アンナ・マイヤースの場合<1>
Ⅰ
「う~ん、いい天気!」
子供達を引き連れて畑に立ったアンナ・マイヤースは、心地よい秋風を胸一杯に吸い込んだ。少し強めの風が、一つに結った三つ編みを柔らかく揺らす。
見た目の年は十四、五歳。陽光が煌めくように踊る緑色の印象的な大きい瞳のアンナは、子供達を率いてきたにしては幼いが、はしゃぐ子供達穏やかな大人の顔で見つめる。
今日も子供たちは元気で、景色も綺麗。気持ちのいい一日が始まりそうだ。
たいして広くもないこの畑に実っているのは、痩せた土地でもよく育つ貧乏人の味方、紅芋である。真っ赤な皮に包まれた黄金色の芋は、甘くてホクホクしていて、この季節には最高のごちそうだ。
今年は今までないくらい見事な大豊作なのである。アンナは密かに、この大豊作は日頃の行いがよいからに違いないと信じている。後ろ向きに物事を考えるより、前向きな方がずっといい。これはアンナのモットーだ。
秋風にそよぐハート形の葉は、収穫時を示すように枯れてきている。枯れすぎるとよくないから、今が丁度いい収穫時期だ。待ちに待った収穫の日がこんな秋晴れとは、本当に運がいい。
「アンナ姉ちゃん、まず何したらいい?」
色々な農機具を持った子供達にうきうきと尋ねられて、アンナはにっこりと笑った。
「まず、要らない茎を切っちゃおう!」
言うと同時にアンナは腰に付けていた道具袋から鎌を取り出して作業に取りかかった。
「は~い」
年長の子供たちもアンナに倣い鎌を取り出した。年少組はじっと待っている。危険すぎて七歳以下には刃物なんて持たせられない。鎌で紅芋の余分な茎を切り、大事に腰へ括り付ける。この茎だって干せば立派な食料になる。貧乏な孤児院にはこれも大切な食料なのだ。作業しててふと顔を上げると、土と緑の香りが鼻腔いっぱいに広がる。
「ん~、私、働いてるなぁ!」
こんな時アンナは農業の幸せを感じるのだ。農民の誇りは働くことに幸せを感じる力を持っていることだ。
「よ~し、頑張るよ!」
「お~!」
ここは、ヴィシヌの村。シーデナの森からほんの二日足らずのところにある小さな村である。森を源流とした清らかな川の恵みを受けた、農業と酪農中心の村だ。夏が短く、冬が長い高原地帯で、エネノア中央山脈のおかげか豪雪地帯ではないものの、冬は雪に閉じ込められてしまう。
そのため、水の精霊王を信仰する教会と孤児院がある丘を中心としたこの村は決して豊かではない。それでも人々はのんびりと、この環境を楽しんでいる。短い夏を謳歌し、冬は村で取れた羊毛を紡いだり、編み物をしたり、縫い物をしたりと、寒い中でも生活を充実させているのだ。
アンナは、この村の教会に住む老神官アントンの養女だ。水の精霊使いでもあるアントンと同じく精霊を扱える彼女は、教会が運営する孤児院の世話係を務めている。当然彼女もアントンの養女になるまで孤児だった。
「今日はパーティだからね!」
アンナの言葉に子ども達の歓声が上がる。子供達と同くアンナの心も躍った。なんといっても、貧乏な孤児院にとって、芋の収穫日は、年に一度の一大イベントなのだ。
このユリスラ王国では、近年の豊かさ故か割と孤児院が少ない。昔この国が内戦でひどい状態だった時には大量に存在していたようだが、国が安定して豊かになってからは孤児の数も減っているのだと聞いた。内戦が終わって早三十五年、それ以後この国はずっと安定しているのである。平和なのはいいことだ。
王国北部に位置するヴィシヌ孤児院の孤児達とこの教会の親子は、慎ましく貧しい共同生活を送っている。教会が併設しているからと言って、水の精霊王の正神殿から援助があるわけではない。
アントンが若い頃に立ち上げたこの孤児院は、村の善意と丘の果樹園、そして子供たちが育てる野菜によって収入を得ていた。とくに果樹園で作る果物やその加工品が主な収入源だ。だがそれだけでは約二十人近い孤児達と親子が暮らして行くには厳しい。だから村人達の食べ物や、日常品の寄付のおかげで、何とか貧乏ながらも慎ましく、衣食が揃った生活をしている。
そんな生活だから、孤児院の子供たちは自分たちで作物を作りながらも、お腹いっぱい動けなくなるぐらい食べる事はなかった。備蓄して長く食べ繋ぐ必要があるからだ。衣食住、全てにおいて腹七分目にしておく事が最も重要である、というのがこの孤児院に住むもの全員の共通見解だ。
