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呑気な冒険者たち  作者: さかもと希夢
大天幕に響く哀歌
146/224

<3>

 フランツ・ルシナは、大量の書類に囲まれて不機嫌きわまりない状況に頭を抱えていた。

 元はといえばフランツの師匠であるオルフェが失踪したのが問題で、それを追う手がかりを探しているのだから文句は言えない。

 なによりリッツに聞くところに寄ると、このロシューズに入ることは、この曲芸団に関わるより他に全く手段がなかったらしいのだ。

 雇われることが決まった日から、ロシューズに入った今現在に至るまで、フランツは興行のためにモティアナで購入した食料と材料の計算と、興行予算の計算に追われている。

 この曲芸団が所属する国は、フォルヌよりも更に東にある国で、その国では興行収益をきちんと報告し、書類として提出する必要があるのだそうだ。

 それなら最初からきちんと計算しておけばいいのにと思ったのだが、どうやら彼らはそういったことに興味がないらしかった。

 しかもいつもの事ながら、アンナがひとこと余計なことを言ったばかりにこの状況に陥っている……とだけせめることも出来ない。

 なにしろ今回はアンナだけではなく、自分の妹であるコンスタンツェもこの状況に陥るのに、手を貸しているのだ。交流が少ないとはいえ、兄と妹だ。責任を取る必要はあるだろう。

 モティアナの店で団員たちが受け取ったと思しき、領収書の束と前回の興行金額の表を付け合わせ、赤字の分と今回の予測を手元にある紙で計算する。

 今回限りの雇われ人であるフランツに、金銭管理という最も大事なことを任せていいのだろうかという疑問もある。

 だがどうやら曲芸団というのは適当な集団らしく、フランツがある程度の書類処理を出来ると見るや、全てを押しつけてきたのだ。

 元々曲芸団には、決まった事務員はいなかったらしい。

 マルグリット曲芸団は、マルグリット団長を初めとして、曲芸師、裏方を合わせて約四十名という大所帯である。

 団長は丸まるとよく肥えてはいるが、赤い口紅も可愛らしいアクセントになっている、真っ赤な髪で愛嬌たっぷりの女性だ。

 その中の一角に、今回のみ限定で参加の五人は自分たちの居場所を確保しなければならなかった。一応丈夫な帆布で出来たテントを一つ与えられ、共に生活出来ることとなったが全員仕事がバラバラとなってしまった。

 アンナとコンスタンツェは、曲芸師としてマルグリットに付きっきりで指導を受けている。エドワードはその付き添いだ。

 書類の不備を見付けてマルグリットに聞きに行った際、エドワードを見て驚いた。目つきが鋭く威厳ある国王像はどこかに置き忘れてきたように、ニコニコと二人を見守っていて付き添いの爺さんを演じきっていた。

 いいのだろうかと、国王としてのエドワードを高貴にして眩しい存在だと考えているフランツは頭を抱えたが、本人がいいならいいんだろうと、リッツ張りの勝手な理論で自分を納得させることにした。

 とにかく今は何とかこの曲芸団に居座り、ロシューズ滞在期間である一週間のうちに、何とかして彼らの持つ宝玉と同じものにまつわる伝承を聞く事を考えねばならないのだ。

 だが思考回路の引き出しが極端に少ないフランツには、どうすれば火の一族に情報を聞けるのかさっぱり分からない。

 どうやら今回は、リッツですらそれを思いつかないらしく首を捻るばかりだ。

 リッツはどうやらこのロシューズに住む、火の一族が苦手らしい。理由を尋ねたところ精霊族こと光の一族に対する劣等感とは全く違い、とにかく苦手なんだの一点張りで要領を得ない。

 未だに火の一族に遭遇していないフランツには、リッツの苦手意識がどこから来るのか想像のしようもなかった。

 そんな状況であるから考えれば考えるほど何も思いつかず、ひたすら焦りが募る。

 師匠は一体何者で、どこに消えてしまったのだろう。師匠がいう、彼の正体とは何なのか、どうしてそれを探らせようとするのだろう。何故フランツに、一番に知って欲しいのだろう。

 つらつらと色々な疑問が頭をよぎるものの、仕事だけはスムーズに進んでいく。計算と思考回路はフランツにとって別物なのだ。もしかしたら恐ろしいほど事務作業が自分にとって向いているのかも知れない。

