リッツ・アルスターの場合<1>
全15巻の異世界ファンタジーの始まりです。
でも、あちこち修正していくので全文掲載にはきっと時間がかかりますが、楽しんでいただけると嬉しいです。
Ⅰ
「帰って来ちゃったなぁ……」
リッツ・アルスターは足下に、荷物と小柄な人間ひとり分ぐらいはある大ぶりの大剣を降ろすと、ため息と懐かしさの入り交じった呟きを漏らした。目の前に広がるのは昼なお暗く、先を見通すことなど出来ない大森林だ。振り返ってみても草原が広がるばかりで町はおろか人の気配さえない。当然といえば当然だろう。この大森林に足を踏み入れる人間(ヽヽ)など滅多にいないのだ。
ユリスラ王国北東部に位置するこの大森林は、シーデナの森という名称がある。だがその正式名称でこの森を呼ぶ者は少ない。もう一つの通り名の方が遙かに有名なのだ。
シーデナの森……通称『精霊族の迷い森』
人間の十倍以上の寿命を持ち、生まれながらにして精霊と対話が出来る美しい精霊族のみがその地に住むことを許されている。もっとも精霊族という呼び名は人間が彼ら一族の美しい外見に対して勝手に付けたもので、正式には『光の一族』という。大陸に住む、六つの亜人種の内の一人種である。
彼ら以外の人種がこの森に迷い込んでしまった場合、生きて帰れる保証はない。命からがら逃れた人間はその森の恐ろしさを震えながら語り、それ故この森は世間に恐怖の森として知られることとなった。
「おしっ、いくか」
しばらく考え込んでいたが、このまま立っていても埒があかない。意を決して長身に再び荷を担ぎ上げ、曰く付きのその森の中へと、散歩でもするかのような足取りで入っていった。
「かわんねぇなぁ、この森は」
足取りと軽い口調とは裏腹に、軽いこの荷物が、ずっしり重い気がする。気が重いというより気が進まないのだ。
この森に入ってきたのだから彼が人間であるはずがない。だがリッツの容姿は一般の人々に知られている精霊族の姿とはかけ離れている。髪は無造作に切っていて真っ黒。一族特有のしなやかさやか細さとは無縁の体型は、細身ながら筋肉の付いた均整のとれた長身で、まさに戦うための鋼の肉体といえるだろう。
普通の人が見たら、人間としか思えない彼なのだが黒髪に隠された耳の形は特徴的だ。人間のものよりも少し大きめで、先が尖っている。だが神秘的な蝶のようだといわれる、光の一族ほどに特徴的な耳をしているわけではないから、人間の中に紛れていても、どうとでもいいわけが出来る。実際、今までは『生まれた時からちょっと変わってたんだよな』と適当に誤魔化している。
「もう四十年も留守にしちゃったなぁ」
見た目は二十代も半ばなのに、そんな言葉を呟きながら森の奥深くに歩を進めた。
時はユリスラ王国暦一五七二年、秋。まだ夏の気配が色濃く残る季節だ。
だが、ここシーデナの森は高原地帯だし、木々に閉ざされているからかなり涼しい。まるで季節が先に回っているようだ。時折さわさわとざわめく木々の切れ間から降りてくる木漏れ日が柔らかく煌めきながら森の中を踊っている。
久しぶりにここを歩いていると、否が応でも家を飛び出した日のことを思い出す。思い出すとあっさりと当時の自分に心が戻っていきそうになってしまう。四十年という月日の中で生き方も価値観も、総てが大きく変わってしまったというのに、この森は時が流れていないかのごとく、何一つ変わっていない。
彼にとって長い時間であっても、この森の大樹達には瞬きするほどの時間でしかないのかもしれない。長寿の光の一族でも千年生きるのがやっとなのに、この森はそれ以上の寿命をもっているのだから。
森の優しくしっとりとした空気は優しくリッツを包み込んでいる。きっと精霊の声が聞こえる人々の耳には、その木々が一斉に『お帰りなさい』『何処に行っていたの?』と言っているのが聞こえるだろう。だが一族の者なら誰でも聞くことが出来る精霊の声を、リッツ自身はその特殊な生まれ故に聞くことが出来ない。そのことに不自由を感じたことはないが、残念に思うこともある。
森の感触を懐かしむようにのんびり歩くと、リッツは大樹の多いこの森に中でも、ひときわ大きな木の前に立った。見上げると広がった枝が天を覆い尽くすほどの大樹だ。辺りを見渡してこの木に間違いないことを確認すると、大樹にそっと触れた。