だが例外はある。痩せた土地でも大きくなり大量に収穫できる、この紅芋がとれる秋の時期だけは、本当に満足いくほど食べることが出来るのだ。それに紅芋は料理の種類も多いし、何よりも素晴らしいことにお腹にも溜まる。
そこでアンナは数年前、一年に一度の紅芋収穫の日は、色々な芋料理でテーブルを埋め尽くして、みんなで腹が破れるまで食べまくる日にしようと決めたのだ。それを通称『紅芋大収穫祭』という。名付けたのは勿論、食べることが大好きなアンナだ。
スイートポテトにポテトパイ、芋サラダに、芋御飯、芋パンにポテトシチュー。勿論焼き芋メインで。考えただけでわくわくする。つまり本日の夜に行われるパーティは、唯一彼らが腹が一杯になるまで食べられる一大イベントなのだ。
子供達の前では、その慎ましい生活を誰よりも好んでいるように見せているアンナなのだが、実のところは食べる夢をしょっちゅう見てしまうほど食べることが大好きだ。そんなアンナだから、作る料理、食べる料理を考えるだけで足取りも弾んでしまう。収穫の日を待ちわびていたから本当に朝からわくわくして、時々突然歌い出してしまったほどだ。
ふと視線を感じて振り向くと、浮かれるアンナのことを、子供達が嬉しそうに見ている事に気が付いた。アンナは自分の食い意地を上手に隠しているつもりだが、子供達にバレているのかもしれない。
照れ笑いを浮かべると、子供たちは明るい笑顔を返してきた。この孤児院の孤児達には、悲壮感は全くといっていいほどない。孤児院に連れてこられたばかりの子は、やはり色々と問題を抱えているが、毎日を楽しく暮らすことを、モットーにしているアンナや子供たちに、いつの間にか感化されてしまう。
「パーティだ、パーティだ」
アンナは歌いながら腕まくりした。目の前には、アンナに収穫されるのを今か今かと待ちわびて、赤い芋達が地上に出るのを楽しみに待っている。
「いま出してあげますよ、お芋ちゃん~」
想像すると楽しくて仕方ない。アンナは芋の収穫が大好きだ。あの蔓からずるずるっと沢山の芋が連なって出てくる時の感動、そして手に乗った確かな甘みと豊かな食感の予感がたまらない。
あらかたの余分な茎を切り終わると、アンナは全員を集めて上手な収穫の仕方を説明する。これをやっておかないと、収穫に倍の時間がかかってしまうのだ。
「全員いる? よく聞いてね。茎の一番太いところを引っ張りながら優しく揺らすんだよ」
説明しながら子供達を見ると、そわそわして落ち着かない。みんなもう収穫を始めたいのだ。
「みんな聞いてる?」
腰に手を当ててアンナはプウッと頬を膨らませてむくれて見せた。すると子供達も同じようにアンナの真似をしてプウッと膨れる。おかしくなってみんなで笑い出してしまった。楽しみが多いと、こんなちょっとのことでもおかしくて仕方ない。幸い今年は初めて入った孤児がいなかったので、全員が去年の経験者だ。
「分かってるよお姉ちゃん、去年もやったもん」
「そうだよね。それじゃ、始めよっか?」
「やった~!」
孤児達はその言葉を待っていたかのように、一斉に紅芋の茎を手にしてしゃがみ込んだ。茎を持って紅芋全体を揺すると、土が徐々に軟らかくなっていく。
「アンナ姉ちゃん、柔らかくなった!」
「もう引っこ抜いていい?」
小さい子供達からは、そんな呼び声があちこちから上がる。子供達の呼び声に、アンナは大忙しだ。
「今見てあげるからちょっと待ってね!」
笑顔の子供達の間をひょいひょい身軽に駆けながら、アンナはもう抜き始めた年長組に声をかける。
「ほら、大きい子は小さい子を見てあげること!」
「ほ~い」
「深くて掘れない時は、ちゃんと穴を掘って取り出してあげてね」
「は~い」
アンナは忙しく子供達の手元を見て回った。程なくして全員が芋を上手に引っこ抜けるようになる。こうなったらもうアンナの手はいらないだろう。アンナはおもむろに一番芋がありそうだと見当を付けておいた所へ行き、自分の芋の掘り出しにかかることにした。
「これは私の特権だもんね~。芋ちゃん、元気に出ておいで~」
ウキウキと茎を揺らしているとそれだけで楽しくなってしまう。この日のためにこれだけ手間暇かけて育てたのだ。
もうすぐズルズル~っと芋が顔を出して……ああ、想像するだけでも快感!
