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呑気な冒険者たち  作者: さかもと希夢
消えた薬草を追え
10/224

<2>

「はぁ……」

 アンナは幾度目かのため息を付いた。

「お腹空いたぁ……」

 すでにこの言葉も何十回目かで、いい加減に言い飽きているのだけれど、言わずにはいられない。

「ホント、腹減ったよなぁ」

 並んで隣を歩いていたリッツもそう呟いた。見上げながらアンナは、体が大きいし、荷物を大量に持っている分、リッツの方が絶対にお腹が空きそうだなと思う。

「なんて言ってみても、腹もふくれねえけどな」

「そうだよねぇ……」

 ユリスラ王国暦一五七二年一〇月中旬。

 正確にはサラディオの街で当面の生活費を手に入れて、おまけに家一軒を豪快に火竜で燃やした、その四日後、一行は、海のあるユリスラ王国王都を目指して、ひたすら旅人の街道を南下していた。

 ヴィシヌの村を出た事なんて無かったアンナは初めて知ったのだが、ユリスラ王国を含む、エネノア大陸を縦横無尽に通っている、最も整備された道を旅人の街道というのだそうだ。

 ここを辿っていけば、だいたい総ての国の首都に繋がっているとのことだった。つまりユリスラで言えば、王都シアーズのことだ。ユリスラにある数本の旅人の街道も、総てを辿れば大本のシアーズにたどり着くことのことで、方向さえ誤らなければ、絶対に海に着けるのだそうだ。

 アンナが『海に行きたい!』とリッツに告げたから、リッツ曰く『真っ直ぐ南に歩いていけば、馬鹿でも迷わずシアーズにたどり着く単純な道』を、一行はただ、ひたすら歩いていた。

 普通に考えれば何の苦もない道のりかもしれないが、三人はというよりもアンナとリッツは、辛い道行きを強いられていたのである。

 理由は一つ。食への渇望である。

 サラディオでお財布係となったフランツの「お金があっても、贅沢旅行は禁物だ」という冷静沈着な言葉のせいで、アンナたちは空腹と戦う羽目に陥っていた。貧乏旅なら当然のことなのだが、それにしてもこの四日間、あまりにもひもじい貧乏生活が続いていた。

 なにしろ三人には、この路銀を全部使い切ってしまった後、お金を手にするすべがない。

 売りさばく野菜もなければ、物もない。傭兵隊長で、ものすごく強かったらしいリッツも常々、平和なユリスラで被保護者を二人抱えていたら働けないとこぼしている。

 アンナは知らないけれど、傭兵の仕事は大変な仕事なのだろう。王国軍の兵隊さんと何が違うのか、アンナにはいまいち分からない。

 リッツにそう言うと、リッツは『兵隊さんじゃなくて、せめて軍人と言ってやれ』といっただけで、リッツの仕事については話してくれなかった。

 金がなければ先に進めない。勿論それは、世間氏らずのアンナも分かってはいる。でも何より空腹は押さえがたい。

 ヴィシヌにいた時も粗食だったが、それでも三食とおやつ一回、ちゃんと食べられていた。それを考えると、村人たちに感謝の気持ちでいっぱいだ。いっぱい恵んでくれていたのだと思う。

 そして今は、毎日毎日干し肉と、堅い非常食のパン。それでさえも一日二回。あんまりといえばあんまりだ。せめて野菜が食べたいけれど、人がいる所に辿り着かないから、手に入れるすべさえない。

 アンナは自分が根性があることを誇りに思っている。でも空腹と根性で戦ってはいても、お腹が空くものは空く。生きているのだから仕方ない。

「ふかふかベット、ライ麦パン、木イチゴジャム」

 ボソッと呟くと、ため息混じりにリッツが呟いた。

「ステーキ、焼き肉、ローストビーフ、ボロネーゼ」

 アンナと同じように食い意地が張っているリッツの希望は肉ばかりだ。何だかお肉料理を連想してしまって、アンナは自分の一本に揺った三つ編みをつまみ上げた。

「ねぇねぇリッツ、私の三つ編み、ちょっとハムっぽいよね?」

 何を見ても食べ物に見えてしまう。だがリッツは、ちらりとこちらを見遣っただけでため息を付いた。

「ハムってのはもっと立派で大きいもんだ」

「そうかなぁ~。あの紐で縛ってるのだよ?」

「それはウインナーだろ。つうか全然美味そうに見えねえし」

「そうかなぁ……?」

 二人の会話はほとんど子供の会話といっていいだろう。とうてい、一五〇歳の精霊族と、正体不明の三十歳の女性が交わす会話ではない。とはいってもアンナはまだ見た目が十四、五歳だから、かろうじてこの会話は不気味な物にならずにすんでいる。