暖かなはずの木の感触とは違うひんやりと冷たい空気が体を包み込む。すると今まで太い幹だったところが、ゆっくりと解けるように姿を変え、重厚で巨大な木製両開きの扉が現れた。
手をかけると、いかにも重たそうなその扉は、抵抗もなくすんなりと開き、帰ってきたリッツを受け入れた。森で迷うことなく無事に戻って来られたことに安堵しつつ扉を通り抜けると、全身が眩しい光に包まれた。
「懐かしいなぁ……」
光に目が慣れてくると、そこには今までいた森とは違う光景が広がっている。木々が少なく広場のように開けたその場所には太陽の光がさんさんと降り注ぎ、中心辺りに青く輝く湖も見える。
永遠に続くと思われた暗い大森林の一部には、光の一族による目くらましが掛けられていて、入り口が分かる者だけが、この森の真実の姿を目にすることが出来るのだ。
今リッツが立っている広場は、光の一族の村のいわば入口のようなものだ。本当の村の集落に辿り着くまでにはまだまだ時間がかかる。だがこの広場だけでも、絵のように美しい。木々の緑は、目にいたいほど鮮やかで、湖は水晶のように澄み切っている。深さのためか水は深くなればなるほど、美しいエメラルド色に姿を変える。
入り口の美しさを見れば、実際の光の一族の集落がどれほどものか想像がつくだろう。
ここは外部に近いため、光の一族の姿は本来ここにはないはずだが、何事にも例外はある。この最も外部に近い湖の湖畔には、意外にも小さな家がちょこんと建っているのだ。住んでいるのは当然、光の一族である。
「ついに帰って来ちまったなぁ……」
頭を掻きながらリッツは呟いた。この取り残されたような家がリッツの実家だ。リッツは正真正銘、もう百五十年も生きている光の一族なのである。
だが懐かしい気持ちは、家に近づくにつれて徐々に重くなってきた。彼が四十年前にこの森を出ていった理由は家出である。原因は、父親との大げんか。しかも何とも言えぬくだらない喧嘩だった。だがくだらなければくだらないほど、根に持つ父親なのだ。
勿論リッツからすれば、家出の原因はそれだけではない。そのことはきっかけに過ぎないのだ。その頃はすでに百十歳。光の一族で百歳といえば成人だし、いつまでも親と共に暮らしているのもどうかと考えていた。それにリッツはシーデナでは特殊すぎる立場だったから、一族には爪弾きにされていたのである。
だから森にしがみついて生きるよりも、自分と容姿が近い人間の世界で暮らしてみた方がいいのではないかと薄々感じてきていた。
自分を異端者として蔑む閉鎖的すぎる森、父親の手伝いしかやることのない空虚な自分。ここを出て広い世界を歩いてみれば、何か見つかるのではないか、空っぽの自分を満たしてくれる何かがあるのではないかと、一人森の木の上で考えにくれていた時期でもあった。あまりにも自分が空虚で、森にいればいるほど、自分という生き物が小さく静かに死んでいくような孤独感に苛まれてしまうのだ。
でも森を飛び出るきっかけを中々掴めないでいた。森も外の世界も変わらず、自分の居場所なんて無いのではないかと思うと、自分から何かを求めようという意欲がわかなかった。
孤独に膝を抱えつつも、家族といれば気が紛れた。このままゆるりと死んでいくこともあるのではないかと、半ば生きることを放棄していたのである。
そんな時にその喧嘩は起きたのだ。発端はなんと母の作ったリンゴのタルトの最後の一切れを、うっかりリッツが食べてしまったことだったのである。
深刻に、真剣に自分の存在意義に対して悩んでいたというのに、アップルパイだ。もともと父親と言うよりも、自分勝手な兄貴というような存在である父親とのやりとりは、いつもけんか腰だった。
アップルパイの時も売り言葉に買い言葉で『そもそもお前がいなければ、僕はアップルパイを一人で食べられたんだ! いい年してラブラブ夫婦の間に挟まってるんじゃないぞ!』と言われて『じゃあ出て行ってやる!』となったのである。
そんなきっかけで森を飛び出すこととなったのだが、リッツのその後は波瀾万丈だった。
いつの間にやら国家の内戦のただ中に身を置き、様々な人々と出会い、沢山の人々と別れてきた。背中に背負っている大剣は、伊達ではないのである。
そんな風に外で生活していた時は、父親とアップルパイを思い出すことなんて全くなかった。そんな風にのんびり考えることすらなかったのだ。なのにこうして思い出すと今更ながら馬鹿らしい。父親は容姿こそ人間が思い描く精霊族そのものだ。長くはないが絹糸の様に美しい金の髪に、羽を広げた蝶の片羽といわれる特徴的な形の綺麗な耳をしている。細身の長身で顔立ちも美形といって間違いなく、印象的な透き通る緑の瞳をしている。