だがそんな彼女の楽しみは、お預けを食らうこととなる。子供達が何やら掘り出したのだ。勿論芋とは関係ない。
「アンナお姉ちゃん、何か綺麗なものが出てきた!」
聞こえないふりでやり過ごそっかな、とちょっとだけ思ったものの、アンナはそんなことが出来る性格ではない。でもこの芋の魅力は捨てがたい。逡巡するアンナだったが、アンナに声をかけてきた子供達のまわりには、どんどん他の子達も集まり始めている。
「アンナお姉ちゃん早く来て!」
せっかくの楽しみが……。
アンナは泣く泣く茎からその手を放した。この手応えからしたら、もの凄く大きな芋だったろうに。
「聞こえてないんだよ、みんなで呼ぼう!」
「うん!」
「せ~の……」
こうなったら迷っていられない。アンナは名残惜くも芋の茎から手を放し、笑顔で振り向いた。
「聞こえてるよ~、今行くよ」
柔らかくて歩きづらくなった土の上を身軽に歩いて、何かを発見したという子供の所辿り着くと、その子は掌に載せた綺麗な珠をアンナに見せた。手にすっぽり収まるだろう、小さな蒼いガラスのような珠だ。日の光によっては緑に見えたり紅く見えたり黄色に見えたりするのが不思議だ。
こんな物見たことがない。
そっと受け取るとその珠はほんわりと、暖かいような気がした。
「神官様が落としたのかなぁ?」
じっと覗き込んだその瞬間、珠は急に光を放ち始めた。目がくらむ。そんなアンナのことなどお構いなしに、光はどんどん強くなる。
「何これ……」
思わずその珠を、取り落としてしまった。
「あっ……」
割れると思った瞬間、その珠はふわりふわりと宙に浮かんだ。
「浮いてる……」
珠はアンナの目の高さまで浮上し、そして目の前で再び強く輝きだした。その光はまるで彼女を呼んでいるようだ。誰だか分からないけど、何故かひどく懐かしい……。そんな気がする。
こんな時は、アントンに聞くしかない。アンナは呆然として立ち尽くす子供達に頼んだ。
「誰か神官様を呼んできてくれる?」
だがその必要はなかった。そこには穏やかに微笑む白髪の老神官アントンの見慣れた姿があったのだ。アントンはどうやら紅芋の収穫を見学に来ていたらしい。その優しい瞳に暖かい光を浮かべながら、アントンは静かにアンナに歩み寄った。
「ここにおるよ。芋じゃなくて変わったものを掘り出したようだな。どれどれ私に見せておくれ」
アントンはアンナから受け取った蒼い珠を、大事そうに手のひらに載せて、じっと見つめた。静かな沈黙が訪れる。
アンナはアントンの顔に見慣れない表情が浮かんでいることに気がついた。その顔には寂しそうな、それでいてホッとしたような奇妙な表情が浮かんでいたのだ。子供達を不安にさせないようにか、アントンはすぐにその表情をうち消し、いつもの優しい微笑みを浮かべた。
「これは私が大事に持っているから、何にも心配はいらんよ。さあ、芋掘りを続けておくれ。今日のパーティが出来なくなってしまうよ」
アントンの声に子供達もやっと我に返る。
「やだ~」
「大変だよ、早く掘らなきゃ!」
笑顔に安心した子供達は、一目散にそれぞれの持ち場に戻っていった。だが先ほどまでの楽しい気分が一気に吹き飛んだアンナは、立ち止まったままアントンを見つめた。アンナはアントンの表情の変化を見抜いていた。血は繋がっていなくても親子なのだ。
そのアンナの不安に気が付いていたらしく、アントンがいつもと同じく優しい微笑みを浮かべる。
「そんなに心配せずともいい。この珠のことは、この収穫期が終わったら必ず話すからな。芋掘り楽しんでおいて。一年に一度の楽しみを逃すと、次は来年になるぞ?」
その言葉を聞いたら、沈んだ気分も少しだけ持ち直してきた。養父の表情とこの珠のことは気にかかるが、この日のために育てたサツマイモの喜びは大きい。
収穫を全部やってしまわないと、芋パーティが開けなくなってしまう。アンナが考え込んでパーティを出来なくなったら、子供たちが可哀相だ。
それにアントンが話してくれるというのだから、アンナは待てばいいのだ。養父がアンナにウソを付く事なんて、絶対にあり得ないのだから。
「絶対に珠のこと聞かせてね! お養父さん」
アンナは先ほど見当を付けておいた大量の芋がある場所へと、駆け出した。
Ⅱ
今年のパーティも素晴らしかった。大量の紅芋をむくのも、調理するのも大変な作業だけど、心の底からお腹いっぱいの幸福を味わえるなら、何でもこいだ。
パーティもほとんど終わり、穏やかで満足げな雰囲気溢れる中で食事の片づけを始めようかと段取りを決めていた時、教会の入り口に据え付けられた来客を知らせる鐘が激しくなった。こんな時間に誰かが来るのも珍しい。だいたいこういう時は急患が出たり、狼か銀狐の群れが襲ってきたりという状況だから、一気に緊張感が増した。
「何かあったのかな」