 没頭すること数時間、さすがのフランツも疲れ切ってきた頃、丁度昼食になった。

 食事係が運んできてくれたものは紙に包んだライ麦パンのサンドイッチと、飲み物らしい小瓶が一本。いい加減にこの室内の光景を見飽きたから、外で食べたい。

 よろめきつつ机から離れると、テントの外に出た。残暑の残り香がたっぷり含まれた熱い風を、それでも心地よく感じる。

 帆布で出来たテントは風通しが悪いから、こうして外の空気を吸ってようやく人心地ついた。いくら寒がりで暑さに強いフランツでも、この残暑厳しいなかでの長時間労働は厳しい。

 テントの外の木陰にサンドイッチを抱えたまま倒れるように寝転がり、外の空気を吸い込んだ。鼻腔いっぱいに吸い込んだ空気は緑の香りがする。旅立つ前は意識したことが無かった香りだ。

 やはり外の空気を吸わないと頭の動きが鈍る。しばしぼんやりと木を見上げていたが、ようやく体を起こし、始めてフランツは目の前の光景が朝とは全く違うことに気が付いた。

「……すごい」

 知らず知らずそう口にしていた。朝は寝るためだけの小さなテントがいくつかあるだけだったこの広場に、巨大な天幕がそびえ立っていたのだ。

 書類に没頭していて、物音一つ聞いていなかったから、こんな風に巨大な物が近くに作られているなんて、全く気が付かなかった。

 耳を澄ませてみても、今は大天幕の方から何の音もしない。誰もいないのだろうか。

 今のこの状態なら、何らかの超常的な力が働いて大天幕が突然ポンと現れた……といわれたら信じてしまいそうだ。

 それほどに大天幕は日常の風景からかけ離れていて、その上やけに強い存在感を放つ、不思議な存在であった。

 座ったままフランツは数時間で現れた大天幕を、黙って見上げる。ものすごく巨大だ。この高さは、おそらく三階建て以上の家に相当するんじゃないかな、と頭の中で高さを計算しながらそんなことを考えた。

 円錐形を二つ合わせたように、頂点を二つ持つ天幕は、下の部分で一つの円錐形となって広がる大きな丸い建物になっている。色は明るい黄色と赤で、派手派手しいのに何故か下品な印象よりも、楽しげな印象を与える。青空にそびえるその姿は目にも眩しい。

 その横には、空気を入れるための巨大な足踏みふいごが数個、設置されたままの緑色の帆布にさされて広がっている。おそらくあの中に空気を入れて膨らませるのだろう。

 そういえばサラディオに曲芸団がやって来たときや、移動遊園地がやって来たとき、空気でぱんぱんに膨れあがった四角い帆布の中に入り、跳んだり跳ねたりする遊具があったのを思い出す。

 呆然としながら見上げていると、木の上からパラパラと木の葉が振ってきた。風もないのにと思って見上げると、そこに人の足がある。

「な……」

 思わず絶句すると、足の主はくるりと身軽に木から下りてきた。ずば抜けて高い身長と、均整の取れた筋肉質の体をしているくせに、異常に身軽なその男は、音も立てずに飛び降りると、フランツに向かって手をあげた。

「よ、フランツ」

「……何してるんだよ」

 当然それはリッツだった。

「何って、昼飯」

 リッツの手には、フランツの持っているものと同じような紙包みがあり、首からは暑さよけか汗拭きなのか、大きめのタオルが下げられていた。

「天幕を見るのに一番良さそうな木だったから登ったんだが、お前が来たから降りて来ちまった。昼飯、一緒に喰うか?」

 元傭兵隊長にはとても見えないほどに、よく似合った労働者スタイルでリッツが笑った。肉体労働に借り出されていたはずなのにものすごく楽しげなリッツに、事務仕事に追われて心が多少荒んでいたフランツは、嫌味の一つも言いたくなる。

「いいねリッツは。どこにいても楽しそうで」

 この間シーデナでリッツの無表情を見た事を思い出し、しまったと思ったが、今更否定するのもおかしいだろう。だがそんなフランツの焦りに気が付きもしないのか、はたまた嫌味にすら気が付かないのか、リッツの顔からは笑みが消えない。

「楽しいぞ」

「よかったね」

「ああ。お前も楽しい事務仕事に精を出せよ」

「……」

 仕返しされてから気が付いたが、どうやら嫌味は思い切り通じていたようだ。これ以上嫌味の応酬をする気もなく、フランツは多少の敗北感を抱えながら沈黙した。

 シーデナを出てからのリッツは、国王暗殺未遂事件から最近までのどこかうっすらと暗かった印象と後ろ髪を、綺麗にさっぱり斬り捨ててしまい、出逢った頃のように思い切り超然とした印象に戻ってる。何かあったのだろうが、それを察するだけの度量がフランツにあるはずもない。リッツの何事もなかったように笑っていられる大人加減が何とも羨ましい。