姿形だけならば、まごう事なき光の一族の父だが、性格が極端に変わっている。光の一族と言えば、物静かでその美しい耳で精霊との対話を楽しみ、自然の声を聞くといわれているのだが、父親の耳は精霊の声も聞くが、それ以上に楽しい話や興味のある話を人から聞くためにある。
そして、真理や摂理を見つめていると言われるその緑の瞳は、愛する妻と愛する食物を眺めるためと、息子から食べ物を奪うためにもっぱら使われているのだ。
つまり彼は、性格だけ見れば人間そのものなのである。性格に光の一族らしさはひとかけらもない。
勿論これには理由がある。それは小さい頃うっかり森から出て帰れなくなり、人間に育てられた為なのだ。父親の話によると、貧しい大家族に混じって育ったという。
そこで彼が学んだことは、『弱肉強食』と『早いもん勝ち』という、おおよそ光の一族には無関係なことだったそうだ。そのためか父親は食べ物に異常ともいえる執着心を持っている。容姿がやたらと端麗なくせに、口から出る言葉は『食い物の恨みは恐ろしいぞ』や『色気より食い気だよ、リッツ』だったりするのだから、始末に負えない。
父親の名前はカールといい、光の一族と人間の交渉役として働いている。性格がそんな風に変わっているから、人間社会から運良く舞い戻ってきた後も、生粋の光の一族と同じ集落で暮らす事が出来なかった。彼もまた光の一族から見れば、異端の存在と化していたのである。
だがカールの見た目は生粋の光の一族と変わらないし、精霊使いでもあるから、光の一族から蔑まれることはなく、ただ異端者として一族から避けられている状態だ。一族から離れ、人間とか変わり続けて暮らしている異端者の彼を、光の一族は人間と彼らの交渉役としての地位を与え、この集落からかなり離れた湖畔に暮らすことを許している。
そんなカールだったのだが、彼は光の一族の禁をもう一つ破っている。それは闇の一族の女性を妻として迎えたことだ。光の一族にとって、闇の一族は忌避すべき存在である。もっとも大山脈を挟んで大陸の北と南に別れているこの種族が出会うことなど、今まではなかったし、これからもないはずだった。でも何の偶然か、彼の妻は凍えて死にそうになりながらも大山脈を越えて亡命してきた女性なのである。
彼らの出会いは凍死しかかったシエラが、カールが関わる小さな集落に迷い込んだ事から始まる。闇の一族が現れたということでパニックに陥った集落に駆けつけたカールがシエラを保護したのである。
弱り切っていたシエラを見つけたカールは、とるものもとりあえず森のはずれのこの家に連れ帰り、色々世話を焼いた。
そしてそれが更にカールと一族を隔てることとなっていった。闇の一族はこの森に住む光の一族と異なり、漆黒の髪にアーモンドのように切れ長なダークブラウンの瞳、褐色の肌に尖った耳をしている。光の一族はみな闇の一族を闇へ落ちた一族と忌み嫌っている。確かに彼らは独特な信仰を持ち、暗殺や謀略を生業に生きている一族なのだが、誰もその目的や理由を知らない謎の一族である。シーデナの光の一族は、彼女の種族を『闇に落ちた汚らわしい種族である』と公言してはばからない。
当然、カールが闇の一族を保護していることは、光の一族の知るところなり、さんざん嫌がらせをされたそうなのだが、カールは相手にもしなかった。それどころか人間との交渉をやめると脅迫までしたのだと言うから恐れ入る。その頃はもう、光の一族と人間との交易が通常化しており、人間側の物資を買い付けられなければ一族の生活に支障が出るようになっていたのだそうだ。
その女性がリッツの母、シエラであり、問題となったリンゴのタルトを焼いた張本人だ。シエラは幼い頃にリッツを膝に乗せて幾度も『お父さんの勝ちだったのよ』と話してくれたものだった。だが当時から子供のように息子と対決してくる父親に、そんな勇姿があることを想像も出来なかったのも事実である。
リッツの黒髪とダークブラウンの瞳は母譲りだ。だが肌の色は父の方が多く出たのか、もともと白かったそうだが、子供の頃から家に外にいることが多かったせいか小麦色にやけている。一見すると、東国の一族のように見えるのだ。