呟きつつ片づけの手を止め、片付けの続きを年長の子供たちに任せて、アンナは教会へと向かった。孤児院を出てから、教会に繋がる廊下を急ぎ足で駆け抜けて、静まりかえっている聖堂を通る。孤児院には様々な事情のある子がいるから、夜になると孤児院の扉は施錠されてしまい、開いている扉は教会のみとなるのである。
教会の扉の向こう側に誰かがいるのが分かった。聖堂の木製扉の両側には磨りガラスがはめられていて、微かに外が見えるのだ。
だがその微かに見える姿は、アンナの記憶ある誰とも一致しない。この村にはこんなに大きな人はいないはずだ。
「誰だろう?」
疑問に思いつつも、教会の扉は誰に対してもきちんと開くべきだと幼い頃からアントンに言われてきたアンナは、何の警戒心もなく扉を開けた。
「どなたですか?」
声をかけると扉の向こうに、背の高い人物が立っていた。アンナの視線の高さでは顔が見えず、アンナは驚きつつも一歩下がってゆっくりとその人物を見上げる。何だかせっぱ詰まったような顔をした、黒髪の男の人だった。出で立ちからみても、どう考えても農業をやっている人ではない。
かといって養父のような聖職者でもなさそうだ。背中には大きな剣が背負われているし、服装も丈夫そうな布で出来ていて、どう見ても農業用の軽装とはほど遠い。きっと兵隊さんとかそれに類する職業の人なのだろう。
呆然と見上げてしまったアンナの肩に、後ろから優しく手が置かれる。振り返るとそこにアントンがいた。
「どなたかな?」
アンナに代わり、改めてアントンが優しく男にそう尋ねた。その瞬間、背の高い男はアントンに向かってパッと手を合わせた。意外な行動に度肝を抜かれてアンナは動きを止めてしまう。
アンナとアントンをじっと見つめる瞳は、真剣そのものだ。いったい何を言い出すのだろうと緊張していると、男は情けない声で申し出た。
「すみません……焼き芋食わしてください。もう丸一日何も喰ってないんです」
意外な言葉に呆然としながら、アンナは男の顔を見つめた。思わず笑ってしまうぐらい、男の顔には空腹による悲壮感が漂っている。
「腹減って、限界です。この匂いって焼き芋ですよね?」
パーティだったから、教会の方まで料理の匂いが漂ってきている。特にあの独特な甘みのある香りは強くこの場にまで香っているのだ。
この不思議な男に釘付けになっていたアンナは、アントンに微笑みながら再び肩を叩かれて我に返った。
「旅の方が食物を求めておいでだぞ」
「あ……」
教会は、施しも行う。旅人や飢えた人が来た場合は、食物と宿を提供するのが基本なのである。
「恵んで差し上げなさい」
「はい、神官様」
アントンが男を案内するのを横目に見ながら、アンナは片づけが進む孤児院内に駆け戻った。大きな長テーブルの上は綺麗に拭かれているから、大急ぎで新しいテーブルクロスを出すように係の子に頼んでから、自分は台所にとって返す。
近くを流れている川から拾ってきた大量の石でこんがり焼き上げた焼き芋が、まだ沢山残っている。明日はこれで芋と玉葱のコロッケを作る予定だったが、お腹が空いた人がいるのに出さないのは、間違っている。それから芋のサラダと、スイートポテトも残っていた。あとは芋のフライドポテトもあったっけ。
空腹で訪れた人には食事を出す。それがいくら貧しくても教会の役目だ。これまではこんな辺境の地にあるヴィシヌに空腹でやってくる人はいなかったから、アンナにとって、それは初めてのことだ。
体が大きな人は大きいなりに食べるのだろうと推測して、アンナは大皿に芋を盛った。アンナなら一個でお腹が膨れる大きさのを三本。それから芋料理を手際よく皿に盛りつけていく。そしてもちろん、主食のパン。これは重要だ。芋だけでは何だか食事した気にならない。少なくともアンナはそうだ。
これでもかと盛りつけた料理を前に、アンナは頷いた。これぐらいあれば、おそらく足りるだろう。
子供に手伝わせて食堂に戻ると、アントンが男を案内しているところだった。その容姿を見て、アンナは再び男に釘付けになってしまった。明るいところで見ても、本当に背が高い。しかもひょろっと長いわけではなくて、農家の働き手に匹敵するほど逞しい感じだ。黒髪は乱雑だがちゃんと手入れはされているようで、浮浪者といった感じではない。特徴的なのは後ろ髪で、一房だけ何故か長くてつやつやだ。
この体型と背中の大剣。きっとこの人は、兵隊さんに違いない。生まれてから今に至るまでヴィシヌを離れたことがないアンナは、兵隊さんを初めて見た。
「こちらへおかけ下さい、旅の方」
「はい」
二人の会話で我に返る。そうだ、旅の人に食事の施しをしなければ。
男はアントンに進められるままに椅子に座った。だが落ち着かないように何かを探している。何を探しているのか気になって男の視線をたどると、その男の目が、アンナで止まった。正確にいうと、アンナが手に持っている、香ばしく甘い黄金色のお宝……石焼き紅芋で止まったのだ。
