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呑気な冒険者たち  作者: さかもと希夢
呑気者旅に出る。
6/224

フランツ・ルシナの場合<1>


 暗闇の中で神々しく掲げられた炎が、まるでフランツを試すかのように揺らめいていた。

 物音一つしない静寂の中で、フランツはただ一人、その炎と相対していた。時折炎のはじける音が、想像以上に大きな物音を立ててその静寂を破るが、その音は耳に入らない。炎をじっと見つめる彼の目には、全くといっていいほど余裕がなく、むしろ追いつめられているようにも見えた。

 彼はすでに、この炎への挑戦が何度目なのか分からなくなっていた。それほどにこの炎は彼にプレッシャーを与える。ゆらゆらと揺れる炎は、彼の目にだけとてつもなく巨大に映っている。

「落ち着いて炎の声を聞いて」

 緊迫した空気の中で、穏やかな声が彼の耳に届いた。師匠オルフェの声だ。

 その声でふと我に返る。気がつけば金色の髪からは、緊張のあまりどっと吹きだした汗が雫となってしたたり落ち、前で組んだ手のひらはじっとりと湿っている。いつも炎に向かうと決まってこのように自分を失ってしまう。

 これでは炎の精霊を自分の支配下に置くことは難しいが、意地になって炎に立ち向かい続ける。

「全てを焼き尽くす死と再生の炎よ、我にその力を与えよ!」

 力を込めてそう叫んだフランツの望みも空しく、炎はただ炎のままである。彼の師匠が同じように唱えると、炎は易々とその姿を変えるというのに……。

「今日はここまで。また今度挑戦しようね」

 オルフェの言葉は柔らかだったが、今の段階で彼がこれ以上炎に関わることをきっぱりと否定していた。まだ早いというオルフェにやっと頼み込んで挑戦したのに、また駄目だった。

「……ありがとうございました」

 フランツはそれだけ言うと、後ろも振り返らずに儀式の場をあとにした。部屋を出ていく時、無意識に扉を強く閉めてしまったのが、彼の唯一の感情だった。

 大きな音を立てた扉に首をすくめながら、まだ三十代も半ばに見える若い彼の師匠は、困ったようにポツリと呟いた。

「本当に無愛想な奴。おかしいよなぁ、才能ないわけじゃないのに」

 勿論その声がフランツに聞こえることはなかった。


 

 ヴィシヌの村を出てから細い国人の街道を抜け、旅人の街道に出てから街道沿いをのんびり歩くこと二日。リッツとアンナは最初の目的地であるサラディオの街にたどり着いた。

 リッツの故郷シーデナの森からも正味二日というところに、このサラディオ自治領区の中心、サラディオの街はある。基本、自治領区名と、その自治領区で最も大きな街の名は同じで、底に自治領主が住んでいるのだ。アンナの住むヴィシヌも一応サラディオ自治領区に属するが、辺境のため、あまり交流はない。

 サラディオの街は、ユリスラ王国西北部では最も大きく人口も多い。旅人の街道沿いにあるということで、貿易が盛んな商業都市でもある。人が集まる所には自然と沢山の店が軒を連ね、商人達は行き交う人々に威勢のいい声をかけている。とても活気のある街だ。この街の自治領主は商人で、ここは商業の街である。

 そんなサラディオの街で、行き交う人々を眺めながら、リッツとアンナはこの街の比較的安そうなカフェで、朝食とも昼食ともつかない食事をとっていた。

 リッツとしてはもう少し街中をぶらぶらしてから昼食を取りたかったのだが、村以外の場所に行ったことがなかったアンナが、この店の前で、初めて見るマロンパフェに釘付けになったから、仕方なくこの時間の食事となったのだった。

 リッツは安くて量の多いサンドイッチをほおばりながら、街の様子を眺めていた。この街に来るのは久しぶりだ。子供の頃は父に連れられて精霊族の特産物を売り、生活品を手に入れるためとか、父親が面白そうな食べ物を買いに行くのに付き合わされたりしていた。

 一人で旅に出てから一番に立ち寄ったのも、勿論この街だった。この街は沢山の人々で溢れていて、情報を掴むのにも、仕事を見つけるにも不自由しない。

 でもなじみのある景色はそんなに変わっていない。街の歴史は意外に古く、中に入る店は変わっていても、建物の外観までは変わりようがない。故郷に帰るのも四十年ぶりだったから、西北部に立ち寄るのも同じぐらいぶりになる。それを考えると感慨深い。

