかえって身動きがとれん、下がれ!」
そう断言した声に、矢をつがえていた兵士たちが一斉に狙いを下方へと修正した。弓兵舞台の指揮官の声が響く。
「第一陣、放て!」
弓が一斉に怪物たちに放たれる。次いで第二陣、第三陣が矢を放っていく。足を止め地に伏せた怪物に、剣を抜いた正規軍が立ち向かっていく。
軍がようやく正常に機能し始めたようだ。四十人程度の怪物相手なら、一時間もかからずに討伐されるだろう。
エドワードは一息つくと、親衛隊を促してバルコニーを離れる。微かに吐息を漏らして、肩を揉んだ。
やれやれ実戦が四十年近くないとは、こういうことか……。仕方ないと言えば仕方ないが……。
何しろ今の司令官たちの大半が、戦場での経験を持たないのだ。それだけ国は平和で栄えたが、これでは外敵からの攻撃には太刀打ちできそうに無い。
訓練を見直さねばならない時が来ているのかもしれない。
「どうなされますか陛下? 王宮へお戻りになりますか?」
エドワードと共にある、五人の親衛隊のリーダーがそう尋ねた。
「いやまだ戻れん。とにかく玉座にゆこう。他の部隊が、余の指示を必要としているかもしれんというのに、こうウロウロしては困るだろうからな」
玉座の間は王城の中心にある。正面の大扉は朝からエドワードがいなくなるまで開きっぱなしになっているから、状況報告にはもってこいだろう。執務室では、多くの人々の報告を聞くのに狭すぎる。
「ウィスラー、親衛隊の一人と共に、近衛兵の状況を確認に行ってくれ」
玉座に就いたエドワードは、ウィスラーに命じた。俯き勝ちだったウィスラーの顔が上がった。逃げ出してきてしまったことを、彼は悔いているのだ。そんな彼にこの命令はうってつけだろう。
それに騒ぎの大本、近衛兵舎の様子が気に掛かる。毒が混入していたというトマトスープも押収せねばなるまい。
「決して毒の混入が疑われる物に手を付けるな。憲兵隊の麻薬捜査班を行かせるから、そのままにしておけ」
「御意にございます」
ウィスラーはエドワードの前に跪き、今まで呆然として忘れていた最敬礼をすると、一人の親衛隊員と共に玉座の間をあとにした。
玉座にもたれて、エドワードは大きく深呼吸をした。このような状況に、一番強いであろう人物が傍らにいない。これは少々疲れる。
リッツがいればとため息を深くついた瞬間、エドワードは気が付いた。
「まさか……」
敵は、リッツ・アルスターという現役の戦士がいない日を意図的に狙ったのだろうか? もしこの場にリッツがいて、エドワードと共にあったなら、この状況は少々好転するに違いない。
何しろ今この城にいるのは、実戦経験のないものばかりなのだ。
実戦経験豊富で、部隊の指揮も執ったことのある上、今なお現役の傭兵として戦場にある百戦錬磨の男がいるといないのでは、状況が全く違う。
それに、一番危険なのは自分ではないのか?
エドワードは心の中だけで小さく舌打ちした。麻薬事件と国王暗殺犯が結びついている。そうなれば、麻薬組織壊滅作戦の日と、国王暗殺の日が一致することはあり得るではないか。
もしリッツがいたなら、自分を暗殺することはほぼ不可能に近い。だが経験の浅い親衛隊のみなら、何とでも出来るはずだ。考えたくはないが、麻薬組織壊滅作戦の極秘情報が漏れていたのだろう。
内通者は極秘の情報を知ることが出来る立場にいた。憲兵隊か査察部の中に。
今頃、麻薬組織壊滅作戦はどうなったのだろう? まさかあちらでも怪物が暴れて、壊滅状態に陥ってはいないだろうか? なにしろ全員で三十二人の小部隊だ。各個撃破するには丁度いい。
唯一の救いは、査察官と憲兵隊、どちらも王国軍では数少ない実戦経験者の集まりだと言うことだが、怪物相手では心許ない。
エドワードは唇を噛んだ。
やられた……。情報が漏れていた時点で負けだ。
エドワードは黙ったまま眉を寄せた。指が無意識に眉間をきつく揉んでいる。疲れた時にする癖だ。
全面敗退になっては困る。
こうなると気にかかるのは、ジェラルドとリッツのことだ。二人は無事だろうか?