それを見つけた瞬間、男の目が輝き、心の底から嬉しそうに細められるのをアンナは見た。思わずアンナは吹き出しそうになった。子供みたいで可愛い。大人なのにこんなの正直な目をする人を初めて見た。兵隊さんというと怖そうだけど、この人はそんなに怖くなさそうだ。
そう思っていると、男と目があった。どうやらアンナが吹き出しかけたことに気がついたらしい。気まずいような照れくさいような顔で肩をすくめた男の瞳は、落ち着いたダークブラウンだった。何故だか分からないけれど、一瞬その瞳にどきりとした。綺麗な目をしている。
アンナはじっとその瞳を見つめ返したのだが、男はその視線をアンナから再び芋に戻す。おそらくアンナの存在なんて、見てはいても見えてはいないのだろうと思う。
でもその気持ちは分かる。丸一日何も食べていないのはかなり辛い。アンナにはとてもじゃないけれど耐えられない。
これ以上焦らしては悪いかと、アンナは男の目の前に、芋が盛られた皿をそっと置いた。他の料理を持ってきた子供たちもそれに倣う。料理が並びきったところで、アンナは男に向かって微笑んだ。
「はいどうぞ、大きなお兄さん。焼きたてですよ」
明るくそういうと、男はこれまた人が良さそうな、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう!」
やっぱり子供たちと変わらないな、とアンナはほほえましくなる。
料理を出された男は、夢中でむさぼるように焼き芋に食いついた。もうアンナが思わず口元を緩めてしまったことになんて気がついていないだろう。男の手は休むことなく料理をつまんでいく。ものすごい食欲だ。大の大人が幸せそうに頬ばるその姿は、可愛らしいというか、面白いというか。何だかとっても嬉しい。
「熱いですから、気を付けてくださいね?」
とりだしたばかりだから、一応忠告をする。子供たちなら絶対に口の中を火傷しそうだ。
「はひ。どうも」
口いっぱいに頬ばったまま、男がそう答えた。おそらく無意識に返事をしただけだろう。アンナは男の顔から、熱いことなど空腹の前には意味がないのだと気がついた。本当に面白い。大人ってみんな父親のように落ち着いていて、こんな風に感情を露わにしないと思っていたのに、どうやら世の中には違う人もいるようだ。
アンナが興味津々に男の食べっぷりを眺めていると、片づけを終えた子供たちが集まってきた。アンナでさえこの背の高い兵隊さんが珍しいのだから、子供たちからすればもっと珍しいだろう。
しかも彼が夢中で頬ばっているのは、子供たちが中心となって半年間も丹精込めて作り上げ、本日収穫したばかりの芋なのだ。珍しい客が、自分たちの作った野菜を食べる。それは初めて見る光景だ。だから男の反応が気になって仕方ないのだろう。
「喰ったぁ……」
やっと人心地付いたといった顔で、満足げに男が顔を上げた。その顔が穏やかな感じだったから、遠巻きにしていた子供たちが、少しづつアンナから離れて男に近寄っていく。
「お……」
今まで夢中で気が付かなかったのか、男は子供たちに取り囲まれて驚いたように目を瞠った。だが子供たちの方も、まるで珍しい生き物を見るようにじっと身動きもせずに男を見つめる。その光景を後ろから見ていたら、何だかとっても笑える。子供たちにとっては、珍しい男も、移動サーカスの猛獣も変わらないらしい。
「は、ははははは……」
不意に男がアントンとアンナを見てそう笑い出した。どうやら気恥ずかしくなったらしい。夢中で食べていた所をこうして二十人以上に観察されていたのだから、無理もない。男は困ったように視線をさまよわせ、やがて自分を見つめている子供たちの視線の真剣さに気が付いたらしく、子供たちに疑問の目を向けた。
「何か付いてるか?」
だが子供たちは答えず、男に期待の眼差しを送り続けている。しばらくしてから男はその意味を理解出来ずに、アンナとアントンに助けを求めるように交互に見た。アンナも笑顔を浮かべてアントンを見る。アントンは頷いてから顔をしわくちゃにして笑った。
「その芋を育てたのは、この子たちと、アンナだ」
そういってアントンは、アンナを男に紹介した。
「初めまして。アンナです」
アンナは笑顔で勢いよくぺこりと頭を下げる。後ろで一つに結った長い赤毛の三つ編みが、背中で元気に飛び跳ねた。
「ああ。よろしく」
困惑したまま男が答えた。そんな男にアントンが再び言葉をかける。
「この子らはな、芋が美味かったか感想が聞きたいんだ。何しろ目の前で客人に農作物を食べて貰うのは初めてだからね」
視線の意味をやっと理解した男は、彼を取り巻く子供達に目線を合わせる為に椅子から立ち上がり、床にしゃがみ込んだ。すごく子供に対して手慣れているな、とアンナは感心した。この年頃の人でこれが出来る人は珍しい。大きな剣を持っている兵隊さんでも、こういう人がいるのだ。