「腹減ったなぁ……」

「お腹空いたよねぇ~」

 再び会話が堂々巡りだ。

 空腹を堪えながら、リッツの視線が微かに後方を伺った。アンナも後ろを伺う。

 二人の視線の先にいるのは、フランツだ。フランツの金の髪の下にある顔は、紙のように白い。いや、白を通り越して青い。フランツは歯を食いしばり、ひたすら黙々と歩き続けている。

 実はリッツとアンナが飢えているのには、理由がある。彼らの食料が、サラディオを出た当初の予定よりも乏しくなっていたのだ。

 現在地は、サラディオから旅人の街道沿いに王都方向へ進んだ一番近い村、トゥシル近くの山道だ。旅慣れたリッツによると、普通の旅人ならサラディオからトゥシルまで二、三日という距離だそうだ。だがもう四日以上かかってしまっている。

 だいぶ近くに来たから、今日中には余裕で着くというのがリッツの見解だけど、それさえも怪しい。

 その理由……それはフランツだった。

 リッツは傭兵で、色々旅して回った経験豊富な健脚を持ち、アンナは山の教会の斜面を駆け上り、また駆け下りて果樹園や畑で農業して育っているから多少のことで疲れることはない。

 だがフランツは、生まれてこの方サラディオの街から出たことのない、究極の箱入り息子だったのだ。彼の移動距離は、多くてもオルフェの家から街中へ行くくらい。つまり歩くことなどほぼ無かったのである。

 それが急に一日中歩き通しの旅に出たのだから、歩く速度が遅くても仕方ない。その上リッツやアンナとは、比べものにならないくらい体力が無く、疲れやすい。だから距離を稼ぐことが出来ないのだ。

 元々口数が少なく、無口なフランツだが、ある時からひとことも口を聞かなくなった。きっと足もまめだらけなのだろうとアンナは推測しているが、フランツは黙っているだけで何も言わない。これ以上リッツとアンナに迷惑をかけたくないと思っているようだ。

 アンナは、フランツは頑張っているのをちゃんと分かっている。歯を食いしばりつつもフランツは決して、辛いとか、休みたいと口にはしなかった。幾度も気にせず休みたい時は言って、といってはいるのだが、首を振るだけだ。

 頑張り屋なんだなと思ったけれど、リッツ曰く彼のプライドがアンナやリッツに甘えることをを許さないんじゃないかとのことだ。アンナにはそんなに遠慮する理由が分からない。一緒に旅をすることに決めた時点で仲間なんだから、素直に言ってくれればいいのにと常々考えている。

 最初はそんなフランツに気遣って、幾度も遠慮するなと言ってみたものの、あまりの頑固さにリッツとアンナはすでにお手上げとなっている。

「全く、最近の若いモンは頑固じゃのう」

 同じようにフランツを気に掛けていたアンナに気が付いたらしく、リッツはふざけた口調で大げさにそう言うと、片目を閉じて見せた。そんな仕草が妙にはまっていて、リッツはとっても大人に見える。

「本当ですのう」

 リッツに合わせて、アンナは笑顔で答える。この言葉が、最近リッツとアンナの間で流行になっている。人間以上の寿命を持つ二人から見ると、十八歳のフランツは、若い子なのだ。

 だがこの言葉がフランツはしゃくに障るらしい。余裕綽々のリッツを、長い前髪の隙間から見える青い目に怒りを湛えて見ていたフランツは、腹を立ててつつも何も言わなかった。言う気力も無いのだろう。