自分にもし何かあっても、ジェラルドとリッツのふたりが生きて戻り、シャスタとグレイグと助け合ってくれれば、国は安定を保つことが出来る。もし二人が死んでいて、自分も命を落としたなら、王宮とて無事ではすまされないだろう。
苦悩するエドワードの視界に、見慣れた男が現れた。小太りでこの寒いのにハンカチで汗を拭くその姿……憲兵総監だ。
「エンゲルス、貴官は何をしていたのだ」
顔を上げエドワードはエンゲルスを見た。彼はゆっくりと、手にしていたハンカチをしまった。
「申し訳ございませぬ陛下。こんな大変な日に小官は寝坊をしてしまいまして……」
エンゲルスは、国王に最敬礼をするでもなく、防寒用のマントを羽織ったまま、とんでもないことをさらりと口にする。
そこには、反省や後悔の感情が見られない。いつも何かのんびりとしたいつもの彼とは違う。エドワードは全てを察した。
「寝坊とはな。昨晩は興奮でもして、眠れなかったのかな?」
変化に気が付いたエドワードの口調が、冷たくなるのを、エンゲルスは黙って聞いていた。異様なくらい冷たい空気が流れる。
「憲兵総監、貴官は何を考えて……」
親衛隊の一人が憲兵総監の肩を叩こうとした瞬間、親衛隊員は崩れ落ちた。
「何を!」
他の親衛隊が仲間を助けようとして、エンゲルスの手に握られた短剣の存在に気が付いた。
「離れろ、そいつは敵だ」
エドワードの鋭い声に、親衛隊がじりじりと下がる。それを見てエンゲルスは笑い出した。笑いながら防寒具を投げ捨てる。
そこにはあの太った体はなかった。
「陛下、陛下! 私は眠れなかったのですよ! あなたの息の根をこの手で止められると思うと、嬉しくて! あなたは英雄だ。燦然と煌めくユリスラの英雄だ。あなたの命を奪えるなら、これほど名誉なことは無い。私は永遠に英雄を殺した男として民衆に憎まれる。そして私も英雄エドワード王の伝説の一部となる」
狂喜を浮かべながら、エンゲルスは血の付いた短剣を投げ捨て、懐から小瓶をとりだした。
「大変でしたよ、太った男を演じるのには。大量の綿が熱くてね、ハンカチが離せませんでしたよ!
でもこの事を思うと、どんなに辛くても私は耐えられた!」
エンゲルスの持つ小瓶には、どろりとした液体が入っている。彼はその小瓶の栓を抜き、一気にあおった。
「何を飲んだ!」
立ち上がって叫んだエドワードに、エンゲルスは低い嗤いで返した。
「『炎の恵み』といいましてね……陛下、あの麻薬の原液を更に濃縮したものです」
「なんだと……?」
「もともとゼウム神国から流れてきた物らしいですよ。噂では巨人族の血が原料だとか」
「……闇の一族か……」
スチュワートの館にいたレイブンとラリア。あの二人はただ単にスチュワートのお守りをしていたわけではなかった。この麻薬をユリスラに広め、混乱させるためにいたのだ。
二人が満足して死んだのは、この結末が見えていたからかもしれない。
「陛下、残念でございますね。王太子殿下も、あなたの親友の大臣も、今頃はきっとこの世にいない。あの屋敷には、怪物たちと麻薬中毒の獣人がいるのですよ」
一瞬にして血の気が引いた。全て罠だったのだ。敵はスチュワートの件を知っており、リッツの正体も知っていた。だから個別に王太子と国王を殺す算段をたてられたのだ。
極秘の会議は、捜査の指揮を執っていた憲兵総監から漏れていた。それでは防ぎようがない。
「あなたの負けです、陛下」
その通りだ、本当にジェラルドとリッツが死んでいたなら、そしてここで自分が死んだら完全に敗北だ。
「ジェラルドとリッツは死なんよ」
「ふふ……強がりを」
「どうかな。お前はリッツの運の良さを知らぬらしい」
エドワードは剣を抜いた。怪物化する前に倒してしまえば、勝機はあるか?
