アンナ・マイヤースの場合<2>
Ⅴ
翌朝の早朝五時。
「リッツさ~ん、おはようございま~す、朝ですよ~」
扉の外からアンナは元気に呼びかけた。アンナはオーバーオールのズボンに、長袖シャツ、麦わら帽子といった出で立ちをしている。ヴィシヌの朝は、この格好でいるのが当然なのだ。
しばらく待ってから扉に耳を当ててみても、部屋の中からは何の反応もない。おそらくぐっすりと眠っているのだろう。扉の前でこうして待ち呆けているのもなんだから、ここは非常手段に訴えるしかない。アントンに彼を畑に連れて行くよう言われたアンナに、容赦はないのだ。
「ん~、じゃしょうがないね」
彼女には特技がある。その名も『のしかかり』。勿論彼女がやるわけではない。命じて子供達にやらせるのである。普段その犠牲になるのは、寝起きが悪くなってきた年長の子たちだ。リッツは身内じゃないけれど、起きないのだから仕方ない。
「やっちゃう?」
その声を待ちわびていたかのように、アンナの後に控えていた子供達が一斉に扉に群がった。昨夜遊んで貰ったことで、リッツに親しみを感じているから、子供たちは嬉しそうだ。もちろんアンナも口元が緩むのを押さえることができない。あの子供みたいな大人の人は、この子供たちの攻撃にどうするんだろうと興味津々だ。
ドアノブに手をかけた。抵抗もなくノブは廻る。孤児院の扉に鍵はない。
「よし、行け子供達!」
「は~い!」
アンナが扉を開けて命じると子供達がリッツの眠る部屋に駆け込んでいった。全員が駆け込んだところで、アンナがそーっと扉を閉じた。準備完了である。
「ぎゃ~~~~~~!」
扉の中で上がったリッツの悲鳴に、アンナは堪えきれず吹き出した。
「やられてる、やられてる」
しばらくした後、扉の内側でバタバタバタッという音と同時に、子供達がすごい勢いで扉を開けて飛び出してきた。楽しそうにはしゃぐ子供たちは、あっという間に階下に駆け下りていく。
またまたしばらく後、リッツがのっそりと顔を出した。寝癖の付いた頭はぼさぼさに乱れているのに、何故か長めの後ろ髪がきっちり三つ編みにされている。犯人はどう考えても子供達だ。扉の外を見たリッツは一目見て主犯が誰か理解したらしく、寝癖だらけの頭をボリボリと掻きむしった。
「あのな、アンナ……だったよな?」
「はい!」
「男ってのは、寝起きがとても大変なんだ。まして上に飛び乗られたりすると危険きわまりない。分かるか?」
リッツの言葉にアンナは堂々と胸を張る。
「分かりません。私、女の子ですから!」
「……それはそうだな……」
がっくりとリッツはうなだれると、ため息をつきながら再び頭を掻いた。
「大声で起こしてくれれば起きるから、これは勘弁してくれ」
あくびをかみ殺しながら部屋に帰ろうとするリッツを、アンナは後ろからむんずと掴んだ。
「リッツさん、行きましょう!」
困惑した顔でリッツが眉を寄せる。
「何処に?」
「畑!」
「誰が?」
「リッツさんが」
鳩が豆鉄砲食らったような顔とは、まさにこの表情のことを言うのだろう。リッツは、その眠そうなダークブラウンの瞳で、まじまじとアンナを見つめる。アンナもその目を見返した。やがてアンナの言葉が揺るぎないと分かると、リッツは恐る恐る聞き返してきた。
「俺が何で畑に?」
「働かざるもの喰うべからず、ですよ。教会の掟です」
きっぱりとそう言うと、リッツが呻いた。
「泊まっていけって、こういうことか……」
ぐったりと俯いて呻くリッツに、アンナはにっこりと微笑みかけた。
「今最高に人手不足なんです! さ、行きましょ?」
明るくそういうと、むっつりと黙っていたリッツが、ため息を付いた。どうやら畑に出る覚悟が決まったらしい。
「……すぐ行くよ」