 ちらりと正面で軽食を口にしているアンナに目をやる。初めの予定ではここで少々仕事をして路銀を得るはずだったのだが、予定が狂ってしまった。アンナを連れているのだから、適当な仕事で荒稼ぎすることは出来ない。

 だいたいリッツが出来る仕事は荒事ばかりで、未成年者が一緒にいるには向かないのだ。なのに旅は二人連れ。つまり金銭は二倍だ。女の子だが、アンナには安宿の同宿で我慢して貰うにしても、路銀に乏しい。

「あ~あ、金が全ての世の中かぁ~」

 ため息をつくリッツの真向かいでは、パフェあっという間に片付けたアンナが、物珍しそうに行き交う人々を目で追いながら、追加で頼んだパンケーキを、ナイフで切り分けて口に運んでいる。

 ヴィシヌでは大人びた態度を貫いていたアンナだったのだが、こうして二人きりになると、びっくりするほど幼い表情を見せる。孤児院と違って、世話する対象がいないからだろう。

 それに田舎も田舎育ちのアンナにとって、世界は、見るもの、感じるもの、食べ物に至るまで、見たことのない珍しいもので満ちあふれている。だから好奇心旺盛に目を輝かせて、リッツにあれこれ質問することに忙しいようだ。

 食べている時は静かなのだが、それ以外の時は常に『あれは何?』を繰り返すその姿は、見た目通りの年の世間知らずな少女なのだ。こうして毎回毎回アンナの輝くエメラルド色の瞳に見上げられ、期待いっぱいに質問されると、何だか少しだけ父親になったような気分になる。

 アンナを預かった身だから、出来る限り保護者としてその期待に応えるように努力せねば。

 それにリッツだって、初めて人間社会に関わった時はこんなものだったと思う。いや、もっとひどかったかも知れない。そう考えると、この状態にアンナに腹も立たない。世間知らずで寿命が長いアンナに、何となく同族意識のようなものは感じているのだ。

 アンナのただ一つの救いは正直なところだ。リッツは文句の減らない性格だったから、色々教えてくれた人は苦労しただろう。

 因果は巡る。真理だ。

 アンナはカフェから見える沢山の人の往来に夢中になっているせいか、パンケーキがあちこちにボロボロと散らばっている。

「アンナ、垂れてる」

「え? あ、本当だ~」

 アンナは照れ笑いしながら、パンケーキを皿に戻して、再び外を眺める。

「色々な服装の人がいるなぁって思ったら、気になっちゃって」

「そうか」

 小さな村で生まれ育った彼女には、人々の服装ですら新鮮で面白いようだ。

「リッツ、あのヒラヒラした薄い布何? 寒いと困るよね」

 くるりと外からリッツに視線を戻して真剣にアンナが尋ねる。リッツが見ると、そこにはふんわりと透き通るように軽く編まれたシルクのスカーフを巻いた女性がいた。色は秋に合わせたのか、明るいオレンジ色から、深みのある茶色へとグラデーションを描いている。

「ああ、あれな。シルクのスカーフ」

「シルク?」

「そ」

「コットンの汗取りとは違うの?」

「……汗取り……」

 リッツはため息をついた。農業人であるアンナからしてみると、首に巻くと言ったらマフラーか汗取りぐらいなのだろう。ヴィシヌにはあまり着飾る女性はいなかったようだ。

「何に使うのかなぁ、手も拭けないし、暖かくもないし……」

 リッツは、止まったままのアンナのフォークに突き刺さったパンケーキが、メイプルシロップをポタポタ滴らせるのを気にしつつも答えた。

「あんなに薄くても保温性は高いぞ。それに秋物のスカーフには定番のがらだしな」

「定番?」

「そ。季節のおしゃれってやつだよ」

「そうなんだぁ……分からないことずくしだよ。ね、リッツ、あれってどんな手触りしてるのかなぁ。触ってみたいなぁ。でも知らない人に触られたら嫌だろうしなぁ……」

 しみじみと呟いたアンナに、リッツは笑った。

「さらりと心地いいのに柔らかいんだ。コットンとは全く違って、かなりいい手触りだぞ」

「リッツも持ってるの?」

 アンナの真面目な問いに、リッツは肩をすくめた。そんなのを持っている傭兵上がりの男がいたら、顔を見てみたい。

「あれは女の人が持つもんなの。俺が持ってるわけねえだろ」

「ふ~ん」

 アンナは止めていた手を再び動かして、パンケーキを口に運んでいたが、ふと何かに気がついて顔を上げる。

「じゃあ、リッツはどうしてあの布知っているの?」

 口をモグモグさせながら、アンナがまた尋ねる。

「口にものが入ってる時はしゃべらない」

「だって気になるもん!」

 力説するアンナに呆れながら、視線をゆっくりと道へと向け、通り過ぎていく女性たちをのんびり眺めながらリッツはなんと言ったらいいか考えたが、やがて何だか馬鹿らしくなってきて、投げやりに答えた。