「休憩は二時間だからな。時間を無駄に出来ねえぞ」

 どっかりと木の下に腰を降ろし、リッツは包み紙を開いてサンドイッチを取りだした。

「おおっ、ラム肉のハンバーグと目玉焼きが入ってるぞ。しかもトマトだ。贅沢だな」

 食い意地の張ったリッツは、ひとしきりサンドイッチを眺めてからそれを頬ばる。見ているのも馬鹿馬鹿しいから、フランツも食べることにした。

 まず喉が渇いているから瓶の蓋を外すと口に運ぶ。それは冷たい水だった。この暑い中で冷たい水はありがたい。もしかしたらこの広場のどこかに、深い井戸があるのかも知れない。

 辺りを見渡しつつ、リッツを見ると、一口かじったサンドイッチを手にしてじっくりと中を観察していた。フランツの視線に気が付くと、笑みを浮かべる。

「トマトの上は生玉葱のワインビネガー漬けだ。ん、オリーブオイルも使ってる。ピクルスを使わないで、グリーンペッパーとはやるな」

「……よく分かるね」

「当然だ。俺を誰だと思ってる?」

 いつもながら食欲の権化であるリッツの食べっぷりを横目で見つつ、フランツは再びため息混じりに目の前にそびえる巨大な大天幕に目をやった。そこにはフランツの日常と何ら交わることのない非日常が存在しているような気がする。

 でもその非日常の中に日常が入ってしまった。そこにアンナと、事もあろうに妹コンスタンツェが出演するのだ。おそらく父親のヴィル・ルシナが見たら、卒倒するだろう。いや、歌姫と踊り子が好きな、変態は大喜びするだろうか。

「どうした?」

 気が付くとリッツが手を止めて、静かな目で見ていた。からかいが混じった目で見られると正直に言葉を発するのが癪になるのだが、この表情だと自然に言葉が出てくる。

「アンナとコンツェは大丈夫かな」

「さあな」

 何気ない口調でそういって、リッツは瓶の水を飲む。

「コンツェがどれだけの実力者か、俺は知らないし」

「……相当だよ。ルシナ家の人間じゃなかったら、歌姫になれたと思う」

 実はフランツはそれを全く知らなかった。アンナとコンツェが曲芸団を助けるといいだしたとき、試しに歌ってみろといわれたコンツェが、高く細い声ながら、甘くもの悲しい恋歌を歌い出したとき、フランツは愕然としたのだ。まさかこれほどまでとは思わなかった。兄であるフランツは歌も踊りも苦手だ。あえてそれには近付かないようにしている。

「なるほど。じゃあコンツェは大丈夫だろ」

「そうだね」

 となると二人の心配はもう一人の人物に向けられることとなる。当然物事にすぐ頭を突っ込んで痛い目に合うくせに、びっくりするほど懲りないアンナだ。しばらく黙ってサンドイッチを食べてから、リッツが口を開いた。

「水の精霊使いの曲芸ってのは、アンナが使うのとわけが違うからな」

「違う?」

「ああ。お前は火球を使うだろ?」

「使う」

「あれを頭上にアーチ状に出現させて、なおかつリボンか何かのように操れるか?」

 頭の中で自分の炎の力を想像してみて頭を振る。絶対に無理だ。何しろ大きさと爆発させるタイミングを計れるようになった事すら最近なのだから、そんなこと出来るはずがない。

「お前と同じく、アンナも水球を扱う。それをあいつが他の形状に変化させるのを見たことあるか?」

「ない」

「じゃあ、小さな水球を無数に操ることは?」

「絶対無理だね」

「だろ?」

 アンナは王都で初めて水の球を作ることを覚えたが、未だに大きさから飛ばす方向に至るまでコントロール出来ていない。隣で平然としているリッツも、アンナの超特大水球で弾き飛ばされた一人だ。

 となるとアンナは水を操る猛特訓の末、水浸しになっている可能性が高い。そう思ってリッツを見ると、リッツが大きくため息を付いたところだった。

「俺はあいつが風邪を引かないかが心配だ」

 今までなら愚痴にしか聞こえないその言葉だったが、リッツは本気で今のひとことを口にした。それが分かった瞬間に、フランツはあることを思いだして怯む。

 そういえばリッツは、アンナを一人の女として愛しているのだと、エドワードに聞いたのだった。あまりに信じられない話だから、本人に「本当にそうなのか」を聞けずにいるうちに時間だけが過ぎてしまっていた。今が尋ねるチャンスかも知れない。