「陛下……お別れの時が来ましたよ。どうぞ心をお安らかに……」
その言葉を終えないうちに、エンゲルスの体が猛烈な勢いで膨張を始めた。ウィスラーに聞いていた時間より、怪物化する時間が短い。奴が飲んだのは原液を濃縮したものだといっていたから、その為か。
エンゲルスの筋肉は、異常に膨張しながら膨らんでいく。先ほど見た怪物よりも激しい変化に、エドワードは顔をしかめた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
雄叫びをあげ、エンゲルスは両腕を掲げた。血管が波打ち体中を蠢きまわる。完全に膨張しきったその体は、岩石のように黒ずみ、そして目は突きだして真っ赤に染まった。
今までの怪物とは違う。
恐れで固まっていた親衛隊が、勇気を振り絞って敵に向かって剣を抜き、仕掛けた。だがその剣は易々と跳ね返されている。相手は素手だというのに、全く相手にならない。
思った以上に皮膚は硬く、外の怪物たちのように傷つき、黒い血が流れることはなかった。
「ぐおぉぉぉぉぉっ!」
怪物は、ひときわ大きく咆吼をあげる。次の瞬間、思いも寄らぬ早さで、正面にいた親衛隊の一人に突入した。咄嗟に避け切れぬその親衛隊員の腹から、血塗られた怪物の手が突き出た。
「ぎゃぁぁぁぁっ!」
痛みと恐怖に絶叫した男の声は、玉座の間の高い天井に響いた。だが次の瞬間にはその声は唐突にプツリと途切れた。
怪物が親衛隊の頭をその腕でもぎ取ったのだ。ねじりとられたその頭を、残りの親衛隊に向かって投げ捨てる。
「ひっ!」
思わず悲鳴を上げた隊員たちの隙を、怪物が見逃すわけがない。エンゲルスであった怪物は、一人に狙いを定め、跳んだ。
突然目の前に現れた怪物になすすべもなく、心臓を突き破られた男はそのまま動きを止めた。
だが親衛隊は恐怖に震えながらも引き下がらなかった。仲間を腕にぶら下げたままの怪物に、残りの二人がかりで斬りかかる。怪物の脇にかろうじて突き刺さった剣は、今度は抜けない。
「がががががが……」
怪物がねじれて閉じなくなった口から、よだれを垂らしながら笑った。もはやエンゲルスの面影はない。
親衛隊が抜くことの出来なかった剣をあっさりと自分の腹から引き抜き、剣をエドワードめがけて放り投げた。ぶんっと重い音がして、エドワードのすぐ脇に、剣が突き刺さる。もの凄い力だ。
怪物の腹からは止めどなく黒い血が流れ落ちている。先ほどまでは人間だったというのに、この短時間でこれほどの効果とは、一体この麻薬はなんだ?
闇の一族しか知らない物なのだろうが、それにしても異常だ。
だが脇に開いた大穴も、怪物の動きを止める何の効果もない。剣を失った親衛隊員は、死んだ仲間の剣を手に、再び怪物に戦いを挑んだ。
二人がかりだというのに、とどめを刺すことが出来ない。先ほどエドワードが正規部隊に通達したように足を狙うのだが、その素早く動く怪物の身体能力に翻弄されている。
エドワードは抜いた剣を構えながら、玉座を降りた。三人がかりなら、何とか足を止められるか……?