そうした大騒動の末、カールの妻になったシエラだったが、亡命してきた理由がなかなか変わっていた。かなり高位の精霊使いであり、カールと夫婦喧嘩をして精霊を繰り出しても決して負けたことのないシエラの性格は闇の一族にはあるまじきものだった。よく言えばおっとりとして温厚、悪く言えば天然ボケだったのだ。
この性格では当然闇の一族で生きていけなかったのだろう。実の息子であるリッツでも、シエラに陰謀や策略が図れるわけがないと核心を持って言い切れる。
つまりは父も母も、どちらの一族から見ても異端の存在であったのだ。そんな変わり者の両親に育てられた上、容姿も精霊族からかけ離れたリッツが、この森で暮らすのは並大抵のことではない。
リッツ自身も物心つくよりも前に、自分が異端者であり、一族において生まれながらの罪人であることを理解した。一族から向けられて憎悪と悪意はいつも隣にあったし、そのために怪我を負うことも多かった。光の一族にとって、混血児は認められてない存在であり、しかもそれが忌避している闇の一族との混血であればなおさら、生存すら認めることが出来ない存在なのだ。
そもそもリッツは光の一族と闇の一族という、両親とも高位の精霊使いである一族から生まれたというのに、精霊を使うことが出来ないし、見ることも声を聞くことも出来ない。その変わりに、子供の頃から力が強く、やせっぽちのくせに喧嘩に負けたことがなかった。人間の子供ととっくみあいの喧嘩になっても、一対一なら負けたことなど無い。
自分は光の一族より、人間の方に近い。そう感じてからは光の一族はリッツに取って遙かに遠い存在となっていった。人間と暮らした方が遙かに暮らしやすいのだ。
人間は、色々な容姿、才能があり様々な考え方を持っている。一族の者たちのように画一化してはいなかった。四十年という時を、外部の人間と共に過ごす中で、仲間を得たり、親友と出会ったり、想い人とも出会ったり。彼にとって人間こそが仲間となった。
ただ光の一族と違って、人間は少々寿命が短すぎる。
それがリッツに取っては辛い。
考えながら歩いていると、気が付いたら湖の畔に来ていた。あまりの懐かしさと美しさに自然と引き寄せられたのかもしれない。
おもむろにしゃがみ込むと湖の水を両手ですくって顔を洗う。水はかなり冷たくて、彼の重い足取りを一気に軽くしてくれるくらい清冽だった。
体の疲れは何となく取れたものの、気持ちはなかなか晴れるものじゃない。改めてこの湖畔に立つと、ここへ戻ってきた理由が思い出されるのだ。それは彼にとって辛いものだった。
もうすぐ家だというのに、その場所から離れがたいような気分になり、リッツはどっかりと腰をおろすと、背中の大剣を横に転がして仰向けに寝転がった。木々が風で揺れるたびに、目に染みるほど木漏れ日が眩しい。
「帰ってきたんだなぁ……」
森に入る前のため息混じりの呟きとは違う、感慨深さが胸に溢れてきて、思わずそう呟く。何だかんだと嫌なことを思い出したりしても、ここはリッツの生まれ故郷なのだ。頭上を飛ぶ美しい瑠璃色の鳥や、木々のざわめきを全身で感じながら、そっと目を閉じる。
森の美しさを視界から閉め出すと、とたんに外の世界で歩き回っていた四十年のことが、まるで目の前にあるかのように次々に浮かんできた。
彼の寿命からしてみれば、瞬きするほど短い四十年かもしれないが、とてつもなく沢山の経験を積んだ意味のある四十年だったと思う。この月日の中には、人の生と死、人間の争いと悲惨な戦場、信頼しあう友人との出会いなど数々の出来事が詰め込まれていた。
時に戦場へ身を置き、時には冒険者として世界を旅して回り、そして傭兵としてその身を削った。
そんな状況の中でも、彼が探し続けた命題はまだ求められていない。
彼の命題……それは長すぎる寿命。
光の一族なのに彼らの特性を持たず、一族としての長い寿命を持つ自分は何のために生まれて、生きているのだろう。それは彼の心の中にいつの間にか芽生えた永遠の命題だった。
ユリスラ王国で数年間過ごし、以後は傭兵としていくつもの国を渡り歩き、戦場に飽きると各国を放浪する。時間だけが虚しく過ぎ、答えは何も見つからない。
そんなある日のことだった。ふと思い立ち、いつものように戦場を離れて、昔世話になった恩師の墓参りにやってきた彼は、不思議な体験をしたのである。