「まあ……暑いし問題ないだろうけどな」

 独り言のようにそう呟くと、リッツは瓶に口を付け水を飲む。瓶を傾けるリッツに、意を決して尋ねた。

「本気で女としてアンナが好きなの? 保護者としてじゃなく?」

 尋ねた瞬間に、リッツが思い切り水を吹き出す。

「お前っ! 誰に聞いた!?」

 ダラダラと水を滴らせながら、リッツが怒鳴った。これだけ動揺するのだから、エドワード情報は正確だ。誰からの情報なのかを隠しておく事に利がないから、正直に白状する。

「陛下」

「あの野郎」

「でもアンナがあの状況だったから仕方ないけどね」

「あの状況……?」

 不審そうな顔でリッツが眉を寄せる。そういえばリッツはメリート村での事件後、アンナがどの様ないきさつで、リッツの元に行ったのか全く知らないのだ。だがアンナの決意をリッツに告げるのは、何となく憚られた。アンナにはアンナのプライバシーがある。

 まさかあの時、エドワードにリッツと共に過ごすことを諦めるよう説得されたアンナが、真っ直ぐに自分の未来ある人生をリッツに与えることを選択し、「リッツが欲しい」と言い放ったことなど、口が裂けても言えない。

 だがリッツの不審な表情から逃れるためには、少しだけ情報を開示した方が良さそうだ。

「あのアンナがすごく落ち込んでた」

 何か心当たりがあるのか、それともアンナがリッツを見つけ出した後何らかの話をしたから知っているのか、リッツは小さくため息を付いた。それからフランツを見ると、もう少し詳しく教えろという風に促してくる。

 そこで困った。何をどう話したらいいのかさっぱり分からない。考え込んだ末に、フランツは一番分かり易い説明をすることにした。

「見たことがないぐらい落ち込んでた。初めて見たよ、お腹が空かないアンナを」

「……は?」

「ずっとリッツの使ってた予備ベットに座って考え込んでた。昼食がアンナの好きなクリームポテトコロッケだったのに」

「はぁ……」

「あのアンナが食事出来ないぐらい落ち込むなんて、あり得ない」

 ジンに拉致される前に朝食を抜いていたアンナは、空腹だろうに事件後の昼食も手に付けずに、ただじっとリッツが使っていたベッドに膝を抱えて座っていたのである。

 ファルディナから王都へ向かう途中で初めて強盗に襲われた時も、ラリアの館で事件があった後も、幽霊に体を乗っ取られて意識を取り戻した時も、常に空腹を訴えてきたあのアンナが食事をしなかったのだ。フランツからすればこれは多大なる驚きである。

 だがそのフランツの驚きはいまいちリッツの心に届かなかったようだ。

「……あのな」

「何?」

「確かにあいつが腹を空かさないのは問題だが、もっとまともな言い様はないのかよ」

「何が?」

 何を聞かれているのか分からずに顔をしかめると、諦めたようにリッツが呟いた。

「一応俺はクリームポテトコロッケよりも、あいつに重要視されているらしいな」

「そうだね」

「ま、お前やエドでもそうなるだろうがな」

 リッツの言葉はやや自嘲気味だった。だがあえてフランツはその言葉に沈黙を持って返した。やはりアンナのプライバシーは重視しなければならない。フランツにとっては彼女も、リッツと同じく仲間なのだ。仲間に仲間を売る真似だけはするまい。

「それで、本当のところはどう?」

 改めて静かに尋ねると、リッツは黙って瓶を口に付けて再び水を飲む。今度はリッツが口を開くのを黙って待った。やがてリッツは小さくため息を付いて、空いている手で頭を掻く。

「エドの言葉に間違いない」

 本人の口から聞くと、思った以上に衝撃的だった。リッツはフランツにとっても相当な大人で、アンナはフランツから見ても相当子供なのだ。何がどうしてそういうことになるのだか、想像がつかない。

「リッツは大きな街に行くと、必ず花街に入り浸ってるね?」

「ん……まあ……」

 リッツが目を泳がせて言葉を濁す。物心がつくまで父親の後宮で育てられたフランツは、すでに十九歳で子供とは言い難い年齢だから、リッツがそこで何をしているかなどよく分かっている。それを知っていれば自然とリッツが相手にする女性のレベルも分かる。後腐れ無く、その街にいる間だけ付き合えるあっさりとした玄人の女だ。