そう言い残すと、リッツは渋々といった感じで部屋に戻った。少し大きくなってから孤児院に来た子と同じような反応で、少し可笑しくなってしまう。部屋の外で待っていると、アントンが手に服を持ってやって来た。そこにあるのは、アントンが普段使っている作業着と麦わら帽子だった。
「野良着のを持ってないだろうからね」
笑顔でそういうと、アントンはドアをノックして中に入っていった。耳を付けて聞いていると、アントンの楽しそうな声がした。
「野良着がないだろうう? 私ので悪いがこれを着ておくれ。私には少し大きくてね」
「ありがとうございます」
そこまで聞いてから、アンナはその場を離れた。子供たちが階下からアンナを呼ぶ声が聞こえてきたのだ。アンナは下に降りて子供たちの采配をしなければならない。だからリッツが着替える様子に聞き耳を立てていても仕方がないだろう。それに今日の仕事は教会から見えるところで行うから、支度をして出てきたリッツは、アンナたちを見つけることが出来るだろう。
「アンナ姉ちゃ~ん」
「はいは~い、今すぐ行くね!」
アンナは元気に返事をして階段を駆け下りた。
階下に降りるといつものように子供たちが勢揃いして、孤児院の扉の前に立っていた。夜は閉ざされる孤児院の扉だが、昼はずっと鍵もかけずに空いている。
「アンナ姉ちゃん、今日は何をやるの?」
子供たちが目を輝かせてアンナを見ている。そんな子供たちの表情を見ていると、もう十年ほど子供たちの世話係を務めているアンナは和むのだ。
孤児院の子供たちはここに来たばかりの頃、いつもおどおどしていたり、妙にひねくれていたりする子が多い。もちろん乳幼児のうちに孤児院にやってきた子もいる。でもやはり少々物心ついてから来る子が圧倒的に多いのだ。そんな子たちは、きっと父母や親類の元で辛い思いをしてきたのだろうと思う。
でもこの孤児院に来ると、数週間から数ヶ月で、明るい笑顔を取り戻すのだ。それを見ているのがアンナは嬉しいし、人間よりも少し長く生きている身としては生き甲斐のようなものを感じている。
姿形は幼くて、年長組の子供たちと同じぐらいなのだが、アンナの心の中はかなり大人なのである。実年齢の三十歳までは行かないが、アンナ自身は既に二十代ぐらいのつもりでいたりする。
孤児院の子供たちは自然に年長組が年少組の面倒を見る、という関係ができあがっている。アンナはそれを見守りながらも、子供たち全員の姉として、子供たちを守り、幸せにしするべく毎日努力する。
孤児院の子たちは、だいたい十五歳から十六歳ぐらいまでにここを出て行く。この村に定着して農民や酪農をする子もいれば、自分の夢を持って大きな街に出て行く子もいる。当然、お金持ちの家に引き取られて養子として幸せに暮らしている子もいる。
アンナにとってこの孤児院は、子供たちを幸せに送り出してあげるために家だ。だから子供たちとの時間を大切にしているし、こうして農作業をするにしても、子供たちに強制することはない。でもだいたいの子供たちが、こうして楽しそうに自発的に手伝ってくれるから、アンナはいつも楽しくて仕方ないのである。
「お姉ちゃんってば!」
「あ、ごめんごめん。今日はね、昨日取ったサツマイモの茎を洗って干す作業をする係と、冬用にカブ畑を作る係に別れるよ! 年少組は私と一緒で小川に降りて茎洗いをして、干そうね!」
「は~い!」
「年長組は村までリアカーを引いて降りて、堆肥を貰ってくること! 重いけど頑張ってね!」
「はーい!」
てきぱきと指示をすると、アンナは孤児院の扉を見た。リッツがまだこない。背の高いリッツには、それ相応に向くだろう仕事を手伝って貰うつもりだから、説明しないとアンナは年少組の子と一緒に行けない。
「まだかなぁ……」