 それを見てリッツが更に余裕の笑みを浮かべる。

「お、何か用か?」

 だがフランツは一気に戦意を消失したように、小さなため息を付きそっぽを向いた。

「別に……」

「そっか。しんどかったら言えよな」

 それだけいうとリッツは再び前を向いて、何事もなかったかのようにのんびりと歩き始めた。

 彼はがっちりとした細身体型の一風変わった精霊族で、背中にアンナの身長ぐらい大降りの大剣(グレートソード)とフランツと自分、二人分の荷物をしょっている。

 その大剣を易々と扱う剛力の持ち主である彼にとって、荷物を抱えてのこの旅は全く苦にならないのだろう。

 アンナは今、そんな重装備のリッツの前を、軽装で足取りも軽く歩いている。荷物といえば、二本しか入っていない矢筒と、小さな弓だ。この弓矢は精霊魔法の発動媒体になっている。そして肩掛け鞄は、アンナが自分で作った丈夫で大きなものだ。

 旅の中ではこれぐらいの荷物で十分間に合う。

「そろそろ休憩にするか?」

 そういいだしたリッツの言葉に、足を止めて空を見上げると、太陽が少し傾いてきている。数時間で日暮れというところだろう。

 フランツを振り向くと、相当に息が上がっていて、しかも膝が笑っているみたいだ。アンナとおしゃべりをしていたのに、そんなフランツの様子にも気を配るリッツはすごい。

 出会ってまだ十五日しか経っていないというのに、アンナはリッツに全幅の信頼を寄せていた。何となくリッツに任せておけば、すべて大丈夫だと思えるのだ。

 旅に出てからアンナは、リッツに感心することしきりである。

 孤児院にいた時は子供に常に気を配っていたから、ものすごく子供たちの表情や体調に細部にまで気を配れた。でも旅をしている時は見るもの全てが珍しくて楽しくて、ついつい周りを見ることを忘れてしまう。

 ヴィシヌが総ての世界だったアンナにとって、この世界はものすごく広くって、ものすごく新鮮なのだ。

 だけど旅慣れたリッツは常に、回りやアンナとフランツの二人を気にしてくれていた。それだけでも尊敬に値する。傭兵って、こんな風に面倒を見てくれる人なのかななんて思っているぐらいだ。

「フランツ、休憩だ」

 リッツがそういってフランツに声をかけたが、フランツは黙って青い顔を横に振った。見るからに疲れ切っているのに、休憩を拒否しているのだ。

 もしかしたら体力のない自分に引け目を感じているんだろうか。孤児院の子供たちが無理をして結局失敗してしまうのと同じかも知れない。

 こういう時は、無理にでも休ませると、リッツとこっそり決めてある。リッツは何だか二人のお父さんみたいだ。リッツに目をやると頷いたので、アンナはフランツの後ろに回り込んで、服の裾を引っ張って彼の歩みを止めた。

 四日間でフランツの扱いにも大分慣れてきた。

「ねーフランツ、休もうよ~。喉渇いたよ」

 アンナに気遣われているのに気が付いたのか、フランツは唇を微かに噛みしめたが、諦めたように微かに頷いた。意地を張っても無駄だと一番分かっているのは、フランツ自身のはずだ。

 ここで本日数回目の休憩となった。

「見て見て! すごいよ、道にだけ木が生えてないから、緑の真ん中に空が見える!」

 ずるすると座り込むフランツの横に腰を下ろして、アンナは歓声を上げ、空を指さした。その声にリッツとフランツが空を見上げる。

「青くて輝いてて、空色の道みたい。綺麗だね!」

「お、詩人だなアンナ」

「えへへ。そうかなぁ?」

 秋の空は高く澄み、青い中にゆっくり帯を引いたような雲が流れている。

「どう思う、フランツ?」

 アンナは明るくそういいながら、疲れてぐったりしているフランツの膝に手を置いた。すでにフランツの目は半開きになっている。

「……楽しそうだね……アンナは……」

 呼吸を整えながら、何とか返事をするフランツが目を閉じた。微かな吐息が、寝息に変わるのは一瞬だ。

 その瞬間を狙って、アンナは同じく精霊使いであるフランツに聞こえないように口の中で小さく詠唱をする。

「安らぎと癒しを司る水の精霊よ。体の痛みを和らげて」 

 アンナは密かにフランツに治癒魔法をかけているのだ。これも事前にリッツとこっそり相談して決めた。

 フランツに気づかれないように、はしゃいで見せたりしなくてはならないのがちょっと大変だけど、幸いなことに一度も気づかれていない。こうでもしなければ、フランツを先に進ませることは不可能だったのだ。