「美味かったよ、ありがとな! 助かった」
明るくそう男はいった。子供達が一斉に歓声を上げて笑い、男の周りを走り回った。自分で育てたものを褒められるのはとても嬉しい。アンナも同じだ。笑顔でそういわれると、自分たちのがんばりも褒められたような気がして、とっても嬉しい。
初めて会った人なのに、アンナはこの人物にとても好感をおぼえた。とってもいい人みたいだ。
「よ~しガキども、お兄さんが遊んでやろう! 遊んで欲しい奴は集合だ!」
男はそういうと、子供たちと自分も子供のように遊びだしてしまった。それはアントンやアンナとは明らかに違う遊び方だった。つまりは完全な力業である。
普段一緒に遊んでいるアンナとアントンは小柄だから、たいしてダイナミックな遊びは出来ない。それに較べてこの男は大柄だし、力も強いようで子供達にとっては最高の遊び相手だ。子供たちは口々に歓声を上げ、男に群がっている。ぶら下がったり、体当たりを食らわせたりと、子供によってその遊びは様々だ。
アンナはそんな人の良さそうな男を、養父と二人で穏やかに眺めていた。
「おいおい、順番、順番だぞ!」
その後、男は思いもよらないくらいの長い時間を、子供たちの相手をして過ごしてくれた。旅の途中だろうから疲れているだろうに、なんて親切なのだろうとアンナはすっかり感心してしまった。
一時間ほど経った頃、アンナは頃合いを見計らって大きく二度手を叩いた。子供たちの動きがピタリと止まる。
「さあみんな、もう寝ようね。明日も早いよ」
腰に両手を当てて立ち、アンナがそういうと、子供たちは渋々ながら男から離れた。
「は~い、ちゃんと挨拶して」
そういって促すと、子供たちは男とアントンに向かい合う。
「お休みなさい、お客さん」
「おう」
「お休みなさい、神官様」
「はい。お休み。よい夢を」
子供たちの挨拶に続き、アンナは男とアントンにお休みの挨拶をする。
「さ、いくよ」
名残惜しげな子供と、子供に疲れた顔で手を振る男を交互に見遣ってから、ゆっくりと食堂の扉を閉めた。
Ⅲ
子供が出て行き扉が閉まった瞬間、大きな男……リッツはがっくりうなだれた。ぶつぶつと父親を呪いながら歩いた二日間の疲れがどっと出てきたのだ。
空腹でむさぼり食ってしまった恥ずかしさと情けなさから、全力で子供と戯れてしまったが、正直いって相当にしんどい。だがリッツには弱いものがこの世にいくつかあって、その中の一つが子供なのだ。ちなみに次は老人だ。なんとこの教会にはリッツの弱い子供と老人が揃っているのである。
さっきまで座っていた椅子に体を投げ出すように座り込むと、老神官が熱い紅茶を出してくれた。
「子供達は元気ですからお疲れでしょう、旅の人。ありがとうございました。大変でしたな」
老人が柔らかく微笑みながら礼を述べた。丁寧なその態度にリッツは姿勢を正した。
「いや、こちらこそすみません。突然来て、食べ物を頂いて……」
「いいんですよ。困った時はお互い様ですから。明日は早くにお発ちですかな、旅の方?」
リッツは自分の卑しさを反省しつつ、ようやく老神官に本来の目的を告げるきっかけを得た。芋を食って子供達と遊ぶために、リッツはここまで来たわけではなかったのだ。
「アントン神官というのは、あなたですね?」
「そうですが?」
リッツは、立ち上がって頭を下げた。
「申し遅れました、シーデナの精霊族、リッツ・アルスターです」
その言葉にアントンは驚いたように目を見張った。精霊族にしては変わっていると思ったのだろう。だが次の言葉で心得たようににっこりと微笑み、立ち上がった。
「父の使いで来ました」
「なるほど、カールの所の……話は聞いていますよ、変わった息子さんがいるとか」
父親の話では、リッツはどう語られているか分からない。リッツは苦笑した。
「変わった息子……ですか」
確かに自分は、変わっている。
「初めましてリッツくん。ようこそヴィシヌへ」
差し出された皺が多いが暖かい手をリッツは握り替えした。
「よろしくお願いします」
アントンは微笑みながら椅子に座るよう促した。リッツもそれに従う。少々冷めた紅茶に口を付けようとすると、アントンが楽しげに言った。
「なるほど、この季節なら紅芋の催促かな?」
思わず吹き出しそうになる。名乗った瞬間お見通しだったようだ。
「はい、お恥ずかしながら……」
どうやら毎年カールは、ここへ紅芋の催促に来ていたらしい。食欲魔神の父親に呆れながらも、すでにそんなことがいえない自分が情けない。着いて早々焼き芋をむさぼり食ったのはかくいう自分だ。
「これを渡すように言われました。土産だそうです」
リッツは自分の鞄から小包を取り出した。小さいが少々重みのある小包だ。
「ありがとう。これに比べれば紅芋は安いものだ」