「女と暮らしたりすれば、触れるもんなんだよ」

 ほとんど無意識に答えると、アンナが突然フォークをカチャーンと皿の上に落とした。

「なんだ、どうしたアンナ?」

 リッツが驚いて尋ねると、アンナは目を丸くして尋ねた。

「リッツ、結婚してるの?」

 唐突な質問に、リッツはサンドイッチに顔から突っ込みそうになった。何でそうなる?

「だって女の人と暮らして触らせて貰うなんて、結婚してないと出来ないよ?」

「……う……」

 やばい。アンナがそっち方面では、救いようがないほどお子様だったことをすっかり忘れていた。何しろ道徳心と愛に溢れた、品性方向な教会の娘なのだ。言いよどむと、アンナは難しそうな顔をして呟いている。

「あ、お母さんに触らせて貰ったとか? 家族ならいいもんね。それとも何か触る理由があったの? 行き倒れた人がいたとか……」

 さすが教会の子供、いい方向に物事を考えようとしてくれているようだ。今まで名うての傭兵として、品性方向とは言い難い生活を送ってきたリッツには言葉もない。アンナやアントンには知られなかったが、リッツは自他共に認める女好きである。

 とはいえ、アンナに手を出すような事は絶対に無い。本気で女性と付き合ったことは一度もないのだが、傭兵としてまとまった金が入ると、花街の娼館で遊びまくる、玄人専門の遊び人だ。そんな女たちと暮らしたことだって幾度かある。家を出てから四十年の間に身についた悪癖ではあるが、どうやらこの悪癖は死ぬまで続きそうだ。

 でもそれはアンナをこうして預かった段階で、しばらくお預けになるだろう。何しろお金がない。それでもアンナには本当のことなど絶対に言えないから、適当に笑って誤魔化しておく。

「ま、あれだ。大人には大人の事情って奴があるんだよ。それはおいといて、お前はパンケーキを食ってろ」

「誤魔化してるよね? すっごく気になるなぁ~」

「気にするな。大人の事情は大人の事情。お前も大人になれば分かる」

「私三十歳だもん、子供じゃないよ?」

「メープルシロップこぼす奴は子供なんだよ。いいから、ちゃんと食べとけ」

「はぁい」

 アンナは頷くと再び手を動かしてパンケーキを口に運び出す。こうして何とかこの場を逃げ切り、二人はようやく街を眺めながらの静かな昼食へと戻った。

 実はそんな彼らはこの店の注目の的だった。大剣(グレートソード)を背負った背の高い青年と、小柄な少女。そして何より目を引いたのは、テーブルの下にドーンと構えた野菜のたっぷり入った背負い籠。好奇の目を向けられている事には気がついていたが、どうすることも出来ない。この荷物は今のところ二人の命綱だ。

 最後に出てきたコーヒーを飲みながら一息ついたリッツは、おもむろにアンナに切り出した。

「はっきり言っておくが、俺たちには金がない」

「うん、分かってる」

 ホットミルクを飲みつつ、アンナも深刻に頷く。教会での生活から、貧乏は身に染みているようだ。アントンが持たせてくれたのが、お金ではなく野菜だと言うことからも、教会の経済状況は明らかだ。

「正直言うとな、泊まる所も悩んでいる」

 一応今まで傭兵であったし、行き当たりばったりでも剣一つで稼いできたから、リッツはそれなりの金を持ってはいる。だがそれは、自分が安宿に泊まって金を稼ぎながら旅を続けられる程度だ。とてもじゃないが、この年頃の少女を連れ、二人で普通の宿に泊まる余裕はない。

「そこでだ、物は相談なんだが……アントン神官のくれた野菜……あれを売りつつ、この街で困っている人を助けてお金を貰う仕事をするってのはどうだ?」

 アンナは目を丸くした。やはりアントンの野菜を売るという案はまずかったかとリッツが考えた時、アンナが口を開いた。

「困った人からお金を取るの?」

 アンナが引っかかったのは、後者だった。どうやら彼女には、困った人は無償で助ける事が当たり前だという考えがあるらしい。そんな時、人を納得させるはったりが、リッツの得意技のひとつだ。