 治癒魔法をかけ終わってから、アンナは大きく深呼吸をした。休憩の度にフランツに治癒魔法をかけるから、アンナも少し疲れてしまう。

 でもフランツに較べれば数十倍元気だ。はっきり言って体力で見た目が同じ年齢のどんな子にも負ける気がしない。何しろ人の二倍同じ年を生きているんだから、二倍の作業で鍛えている計算になる。

 眠ってしまっているフランツから少し離れて、アンナは足を伸ばして座り込んだ。草むらは少し冷たいけど草の香りがして気持ちいい。

 リッツに目を向けると、彼は二人から少し離れたところに、背中に背負った大振りの大剣を置いて、寝転がっていた。とっても気持ちが良さそうだ。

 ヴィシヌで果樹園の手伝いをして貰った時も気持ちよさそうだったから、きっとリッツは表でこうして転がっているのが好きなのかも知れない。

 精霊族ってそういう種族なのかなと、精霊族を他に知らないアンナはちょっと思った。

「たっぷり休憩しとけよ~。今日中にトゥシルにたどり着く予定だからな」

 寝転がったままリッツがそういった。今日村にたどり着けるのなら、ちゃんとした食事が取れるのだろうか。でももしかしたらそうはならなくて、もう一泊野宿かも知れない。

 そう考えるとアンナは、無性に野菜が食べたくなった。だから鞄から愛用の食べられる野草と茸の本を取り出して広げる。もしかしたら食べられるものがあるかも知れない。もしあったら、野宿になった時に野菜代わりに食べよう。

 フランツは木にもたれかかり、よっぽど疲れているのか、ピクリとも動かず眠りこけている。

「死んでんじゃねぇの?」

 横向きに寝転がっていたリッツが面白そうにフランツへそういった。寝こけているフランツに代わり、アンナが答えてあげた。

「もう、リッツ。ちゃんと生きてるよぉ~」

 だがそんな二人の会話にも、全くフランツは反応しない。よく寝ているみたいだ。

 再び物思いに耽ってしまったリッツを見届けてから、アンナは野草調べを再開した。

「平和だなぁ~」

 ポツリとリッツがそういったのが聞こえたけれど、返事を期待しての言葉ではなさそうだから、ちょっとだけ視線を向けただけで返事をしなかった。

 それ以後リッツは、起きているのか寝ているのか分からないぐらいに静かになった。目を閉じているからフランツ同様眠ってしまったのかも知れない。後に残されたアンナの耳に聞こえるのは、高く鳴く鳥の声と、風に揺れる木々のざわめきぐらいだ。

 うん、本当に平和だなとアンナは心から思う。自分のために時間の全てが使えるって、何だかとっても贅沢な気分だ。子供たちの面倒を見て過ごすことも楽しかったけれど、自分の時間を過ごすこともとっても楽しい。