呟きながら後ろを見る。そしてリッツと一緒に組ませる子を考えていなかったことに気がついた。周りを見渡して、一番木登りが得意なハリスを見つけた。
「ハリス、今日はみんなと別ね」
「え? 何で?」
「今日は一日、リッツさんと果樹園のお手入れをお願いできる?」
アンナが微笑みながらそう告げると、ハリスの瞳が輝いた。
「やるやる! やったー!」
ハリスが上機嫌に飛び跳ねた。そういえばハリスは昨日の夜、率先してリッツに飛びついて遊んで貰っていたんだった。
「ハリス、遊びじゃないんだから、真面目にやるんだよ? アプリコットジャムは、教会の重要な資金源なんだからね」
「分かってるって、アンナ姉ちゃん!」
はしゃぐハリスに、アンナは少しだけ心配になった。
「大丈夫かなぁ……」
ため息をつきつつ見上げた空は、昨日同様のいい天気だ。これはもう、農作業日和だ。
「さ、年長組は出発よ」
「はーい」
子供たちが賑やかにリアカーを引いて教会の丘を下って行く。子供たちだけでも、十人も入ればリアカーを押して丘を登ってくることが可能だ。農場を営むヴィシヌ孤児院に、それしきのことでへばるような子はいない。アンナが子供たちを見送っていると、リッツの声が聞こえた。
「お~い、来たぞ~」
「はーい!」
振り向いてリッツの方まで駆け戻りながら、アンナは笑いがこみ上げてくるのを抑えきれなかった。何とも言いようがないぐらい、リッツに農作業姿が似合わない。というよりも、アントンの作業服の大きさが、全くあっていないのだ。
ただでさえ違和感満載の作業服の丈が手足共に短く、ボタンもはち切れそうだ。そのくせ頭にちょこんと乗せられた麦わら帽子は妙に似合っている。何だか麦の収穫シーズンに畑に立てられる、かかしみたいだ。
可笑しくて、リッツの目の前に立った瞬間、吹き出してしまった。
「何だよ」
「リッツさん、似合わないですねぇ~」
「気にしてんだから言うな」
「ごめんなさい。だって、お下がり着てるかかしみたいで……」
笑いながらそう言うと、リッツはムスッと腕を組んで黙ってしまった。その姿がまた孤児院の子みたいで可笑しい。黙ったリッツに、アンナは笑いをこらえながらハリスを呼んだ。
「この子はハリス。リッツさんは、今日この子と一緒に果物を取る仕事をして下さいね」
そういってハリスの肩に手を乗せると、ハリスは嬉しそうににんまりと笑うと、鼻をこすった。ハリスはやんちゃなな男の子だ。好奇心旺盛で、いつも楽しそうに目を輝かせている。そんなハリスに、リッツが右手を差し出した。
「よろしくな、坊主」
そのリッツの手をがしっとハリスは握った。
「よろしくな、おっちゃん」
ガキ大将風のハリスの言葉に、青筋を立てながらすごみある笑顔でリッツは言い返した。
「俺はリッツ、お兄さん、だろ?」
「分かった、リッツ兄ちゃんってことにする」
「それならいい」
二人の楽しげなやりとりにアンナは目を細めた。何だか楽しそうで良かった。これなら仲良くやってくれるだろう。
「じゃあ私は行きます。お昼御飯持ってくるからそれまで頑張ってくださいね」
「へ? 昼?」
リッツが間抜けな声を出した。
「教会の朝ご飯、四時半からなんですよ。リッツさん、起きてこないから終わっちゃいました」
「な……」
「リッツさん、疲れてるのかなって、起こさなかったんですけど?」
そういうとリッツはがっくりと再びうなだれた。
「……食べそびれた」
あまりの落ち込みように、アンナはリッツを励ますように、その広い背中を叩いた。
「じゃあ明日から朝食には必ず起こしますね!」
「そうしてくれ」
小さく息をついたリッツは、頭を掻いてハリスを見た。
「じゃあ昼食を楽しみに作業をするか。ハリス、案内してくれ」
「了解!」