「いいかアンナ、よく考えて見ろ。俺らも今困っている人だ。困っている人が困っている人を助けて、そのことで俺らも助けて貰う。これはいいことだぞ」

「そうなのかなぁ~」

 考え込むアンナを、リッツは更に丸め込んだ。

「お互いがお互いを助け合う。これを相互扶助というんだ。教会で習ったろ?」

 デタラメな言い分だが、アンナはしばらく考えてから頷いた。

「そうだよね。困った時はお互い様ってお養父さん言うもん」

 どうやら納得してくれたらしい。でも一番心配した野菜を売ることに関しては、アンナに全く反対意見がないらしい。

「ヴィシヌの野菜をもっと知って貰うと、きっと村の野菜、これからいっぱい売れるよね!」

「だろうな」

「そうしたら、少し生活が楽になるもん」

「なるほど、そりゃそうだ」

 案外ちゃっかりしているようだ。そんなわけで彼らは、そのあと散々苦労するとも知らずに、野菜を売るための場所探しに出かけることになった。



 フランツ・ルシナは町外れの丘に寝転がり、空を見上げてぼんやりしていた。金色の髪が風にたなびいて揺れる。前髪が多少長いのは、彼が周りの人間から顔色をうかがわれるのを防ぐためだ。その前髪で隠した瞳は、深い海の底のようなブルーで、二十歳にも満たない年のくせに、妙に冷めた目をしている。

 フランツは本来、精霊使いの修行をするような身分ではない。本当なら彼のいる場所は、精霊使いの師匠の家ではなく、このサラディオの領主の邸宅のはずだった。フランツは、この商業都市サラディオの領主、ヴィル・ルシナの唯一の息子なのだ。

 ヴィル・ルシナは交易に来る商人達にある意味有名な人物だった。彼はこの街で商売する全ての商人に賄賂の要求を公然と行うような、欲深い人物なのだ。

 いつも私設傭兵隊であるサラディオ護衛団を手元に置き、自分の利益を追求することに余念がない。フランツはそんな父親を見るにも耐えられないほど大嫌悪している。

 一人息子といっても他に兄妹がいないわけではない。実家には二人の姉と妹がいる。フランツはその中の唯一の男なのだ。今実家では父にとって五番目の妻が一緒に暮らしているから、また一人ぐらい増えるのかも知れないが、今のところは四人姉弟だ。

 実家と行っても、かなり広く、父親の住む本宅と、父親が目を付けてきた女性たちや、子供を生んだ女性たち、それからその女性付きのメイドまで、女性と子供ばかりが住む別邸がある。別宅は中にいる人々や、サラディオの人々から『後宮』と半ば揶揄されているのだが、父はそれを自慢の種にしていた。

 それから大商人らしく巨大な蔵が幾つもあり、それが総て同じ敷地内に建っている。

 子供の頃から人と交わることを好まなかったフランツは、いつもこの広い邸宅の何処か人目に付かないところで、ぼんやりと本を読んで過ごしていた。

 そんな実家を嫌って、随分前に家を飛び出して、師匠の家に弟子入りと言うより、転がり込んでいる。一体全体どういったいきさつでここに来たのかは、よく覚えていないが、師匠オルフェは『来るべくしてきたんだから、気にしない気にしない』といつもへらへらと笑い飛ばしている。ならばいいのだろうと、フランツは勝手に納得していた。

 父のおかげで酷い人間嫌いになってしまった彼のことを、師匠は冗談で『精霊族のような人間』と呼ぶ。

「才能か……」

 何故炎の精霊が認めてくれないのか、それがどうしても分からない。何度やっても上手くいかない炎の精霊との交渉にフランツは完全に自信を失っていた。

 師匠は、足りない物があるから炎の精霊が彼の方を向いてくれないのだというが、それがなんなのか全く分からない。でも口を酸っぱくして『もう少し周りを見てみろ』というところを見ると、今までフランツが見てこなかったものが必要なのだろう。

 おそらくそれは人との関わりだ。人との関わりを持つことを拒絶して育ってきたフランツは嫌々ながらも、拒絶してきた事の中にこそヒントがあると気が付いていた。

 だがどうやってそれを知る?

