<11>
胸を庇いながら馬をつなぎ止めた森へと戻ったところで、ようやく追いついたケニーに呼び止められた。息を切らせてケニーはリッツを見上げる。
「今王宮に戻るのは危険です! 閣下は怪我をしておいでじゃありませんか!」
「これしきの怪我、どうって事はない」
何とか留めようとするそのケニーを見もせずに、ぶっきらぼうに答えると、リッツは馬の紐をほどき始めた。ケニーは引き下がらない。
「危険すぎます! それでは死にに行くようなものです。どうか思いとどまってください! あなたはこの国にとって大切な方です。失うわけにはいきません!」
必死なその言葉は、リッツへの信頼と忠誠心から出ているのは痛いくらい分かる。分かるが、リッツにはリッツなりの信念がある。
「ケニー、分からないのか? 俺はエドやパティ、シャスタがいて初めてこの国に必要な男だ。あいつらを失ってしまえば、俺などただの傭兵だ」
「そんなことはありません! ここには王太子殿下がおられる。あなたはジェラルド様のためにもここに残るべきだ!」
馬を解き、鞍を乗せたリッツは初めてケニーを振り返った。
「……エドを……見捨てろと?」
淡々と尋ねたリッツに、ケニーは顔を歪めて頷いた。
「……そうです」
「ジェラルドのみが残ったことを考えろって?」
「間に合わないことがわかっていたなら、国益のためにあなたは王太子殿下と共にいて、時期国王となるジェラルド様に仕えるべきだ」
ケニーの顔は苦悩に満ちている。本当は彼だってこんな事は言いたくないのだろう。彼はどうしてもリッツを思いとどまらせたいようだ。
だが残念ながらここに残る気は、全くない。
「俺はただの行き倒れた精霊族だった。今のレフと同じだ。だが俺はエドに出会って今の俺になった。もしそうでなかったら、俺なんてこの国に必要にはならなかった」
言葉を失ってケニーは黙り込んだ。
「悪いな、俺にとって重要なのは国益じゃない。そういう感情なんだ。俺は……国より、エドをとる」
「そんな……」
ケニーを置いてリッツは馬の背に乗った。少々の揺れで肋骨が軋む。呼吸まで辛くなってきた。だが言うべき事は言っておく必要がある。
「フォート少佐、隊が整い次第、憲兵隊を王都に向かわせ、敵襲に備えさせろ。査察官は地下室の捜索とレフの聞き取り、それに怪我人の治療に当たれ」
「はっ……!」
この体で馬に耐えられるのか……そう思ったリッツはふとポケットに入ったままだった小瓶を思い出した。そっとそれを取り出す。
麻薬の瓶……。
確か疲労回復と、痛み止めの効果があるといっていた。三粒取ると確実に幻覚が現れる……と言っていたが、二粒なら三分の二が幻覚に襲われることがないとか……。
迷うことなくリッツは麻薬の瓶を開けて、二粒口に放り込んだ。痛みがあっては戦えない。幻覚が出なければこっちのものだ。
「閣下! 何を!」
突然の行動にケニーは叫んだが、リッツは笑みを浮かべて麻薬の瓶を閉じると放った。慌ててケニーが受け取る。
「大丈夫だ。俺は賭けに強いからな」
「そんな……」
呆然とするケニーをリッツは見据えた。圧倒されたようにケニーは押し黙った。
「ジェラルドを頼む。必ず王宮にあいつを連れて帰れ。大丈夫だとは思うが、まだ狙われているかもしれんから、気を抜くな。もしエドとグレイグに何かあったら、もうあいつしかいないんだからな」
「閣下!」
「頼んだぜ、ケニー」
リッツは馬の腹を蹴りつけた。疾風のごとく馬は王都に向かって走り出した。
取り残されたケニーは、呻いた。
「何て事だ!」
小さくなるリッツの姿を見送って、ケニーは拳を握りしめた。自分には何も出来ない。
そんなケニーのもとへ、アルトマンが小走りでやってきた。動ける部下全てを従えている。リッツの話を聞いた後、急いで動ける者を連れてきたものと思われた。
「どうしたのだフォート少佐。一体何があった? リッツくんは行ったのか?」
「ああ、城へお戻りになった」
ケニーの沈んだ声にアルトマンは困惑しているようだが、口調は変えずに尋ねる。
「怪我をしているだろう?」
自らへの怒りと、混乱でケニーの声は震えた。何故、どうして共に行くことが出来ないのだ。何故一番重要なことが、彼の命令に従うことなのか……。