でも親衛隊員が戦い慣れていない上、どう動くか全く見当がつかず、エドワードは一手を繰り出しあぐねていた。うっかりすると、親衛隊を斬ってしまいかねない。それだけ怪物の動きは速い。
もしリッツがいたなら、お互いの動きを読みつつ踏み込めるだろうに……。
エドワードがじりじりと焦燥感を募らせていても、敵は待ってなどくれない。次の瞬間に、親衛隊の一人の腕を、怪物が吹き飛ばしていた。
体の重心を失い、親衛隊はどっと倒れる。だが親衛隊員は倒れたまま最後の力を振り絞って、怪物の足にしがみついた。
「首を!」
親衛隊の叫びに、エドワードと残り一人となった親衛隊が首を狙う。
だが片腕を失った親衛隊員は、あっけなくもう片足で踏みつぶされた。苦痛のうめきをあげて、親衛隊員は絶命する。
だがこの親衛隊員は死して尚、怪物を放さなかった。その体は足に深く食い込み、怪物が振り払うことを許さなかった。
エドワードに先駆けて、最後の親衛隊員が全員の敵討ちとばかりに怪物に斬りつけた。だが怪物が素早い動きで横にそれたため、剣が首に届かなかった。すんでの所で頸動脈を斬りつけたが、黒い血を吹き出しながらも、怪物は嗤い続ける。
これなら時間が経てば、怪物は死ぬ。それは分かった。
だが、それまでこちらが持つのか……。
最後の親衛隊員が、首を断ち切られて吹っ飛んだ。怪物は最後の障害である、足に絡みついた親衛隊員の死体を蹴り飛ばして、自由になった。
まだ動きは止まらない。完全に頸動脈を傷つけたわけではないのか……。
エドワードはじりじりと後ろに下がる。
この広い玉座の間に、怪物とたった二人……。
手負いではあるが、全く動きも素早さも変わらない怪物と。
……終わりだな。
エドワードは心を静めた。最後まであがくつもりではいるが、分かっているのだ。もう自分にあの怪物と戦えるだけの、早さと力がないことが。
だが道連れにすることは、出来るかもしれない。このエンゲルスであった怪物さえ倒せば、あとは正規軍で事足りる。
親衛隊員の死体を乗り越え、エドワードは怪物の前に立った。
「一国の王たる俺が、一緒に死んでやる」
剣を構えると、怪物は体中から流れ出す血と、親衛隊の流した真っ赤な血で彩られた極彩色の顔で、口の端を歪めて嗤い、咆吼をあげた。
「……さあ、こい、化け物め!」
エドワードがそう怪物を挑発した瞬間、怪物の頭に何かが跳んできてぶつかった。
「何?」
怪物から目を離さず、ちらりと床に転げ落ちた物を見た。それは直径十センチほどの石だった。怪物はその石の跳んできた方向に向かい、怒りの声をあげた。
だが石を投げた人物はその声に怯えることなく、真っ直ぐに怪物を見つめる。
玉座の間の左右に、大きく作られた窓から差し込む光が明るく、逆光になって顔は見えないが、エドワードにはそのシルエットで、その人物が誰なのか分かった。
玉座の間の入り口から、石を片手で掴んでは、宙に放り投げていた男は、ゆっくりとした足取りで、徐々に近づいてきた。
ボロボロになった軍服、乱れた髪、あちこちの傷から流れる血……。
「お前……」
エドワードの言葉に応える前に、男は持っていた石を、怪物の目をめがけて力の限り投げつけた。怪物の飛び出した真っ赤な目が片方はじけ飛ぶ。
飛び出してしまった目だけは強度を増してはいなかったらしい。呻きながら目を押さえる怪物を尻目に、その男は不敵な笑みを浮かべた。
エドワードの頬が緩む。
「……生きていたか」
「簡単に死んでたまるかよ」
抜き身のままの大剣を片手にぶら下げ、最後に残った石を軽く上下に放り投げながら、リッツがそこにいた。
リッツは最後の石も、悶える怪物に投げつける。完全に怪物は目を失った。途端に怪物は手探りでこちらをみつけようと必死に手を伸ばしてきた。全くの見当違いだ。
なるほど、弱点はそこなのか。
「目は封じた。俺は足を狙うから、ぬかるなよ」