 良い考えも浮かばないまま、彼は足を街の方に向けた。この街外れには人がいない。せめて人間観察でもしようかと思い至ったのだ。

 行く当てもなかったが、師匠の待つ家に帰る気もなかった。家に帰ればきっと困ったような顔をするオルフェに、当たってしまいそうな気がするのだ。だからもう少し頭を冷やした方がいい。

 仕方なく街をぶらぶら歩くと、商人達の彼に媚びを売るような笑顔が目に付いた。彼の父ヴィル・ルシナが、彼を溺愛していることはあまりにも有名だ。少しでもフランツにいい顔をして、商業権の拡大をしたいのだろう。

 だが今のフランツがルシナ家にいないことは意外と知られていない。フランツは滅多なことでは街に出てこないし、オルフェに客人があった時には、自室に引きこもっている。そのせいか、商人たちは未だにフランツにこびを売る。意味など無いのに。

 街に入るんじゃなかったと、入口でもう後悔し始めていたが、きびすを返して出て行くのに癪だ。ならば前に進むしかない。仕方なく何にも目を向けず、街の喧騒を頭の片隅から消し去りながら黙々と機械的に足をすすめた。そうすれば総てがなんらかの暗号のように聞こえて、言葉が意味を失っていく。残るのは雑音だけだ。

 当然フランツはこの街では隣の国の果物や野菜が売られ、近隣の国の工芸品に珍しい布、そして珍しい生き物も売られている事を知っている。街を見渡せばそこには商品が溢れていて、この街では金を出せば買えないものはないといわれていることも知っている。

 でも興味はなかった。フランツには物欲というものが存在しない。高価な金を出して、意味もない飾りを買ったり、上手くもない食べ物を食べようとは全く思わないのだ。

 街の賑わいは小さい頃から見てきた光景なのだが、何故かどうしても馴染めないでいる。商人達が皆、彼の父親に平伏して金を払っている姿を見ているから、何かうすら寒いものを感じるのだ。商人達の顔を見ていると、皆同じ顔に見えてげんなりする。心底フランツはこの街が嫌いだった。

「これぐらいなら、いいだろう!?」

 唐突にフランツの耳に人の言葉が飛び込んできた。今まで聞こえていた雑音とは明らかに違う、意志を持った言葉だったから耳に飛び込んできたのだ。声の主を見ると、長身で黒髪、大剣を背中に背負った男がいた。男は憮然とした顔つきで、商人と何やら言い合いをしている。

 男は明らかにサラディオの人間ではなかった。サラディオの人間ならば、大通りで店を構える商人に喧嘩を売ったり出来ないはずだ。大通りに店を構える商人はみな、高い場所代を領主に納めているから、他の人々に対して横柄だ。

 それでも人々はそこで物を買う。なぜなら商人の力が強いこの街では、領主に認められた格上の商人にたてつくと後が怖いのだ。

 フランツはこの騒ぎに興味を持った。街を歩くことがほとんど無かったフランツにとって、サラディオの人々以外の存在を見ることが初めてだったからだ。だから商人を相手にどうするのか気になった。

 喧嘩と騒ぎの好きなサラディオの野次馬達が取り囲む中をすり抜けて、フランツはその列の一番前に出てみた。先ほどは人波に埋もれて気が付かなかったのだが、長身の男の横には、背負い籠を背負った小柄な少女が立っていた。

「野菜をちょっと軒先で売らせてくれないかって頼んでるだけだろうが。他の街じゃ普通に許可されるぜ?」

「田舎者が。ここサラディオでは事情が違うんだよ」

「場所代は一割出すって言ってるだろ?」

「そんなちんけな野菜売ってやるのに一割じゃ安すぎるな。四割だせよな」

「ざけんな! そんな金額出せるか!」

「だったらとっと失せな」

「なんだその態度? 商人の態度じゃねえな。お前こそ素人じゃねえのか?」

「んだと? 街道沿いの商人にそんな態度を取りやがったらどうなるかしらねえのか!」

「知るか! 俺はサラディオの住民じゃねえ!」

 長身の男の言葉でフランツはだいたいの事情を理解した。彼らはこの街の外からやってきて、この野菜を捌いて旅費にでも充てたいのだろう。でもこの街の商人たちは決して他人を受け入れる余地はない。

 フランツは、野次馬の横を通り抜けて八百屋の後ろに立った。フランツの様子気が付いたのは、その男だけだった。目があった瞬間、フランツは八百屋とやり合っている一風変わった男が、本気で怒っていないことに気が付いた。目が異様に落ち着いていたのだ。表面上怒りつつも、心は冷静だ。

 腕に相当覚えのある人間は、感情をむき出しにはせず、多少余裕を残した表情をする。師匠にそう聞いたことがあるが、初めてそういう目に行き当たった。これが実力ある人間の表情かと、フランツは感心する。生まれて初めて見た。

 この男がいったいどんな男で、何を考えているのか、そしてこの街をどう思うかが少し気になる。フランツは黙ったまま八百屋に近づいていった。

「何の騒ぎ?」

 静かに声をかけると、憤っていた八百屋が後ろを振り返った。そしてフランツを認めたとたんに、如実に青ざめる。フランツの父親の姿をフランツに重ねてみたに違いない。フランツを無碍に追いやったりしたら、この街を追われることが、サラディオの常識だ。