 しばらく三人は思い思いの時間を過ごした。だが静寂はリッツによって破られた。

 静かで穏やかな時間の中で、突然リッツが剣を手に立ち上がったのだ。そのまま何かを気にするかのように周囲の気配を窺っている。

 手にようやく見付けた食べられる草を持ったまま、アンナは緊迫した雰囲気のリッツに尋ねた。

「どうしたの、リッツ?」

 のどかに尋ねると、リッツは手で静かにしろとアンナに合図を送ってから黙って何かの気配を探っている。しばらくしてから、リッツは固い声でアンナに告げた。

「アンナ、蛇がいるぞ。大毒蛇だったらヤバイ」

 手短にそういったリッツは、静かに剣を構える。アンナも耳を澄ませたが、何も聞こえてこない。

「大丈夫だよ、聞こえないよ蛇の音」

 警戒しながらアンナも立ち上がる。リッツは精霊族で耳が少し大きい。だからもしかしたらアンナの聞こえない音が聞こえるのかも知れない。

 周囲を高原に囲まれており、少し離れない限り森がないヴィシヌが襲われた事はほとんど無いけれど、田舎育ちのアンナも、知識では大毒蛇を知っている。

 大人になると五~一〇メートルにもなり、春と秋に人や家畜を襲い、森へと引き込む恐ろしい毒蛇である。昔はごく稀に、ヴィシヌで目撃されたという。旅人の街道もそんな生き物がいるなんて、安全ではないのだろうか。

 この二人の醸し出す緊張感で、ようやくフランツも目を覚ました。キョロキョロと周りを見て、不思議そうな顔をしている。状況がいまいち飲み込めないようだ。フランツも大毒蛇に遭遇したことは一度もないだろう。

 もしかしたら街育ちだから、存在すら知らないかもしれない。

 昔は羊を丸呑みにされたものだと、ヴィシヌの老人たちは笑って話してくれた。そういえば大毒蛇が出なくなったのは、アントンが結界を張ったからだといっていたっけ。

 静寂が三人を支配する。

 最初にその静寂を破ったのは、草木のこすれる音だった。しかも、先ほどとは比べものにならないくらい、大きくて早い。近くに来ているのだ。

 風のざわめきとは明らかに違うその音に、アンナは固まった。大きい物がいる! そしてその音は確実に自分たちの近くから聞こえてきた。

 アンナはハッとして横を見た。もしかして毒蛇の標的は、一番弱っていそうで、簡単に捕まえられそうな……フランツ?

「くそっ!」

 言葉と同時に、リッツが駆け出していた。でもリッツよりもヘビの方が近そうだ。でもどこだろう?

「アンナ! 後ろだ!」

「後ろ?」

 リッツが大剣を振りかざしながら怒鳴った。アンナは横にあった荷物を掴み、反射的に矢筒から土で焼いた矢を取り出して地面に突き立てた。

「転んで!!」

 土の矢は、土の精霊の力を借りて敵を転ばすものだ。アンナの頭の中では、大毒蛇はもんどうりうって転がったはずだったが、現実は違った。

 大毒蛇はそんなものものともせずに、フランツとアンナのところに迫ってきていた。

 そういえばこの矢は、土の上に立っている(ヽヽヽヽヽ)ものにしか効かない。

「馬鹿! 足がないのに転ぶか<」

 リッツの言葉に血の気が引いた。そういえばそうだった。

 アンナが次の手を考えようとした時、目の前の木々がもの凄い音を立てて倒された。

 息を呑んだ次の瞬間、五メートルはある大毒蛇がアンナの目の前に立ちふさがった。

「……!」

 ヘビの紺色の舌が、別の生き物のようにヘビの口の中で踊った。それは本当に一瞬なのだが、その時間がアンナにはやけにゆっくりと感じられた。

「アンナ、フランツ! よけろ!」

 リッツのひとことで我に返った。我に返ったが、足がガクガクと震えてしまって動かない。必死で足を動かそうとしたアンナの視界に、座り込んだまま動けずにいるフランツが入った。

 必死に自分を奮い立たせて大毒蛇を睨み付ける。

 フランツが動けないから、逃げたら駄目だ。自分の方が年上なんだ、何とかしなくちゃ。

 巨大な毒蛇が、音を立てて飛んだ。

 咄嗟にアンナはフランツの前に立っていた。疲れと恐怖で動けないフランツを、両手で庇う。

「来ちゃだめぇぇぇー!!」

 叫んだアンナに、毒蛇は勿論容赦をしなかった。標的をまっすぐアンナに定める。

「アンナ!!」

 フランツの悲鳴と同時に、アンナは片腕全部が焼け付くような激しい痛みに襲われた。毒蛇の牙が腕に突き立っている。毒蛇の冷たい目が、無表情にアンナを見つめた。次の瞬間には、体ごと蛇に絡め取られる。