 純粋無垢で世間の汚れとは一切無縁のアンナは、その正反対をいく。

「なのに……アンナ?」

 困惑するフランツに、どう誤魔化そうかと言葉を探していたらしいリッツが、ふと諦めたような顔で苦笑した。

「仕方ねぇだろ。心と体は別なんだから」

「な……」

 きっぱりとしたひとことに、フランツはリッツが思い切り開き直ったことを悟る。

「ああ認めるさ。俺はアンナ・マイヤースって女を愛してるよ。そりゃあもう、自分でもおかしいんじゃねぇかって頭を抱えるぐらい無茶苦茶にな」

 その率直な告白に、衝撃よりも困惑でフランツが頭を抱えたくなる。だがリッツは次の瞬間、何がおかしいのか小さく吹き出した。しばらくして小さく息をつき、言葉を続けた。

「でも今のそれは、本当に精神的なもんだけどな」

「精神的?」

「あったりめぇだろ。思い切り俺の片思いだぜ? しかもあの容姿に性格だ。手を出してみろ、俺とジンとの違いなんて、何もねえぞ」

「確かに」

 リッツとジンでは、アンナにとっての重要度がまるで違うだろうが、何も知らないアンナにとってリッツの欲望はジンの暴力と同じような脅威でしかないだろう。

「じっとあいつのことばっか見つめて過ごしてみろ。いつか焼き切れちまう。俺があいつにとって安全な男でいるために、花街で欲求不満を解消して何が悪い」

「開き直ってるね」

「ほっとけ」

「でも今の話だと、リッツはアンナに手を出したいんだね」

 片思いだから手を出せないとか、容姿が幼いから駄目だとか、全て言い訳に聞こえる。

「好きな女に触れたくない奴なんて、この世にいるのか?」

 投げやりな口調でそう言い放ったリッツを思わず凝視すると、さすがにまずいと思ったのかリッツはため息を付いて再び頭を掻いた。

「そんな非難の目で見るなよ。大丈夫だって今のままで乗り切れる」

「乗り切れるって?」

「お前、心配してるんだろ? 俺たちのこと」

「心配?」

「違うのか? お前にとって俺とアンナは唯一の仲間だからな。こじれて欲しくないと思っているのはよく分かるさ。確かに俺があいつを襲っちまったら、今の関係は全部崩れちまう。そうなればもう俺たち四人で旅をするのは不可能になる」

 真面目にリッツが言った言葉で、自分の中の謎がほどけていく。

「そうか……」

「そうだ。つまり俺のせいで終わっちまうんだよ、俺たちの旅が。普段、人のゴシップなんぞ気にもしねえお前が俺に探りを入れてくるのは、そういう事なんじゃねぇのか?」

 何故リッツがアンナを女として愛しているといわれて気に掛かったのか、なぜリッツに真実を確認せねばと焦ったのか、そして何故リッツとアンナの関係で自身が不安になったのか。別にリッツのようにアンナを女として見ていたわけでもないのに、何故二人の関係が変わることに不安を覚えたのか……その答えが今目の前にあった。

 フランツは今の関係を崩したくないのだ。この関係が揺らぐ不安要素を取り除いておきたかった。つまりフランツは自分で思うよりも、今の状況をとても大切に思っているようだ。

 茫漠とした不安を抱え、全ての感情を斬り捨てねばいられない自己の作りだした檻のような環境から、手を差し伸べてくれた二人。それから始まった旅は何だかんだと文句をいいながらも、フランツにとってはまるで、初めて経験する心騒ぐお祭りのような日々なのだ。

 お祭りはいつか終わるが、それを今すぐ終わらせるのは絶対に嫌だった。まだしばらくこのお祭りを続けていたい。だから不安を作りだした張本人に、何とかしてくれと不安をぶつけずにはいられなかったのだ。

 フランツが自身の気持ちを理解したことを知ったのか、リッツが微かに笑う。

「心配するな。俺たちはおそらく何も変わらない。俺はずっとあいつに片恋をしてるだろうし、あいつもずっと俺を兄貴みたいな存在として暮らしていくだろうよ」

 そう明るく言ってから、不意に寂しそうな顔でリッツはポツリと呟いた。

「そして好きな男が出来たら、あっさり俺を捨てていくんだろうな」

 そうだろうねとも、そんなことも無いんじゃないかともいえず、フランツは沈黙を守りながら手にしていたサンドイッチを一口かじる。悪くない味だ。そんな気まずいフランツの沈黙などどこ吹く風と、リッツは陽気に言った。

「たまにはいいぞ、恋ってのも」

「……」

「俺は現状に十分満足してる。しばらくはこのままでいい。だからお前は気にかけるな」

 軽口の会話に紛れて、リッツは真面目な言葉を口にした。フランツもその言葉に黙って頷き返した。そういう覚悟でいるのなら、特にフランツがとやかく言うことではない。確かにリッツさえ理性を保つことが出来たなら、二人の関係が変化することなど無さそうだ。