「いやなに……何でもないですよ、坊ちゃん」

 八百屋は奇妙に歪んだ笑顔を浮かべて、何もなかったかのように野菜を整えるふりをしだした。

「おい俺の話はどうなったんだよ?」

「うるせぇ、あっちへ行っちまえ」

 野次馬さえもそそくさと去っていく中で、事情の分からない長身の男は更に食い下がったが、八百屋は無視するだけだった。

「変な街だね、リッツ」

 この大きな男、リッツというらしい。少女の何気なく発した一言にフランツは肩をすくめた。確かにこの街は変な街だ。本来商人は自由なのに、サラディオ商人はルシナ家の顔色を窺って暮らしている。

「悪いな、野菜売れそうにないや」

 リッツは少女に目線を合わせるようにかがみ込んで、本当に申し訳なさそうに謝っている。

「いいよ。でも残念だね。これじゃ宿代が作れないよ」

「まあ、少しの間なら俺の今までの稼ぎで何とか……」

 そういうとリッツはため息をついた。

「その後はその野菜喰って野宿かもな」

「野宿かぁ……。そんなに嫌じゃないから平気だよ」

「今度の街で何か仕事を探すしかねえな」

「うん」

 サラディオの市民が、彼ら二人がその場にいないように避けながら歩いて行く。近くにいるフランツに関わりたくないのだと言うこともよく分かった。

「なぁそこのやつ」

 気軽に声をかけられたが、自分だと思わずぼんやりしていると、リッツと呼ばれた男が明らかにフランツに向かって声をかけてきた。

「何?」

「商人じゃなくてもいいからさ、この野菜を買ってくれる商店とか食い物屋知らねえか? 産地から二日かかってるんだ。今日、明日あたり売れないと商品にならねえんだよな」

 心底困り切った顔でそういった男は、頭を掻く。その時に目に付いたのは耳の形だった。人間の者と明らかに違う、先が尖った耳を持っているのだ。

『精霊族のような人間』といわれている彼が、初めて人間以外の血を引くものを見た。初めてこの男が何者なのかに興味を覚える。こんな事は初めてだ。

 サラディオで野菜を売ろうとする、戦闘職種らしい実力者。しかもやけに人間くさいのに、人間ではない耳。行動と見かけがかけ離れている。それにこの二人は街の人間ではないし、商人でもない。フランツが初めて見る、商売とは全く関係ない人間なのである。

「野菜が売りたいんなら手伝ってもいい」

 気がつくとフランツはそう口にしていた。自分で言ったくせに自分で驚いたのだが、一度口に出したことを引っ込めるのはフランツの理屈に合わない。気がつくとリッツと少女は鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしてフランツを見ていた。

「売れるのか?」

「売れる」

「お前が」

「あなたたちが自分で」

「そりゃ助かる。この街じゃ野菜を売るにも一苦労だ」

 先ほどの静かな激しさはすっかり姿を消して、リッツいう男はダークブラウンの瞳に、嬉しそうな表情を浮かべた。街の人々には必ずある、卑屈の欠片がひとつもない。

「良かったな、アンナ」

「うん!」

 少女の名前はアンナと言うらしい。どうやら二人に異存はないようだ。それどころか、フランツの参入に大歓迎といった様子である。初対面なのに、こんなに他人を信頼していいのかと、他人事ながらフランツはため息をつく。フランツなら決して信用なんてしない。そもそも他人を信用してしっぺ返しをされるのはごめんだ。

 フランツは改めて二人をまじまじと見つめた。妙な二人組だ。二人の関係がまるで見えない。アンナはリッツの娘というには年がいっているようだから、兄妹だろうか? だが髪をしっかりと一つの三つ編みに編んでいる少女の耳は普通で、リッツとは違う。

 だとしたらこの二人はいったい何なのだろう。

 そんなことを考えていたフランツの目の前に、手が差し伸べられた。フランツはその意味を探るようにリッツを見上げる。するとリッツは自信に満ちた明るい笑みを浮かべた。

「俺はリッツ・アルスターだ。よろしく」

 その顔には迷いやフランツに対する不信感は無かった。その事にかえって戸惑う。

「……僕を信用すると?」

「ああ。何か都合の悪いことでもあるのか?」

「何で見知らぬ他人を信用できるのかと思って」

 思わず本音が零れた。するとリッツが軽く肩をすくめる。

「そりゃあ、お前はどう見ても無表情で、何を考えているのかいまいち分からない感じに見える」

 リッツはそうはっきりと言った。フランツは自分が無表情で、感情がほとんど顔に出ないことを自分でも理解している。でもそれをフランツの顔を見てはっきりと告げたのはリッツで二人目だ。一人目は師匠オルフェだった。