「ううっ……」

 痛みを堪えると、唇から苦痛の声が漏れた。怖くて叫んでしまいそうだけれど、必死で我慢する。

 叫んだら、もう本当に食べられてしまいそうで嫌だ。

「畜生……!」

 フランツの呻き声が聞こえたけれど、そちらを見遣る余裕など無い。

「……ギギギギギギ……」

 蛇が、新たな敵であるリッツの方に、威嚇音を出しながら振り向いた。とたんにアンナの腕は毒牙から解放されていた。アンナの腕から離れた毒蛇の鋭い牙からは、赤黒い血が滴っている。

 リッツに気をとられたのか、アンナに絡みついている呪縛が一瞬だが、ほんの微かに弱まった。アンナは必死で自ら毒蛇から逃れ、後ずさった。

 未だに続く焼け付く痛みによろけそうになる。

「リッツ、噛まれた!」

 自分の目の前を駆け抜けるリッツの背中に向かって、とりあえず現状を報告してみた。だが、リッツの耳にはいまいち聞こえていないようだった。

 リッツは走りながら、流れるような動作で鞘を投げ捨てる。音を立てて転がった鞘に、一瞬毒蛇の気がそれた。

 その瞬間を見逃すリッツではなかった。

 大きすぎる大毒蛇が、標的であるリッツを捉え直したが、遅すぎた。この突然現れた敵の素早さに、毒蛇は付いていくことが出来ない。

「このやろぉぉぉぉぉ!」

 必死で足を踏みしめるアンナの前で、リッツが、一刀のもとに毒蛇を両断した。首と胴体が別れ別れになって飛び、鮮血がほとばしる。

 首と胴体が切り離されても、毒蛇は長い尾でリッツをはじき飛ばそうとする。それを横に飛んでよけたリッツは、とどめに毒蛇の頭を後ろから縦まっぷたつに切り裂いた。

 こういう風に剣を使うリッツを初めて見たけど、すごいなと、痛む傷を押さえながらアンナは思った。

あんなに大きな蛇を一刀で斬り伏せるなんて、並の力じゃない。

 やっぱりリッツって、すごい人なんだ……。

 毒蛇は、断末魔の叫びをあげながら、もがき苦しんでいる。

「離れるんだ! 早く!」

 そうリッツに言われたけれど、アンナは足が動きそうにない。フランツも同様だ。そんな二人に気が付いたのか、リッツはフランツとアンナを両脇に抱えて道の真ん中までじりじりと後退した。

 緊迫した雰囲気の中で、毒蛇は、徐々に動きを止め、そのうち動かなくなった。最後まで動いていた尾が、ぱたりと地面に落ちる。それを見届けてから、リッツはようやく二人を地面に降ろした。でも立っていることが出来ず、アンナはその場にずるずると座り込んだ。

 ホッと息を吐き出し、リッツが振り返った。

「もう大丈夫だ」

 未だ硬直したままのフランツは、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

 アンナもようやく一息付く。

 驚くことに、腕の痛みが消えていた。というよりも腕の感触自体が無くなってきた。痺れていて、何も感じられない。

 だけどその代わりに、体中がやけにだるい。重たいというか、痺れている感じがするというのか、こんな感覚は初めてで、よく分からない。

 座り込むと、今までの四日間が安全だったことの方が奇跡だったということに、初めて気がついた。

ここは村じゃなくて、外なのだという事実を、改めて思い知る。

 呆然としていたが、自分の腕が持ち上げられた感触で我に返った。目の前にはしゃがみ込んだリッツがいて、アンナの腕を取り、傷口を見ていたのだ。アンナも恐る恐る感覚がなくなった腕に目をやる。毒蛇に噛まれた傷口は、すでに紫色に変色してきている。

 かなりひどい状態なのか、リッツの顔が曇った。いつも自信満々なリッツがこんな顔をするのだから、危険な状態なのかも知れない。

「大丈夫か?」

 優しくリッツがそう尋ねた。心配かけないように明るく答えようと思ったけど唇が動かない。それどころか全身を寒気が襲ってきた。

 アンナは正直に短く、こう答えることしかできなかった。

「……死にそう……」

 一瞬虚を突かれたように黙ったリッツが、少し目をそらして呟く。

「……だろうな」

 どうやらリッツから見ると、自分は相当ひどい状態にあるようだ。

「やばいな……」

 独り言のように、だけど重々しくリッツがそういった。リッツがそういうなら、相当に大変なことになるつつあるみたいだ。リッツは、先ほどの所に座り込んだまま呆然としているフランツを呼んだ。