穏やかな陽ざしに照らされながらもひっそりと佇むその墓は、リッツの目から見ると幻であるかのようにただ静かだった。
出会った時は、手が届かないほど偉大な存在であったその男は、やがて老い静かに戦場を去って眠りについた。男はリッツにとって師であり、先輩でもあった。彼によってリッツは傭兵の世界に入ったのである。
普通の人間からしてみれば、もう二十年も前のこと、すでに昔話だ。だがリッツは今も、男と出会った時とほとんど姿を変えることなく、古びてしまった墓の前にいた。自分にとっての現在が、どんどんと過去へ流れていってしまうかのような奇妙な空虚さ、世界は彼を残して全て流れていってしまうのか……。
足下が掬われたような虚脱感を感じた。
そんな時、彼の墓の前で何かが光った。来た時は何もなかったはずなのに、それは確かにそこに存在した。
リッツにはそれが彼を待っていたのだと、何故だが分かった。無意識に手に取ると、小さなクリスタルのような丸い珠だ。宝石だろうか? それともなにかの作り物なのか……。
その時、言葉が聞こえたような気がした。
『……答えを探せ。お前の答えを……』
それは確かにそう言っていた。
答え……。どこにそれはあるのか……。
そう思った時、ふと人間に育てられた父を思いだした。もしかしたら父も同じように呆然と立ちつくしていたことがあるかもしれない。
答えは出ないだろう、だがきっかけは掴めるかもしれない。リッツはその不思議な珠をそっとポケットにしまうと、故郷に向かって歩き始めていた。戦場を離れれば、彼はただの放浪者だ。特に予定や目的があるわけでもないから、のんびりとした旅だった。
それから彼は数ヶ月かけてここへ戻ってきたのだ。
だが帰ってきたものの、話してみたい父親とは、食べ物を巡るくだらない争いの真っ最中だった。父親も光の一族だ。寿命が長い彼は四十年くらいじゃ忘れてはくれないだろう。それを考えると気が滅入る。と言うよりはげんなりしてしまうといったところだろうか。
あの状況では、真剣な話は出来そうにない。当時の状況をすっかり忘れて帰ってきた自分のうかつさを呪いつつ、ため息をつく。だからといって、ここまで来て帰らないわけにもいくまい。
精霊使いである両親が、リッツの帰宅に気がついていないわけがないのだ。きっと自宅で手ぐすね引いて待ち構えているに違いない。なにしろリッツは夫婦のたった一人の子なのだから。
「帰りにくいよなぁ……」
呟きと共に寝返りを打った彼の目の端に、ふっと金色の光が掠めた。
誰かいる……!
とっさに体を起こし、傍らの剣に手をかけたが、すぐにその手を放した。リッツが子供だった昔ならいざ知らず、現在のこの湖畔には彼に危害を加えようとするものなどいないはずだ。
いるとしたら、それはたった一人だけ。
「リッツ! 喰らえ!」
叫び声にとっさに咄嗟に横に転がって逃げようとしたが、相手の方が一瞬素早かった。思い切り後頭部に一撃を食らって、目の前に白い星が飛び、リッツは前のめりに倒れた。その人物は上空、木の上から彼の後頭部にめがけて蹴りつけてきたのだ。
「いって~!」
「ふはははは、思い知れ、我が恨み!」
ようやく体を起こしたリッツの目に飛び込んできたのは、ニヤニヤと不適な笑みを浮かべながら、何故か逆さまに木からぶら下がっている、金髪の男だった。
金髪の美青年が木にぶら下がって笑う……。何とも不気味な光景だが、リッツには見慣れた光景だった。
「親父、何やってんだよ」
「何って見れば分かるだろう、馬鹿息子」
不気味な逆さ吊り男……リッツの実の父カール・アルスターは、不意打ちできたことが非常に満足らしく、ぶら下がったまま笑い続けている。顔が紅潮しているところからすると、長いことぶら下がっていたようだ。
根性なのか、それともただの馬鹿なのか……。
「いいから降りてこいよ親父」
「嫌だね」
「あのなぁ……」
腹が立つよりも呆れてきた。あんなに思い詰めて帰ってきた自分が馬鹿みたいだ。いっそのことこのまま森から出て行ってやろうかとも思ったが、こんな事でまた旅に出るのもばかばかしい。
「せっかく帰ってきたのに何だよ」
至近距離から睨みをきかせてやったが、カールには全く通じないらしい。
「せっかく帰ってきたから、こうして出迎えたんじゃないか。そんな親の愛も分からないのか、困ったちゃんだな」
「困ったちゃんって何だよ!」
「困ったちゃんは君だろう? リッツ帰ってきたら何て言うんだっけ?」