「でも嘘はなさそうだ」

 フランツはリッツのその一言に胸を突かれた。フランツをそう見る人はやはり師匠に次いで二人目だ。もしかしたらこの人物は、信用がおけるのだろうか? そう感じた瞬間に、リッツに逆に問われていた。

「信用されたくねえのか?」

「いや。どうしてかと思って」

 するとリッツは自信満々と言った笑みを再び浮かべて、自分に向かって親指を指し示す。

「決まってんだろ。俺の直感がお前を信用しても、まあ大丈夫だと告げてんのさ」

「直感?」

「そ。俺の直感はまずはずれない」

 思い切り理屈の通らないその一言に、フランツは心からため息をついた。そんなことで世間が上手く渡れれば苦労しない。でも何故だかこの男ならそれで上手くいってしまうのかも知れない。

 そもそも疑うことからしか人を見られないフランツには、到底無理なものの考え方だ。そんなフランツのえもいわれぬ疲労感など無視して、アンナが感激したような声を上げた。

「すごいねリッツ! じゃあ、私は? 私は直感ではどう思った?」

「ん~、面倒なことになりそうだなと……」

「ひっど~い!」

「冗談だ、冗談」

 二人はそう言ってふざけ合って笑っている。どんな関係かは、未だまるで読めないが、とりあえず仲はいいらしい。そんなアンナが唐突にくるりとフランツの方を向き直った。思わず一歩引いたにもかかわらず、アンナはまっすぐにフランツを見つめて手を差し伸べてきた。

「私、アンナ。アンナ・マイヤース。よろしく!」

 絶句していると、再びリッツが手を差し伸べてきた。こんな風に他人に手を差し伸べられて挨拶したことなど無かったフランツは、戸惑いながらも順番に二人の手を握った。

「僕はフランツ・ルシナ」

 そう口にしただけで妙な恥ずかしさがこみ上げてきた。何しろこの街では誰もが自分のことを知っていて、名乗る必要がなかったから、こうして自分の名前を名乗ったことなど無かったのだ。

「よろしく、フランツ」

「……よろしく……」

 そう考えると自分が特殊な環境にいたことを思い知らされた。街の外に出れば、こんな人間もいるのだ。何故今まで気が付かなかったのだろう。そんなにこの街を嫌っているならば、出て行くという手段もあり得たのだ。

 少なくともこの街を出れば、ルシナ家という呪縛からは、逃れられただろう。

 物思いにふけっていると、手がまだほんのり温かいことに気がついて、我に返って自分の手を見る。するとリッツとアンナ、二人がまだしっかりとフランツの手を握りしめていた。

「何……?」

 フランツが微かに怯むと、リッツは畳みかけるように、真剣な目で見つめてきた。アンナもまた、真剣にこちらを見つめている。振り払おうにも二人の力が強すぎてどうにもならない。

「俺らの宿代から飯代まで、全部あんたにかかってる。頼んだぜ!」

「え?」

「お願いします!」

「ええ?」

 どうやら野菜を売ると言うことは、彼らの生活費を稼ぐことで、しかも二人は今かなりギリギリなのだと言うことが分かった。もしかしたらとんでもない奴らと知り合いになってしまったかもしれないと、フランツは一瞬後悔したが、もう後の祭りである。

 二人とは違っていつものように好奇と妬みの視線を向けてくる街の人々から逃れるために、フランツは二人の手を解いた。

「ここだと都合が悪い。歩かない?」

「ああ」

「うん」

 フランツが街外れへと歩き出すと、野菜かごを担いだリッツとアンナが後に付いてきた。街の人々に視線を向けることもなく、フランツは街を通り抜け、旅人の街道から少しはずれた横道に入って、街外れの丘へと向かった。

 草が覆い繁り、眼下に小さくなった街を見渡すことが出来るこの丘は、フランツがよく一人で過ごすお気に入りの場所だった。街の人々は滅多なことではここまで来たりしない。それにここから旅人の街道も横道も見渡せるから、誰かが来たら立ち去ることが出来る。一人でいるには完璧な場所だ。