どうしても彼の友として行動することなどできない。彼は……リッツは大臣で、自分の上官だ。
「……私には止めることができない」
ケニーは俯いて唇を噛んだ。どのような状況でも自らの責務を果たす。その自分の能力を信じてリッツが託していったのが分かるから、その命令を破ることが出来ない。
「何と無茶をする……。状況がよく分からないが、私も王城へ戻る」
部隊を率いて馬を集めるよう命ずるアルトマンの肩を、ケニーは力を込めて掴んだ。あまりの力にアルトマンは怯む。
「どうした少佐?」
「アルトマン中尉、頼みます……リッツさんを死なせないでください」
自らの思い、託すしかない。きっとこの男なら託すことが出来る。
「何故あの若者にあれほど肩入れをするのだ?」
困惑したままのアルトマンに眉を寄せるアルトマンを見返した。
「違う、若者なんかじゃない」
「はっ?」
「あの方は、この国に必要なんだ」
「少佐?」
「死に無頓着だから、決して死なせるなと陛下に頼まれていたのに、私は守れなかった」
「なんだ、話が見えん。詳しく言ってくれ」
アルトマンの手が強く肩を掴む。悔しさと悲しさ、自らの無力さに打ちのめされながらもケニーは顔を上げ、真っ直ぐにアルトマンを見つめた。
「リッツという人物は、我々が知る限りシアーズにたった一人しかいない。彼がこの国の大臣、リッツ・アルスター本人だ」
その言葉にアルトマンは酸欠にでもなったかのように口を開き、信じられないといった顔で恐る恐る聞き返してきた。
「だが彼は、あんなに若いではないか」
「聞いていたでしょう、先ほどのやりとりを。彼は精霊族です。普段は変装して年を誤魔化しているだけなんですよ」
「何と言うことだ……」
初めて知ったその真実に、アルトマンは言葉を失った。国王と宰相、王太子を平気で呼び捨てにしているような一般人がいるわけがないと、改めて気がついたのだろう。
「お願いです、中尉。あの人を死なせないでください。守ってください」
縋り付くようにケニーはアルトマンの肩を握った。アルトマンは何も言わずにケニーの肩を叩いてくれた。そしてアルトマンは自分の馬を引き寄せ、ひらりと背に飛び乗る。
「少佐、私の部下たちに支度ができ次第大至急城へ戻るように伝えてくれ。私は一足先にゆく」
「アルトマン中尉……」
アルトマンは口元に微笑を浮かべた。そこには迷いはない。今までのお互いの遺恨は、今ここで全て消えた。
「……私はあのリッツという人物が気に入っている。彼が陛下をお守りするために命を賭すなら、私もあの人物のために命を賭けてもいい」
「お願いします」
頭を下げたケニーに、アルトマンは笑った
「貴官の方が上官では無いか。命じてくれればいい」
「中尉……」
「だが貴官が彼を友として助けたいように、私も友の君の願いを聞きたい。命に代えても、大臣閣下をお守り申そう。貴官も王太子殿下を頼む」
アルトマンはその丸い顔に、確固たる信念を込めた笑みを浮かべ、馬に鞭を入れた。
ケニーは見る間に遠ざかっていくアルトマンの後ろ姿に祈った。どうか、どうか王都が無事でありますようにと。
とりあえず、彼には彼に任された責務がある。
冷たい風が吹く中、ケニーは踵を返した。
「自ら成すべき事を成せか……」
彼にはまだ、あの館でやることが沢山残っているのだ。
リッツは全力で馬を走らせていた。最初のうちは意識が遠くなるほど痛んでいた肋骨は、いつの間にか何も感じられない状態になっている。
きっと肋骨は今までのように自らの体を傷つけ、肺を圧迫しているのだろうが、それを感じ取ることがほとんど出来ない。かろうじて状況が悪化していることが分かるのは、呼吸が少々苦しいと言うことだけだ。
後ろに流れていく景色を眺めると、その景色はまともにきちんと見えている。どうやら幻覚は出ていないらしい。
それともこれから出てくるのだろうか?
痛みのため、這いつくばるように馬に乗っていたリッツは、馬の足を止めることなく、ゆっくり上体を起こした。全く痛くない。確かにこの麻薬、恐ろしく効くようだ。体が資本の海の男たちはさぞかし重宝したのだろう。
まさか原液を摂取すると、怪物になるという恐ろしい麻薬だとも知らずに。
……だが自分はそれを知った上で摂取した。まともじゃないのは一体どっちだ?