二人が楽しげに去っていくのを見ながら、アンナは年少組の子供たちをつれて、教会の丘から少し降りたところにある小川に向かって歩き出した。子供たちが銘々背負ったかごには、昨日収穫した紅芋の茎の太い部分がどっさりと詰め込まれている。
アンナは秋の気配で少々冷たくなってきた小川に入って、子供たちに笑顔を向けた。
「さ、頑張ろうね!」
「はーい!」
「紅芋の茎は、たわしでごしごしこすって、汚れを綺麗に落とすんだよ。美味しく食べるためには、努力あるのみ!」
「はーい」
子供たちと共にアンナは猛然と紅芋の茎洗いに没頭した。綺麗に洗ったこれを、教会の外壁にずらりと干すのだ。完全に乾いたら、これをまとめて保存する。
ヴィシヌの長い冬は雪深い。雪の下でも育って保存できる数種類の葉物野菜と、氷室で保存できる根菜類と同じぐらい紅芋の茎は重要な食材になるのだ。
そしてハリスとリッツが収穫しているアプリコットはジャムにして保存する。そして大量に出来れば近隣に売りに行くし、村の人々もジャムが出来るとこぞって買いに来てくれる。
もう数ヶ月で冬になる。こうして作業できる時に作業しておかないと、真冬に大変なことになるのである。
子供たちと一緒に、夢中で作業をしていたアンナは、自分の腹が音を立てたことに気がついて顔を上げた。自分の影がずいぶん短くなっている。もうすぐ昼だ。
アンナの腹時計は恐ろしく正確で、時を違えたことがないのである。
「お昼、食べに帰ろうか?」
「はーい!」
子供たちをつれて孤児院に戻ると、ちょうど年長組も孤児院に戻ってきていて、昼食の支度をしているところだった。今日のメニューはサンドイッチらしい。リッツもいることだし、ちょっと贅沢しちゃおうかと、特製の鶏ハムを入れたサンドイッチも作る。
でもなかなかハリスとリッツが帰ってこない。このままでは昼が終わってしまうし、リッツに至っては二食抜きになってしまう。アンナならそんなの耐えられない。
それなら持って行ってあげればいいかな、と思いついた。アンナは猛然と自分の分を平らげて、二人分のサンドイッチをバスケットに詰め込んだ。それからお手ふきも必要だ。それから敷物。
「じゃあみんな、片付けをした後は、みんなで畑に堆肥を撒いててね」
「はーい!」
子供たちの元気な返事に笑顔で頷いて、アンナは孤児院を出た。孤児院の裏手に広がる広大な果樹園の、アプリコットが植わっている場所に向かってのんびりと歩いて行く。アンナがいなくても子供たちがきっちり仕事をしてくれるから、アンナもこうして余裕を持って歩くことが出来る。
アプリコットの木の周りに着くと、リッツとハリスの楽しそうな姿が目に入った。大柄なリッツがさるのように身軽にするすると木に登り、アプリコットをハリスに軽く投げ渡しているのだ。ハリスも心得たもので、柔らかく受け止め、傷が付かないように背中に背負ったかごに入れていく。果樹園の入り口から一番近いアプリコットの木の下には、いっぱいになったもう一つの背負いかごが置かれている。ハリスを含む果樹園担当の子供たち一日分の仕事を、この二人でやってしまったらしい。
アンナは果樹園の入り口から、大きな声で二人を呼んだ。
「ハリス、リッツさん、ご飯食べるの忘れてるよ~!」
声をかけると、二人の顔が嬉しそうに綻びた。どうやらお腹がかなりすいていたらしい。ハリスはそのまま駆けだしてきて、リッツは木の上から音も立てずに飛び降りて、悠々と歩み寄ってくる。
そんな二人の表情に、嬉しくなってしまったアンナは柔らかな下草が生えた草地に大きめのクロスを敷いた。ふんわりと柔らかな布が風に舞う。それをそっと押さえてから、バスケットの中身を並べた。
「今日の昼ご飯はサンドイッチで~す」
「おお!」
敷物の上にそそくさと上がり込んだ二人に、アンナはサンドイッチを差し出しながら胸を張った。
「特別に鶏ハムも入っちゃいました」