 そんなお気に入りの場所に、今は人を連れてきている。そんな自分が不思議だった。

 草の上に腰を降ろし、リッツたちが座ったのを確認してから、フランツは早速説明を始める。

「手早く言うと、この街の商業権は一般の相場に比べて少し高い。その中でも街道沿いは更に高い。正攻法で売り込みをしても無駄だ」

 この一言にリッツは納得したようだった。その商業権をつり上げているのは、自治領主であるフランツの父親だ。父親の代になってから商業権がかなり高くなったと聞いている。だがそれは口に出して言うことではない。フランツはそれを言うつもりもなかった。

「なるほどな。通りで場所を貸したがらないわけだ。それじゃ俺らが野菜売るのも大変だ」

「そう。無駄だと思う」

 フランツが頷くと、アンナが不満そうにリッツを見上げている。

「意味が分からないよ。そもそも街道沿いって何?」

 それにリッツが父親か兄のように、丁寧に説明する。どうやらこのアンナという少女はあまりものを知らないようだ。それに比べればリッツは色々なことを知っているらしい。

「ヴィシヌから大きい道に出る時説明したろ? この国には旅人の街道っていう、大陸中に張り巡らされたでかい道と、国人の街道っていう、ユリスラ独自の少し細い道、それから名もない道があるって」

「それは覚えてるよ。でも街道沿いって街中だよ?」

「そ。サラディオのど真ん中を旅人の街道がつっきってんだよ。それがさっきの八百屋が店を出してた道だ」

「大きな街道が街の真ん中を通ってるの!?」

「ああ。自治領区の中心にある街はだいたいそうだな」

「そっかぁ……」

 納得したように深々頷いたアンナが、今度はフランツを見上げた。

「商業権って?」

「アンナ……話が進まないからそれは後で俺が説明してやる。今はフランツの話を聞こう」

「絶対説明してよ。リッツ」

「分かってる。じゃあ、フランツ、続きをよろしく」

 何だか妙な感じだが、フランツは促されて言葉を続けた。

「だから朝市がいい」

「朝市?」

「商業権を持たない市民が唯一店を出せる」

 フランツの結論はそれしかなかった。変わった物から生活必需品まで、ありとあらゆる物が売られていて、もちろん野菜類も多くある。

「なるほどな」

 リッツも納得したように頷いた。だがその朝市には一つだけ問題がある。朝市は主にサラディオ市民にのみ開放されている。今回野菜を売るためには、誰かがサラディオ市民として表にたち、交渉しなくてはならないのだ。

 勿論その役目を担えるのは、この中ではフランツのみだが、朝市参加者のリストは、間違いなく父親の手に渡ってしまう。父ヴィルは朝市のリストから将来有望そうな人間を見つけだし、店を持たないかと持ちかけるのだ。勿論見返りは多額の金だ。

 父親がリストの中にフランツの名前を見つけたら、どうなるのか見当がつかない。きっとろくな事にはならないだろう。そうなった場合、野菜を売ることなど出来るはずがない。何よりフランツ自身が不快だ。考え込むフランツをアンナが心配そうに覗き込んだ。

「何か問題があるの?」

 アンナの言葉にも、彼は小さくため息をつく事しかできない。まさかこの街の領主の息子であることを悩んでいるとはとてもいえないからだ。

 となると朝市に参加する方法はただ一つだ。街の外れに暮らしているとはいえ、オルフェは一応サラディオ市民だ。オルフェはこのサラディオの街に一人しかいない精霊使いだが、かなり気さくで話の分かる人物だ。きっとこの二人の事情を聞いたら、喜んで、そして率先して朝市に参加しようと頑張るだろう。

「師匠に頼んで、朝市の出店者登録をしてもらわないといけないんだ」

 フランツの提案に、リッツは頷いた。

「それはお前に任せる」

「いいんだね?」

「ああ。一度信用するって決めたんだ。お前に任せる」

 そう言われたのは初めてで、少しだけ嬉しくなった。信用されるのはいいかもしれない。無条件に信用してくれるなら、この信用に答える分だけは、信用に値するように努力してみてもいいかもしれない。

 フランツが考えに浸っていると、リッツが今までの自信満々な態度から一変、大きくため息をついて、呻いた。

「朝市は決まった。問題は残り少ない金で今日の宿をどうするか、だ」

「本当だね~。フランツ、中の下ぐらいの宿って知ってる?」

 そんなものフランツは知らない。そもそも自分の住んでいる街のことなど何も知らない。興味がなかったから知らない出来てしまった。でも彼らを泊めることが出来る家なら知っている。

「師匠の所に泊まるといい。師匠は客好きだ」

 告げるとフランツは二人の返事も待たずに立ち上がった。

「こっちだ」

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