自らの思考の矛盾に、リッツは苦笑した。やれやれ、どうやら自分は、とんでもないことをしでかしているのかもしれない。
だがリッツには、どうしても守りたいものがある。それはエドワードのように、この国の民でもなければ、この国の平和でもない。
確かに平和に暮らせる国は重要だし、とても必要だ。だが自分勝手だと分かっていながら、それよりも、自らが共に戦ってきた仲間が大切なのである。
エドワード、シャスタ、パトリシア……古い仲間はもう少なくなってしまった。これ以上失いたくない。もう少しでもいい、もう少し生きていて欲しい。リッツにとって彼らが生きていることが、自分が生きていることと同義なのだから。
我が儘だが、それが本音だった。彼らが皆死ぬようなことがあれば、生きている理由を失う。彼らのために強くなろうともがいて、強くなれなくて。それでも彼らとまだ共にいたかった。
きっとそれを知ってしまえば、みんな憤慨するのだろう。国の重鎮が考えることではないと。もしかしたらアンナやフランツでさえも、そう思うかもしれない。
だが王城へ馬を駆り、古き仲間の元に駆けつけようとしている今なら、それでもいいと思えた。自分本位でも、我が儘でも結構だ。
自らの望む事を叶えられるように、その為に自分以外に主を持たず、強くなった。その為に今まで放浪して暮らしたのだ。
自分の命ぐらい、自分で終わる時を決めたって構わないはずだ。
そんな破れかぶれの心境になってきた時、ふとアンナとフランツの顔が浮かんだ。
ここまで連れてきて、しかもこんな事件に巻き込まれてしまった、今の仲間。自分に全面的な信頼を置いて、共に旅する被保護者。
リッツは首を振って、今までの考えを振り落とした。ここで自暴自棄になっている場合じゃない。あの子たちを何とかしてやらないと、無責任すぎるだろう。
とにかく、間に合わせることだけを考えなくてはならない。
麻薬が食事に混入されることがあるとすれば、それは昼食であるはずだ。だとしたら、昼食時間前に王城へたどり着き、それを阻止できれば何事もなく終わるかもしれない。そうなれば麻薬も押収できるし、今後の捜査の進展にも寄与できるだろう。
心の中でいい方向いい方向へと自分の考えを持っていこうとするが、その努力も虚しく、リッツの想像は悪い方へと傾いていく。
血塗られた王城と、麻薬の原液を摂取して化け物と化した近衛兵に、引き裂かれたエドワードの姿が頭をよぎる。
その足下には、バラバラになった人々の死体があり、パトリシアとシャスタもその中に……。
リッツは身震いをしてその考えを振り払った。
「頼む、頼むから早く着いてくれ。間に合ってくれ」
呻くように呟きながらリッツは馬を駆る。心なしか感情に呼応して馬が速く走り出したような気がする。
その時、リッツの頭にふとある疑問がよぎった。アンナとフランツは、自分を見送ったあと、きちんと家に帰っただろうか? まさか城にいたりしないだろうな。
そう考えてから、リッツの中に暗澹たる気持ちが渦巻いた。そういえばあの二人、異常に間が悪いのだ。いないでくれとリッツが思えば、絶対にいるのがあの二人なのである。
もしいたとしたら、あの怪物に敵わない。それでもあの二人ならきっと戦いを挑むだろう。
「冗談じゃないぞ、おい……」
この想像が当たっているかどうかを、リッツはまだ知る術がない。
◇ ◇ ◇
同日、十時半。
王城内にある近衛兵の兵舎は賑わっていた。
最も王族に近いところに兵舎を持つ彼らは、任務上ここに兵舎を持つことを誇りとしていた。
国王を守る砦。それが彼らなのだ。
現在近衛兵は約百名が勤務している。主な仕事は勿論王族の警護である。騎馬隊などからなるこの部隊は、王国軍の中でも花形であるといっていいだろう。焦げ茶色がほとんどの王国軍服の中で、唯一彼らが身につける濃紺の制服は、近衛兵たちの誇りだ。
近衛部隊の約半分以下しかいない、黒服の親衛隊などと違い、王宮の中までは王族について回ることは出来ないが、王城での警備は彼らの仕事である。
近衛兵は通常三交代制である。一番忙しく、人員が多いのは昼を担当する兵たちで、その数は約五十人。ついで夕方から夜を担当する者が約三十名、深夜から午前中を担当する者が約二十名いる。