思いもかけない反撃に、リッツは一瞬怯んだ。だがカールはまるで小さな子供でも見るかのようにリッツに尋ねる。
「お家に帰ってきたら、なんて挨拶するのかなぁ?」
カールが求めていることを理解したリッツは、久々に口にするその言葉に、一瞬気恥ずかしくなった。だが父親はリッツが言うまで降りてきそうにない。
「……ただいま……」
少々そっぽを向き気味にポツリと呟く。親に向かってそう言ったのは四十年ぶりだ。リッツは大きく息をついた。そうだ、自分は本当にここへ帰ってきたのだと、そう思った。
リッツの一言で満足したらしく、カールは物音ひとつ立てずにふわりと木の枝から着地した。
「お帰り……僕のアップルパイを食べたリッツ」
しつこい男だ。そんな父親から目をそらすように、ふと家の方を見てみると、入口には流れるように美しい黒髪に、褐色の肌の女性が立ってこちらを見ている。リッツの母シエラだ。あの様子だと精霊を使って事の成り行きを、一語一句までほほえましく一部始終見ていたに違いない。
見ていたんなら親父を止めて欲しいと、心底思う。
たぶんシエラは、森に入ってからのリッツの様子を、全ての精霊を通して見聞きし、カールに木に登るタイミングを教えていたに違いない。
「リッツ、お帰りなさい」
静かな声が耳元に届く。彼女と共にある風の精霊が彼女の声をリッツの耳元に届けたのだろう。声は届いたが、残念ながらリッツは母の精霊すらも目にすることが出来ない。
「ただいま」
穏やかなこの空気を味わうと、本当に心から言葉がでた。リッツの胸に帰ってきたという安心感のような、懐かしさのような感情がふわりと流れてきた。
「ハニー、リッツだよ!」
得意満面そうな父親の一言でかき消されはしたが。
大股で自信満々に歩く父の後ろについて家まで歩きながら、ふと、この父親に自分と同じように時間の流れに対する苦悩があるのだろうかと考えた。もしあるのなら、カールはそれを全て一人の胸に納めてしまい、誰にもその過去を感じさせずにいるのだろうか。
それともただ単に物忘れが激しいのだろうか? この父親ならありそうだ。悩むところである。
思わず口をついてため息が漏れる。それが聞こえたのか、家に入る直前に、カールは振り返りもせず独り言のようにぽつりと漏らした。
「人間っていうのは、儚いもんだろ?」
「え、何だよ?」
急な問いかけにリッツは顔を上げた。
「おい、親父?」
「たっだいま~ハニー!」
リッツの問いかけには答えず、カールは立っていたシエラの頬に軽くキスすると、明るく家の中に入っていってしまった。扉の中からシエラの声が、聞こえたが、リッツは立ちつくしていた。
『人間っていうのは、儚いもんだろ?』
カールの呟きが胸に痛かった。
Ⅱ
森が夕闇に染まる頃、アルスター家のテーブルの上は、リッツが帰ってくるのを知っていたんじゃないかと思うほど豪華な食事に彩られていた。
というより何人前あるんだよ、というくらい量が積み上げられていた。大皿に山と盛られた芋の煮っ転がし、大鍋にドーンと用意されたコーンスープ、これでもかと盛られたサラダの山、これまた籠に山盛りのパン達。
そして本日のデザートは、リンゴのタルト。
二階の自室に引っ込んで旅装を解き、父親が作った一族では彼ら家族しか持たない風呂に入ってすっきりと降りてきたリッツは、その夕食を見て愕然とした。
「母さん、これ全部喰うの?」
「そうなの、久しぶりに沢山作ったから、お腹が破けるくらいいっぱい食べてね」
母親に無邪気に言われてしまっては、食べるしかない。呆然と椅子に腰掛けると、リッツはため息をついた。そういえばこういう家だったなと、今更思い出しておかしくなってきた。
「ねぇリッツ、頭どうしたの?」
エプロンを外してからリッツの向かいに座ったシエラが唐突に尋ねた。
「頭?」
思わず頭に手をやる。風呂上がりで濡れているだけで何か変なものがついているわけではなさそうだ。
「なぁに、後が一房だけ長くなってるの。ちょっと変わってるわねぇ」
そう言われてリッツは自分の後ろ髪の長い一房を手に取った。
「ああ。これね」
「流行ってるの?」
「違うよ。俺精霊見えないだろ? 母さんにあやかって伸ばしてたら何か見えないかなぁと思ってさ」
一応リッツは、優秀な精霊使いの両親を持つくせに精霊が見えないことを気にしてはいるのだ。だからといって邪魔になる髪を伸ばすつもりはさらさら無く、苦肉の策としてこうして後ろ髪を、一房だけ伸ばしているのである。