リッツはそういうと、気配を消して怪物の前に立ち、体をかがめた。エドワードもそれにならい、怪物の後ろへ回り込む。
敵を求めて手を振り回す怪物の両足を、リッツが一気に大剣でぶった切る。その瞬間を逃さず、倒れる直前にエドワードは怪物の首に剣をたたき込んだ。
考えられないほどに重たい手応えだったが、力を込めて剣を振り抜いた。
怪物の首が、勢い余って床にたたきつけられた。嫌な音を立てて、つぶれてごろりと転がる怪物の顔から、全ての生気が抜けていく。
終わったのだ。
……何とか助かった。
「危なかったな。間に合わないかと思ったぜ」
よく見ると、リッツは状況に合わないほど、奇妙に昂揚した顔で陽気に笑っている。
「何か変だぞ、お前……」
そういえばいくら力が強いリッツだとはいえ、親衛隊には堅くて歯が立たなかった足を、一発で両断したその力、尋常ではない。
エドワードに気付かれて、ばつが悪そうにリッツは、俯いた。そういえば怪物の目を潰した石つぶての威力も半端ではなかった。
「ちょっとな……」
言いよどむリッツの表情から、何かとんでもないことを隠していることが分かる。近くに歩み寄り、リッツの肩を掴んだ。
「ちょっとじゃないだろう、お前、どうした?」
厳しく追及するエドワードに、リッツは肩をすくめた。言い逃れが出来そうにないと悟ったのか、どうやら話す気になったらしい。
「……俺さ、肋骨折れてんだ」
「は?」
だがそれを痛がる様子はない。それに肋骨が折れているなら、どうやって戻ってきたのだ? 作戦予定を見た限り、この時間に戻ってくるためには、馬を相当な早さで駆けさせるしかない。
「でな動くのも呼吸するのも辛かったからさ、ちょっと……」
リッツが小さくボソッと呟く。
「なんだと? 聞こえないぞ」
観念したのか、リッツは顔を上げた。叱られている子供のように、小さくなりつつ照れ笑いのような微妙な表情を浮かべている。
「はっきり言え!」
エドワードの叱責に、リッツはため息をついてから答えた。
「……麻薬を二粒ばかり飲んだ……」
一瞬何を言われたかその意味が分からず、頭の中でその言葉をもう一度繰り返して理解した。
「お前は馬鹿か! それを取り締まりに行ったんだろうが! あれには幻覚作用があるんだぞ!」
そういえば麻薬には痛み止めと、筋力増強効果があると会議の席で聞いていた。リッツもそれを覚えていたのだ。
怒鳴るエドワードに、リッツはムッとしたように言い返した。
「幻覚が出る確率は、三割だ!」
「割合の問題ではない!」
「いいじゃねぇか! 御陰で間に合ったんだ。怪物だってあっさり倒せたし。毒をもって毒を制すって言葉だってあるだろ!」
エドワードは頭を抱えた。何故こいつは、こうも死に急ぐのだ。感情の爆発を押さえて、絞り出すようにリッツに怒鳴る。
「もし何かあったらどうする気だったんだ!」
「そん時は、そん時だ! いいだろう、賭には勝ったんだから」
全く呆れて言葉が出ない。自分の体で命を賭けた賭など、全く何を考えているのか……。
だが今回はそのリッツのその賭けに、救われた形だ。
「もうそんな無茶はするな。お前の命はひとつしかない。後悔するぞ」
ため息混じりでそういったエドワードに、リッツは静かに答えた。
「分かってるさ。もうしない」
その声には、反省の色はない。多分また同じ状況になれば同じ事をやるのだろう。リッツはそういう男だ。
エドワードは静かに目を閉じると、心を落ち着かせてからゆっくりと顔を上げた。
怪物の死体を眺めたまま押し黙っているリッツの肩を叩く。振り向いたリッツの目にあるのは、大きな安堵の表情、それだけだ。
リッツは焦っていたのだ。自分が失うかもしれない人々の命の危機に。
麻薬を使ったのもその為だ。自分のためではない。いつまでも怒っていては、仕方がないではないか。
「……助かった。ありがとう」
「ああ」
リッツは大きく息をつくと、頷いた。
「さあ、後かたづけしようぜ」