「フランツ! アンナの腕、しっかり掴んでろ」

 とっさにいわれたことの意味を掴みきれ無かったのかフランツはリッツを惚けたように見上げた。動揺したままのフランツにリッツがゆっくりと言い直す。

「噛まれたところの上の方を、毒が回らないようにしっかり掴むんだ」

「わかった……」

 真っ青な顔をしているフランツが、震える手でアンナの腕を掴んだ。なんだか自分の顔色が見えない分、フランツの方が顔色が悪い気がする。

 フランツに腕を掴ませると、リッツは置いてあった荷物の方に駆けだしていった。死んだ蛇の横をすり抜け、荷物をひっつかみ二人の元に戻る。荷物を開くと布を一枚取りだし、アンナの傷口の少し上を縛った。

 それから、血が流れ出す傷口を、水筒の水をかけて洗い流し、新しそうな布をあてた。そこを手を離してぼんやりしているフランツに、しっかりと押さえさせる。すごく手際がいい。手慣れているようだ。

 それからリッツは、再び中身を捜索する作業に戻った。

「薬草、薬草……」

 荷物を引っかき回しながら、リッツが独り言のように呟いている。

 だが次の瞬間に、何かに気がついたのかぴたりと探す手を止めた。リッツの手がゆっくりと鞄から引き抜かれる。

「薬草なんて、ねえじゃん……」

 リッツの言葉が絶望的に聞こえた。アンナの腕を押さえてくれていたフランツが青ざめる。

「どうして……?」

 恐る恐る尋ねるフランツに、リッツは引きつった笑いを浮かべて呟いた。

「……俺、怪我しねえから」

 確かにあれだけ強ければ、怪我なんてしないだろう。

「アンナと僕もいるのに?」

「だよな。ここ数十年薬草なんて持ったことがねえから、思いつきもしなかったな……」

「忘れちゃ駄目だろ! リッツ、プロなんだろ!」

「悪い……」

 二人のやり取りをアンナはぼんやりと見ていた。きっとリッツはとても強いし、毒蛇だなんて予想の範囲外だったに違いない。

 ふとアントンの顔が目の前にちらついた。こんなに早く会えなくなりそうだなんて、悲しすぎる。ともすれば遠のきそうな意識の中で、リッツが決然とこう言い切るのが聞こえた。

「アンナを背負ってトゥシルまで走る」

「走る?」

 フランツが聞き返している間にも、リッツは自分の荷物を地面に置いた。それから、なんとか座っているアンナに背を向けて膝を突いた。

「乗れるか?」

「……うん」

 そう返事をしたものの、上手くいかずに結局リッツに手伝って貰ってその背中に乗せられた。

「トゥシルまで、どのくらい?」

 フランツの問いに、リッツは堅い口調のまま答える。

「俺の足で一時間ってとこだ。途中、アンナが自分に治癒魔法をかければ何とか持つ計算だ」

「大丈夫なのかい?」

「……多分な。フランツ、これからは休憩なしでトゥシルまでいけ。荷物は引きずっていいからな」

「でも、毒蛇は?」

「あいつらの縄張りは広い。ここで一匹見つけたら、半径五キロ以内に毒蛇はいない。夜が更ける前なら街道にもう危険はない」

「夜更けまでに着ける?」

「多分お前の足でも三時間もあれば着く。悪いけど荷物頼む」

「ああ」

 二人の会話が子守歌みたいに、意味を掴めないまま流れていく。寒くて仕方ないから、リッツの背中に体を縮めてしがみついた。リッツの背中は温かい。

「掴まってろ。落ちるなよ」

 優しいけど、緊張感に満ちた堅い口調でリッツがそういった。小さく頷いてから、両腕をリッツの首に回した。

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