「おお、豪華だ!」
ハリスとリッツが声を上げた。かなりお腹がすいているみたいだ。こうしてリッツの遅い朝食兼昼食が始まった。リッツは、アンナが持ってきたタオルで顔を拭いて、大きく息をついた。何だかそんな仕草がやけにおじさんくさくて、少し可笑しくなる。見た目は若いのに。
子供みたいな顔をする人だと思うと、急に老けたような顔をする。こんな大人見たことがない。ニコニコと眺めていると、リッツが不思議そうにこちらを見た。
「ん? 何だ?」
「何でもないです」
アンナは空を仰ぐ。空は高く澄んでいて、木々の枝と草原を駆け抜ける風が気持ちいい。
「秋だなぁ~」
思わず呟くと、並んで空を見上げていたリッツとハリスも大きく頷いた。
「秋だな」
「秋だね!」
バスケットに入ったサンドイッチを食べながら、ハリスはリッツがいかに木登り上手で、プラムを取るのが早いかを嬉しそうにアンナに話してくれた。ハリスの話を全部信じるなら、リッツは人間とは思えないぐらいものすごく木登りが上手く、そしてサーカスの曲芸師のごとく身軽らしい。
アンナがリッツを窺うと、リッツは黙って苦笑しながら聞いている。何だか少し恥ずかしいようだ。
「リッツさんって、お猿みたいですね」
アンナがいうと、リッツはため息をついた。
「おいおい、褒め言葉か、それ?」
苦笑しながらそういったリッツの目を見て、アンナは元気に力一杯頷く。
「はい!」
「……ならいいか」
そういってから、リッツがかじりかけのサンドイッチを口に放り込んだ。食事をもう終えてきたアンナは、リッツとハリスに、ポットに入った暖かな紅茶を注いであげた。もう既にぬるくなっていたが、二人は喉が渇いていたと、喜んでくれる。
食事が終わってからも三人でひたすらのんびりしてしまった。果樹園の今日一日分の仕事は終わっているわけだし、孤児院の裏手にあるこの果樹園でさぼっていても、誰にも分からないだろう。
そこでアンナはリッツに色々なことを聞いた。そのうちの一つが『どうしてお腹がぺこぺこで教会に来たのか』だ。するとリッツはとたんに渋い顔をして押し黙ったのだが、アンナとハリス、二人の『どうしてどうして』攻撃に折れてぼそぼそと話してくれた。
リッツの父親はものすごい食欲の人で、リッツの母親が持たせてくれたお弁当の中身を総て食べてしまっていたらしい。その上、リッツの旅用に取ってあった携帯食料まで全部食べ尽くしていったというのだから徹底している。
「とっても食べるのが好きなお父さんなんですね」
「そんな穏やかなもんじゃねえよ。あれは異常食欲っていうんだ」
「ふうん。覚えておきますね」
アンナは深々と頷く。なるほどそういう人が異常食欲の人というのか。そんなアンナにリッツが不思議そうな顔をした。
「何を覚えとくんだよ」
「え? ものすごく食べるのが好きな人が異常食欲の人っていうんですよね?」
リッツはちょっと呆れたような顔をしてから、ポリポリと後頭部を掻いた。
「……お前……面白いな」
「? ありがとうございます」
「褒めたわけじゃねえんだけど……」
「?」
それからリッツは二人に向かって、旅の話をしてくれた。リッツは兵隊さんではなく、世界各地を放浪する『傭兵さん』らしい。アンナには違いがよく分からないのだが、戦争で戦う人であることだけは間違いないようだ。だからユリスラ王国だけじゃなくて、外国にまで色々旅をして歩いているらしかった。
そんなリッツが珍しくてアンナとハリスが色々な質問をしたのだが、途中でリッツがアンナの頭に軽く手を乗せて、ため息をついた。
「……見た目の割に大人びてると思ったけど、ハリスよりも世間知らずだったりしないか?」
「世間知らず、ですか?」
「そ。言われたこと無いか?」
「無いです。だってヴィシヌでは私、しっかり者で通ってるんですよ」