恭しく受け取るアントンは、微笑みながら小包を開く。そこにあったのは、液体の満たされた美しい瓶だった。
「それは、水ですか?」
「そう水だよ。でも、なかなか手に入らない特別な水なんだ」
「特別な水?」
アントンは大事そうに箱から瓶を取りだした。ランプの明かりに照らされて、瓶はキラキラと輝く。
「これは木々の祝福を受けたまさに命の源の水。毎年の収穫祭の後に、土の精霊王に感謝を捧げる、その祭りに使われる重要な水でね」
「命の水……それを何故親父が?」
首を傾げるリッツに、アントンは丁寧に答えた。
「これはシーデナの泉の水を、木々の精霊達によって清めたもの。だからあの森に住む精霊族にしか作れないんだ」
リッツは昔、父が湖の水を祈りと共に銀で出来た桶に汲み、母がその水の前で膝をついて祈りを捧げているのを見たことがあった。今思うと、それがこの瓶の中身を作る儀式だったらしい。
「紅芋は持って帰るのかね?」
昔の光景にぼんやりと浸っていたリッツは、その言葉で我に返った。
「メリートまで、届けて下さい。俺はこれから旅に出るんで」
さすがのリッツでも、また森に帰り出直すのは面倒くさい。森に帰ればまたあの両親に翻弄される事間違い無しだ。それにここから戻って、また出発してと、二度手間はごめんだった。
「では村人の手の空いた者をメリートまで行かせましょう」
「すみません、わざわざ」
「なんのなんの。聖水は本来高級品でね。紅芋と引き替えになるのなら安いものだよ」
「はぁ……」
食欲魔神の父親ならば、金よりも芋の方が重要に決まっている。きっとカールは聖水を作る時に『今年も美味しい芋と交換できますように』なんて祈っているに違いない。
「君はさっき旅に出るといっていたけれど、何処か目的があるのかね?」
唐突に聞かれて、リッツは我に返った。
「いえ。特に目的がある分けじゃなくて……」
「そうか……」
アントンは独り言のようにポツリと呟いてから、しばし考え込んだ。自分に関係があることかと、リッツは黙って言葉の続きを待つ。
「……その出発は一週間ばかり待てないかね?」
考え込んだ末のアントンの言葉に、リッツは首をかしげた。
「一週間ですか?」
「そうだ。駄目かね?」
妙に真剣なアントンの問いかけに、リッツは笑顔で答える。
「待てますよ、急ぐ旅でもないんで」
アントンは安心したように、穏やかに微笑んだ。
「良かった良かった、一週間後に収穫祭があるから、是非見ていくといいぞ。賑やかでな」
その言葉の裏に何かがあるのだろうということは察することが出来たが、リッツは敢えて聞かなかった。たかだか一週間くらい、この旅では問題ない。なにせ行く場所さえ決まっていないのだから。
「それまではここに泊まっていくといい。なに、孤児院に個室はいくらでもあるのでな」
「お世話になります」
リッツはアントンの申し出をありがたく受けることにした。来る途中に村を見たが、宿屋のようなものはなかったからだ。それに無料とはありがたい。
ふと言葉がとぎれた時、アントンがリッツに尋ねた。
「ところで君は、精霊族にしては変わったいでたちだね。今度の旅はそれに関係あるのかな?」
リッツは一瞬黙り込んだ。答えていけないことはないが、何となく言い難かったのだ。リッツは休職中ではあるが、傭兵である。しかも北の戦場では少々名が売れた傭兵隊長であったりする。それは何となくこの平和な村では口に出すこともはばかられた。そんなリッツの沈黙を、アントンは好意的に受け取ってくれたようだった。
「ふむふむ、会ったばかりなのに不躾な質問をしてしまったな。話したくなったら話てくれんか? わしは神官だからか、職業柄話を聞くのが得意でな」
冗談交じりにそういって笑ったアントンにリッツは思わず微笑む。
「話せることがあれば聞いても貰うかも知れません」
「楽しみにしているよ」
アントンはそう言って顔をほころばせた。穏やかな人だ。リッツの父親とは天と地ほども違う。それともあの父親の友人であるらしいから、自分の気持ちが楽なのだろか。よくよく考えると、あの父と友人をやっていられるこの老神官はおそらくただ者ではないはずだ。
「さて明日は早いし、もう寝ますかね」
笑顔でアントンに案内されたのは、孤児院の最上階にある比較的広めな一部屋だった。小綺麗に整っていて無駄なものが一切ない。
アントンがでていった後、一人になったリッツが窓から外を眺めると、常に明かりが灯されている教会の周りは、全て畑と果樹園であることが分かった。この総てが教会の持ち物であるようだ。おそらく今日遊んだ子供たちが手をかけているのだろう。生産的な活動を苦手とするリッツは、窓の外の光景にしみじみと吐息を漏らした。
「たいしたもんだよなぁ」
人ごとのように呟いたリッツだったが、その畑の広さを、まさか自分が身をもって体験するなんて思いもよらなかったのだった。