 なにしろ、リッツの相手はあのアンナなのだから。

 不意に訪れた沈黙の後、リッツが真剣な口調で呻くように呟いた。

「俺とアンナが二人きりで生きていくとしたら、向いている職業ってあると思うか?」

「……何?」

「俺は、それを探さないとならねぇんだ」

 それは独り言のようだったが、フランツに本音を語っているのが何となく分かった。黙って聞いていると、リッツは言葉を続ける。

「俺とあいつが一緒に生きていくには、道を選ばねぇと駄目なんだ。でも正直迷ってる。そういう意味では先が見えねぇんだよな」

 二人が暮らしていく手段。それはそれに見合った仕事と言うことか。急に言われても思いつかないが、この前感じた感情が胸を打った。

 死んでいく自分が残せるもの、二人のために残してあげられるもの……。

 まだ考えの正確な部分はぼやけて見えないが、何となくフランツは何かそのアイディアのしっぽを掴んだような気がした。それが何かは分からないが、二人に何かを残してあげられると、直感でそう感じたのだ。だがリッツにしっぽを捕まえたぐらいの思いつきを言うわけにはいかなかった。だから不意に話をそらす。

「でもよく分かったね。僕の不安が」

 先ほどから不思議だったのだ。なぜフランツ自身も分からないような心の中を、リッツがあっさり理解してしまったのかが。残りのサンドイッチを全て食べ尽くし、水を飲みきったリッツが、その場にごろりと横になってから口を開いた。

「そりゃあ分かるさ。よく考えてみろよ。もしお前が俺とあいつの仲がこじれることを不安に思ってなければ、俺がアンナを好きだって聞いた時点で、お前はこう思うだろうよ」

「どう?」

「ふ~ん、リッツも物好きだね、僕には理解出来ないな。ってな」

「……確かに」

 言われてみればその通りだ。グレイグがアンナに好意を寄せていたとき、確かにグレイグに対してそう思った覚えがある。今は旅路の途中であるし、しかもリッツとアンナという組み合わせだから動揺したのかと、納得してしまった。

 考えてみればリッツやアンナがどこの誰を好きになろうと、フランツには一切関係がないのだ。事実考えてみても、二人に対して「ご自由にどうぞ」といってしまうだろう。でもこの二人がこじれると困る。フランツの旅まで終わってしまうからだ。

 つまりフランツが不安に思っていたのは、フランツ自身の旅を、彼らによって終わらされないかという、呆れるほど自分勝手なことなのだ。だが横を見るとリッツはそんなことを気にもしていないようで、目を閉じて休憩している。

「でもアンナとはね」

 思わず本音がぽろりと漏れた。

「悪かったな、アンナで」

「一体どこがいいのか、理解出来ない」

 呆れ果ててそういいながら首を振ると、多少不本意そうにリッツが呻いた。

「俺にとっちゃ、あいつの方が女神エネノアより何百倍もいい女に決まってる」

 その口調があまりに真剣だから、思わずリッツを凝視してしまった。

「本気で言ってる?」

「当然本気だが、何か文句があるのか?」

「別に」

「優しいし、可愛いし……まあ、すぐにもめ事に首を突っ込むのは相当な減点要素だが、そこを差し引いても俺は、女としてのあいつに充分満足だぞ。お前には分からねぇだろうけど」

 リッツの口調にいつものからかい口調が混じってくる。どうやらアンナのことをのろけるふりをして、フランツをからかってやろうという感じだ。思った通りリッツは目を閉じて好き勝手なことを言い始めた。

「ま、胸は小さいけど形は良さそうだから、将来有望だ。期待しておいて損はない。それからあの薄い唇も柔らかくていいよな。腰の細さは片手で抱くのに丁度いいし。あとあの首筋。すっげー綺麗だ。お前にあの微妙な色香は分かんねぇよなぁ~」

 すらすらとそんな言葉が出てくる。一体どこまでが本気なのか怪しい。おそらく女性経験がないフランツを馬鹿にしているのだろう。

 少し腹が立ってきたが、反論の言葉を飲み込む。そんなリッツの背後からそっと彼に近付く人影に気が付いたからだ。

 その小柄な人影は、リッツを驚かそうとしているのかそっと忍び寄っている。本当はこんな話をしているリッツに教えてやるのが親切だろうけれど、いい薬になるだろうと黙っておく。