適当に切っている髪は硬いが、伸ばしている部分だけはつやつやとして黒い。母譲りの直毛だ。シエラの髪は、今は束ねているがほどくと流れる髪が漆黒に輝いていて真っ直ぐで美しい。だからこうして一房伸ばして見たのだが、そんなことで精霊が見えるわけもない。もう今はその髪が彼のトレードマークになっていて、ご利益の方は諦めている。
「あらあら、それで精霊さんは見えたの?」
ニコニコと尋ねるシエラに、リッツは肩をすくめて見せた。
「うんにゃ、さっぱり」
「あらあら、まぁ。うふふふふ」
いつもの事ながら、シエラは楽しそうにコロコロと笑った。傭兵として闇の一族と戦った経験を持つリッツからしても、やはり母は変わっている。
夕日が沈んで暗くなって来ると、シエラは立ち上がって火のついていないランプをみつめた。
「少し暗いから明かりを付けましょうね」
そういうと手を前に組む。
「炎の精霊さん、我が家の食卓に明かりを少し分けてくださいな」
シエラの声に答えるように、室内が暖かな明かりで満たされる。ただのお願いのように聞こえるが、彼女は炎の精霊を呼び、天井に吊してあった大きなランプに灯を灯させたのだ。彼女は、精霊を操る事を得意としている。カールの使える精霊は限られているが、彼女は大抵の精霊を操ることが出来るのだ。精霊と話す、料理する時に種火を貰う、洗い物をする時に力を借りる、声を離れた人に届ける等々が彼女の得意技である。
竜巻を起こすだの、火の玉をぶっ飛ばす等の荒技は好まないらしく、リッツもカールとのダイナミックな大げんかの時以外は見たことがない。それに大技は二種類の精霊に限られている。もともとシエラは風と土の精霊使いなのだそうだ。ちなみにカールも風使いで、この二人の喧嘩となると、竜巻のぶつかり合いである。
子供の頃からシエラを見て育ったリッツにとって、家事に手軽に精霊を使うシエラの姿は当たり前だったが、四十年家を離れて精霊を操る様々な人々に出会ってから再び見ると、すごい力だと感心せざるを得ない。
外に出てから知ったのだが、大抵の人は自分が契約している精霊一種類を呼び出すのがやっとなのだ。精霊を一体呼び出すのにも、相当な精神力が必要なのである。
だがシエラは別にそれがすごいことだとは思ってもいないらしかった。
「準備万端ね。あとはダーリンが来るだけよ」
シエラがにっこりとリッツに告げると、測ったかのようなタイミングでカールがやってきて、嬉しそうに席に着いた。
「今日はご馳走じゃないかハニー! 嬉しいなぁ~」
食欲旺盛なカールは、目を輝かせて食卓を見つめている。貧しい家庭で育った彼にとって、食べることこそ人生の楽しみなのだから、本当に嫌になる。彼ら一族を精霊族と呼び、美しい幻想を抱く人間が見たらなんというだろう。
「喜んでくれてよかったわ。さあ食べましょう」
シエラもシエラで至って普通に笑っている。漆黒の髪に褐色の肌はどの国でも恐怖の対象となるのに、シエラのこんな顔を見たらきってみな価値観が変わるだろうなと、リッツはしみじみ思った。
「さあ、ご飯にしましょう」
物思いに耽っていたリッツもその一言で思い出したくなかった現実に引き戻された。アルスター家の夕食はいつも壮絶なのである。この家では大皿に料理が盛ってあっても、シエラしか取り皿を使えない。父と子は大皿からの奪い合いになる。
食べ物で生存競争の激しさを学ぶというのがカールの教育方針なのだが、そのせいで子供の頃から苦労してきた。物心ついてからこの食事風景が普通ではないと知った時、驚くと同時に父親の異常食欲に呆れたものだった。
「なんだいリッツ。食べないなら食べちゃうよ」
そう言われて我に返る。おちおちしてたら本当に何も無くなる。最初はそのテンポを忘れてしまい、いまいち乗り切れないリッツだったが、リッツの食べようとする物を片っ端からカールに持って行かれて、ついにヒートアップした。
「何で俺がつまんだのを取るんだ、親父!」
「トロいのがいけないんだよ、リッツ君」
「このやろ~!」
そして、昔と変わらない食物の取り合いが始まる。シエラは取り皿に自分の分を確保して、ほほえましくその光景を見ている。
「本当に仲良しね、リッツとダーリンは©」
「勿論仲良しさ」
「仲良くねぇ!」
こうして彼らの夕食の時間は、騒がしく過ぎていくのである。