Ⅳ
真夜中、アントンの部屋の扉をアンナは叩いた。廊下はもう冷えてきていて、少々肌寒い。待つことなく、すぐに扉が開かれた。
「お養父さん寝てた?」
他に誰もいない時、アンナはアントンを『お養父さん』と呼ぶ。養女となって以来、アントンとの間で取り決められた約束である。
「……どうした、こんな時間に」
驚いたアントンに手招きされて、アンナはホッと安堵の吐息をついてから部屋に入った。見渡すとまだ起きていたらしく、ランプはつけたまま、本が机の上に載せてあった。勧められるままアンナは椅子に座ると、堰を切ったようにアントンに質問した。
「ねえお養父さん、あの蒼い珠は何? あれを見た時私、何だか懐かしいみたいな気がして……でもちょっと怖くて、それで……変な気持ちになったの」
アンナがじっとアントンの瞳を見つめると、アントンは静かに目を伏せた。その目線の先には、机の上の本がある。本は古い日記のようだった。アンナからはその中身を見ることは出来ない。
言いしれぬ不安がジワリジワリと心にせり上がってきて、アンナは不安を打ち消すように、またアントンに質問する。言葉に出さないと不安が溢れてしまいそうだ。アンナは確かに感じていたのだ。あの珠は何かの終わりで何かの始まりではないのかと。
「私ね、あの珠のことをベットでずっと考えてたの。そしたら何だか怖くなって。お父さんなら何か知っているだろうって思ったらつい……」
言葉があふれ出そうになるアンナを、アントンは静かな言葉と微笑みで遮った。
「いいかいアンナ、あの珠のことは必ず話してあげるよ。だが今じゃない」
「でもお養父さん……」
アントンの目が微妙に揺れるのをアンナは見逃さなかった。養父がこんな顔をするのも、アンナに何か隠し事をするのも初めてだったのだ。
「いい子だからもう休みなさい」
アントンは優しくほほえみかけた。アンナにはその微笑みの意味が何となく分かった。アントンも何かに葛藤している。それは他ならぬ自分の為なのだと。
「私……ずっとお養父さんの所にいられる?」
アンナは自分の一番の不安を口に出して尋ねた。尋ねられたアントンの口からは言葉が出なかった。
「私、お養父さんの子だよね?」
一瞬の沈黙に不安が募る。実はアンナは見た目通りの年ではない。もうアントンの元で三十年も育てられているのだ。アンナの年を取る早さは、アントンの二分の一程、つまり人間のおよそ半分の速度なのだ。
アンナの成長が遅い理由はよく分からない。この国は精霊族が住む国だから、多分彼らとの間の子だろうかと、アンナ自身は根拠もなくそう考えてもいる。村人たちもそれを知っていて、アンナの考えに賛成してくれていた。
まだ赤ん坊だったアンナをアントンが教会の前で拾った時、彼はまだ三十代も後半。孤児院も軌道に乗ったばかりでがむしゃらに働き、疲れていた所だったそうだ。だがアンナと出会って不思議な安らぎを覚えたと聞いている。アンナと接した人間は不思議なことに、そんな不思議な安らぎを得るといってくれる。それはとても嬉しいけれど、当然自分で自分と接することは出来ないから、アンナ自身には分からない。
アンナの成長が遅いことを知ってから、アントンは彼女だけは孤児院の孤児と分け、自分の養女として届け出て、常に側に置いた。孤児院に年を取らない子供を何十年も置いておくことが出来ないからだ。
あの珠を畑で見た時、アンナが長年慣れ親しんだアントンの顔に表れた表情は、見たことのない寂しさだった。だからアンナは不安になったのだ。
「アンナ、覚えておくんだよ。もしもだ、本当にもしもの話だが、アンナがここを出ていくことになったとしても、私たちが親子であることは変わらないんだ。分かるね?」
いつもの通り穏やかに、そして静かにアントンがそういった。不安にかられているアンナは、小さく頷くことしかできない。
「何をそんなに不安な顔をしているんだい? お前がいなくなったらこの教会が困るだろう? だから大丈夫だよ」
優しい笑いを含んだアントンの言葉で、アンナも少しだけ安心した。確かにアントン一人ではこの孤児院は成り立たない。自分がいる必要があるのだと納得したからだ。
「分かった。じゃあ、もう寝るね」
出ていこうとするアンナに、アントンは思いついたように明るい声をかけた。
「そうだ、明日からリッツくんも畑に連れて行ってあげなさい。土に触れあうのはいいことだからね」
「リッツくん?」
「そう。今日来たお客さんだ」
あの大きな男の人は、リッツというらしい。
「はい! お休みなさい、お養父さん」
アンナは扉を閉めてから大きく深呼吸をした。
「大丈夫、私、ここの子だもん」
内心は珠のことが気になる。それに漠然とした不安はぬぐえない。でも今はアントンを信じている。大丈夫だ。心の中で自分にそう言い聞かせると、アンナはアントンの部屋を離れた。