昼番を担当する者は、通常十一時に早めの昼食をとり、十二時になった時点で今まで任務に就いていた三十人と交代することになっている。
その日、まだ幼さが残る近衛兵の新兵ウィスラーは、昼番担当だった。出勤と同時に、十一時の食事をとる事になっていた彼は、寝不足の頭を振りながら近衛兵専用の食堂へと向かった。
本日の昼食は、ライ麦パンのハンバーグサンド、根菜のサラダ、そしてトマトと野菜のスープだった。ウィスラーはそのメニューの中に、嫌いなものを発見した。
トマトだ。トマトのスープなんて、あんなもの食べられるわけがない。だが食事は全てセットでトレーに載せて渡される。トマトから逃れる術はない。
ウィスラーはトレーに載った食事を受け取った。まわりには近衛兵たちが、三々五々集まり始め、各々で昼食を取り始めていた。早めに来て、任務の前に体を動かす兵も少なくないのだ。
だから食事は十時半から十一時半までと好きな時にとれるようになっている。
空いていた席に着き、誰かにトマトを押しつけられはしないかと、辺りを見渡していると、後ろから声が掛けられた。
「おはよう、ウィスラー」
共に新人のアーデンがやって来てとなりに座る。その手にはすでに食事の載ったトレーがあった。
「ようアーデン、お前トマト好き?」
「おう、好きだぞ」
「そんじゃこれやるよ」
トレーからトマトスープをとって、アーデンのトレーに乗せる。
「サンキュー」
雑談と共に二人は食事を始めた。本日の任務のことが主だが、ウィスラーは少々仕事に不満を感じているところがあるり、愚痴をこぼしていた。
「俺さ、もっとやりがいのある仕事したいよ」
「なんだよやりがいがあるって」
「もっとこう、血がたぎるってかんじの仕事さ」
エドワード王の世になってからすぐの頃は、近衛部隊はとても大変だったと聞く。内戦後だったから、暗殺を企む奴がいたのだそうだ。
だがそれも遙か昔の話だ。今はこの近衛部隊が大立ち回りを演じることなど、滅多になかった。その為か最盛期には二百人いたと言う近衛兵は、今その数を半分に減らしている。
「滅多なこと言うなよ。もし本当になったらどうするんだ?」
冗談めかして同い年の友がそう笑う。
「分かってるよ、アーデン。実際にそんなことになったら、俺はどうするかな?」
「逃げまどって終わりだろうよ」
「ちぇっ、そりゃあないぜ」
ウィスラーは時計をとりだした。
手元の時計が指し示した時間は十一時半。のんびりと食べ過ぎた。
「うわ、もうこんな時間だ。行かな……」
ウィスラーはその言葉を、最後まで言うことが出来なかった。食堂の中心当たりで、絶叫が上がったからだ。
「なっ……」
一人の男が立ち上がり、身もだえしながら絶叫していた。体中から絞り出されるような、聞く者全ての心を凍らせるような絶叫……。
「ウィスラー、俺たちの小隊長だ!」
アーデンが言ったように、それは近衛部隊新人教育小隊の小隊長だった。
「いこう!」
すでに食事を終えていた二人は、小隊長の元に駆けつけた。
「ひっ!」
その目に映ったものが信じられず、ウィスラーは喉の奥を引きつらせた。
……それは……おぞましい光景だった。
彼らの小隊長だった男は、全身の筋肉という筋肉を膨張させながら、顔を押さえて絶叫していたのだ。
筋肉を這う血管が、生き物のように体中で蠢いている。何のために小隊長が顔を押さえているのかを知った時、ウィスラーは声にならない悲鳴を上げた。
目だった。筋肉と蠢く血管に支配されたかつての小隊長は、目が飛び出さないように押さえていたのだ。
「ひっ……ひぃっ……」
言葉にならない、声が出ない……。誰かに助けを求めようとまわりを見渡した時、食堂のあちこちで絶叫の声が上がるのを聞いた。その声は徐々に多くなっていく。
「なに……何が起きてるんだよ……」
強ばった顔でまわりを見渡すと、そこには彼らの小隊長と同じように筋肉の異常膨張を引き起こしている人々がいた。
今食事中の者、これから食べようとしていた者たちが、皆総立ちになってこの異常な事態を眺めているしかない。
やがて小隊長だったものが悲鳴を上げるのをやめた。ゆっくりと顔から手を放す。彼に背を向けている小隊長の顔は見えない。