ほんの一時間が過ぎて、リンゴのタルトまで食べきった食卓は、急に静けさを取り戻した。今回の最後の一切れは、リッツがカールに快く譲ってやることで決着が付いた形となった。またリンゴのタルトで揉めるのは、嫌だったのだ。そのせいで家に帰れないなんて大人として恥ずかしい。
「作るのは三時間、食べるのはすぐね」
シエラがそういいながら皿を下げると、キッチンへ引っ込んでしまった。この家では皿洗いは彼女と水の精霊達の仕事なのだ。シエラの回りには呼んだわけでもないのに常に精霊がいる。それも一種の特異体質だろう。彼女が闇の一族だったが、ここへ逃れてきた理由のひとつがこれだったそうだ。
彼女は笑って話してくれたのだが、いつも精霊が付いていた御陰で、悪いことをせずに済んだという。つまり策略も謀略も、シエラの精霊からだだ漏れになってしまうのだそうだ。
ぼんやりとそんなことを思い出しつつ、食器を洗う音を聞いていると、何だか外の世界にいたことが夢のように思えてくる。満腹のため血が全部胃袋にいってしまい、考えることが億劫だ。
物思いに耽るリッツは、ふいにカールの視線に気が付いた。そういえばいつもシエラの手伝いをしに席を立つはずなのに、今日は珍しくここにいる。何かを言いたげなその視線は、ただ静かで、リッツは自分の感情を見透かされたような気分になった。
「リッツ、散歩でもしないか?」
やがてカールは何かを吹っ切るかのように、リッツを誘った。勿論リッツに異存はない。黙って頷くと食べ過ぎて重い体で立ち上がった。カールはその間に台所へ行った。台所から明るい声が聞こえてくる。
「ハニー、リッツと散歩してくるからね~。男同士の話だから、精霊使って盗み聞きしちゃ駄目だよ~」
「しませんから行ってらっしゃい。もし話したくなったら私にも話してね」
母の声はリッツの耳にもはっきり聞こえた。シエラにリッツが経験してきた色々な出来事を話せるのはいつのことになるのだろう。今のリッツにはとても気恥ずかしくて出来そうにない。そんなことを考えていたら、いつの間にかカールが隣にいた。
「それじゃ、行くか」
「ああ」
暖かな家の中から一歩外に出ると、澄んだ冷たい風が頬を撫でた。夜の独特の冴え冴えした香りが、鼻腔をくすぐる。足下の草に露が降りていて、冷たくひんやりと靴をぬらした。
月が森を照らしてくれるおかげで、つまずいたり転んだりすることもない。月夜のシーデナの森は、蒼い闇の支配する静寂の世界だった。こんなに静かで人の生活の香りを感じない場所にいるのは、四十年ぶりかもしれない。
この森は、外の世界とは違う別の世界なのだ。外と繋がっているのはカールとシエラ、そしてリッツの記憶だけ。なんて頼りない感覚なのだろう。
お互いに交わす言葉もなく、カールとリッツは並んで歩いた。こうして歩いていると過去に戻ったみたいだ。父親は家を出た時と全く変わっていない。四十年やそこらでは、二人ともほとんど変わることがないのだ。ここで流れている時は、決してリッツを置いては行かない。
しばらく森の中を歩いていくと、急に開けた場所に出る。そこには五、六人が並んで座れるほどの大きな岩があり、ぽっかりと空いた木々の隙間から湖が綺麗に見えた。森の中にいた頃、リッツが一番気に入っていた場所だ。
一族に嫌悪される存在であったリッツは、ここで多くの時間を過ごしていた。次に外の世界に行ったら、何をしよう。街のどこを探検しよう。そんなことを考えながら膝を抱えていることが一番楽しかった。
並んで岩に腰をおろし、お互いから目を背けて黙り、どちらかが口を開くのを待った。月明かりに湖のさざ波が青い光に冴え冴えと輝く。
どれだけの時間が過ぎただろうか、静かに語り出したのはカールだった。
「僕はね、リッツ」
その父親の声があまりにも普段と違い、月明かり照らす水面のように静かだったから、リッツは顔を上げ、父親を見つめた。カールもまた、リッツを見てはいなかった。彼の目は今は、もう過ぎてしまった遠い時代を見つめているようで、不思議なほど澄んでいた。その目の中にある寂しさは今のリッツと同じだろうか。
リッツは父親の次の一言を黙ってまった。
「僕は小さい頃から少し好奇心旺盛な子でね。何でも自分の目で見ないと満足できなかったんだ」
カールが語り出したのは、今までリッツが冗談の中でしか聞いたことのなかった、彼の本当の過去の話だった。