そう断言すると、何故かリッツは懐かしそうに目を細めて、くすりと笑った。
「なるほどな」
そのリッツの笑みが今までよりも優しかったから、ちょっと嬉しくなった。理由は分からないけれど、リッツが何だか嬉しそうに見えたのだ。
そんな穏やかな時間が静かに流れ、アンナが来てから二時間ほど経った頃、孤児院の女の子が慌てて三人の元にやってきた。
「お姉ちゃん、何かね、村の人がいっぱい来たの」
「何かあったの?」
表情を引き締め、子供と視線が合うように膝を折ると、女の子は不安そうにアンナを見上げる。
「何かね、大変なんだって」
「大変?」
「うん。みんな怖い顔してる」
女の子は怯えたように視線を彷徨わせる。この子はここに来てからまだ一年ちょっと。だから色々と動揺しやすいのをアンナはよく知っている。でもこの女の子を怖がらせるような、何か深刻な事が起きている。しかも大人が教会に来ている。間違いなく、村の方で何かがあったのだ。
アンナは女の子の手を取って立ち上がった。
「私、帰ってみる」
「何があったんだ?」
視線を向けると、リッツが体を起こしながらアンナを見つめ、尋ねてきた。アンナはその目を見返して答える。
「分からないけど、大人が教会に来るのは、何かが村であった時だけなんです。だからきっと村で何かが起こったんだと思うけど……」
それが何か分からなくて不安だから、アンナは行くことにしたのだ。すると何かを察したらしいリッツが、静かに立ち上がった。
「俺も行くか? 何か役に立つかもしれないぞ」
一瞬、いいですと言いかけて、アンナは考え直した。もし村に大事が起こっていたなら、大人の手があるとありがたいし、リッツは傭兵なのだから、力持ちではあるだろう。
「お願いします」
「おう」
「俺は俺は?」
尋ねるハリスをじっと見てから、アンナは手を繋いでいた女の子をハリスに預けた。
「ハリス、この子を連れて帰って」
「え~!?」
今まで一緒にいたのに仲間はずれにされたと思ったのか、ハリスはプウッとふくれた。
「ここの片付けもお願い。まっすぐ孤児院に帰るんだよ。私とリッツさんは直接教会に行くからね」
「え~、俺も行きたいよぉ」
だがアンナはハリスの目を見つめ、毅然とした態度をとった。もし何かあって子供を巻き込んだら、アンナは自分が許せなくなる。アンナにとって孤児院の子供たちは全部自分の弟や妹たちなのだ。
「だめ。お願いね」
「でもさぁ~」
「あなたたちに何かあったら、神官様も悲しむし、私も悲しいの。だから孤児院に帰っていて」
まっすぐにハリスの目を見て告げると、ハリスは口を尖らせながらも頷いた。
「……分かったよ」
「じゃあ、よろしくね」
そういってアンナはハリスと女の子の頭を優しく撫でて微笑み、教会へと向かって歩き出した。後ろからリッツが着いてくる。
「お前ってガキだか大人だか分からねえな」
「そうですか? リッツさんも分からないですよ」
何気なくそう言うと、リッツが一瞬足を止めてから、何事もなかったように歩き出す。しばらくしてからリッツは静かにアンナに声をかけた。
「事故じゃなければいいな」
「うん」
大人の穏やかな声に頷く。本当に事故じゃなければいい。何事もなければいいのに。平和そのもののこの村で、騒ぎなど滅多に起こったりしない。だからアンナは、不安でいっぱいになり教会へと半ば駈けていく。
二人が教会の前に着いた時には、数多くの人たちが教会前に集まっていた。そのほとんどの人は、街から少し離れたところに大きな放牧場を持っている酪農家たちだ。
「神官様!」
アンナが呼びかけると、人々は一斉にこちらを振り向いた。その表情はただ事ではない。みんな青ざめていて、表情がこわばっている。中央にはアントンが同じく真剣な表情で立っていた。