「しょ、小隊長、大丈夫ですか?」
恐る恐るウィスラーはそう尋ねる。だが小隊長は答えずにゆっくりと振り返った。飛び出した目が、ぎょろりとウィスラーを見る。
「う、うわぁぁぁぁぁ!」
逃げだそうとして、ウィスラーは咄嗟にアーデンを掴んだ。先ほどからアーデンが身動きひとつしないのだ。
「逃げよう、アーデン。やばいよ!」
だが振り向いたアーデンは、震えていた。全身からこみ上げてくる何かに耐えるように。
「アーデン?」
「ニゲロ……ウィスラー」
やけにたどたどしい口調で誰かがそういった。顔を上げると、小隊長が頭を押さえながら呟いていた。もう自分には止められない何かを、押さえるかのように。
「小隊長?」
「ニゲロ……コロシテシマウ!」
その言葉が終わると同時に、かつて小隊長だった筋肉の化け物は、テーブルをたたき壊した。
「おおおおおおおっ!」
同時に小隊長だった化け物の口から、絶叫とも雄叫びともつかぬ声がほとばしった。経験の乏しいウィスラーにさえ分かった。もう手遅れだと。
「うわぁぁぁぁ、アーデン、逃げよう!」
だが彼が手を引こうとして人物は、もはやアーデンではなかった。筋肉が膨張し、一回り大きくなって蠢く血管に支配されているそれは、小隊長と同じ化け物……。
「うそだ……嘘だ!」
パニックに陥ったウィスラーを、後ろから誰かが引っ張った。
「馬鹿者! 逃げんか!」
近衛部隊ボイド大隊長がそこに立っていた。腰の抜けかけているウィスラーを引きづりながら、ボイドは食堂の片隅に避けた。そこには無事な者が数名固まっている。
「でも、アーデンが!」
「もう駄目だ。おそらく食事に毒が盛られていたのだ。私を含め、食事をとっていない者は全員無事であるからな」
冷静にそう分析する年配のボイド大隊長に、ウィスラーは怒鳴った。
「そんなのは嘘です! 俺も一緒に食べたんだ、アーデンと!」
ボイドはウィスラーをじっと見据えた。そこに重要なことが隠されているのだと、自分では分からない。
「お前とアーデンは同時に食べ始めたのだな?」
「そうです!」
「ではお前が食べていないものがあるだろう? それを思い出せ。これ以上被害者を出すわけにはいかんのだ」
言われるまでもない。アーデンが食べて自分が食べなかったもの……それは……。
「トマトスープです」
黙りこくっていた面々の中に、緊張感が走る。
「トマトスープを食べたものはおるか?」
ボイドが無事な者に声を掛けると、数人の手が上がった。青ざめている。何も口にしていない者は数人しかいない。
彼らは……あと少しで化け物になるのだ。ウィスラーは震えた。
見ると完全に化け物と化した人々が、食堂中を壊してまわっている。その数、三十人弱……。まだ化け物化していない昼番の近衛兵の数も入れると、四十人近い。
「行きます」
トマトスープを口にしてしまった近衛兵が、剣を抜いた。
「しかし、危険だぞ」
「構いません。私もああなるのなら、せめて今の内に何とか彼らを止めねばなりません」
その言葉に、スープを口にした全ての人間が同意し、剣を抜いた。
近衛部隊は揺るがぬ忠誠と、死を恐れぬ王家の盾としての誇りを持つ部隊だ。怯え、逃げ出すことは許されない……そう彼らの顔に書いてある。
彼らはそれを示そうというのだ。
……新人のウィスラーには出来ないことを。
「ここは王城、この食堂からは我々がださん!」
近衛兵と怪物になった元近衛兵の戦いが始まった……いや、始まった瞬間に終わってしまったというのが正しいだろう。
怪物と化したウィスラーの小隊長は、跳躍した。人間とは思えないその身軽さで、先頭に立っていた近衛兵に飛びかかる。怪物は右腕を近衛兵に突き立てた。
ウィスラーは信じられないものをみた。近衛兵の背中から腕が……腕が突き出ている!
その力……すでに人間ではない。
「おおおおおおおおおおおおっ!」
血にまみれた右腕を抜き、怪物は雄叫びをあげた。
「逃げろ、新人! 救援を請うのだ!」
ウィスラーはよろめきながら、食堂を脱出した。後ろで近衛兵の断末魔と、怪物たちの絶叫が響く。
戦慄と恐怖に包まれた、本当の混乱の幕が、今切って落とされた。