「なにより太ももの白さは得難いぞ。しかもすらっとしてて形が綺麗なんだぜ? ほんと美味そうで、困っちまう」

「何が美味そうなの?」

 小さな人影は、ちょこんとリッツの横に座るとそう問いかけて首を傾げた。当然、いまネタにされていたアンナ本人である。

「ア、アンナ!」

 今まで楽しげにそんなことを口にしていたリッツが飛び起きる。その慌てふためく姿に、多少溜飲が下がった。そして同時に本当にリッツがアンナを好きなのだと実感した。

「太ももの話してたよね? 何で美味しそう?」

「あ、う……」

 目を泳がすリッツに、アンナは自分の太ももを指し示して見せた。アンナの細い指が指し示すままリッツの視線がそこに吸い寄せられる。そこには今話題にしていた、アンナの白くて形のいい太ももがむき出しになっていた。それを凝視したリッツが生唾を飲み込むのが分かった。やれやれと、フランツはため息を付く。

「食べられないと思うけど……リッツ、食べたいの?」

 そういって不思議そうに首を傾げたアンナに、リッツが動揺を隠しきれずに怒鳴った。

「お前、なんて格好してるんだ!」

「えへへ。似合う?」

 悪びれもせずにアンナが笑う。アンナの格好は普段見慣れたものとはかけ離れていたのだ。下着かと見まごうばかりの短さで、太ももの付け根近くまでしかないショートパンツに、上はシルクのようなキャミソール姿だ。キャミソールの下には、下着すらしている気配がない。

 しかもいつもきっちり一本の三つ編みにして垂らしている長い赤毛は、一つに高く結われていて、首筋が剥き出しになっている。

「涼しいよぉ?」

「涼しいとか暑いの問題じゃない!」

「だって着替えないもん」

「何?」

「持ってた服が全部水浸しなの。それですぐ乾く服を借りたんだ~。だってこれからも練習するんだもん。これなら濡れてもすぐ乾くから大丈夫だってマルグリットさんが言ってたよ。あ、でもこれ、濡れると体に張り付くのがちょっと気持ち悪いかなぁ~」

 そういってアンナは来ていたキャミソールをリッツに向かって引っ張ってみせる。おそらくリッツの位置からだと、下着を着けていないアンナの胸まで見えているだろう。動きやすさにご満悦のアンナに反してリッツは笑みを作るのに失敗し、口の端を引きつらせている。

「アンナ」

「なあに?」

「頼むから、露出度の高い服はやめてくれ」

「……リッツ?」

「俺、たまんねえよ」

「どうして?」

 目を丸くする小柄なアンナの無邪気な言葉に、大柄なリッツががっくりと項垂れた。泣きが入っている。フランツには、何となくリッツの苦悩が分かった。アンナへの感情を抑えつけているリッツにとってこの格好は拷問だ。

 しかも曲芸団は大天幕を建てることも考えれば、男性の構成員が女性を大きく上回っている。そんな中で自分の好きな女が、露出度の高い格好をしながらニコニコと歩き回っているのは、リッツにとってたまらない苦痛だろう。

 その上濡れた服が体に張り付くなんて、仲間としてのフランツだってアンナのその無邪気さが心配になる。だが純粋無垢で何も知らないアンナに、リッツの苦悩が伝わるわけはない。リッツもそれを知っているから、咳払いをして言葉を変えた。

「いいか、水で濡れると急速に体の体温が下がるんだ。自分でも気が付かないうちに、体の芯が冷えちまう。だから濡れたときに涼しい服を着ているのは間違いだ」

「分かるけど、今日は暑いよ?」

「暑かろうと寒かろうと関係ねえんだ。現に肩が冷え切ってるだろ?」

 リッツの手が何気なくアンナの肩を抱く。アンナは抵抗もせずにリッツの腕の中に収まった。相当手慣れた手つきだ。流石は女たらしと、妙に納得する。

「だからせめて外に出るときは肩にこれでも羽織れ」

 そういってリッツは、首から提げていた大判のタオルをアンナの肩にかけ、上半身をくるんでしまった。確かにこれなら他の男たちの視線を集めたりしないだろう。

「わぁ、暖かいね」

「だろう? いいか、練習の時以外は絶対にそれを体にかけておくこと。風邪を引いたら、余計団長に迷惑をかけるからな」

「うん!」

「よし、いい子だ」

 そういってリッツは微笑みながら、自分を見上げている笑顔のアンナの額に口づけた。ほとんど無意識の行動なのだろう。一瞬、しまったという顔つきでフランツの方を見たが、咄嗟に見て見ぬふりをした。アンナがくすぐったそうに身を捩る。ほとんど恋人同士の仕草だ。

 だが二人をみているとそんな甘い感傷はまるでない。どちらかといえばリッツが先ほど言っていた保護者というより、仲のいい兄妹といった雰囲気である。本当の兄妹であるフランツとコンスタンツェの間には、その親しさが完全に欠如しているな、と痛感した。