「アンナか」
「どうしたんですか、神官様」
「……銀狐の大きな群れが酪農地の周りに現れてね」
「え……?」
アントンの言葉にアンナは言葉を失う。このヴィシヌ付近には、二種類の狐が生息している。一つは黄色がかって、耳がピンとはねた可愛らしい狐だ。この容姿から子供たち向けの絵本にもたびたび登場するなじみの狐である。
もう一つが今アントンが口にした銀狐である。灰色の毛並みを持ち、大きくなると銀の毛をした狐だ。これが普通の狐の二倍以上の大きさがあり、狐以上に頭がいい。その上、十匹以上の群れで行動するから、放っておくと一つの農場の牛が全滅することもあるのだ。
ごくたまにここヴィシヌは銀狐や、ヒグマ、毒を持つ大蛇の攻撃を受けるのだが、今まではアントンの作る水の結界によって守られていたから、大きな被害が出たことはなかった。なのに現れたと言うことは、結界が何らかの理由で弱まったと言うことらしい。
「神官様、この間の大嵐じゃないでしょうかね」
不安そうに村人が呻く。
「うむ。たしか川沿いで崖崩れがあったな」
「はい」
「ではそこを補強しなくてはならないようだ」
アントンが穏やかに頷く。今年の夏、大きな嵐がやってきてヴィシヌに久々の大雨をもたらした。そのせいで川沿いの高台がいくつか崖崩れを起こしたのだ。幸いなことに怪我人も死者もでなかったのだが、牧場主たちは多大な影響を受けている。それなのに今度は銀狐。これでは牧場主があまりに悲惨だ。
牛の数を多く失ってしまうと、直接収入に響いてしまう。早く何とかしなくては。
アンナが私も行きます、と口を開こうとした瞬間、アントンは何故かアンナではなく、リッツをじっと見つめた。
「リッツくん、君は旅をしているんだったね?」
唐突に尋ねられてたリッツは困惑しつつも答える。
「はい」
「どれぐらい長く旅をしているんだね?」
「そうですね……」
そう言うとリッツはアンナを見て、アンナの頭に手を乗せた。
「この子の倍の年以上は旅をしています」
その言葉に集まっていた沢山の人々がざわめく。アンナの年以上と言うことは、六十年以上ということになる。アンナも深々と頷いた。それはすごい。長いこと旅をしているということは、沢山の危機を乗り越えてきたことだといっても過言ではない。
何故か口にしたリッツの方が、村人全員の驚愕の視線を浴びて困惑している。そういえばリッツはアンナの年を知っているんだろうかと、アンナは思い出した。自分からは話していない。
よくよく考えればリッツも、どう見ても二十代だが、アンナの倍以上も旅をしているなんて、変なことを言う。だが気を取り直したようにリッツは厳しい表情をアントンを見つめる。
「何かありましたか?」
アントンは神妙な面持ちで頷いた。
「うむ、村外れの牧場で牛が襲われてな。どうやら犯人は銀狐の群れらしい」
「銀狐……ですか」
「そうだ。しかもかなり大きな群れらしい。しかも群れのリーダーが大きいらしくてね。かなり年を経ているんだろう」
「……そりゃあやっかいですね」
「そうなんだよ。」
農場主たちも深々とアントンに合わせて頷く。どうやらこの様子では手も足も出なかったらしい。当然だ、アンナも絶対に無理だ。銀狐は年をとるととても賢い。その上素早さは変わらないのだから。
高地に属するこの地は、旅人の街道の近くに較べて格段に野生動物が出やすい。何しろ半日ぐらい行けば、広大なシーデナの森に繋がる森林地帯に出るし、そこに至るまでは人の手がほとんど入っていない穏やかな草原地帯だ。野生動物たちのねぐらには事欠かない。
だからアントンがそうした牧場に野生動物が入る事が出来ないような結界を張っている。結界は水の力を使ったもので、アントンはこの技を最も得意としていて、自在に操る。
そしてアントンは癒しの力を使う。この村で怪我をしたものは、よほどのことがない限り、アントンの癒しの力で救われる。でもそれ以外の技はかなり苦手で、水の精霊使いとしては自分は二流だと、いつも笑っている。それでも神官として村を守るにはこの二つの力が最も重要なのだ。
「そこでお願いなんだが……」
アントンが重い口を開く。
「はい」
「私と一緒に銀狐退治に行ってくれんかね?」
「は?」
何故かリッツはぽかんと口を開けてしまった。
「一緒に、ですか?」
「いいかね?」
「それはいいですが。でも……」
困惑したままのリッツに、アントンがニコニコと笑いながら肩を叩く。
「決まりだな。よし着替えたらすぐに出発しようか」
「分かりました」
リッツが頷き、アントンに促されるまま着替えに孤児院へと向かった。かかしのように寸足らずなあの服では確かに動きづらいだろう。
「あの、神官様。私は?」
「アンナは留守番していておくれ」
穏やかに言われてアンナは唇を噛んだ。いつもはアントンを助けるのはアンナに役目なのだ。急患が出ても、誰かが怪我をして呼ばれた時も、いつもアンナがアントンのお供をする。
アンナは水の精霊使いだ。しかもアントンよりも高位の精霊使いだとアントン本人から教わっている。生まれながらにして水の精霊から愛されていたというアンナは、ごくごく自然に水と語らい、水と戯れてきた。だからこういう危険があるかも知れない時にアントンの役に立ちたかった。
でもアントンは穏やかに微笑む。
「大丈夫だよアンナ」
「でも……」
「すぐに戻ってくるから、夕飯の支度をしておいておくれ。頼んだよ」
笑顔なのに有無を言わせぬ口調でアントンがアンナに告げた。そして村人たちに安心するように告げて彼らを家に帰らせ、教会に入り身支度を始めた。そんなアントンを手伝いながらも、アンナはまだ納得できずにいた。
リッツの事は好意が持てる人だと思うが、大切な養父の命を守れる人なのかという確信がいまいち持てていない。それにアンナは自分でアントンを守りたかった。守れると自信を持っていた。なのに危険が伴うと分かっている状況に、アンナは留守番だ。今までならあり得ない。
アンナの苦悩など気付かぬように、アントンは普段着の上から丈の長い神官服を着込み、銀の聖杖を手にした。鈍い輝きを放つ聖杖は、アントンの持つ力を高めてくれる大切なものだ。
教会に来た時の格好で、大剣を背負ったリッツが降りてくると、アントンは静かに微笑んだ。
「さあ行くかね?」
こんな状況なのにアントンは、まるで散歩にでも行くかのようにリッツを誘う。アンナはアントンがアンナに心配をかけさせないよう穏やかに話していることに気がついた。やはりいつもと様子が違う。
「行きましょう」
頷いたリッツが、アンナに視線を送る。不安いっぱいにリッツを見上げると、彼は少し笑ってアンナの頭に手を乗せた。
何故だかそうされた瞬間に、勇気がわいてきた。心配で助けたいなら……ついて行けばいいじゃないか。
歩き去っていく二人を見送ったアンナは、食堂にとって返した。そこにはこの騒ぎで仕事どころではなくなった子供たちが揃っている。
「みんな! 今日の夕飯は紅芋とヨーグルトのレーズン入りサラダと、ボロネーゼに決定! 出かけるから支度しておいてね!」
突然のことに戸惑う子供たちを残してアンナは駆けだした。二人の行き先は分かっている。ならば少し近道して、隠れて見ていればいいのだ。リッツがものすごく強くて何もやることがなければそのままこっそり帰ってくればいいし、そうじゃなければアンナが助ける。そうすればアントンに危険はない。
アントンに何かあったら、アンナはどうしていいのか分からなくなる。血は繋がっていないけれど、アントンはアンナにとって一番大切父親なのだから。