「で、何か用事があったんじゃねぇのか?」

 保護者のような顔で、あっさりとアンナを腕の中から解放したリッツがそう尋ねると、アンナは思い出したと言う顔で手を打った。

「そうだ。あのね、今日の夕方、火の一族の人たちが視察に来るんだって」

「火の一族か……とすると、炎の戦士ってことだよな」

「うん。リッツよく分かったね」

「……有名だからな」

 そういってリッツは何故かため息を付いた。

「それでね、もしかしたら侵入者がいるかも知れないから、半年前に来た時にいなかった新人の顔を見るんだって」

「なるほど」

「それが問題なかったら、明日のお昼にバザールが開いて、買い物出来るんだって!」

 アンナは気楽で楽しげだ。だがフランツの心は重く沈んだ。つまりそこでボロを出したりしたら、確実に怪しまれてしまうということだ。だが彼らがロシューズで火の一族の伝承を聞くために曲芸団に一時参加した旅人だと知れたら、どうなるのだろう。しばしの沈黙の後、リッツがため息混じりに呟いた。

「俺らはもろによそもんだ。ボロが出ねぇように気を付けねぇとな」

「そうだね」

「そうだよね」

 アンナと同時に相づちを打ってしまった。だがアンナの口調は軽く、自分の口調は重い。もしかしたら殺されてしまうのだろうか? 不安のあまりリッツを見ると、リッツはアンナとフランツを交互に見てからため息を付いた。

「ばれても殺されるってことはねえだろうけど、まあ少し大変ではあるだろうな」

 その口調はどことなく重々しい。リッツは本当にこの火の一族が苦手なようだ。

「さすが鉄壁の守りを持つ炎の戦士、本当に細かいな」

 ため息を付きつつ、リッツが再びごろりと横になった。腕を頭の上に組んで枕にし、さっさと目を閉じてしまう。

「考えんのはやめだ。俺はちょっと休憩。休む時に休んどかねぇと、後できついぞ」

 いつものリッツの決まり文句だが、やけに懐かしい気がする。何故だろうかと思っていると、リッツの左横に横座りをして楽しそうにリッツを見ていたアンナがクスッと笑う。

「なんだよ。何かおかしいか?」

 横になったままのリッツがアンナを見上げると、アンナは楽しげな顔をフランツの方にも向けてきた。

「だって、何か久し振りなんだもん。フランツもそう思うよね?」

「何が?」

「こうやって三人で、昼間から屋外でゴロゴロしてるの、すっごく久し振り」

 その言葉で、一瞬にしてフランツは旅に出たばかりの頃に記憶が引き戻された。

 そういえばあの頃は歩く旅だったから、体力のないフランツのためにしょっちゅうこうして昼間から休憩と称して寝ころんでいたものだ。旅の意味も目的もまだ知らず、ユリスラ王国の存亡に関わることもなく、ただ歩いていたあの頃。

 気が付けば旅に出てから一年が経過している。

 旅をする目的があり、仲間としてエドワードが加わり、なんと期間限定だが妹コンスタンツェまでもいる。何の変化もない生活をしていたフランツにとって、サラディオで過ごした一八年よりも様々なことを学んだ一年だった。気が付けば三人の関係は少しづつ変化してきているようだが、こうしているとその事すら忘れる。

 リッツは相変わらずいい加減で適当な元傭兵隊長だ。だけど今はそのリッツの中にある孤独をフランツも知っている。アンナだってこう見る限り陽気で明るく馬鹿みたいに真っ直ぐで、どこも変わらない。それでもフランツはアンナが大人びた優しさと、全てを包み込もうとする深い母性を持っていることを知っている。

 そして自分は……おそらく一番変わったのだろう。それが自分でも分かる。全ての存在を理解出来ぬ物として、分かり合うことの完全に諦めていたフランツも今は、他人という存在に興味を持てるようになった。これは一番の収穫だ。それでもまだまだ、自己中心的な甘えがある。オルフェの元に辿り着けたとき、自分自身をきちんと見つめ直せているのだろうか。

「お前は何時まで休憩だ?」

「ん……あとね、一時間ぐらいかな? コンツェが今レッスンしてるの。エドさんが付いててくれて、休憩しておいでって」

「じゃあ寝てくか? 隣ぐらいは空いてるぞ」

「本当? お邪魔しよーっと。フランツは?」

「僕も後一時間」

「じゃあフランツもどうぞ」

 アンナにリッツの反対隣を勧められる。横になりたかったのは事実だったから、勧められるままに横になる。太陽の光を遮ってくれる木陰を吹く風はさわやかで涼しく、風が吹くたびに瞬く木漏れ日が眩しい。

 一年しかたっていないのに、思えば遠くに来たな。地理的には近いけど。

 そんなことを考えつつ、フランツは目を閉じた。

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