六度目
それからしばらくの間、レッコーは特に騒ぎを起こすでもなく、羊の番や、神殿で共に暮らす孤児達の世話をして暮らしていた。元来、おとなしい少年である。
ところが、一月ほど経った初冬のある日、彼はまたもわめき声を上げながら村へ駈け込んできた。
「魔族だ! 本当に魔族が出た!」
「やれやれ、また病気が始まったな」
またしてもそこへ居合わせた農夫のラートが、うんざりしたという顔をする。
「ラートさん!」
「よう、レッコー。息せき切らして、ご苦労なこったな」
「今度は本当なんだよ! 本当に、魔物の群れが来るんだ!」
「だから、魔物の十や二十、軽く片付けてやるっていうのさ」
「三十頭はいる! すぐに逃げなきゃ駄目だ!」
レッコーは怒鳴りながら、ラートの肩をつかんだ。
「なあ、レッコー――」
「早く逃げなきゃ――」
「しつこい!」
ラートがレッコーを突き飛ばし、レッコーは尻餅をついた。
「憶えとけ、おれだっていつも上機嫌てわけじゃないんだよ」
ラートは吐き捨てるように言うと、そのまま立ち去っていった。
レッコーは起き上がり、辺りにまだ人がいるのを見て取ると、あらんかぎりの声で叫んだ。
「魔族が来る! 本当だ! みんな早く逃げて!」
しかし、村の人々はレッコーに冷ややかな目を向けると、何も言わずに散っていった。
「そんな……」
レッコーはほんのしばらく呆然としていたが、すぐにはっと表情を変えて、神殿に走った。
「魔族が来るぞ! 今度は、今度は本当なんだ!」
レッコーが神殿へ駈け込んで怒鳴ると、奥からアイナとエーデが顔を出した。少し遅れて、カルエレも出てくる。
「あんたね、またそんなこと――」
「言い争ってる暇はないんだ! 今度は、本当なんだよ!」
エーデの言葉を、レッコーがさえぎる。
「そう、それじゃ、みんなで逃げなくちゃね」
アイナが静かに言った。
奥から子ども達が集まってくる。
「みんな、遠くへ出かけるのが嬉しいのかい」
カルエレが訊くと、子ども達はてんでにうなずいた。
「そうかい、それなら、みんなは逃げなさい。わたしは、今日は膝が痛むから、付いていけないよ」そう言うと、カルエレは膝をさすった。「魔族が来るというなら、村のみんなと一緒に死ぬさ」
瞬間、レッコーはうつむき、苦しげな表情で何事か考え込んだ。しかし、すぐに顔を上げ、言った。
「おれが背負っていきます」
「お前……」
カルエレは何か言いかけたが、諦めるように首を振った。
「そうまで言うなら、みんなと一緒に逃げようかね。なに、背負ってもらうことはないよ。なんとか、歩いていくさ」
「今度は本当なのよね」
アイナは、必死の形相のレッコー、それにカルエレとエーデをなだめるように言った。
「いつになく真剣な顔だもの」
「子ども達が心配だから付いていくけどね……」
森の中を歩きながら、エーデがぼやく。
「こんな暗い森、あたしは楽しくもなんともないんだからね」
「そうね、エーデは偉いわ、子ども達の面倒を良く見て」
アイナが話し相手になってやる。
「わたしに言わせれば、エーデもカドルも大して違わないけどねえ」カルエレも口を開く。膝はさほど痛まないらしい。「面倒を見るって、一緒に遊んでるのとは違うのかい?」
「違いますう。カドルはまだまだ頼りにならないから、あたしが他の子と一緒に面倒見てあげてるんですう。ねえ、カドル? あんた、あたしがいなきゃなんにもできないわよね?」
「もちろん。エーデはとっても頼れる、優しいお姉さんだよ」
エーデの次に年かさの少年が、すました顔で答えた。
アイナがにこにこ笑いながら、再び口を開く。「カドルも偉いわね、気遣いができて」
「どういうことよ、それ!」
「シッ、みんな静かに」
レッコーが、押し殺した声で言った。
途端、エーデの表情が険しくなる。
「あんたこそ黙ってなさいよ! 誰のせいで、こんなところで油売ってると思ってんのよ!」
エーデの金切声を無視し、レッコーは懐から、手拭いの両端から紐を伸ばしたようなものを取り出した。そして、足元の小石を拾い、布の部分で包んだ。
「何よ? 投石紐なんか、どうするのよ」
それにも答えず、レッコーはその道具を体の脇で振り回し始めた。
エーデはなおも何か言おうとしたが、藪の中で何かがガサガサいうのを聞き、びくっとして後ずさった。アイナは途惑うような表情をしつつも、子ども達を下がらせ、それを庇うように前に出た。
その瞬間、繁みから緑色の影がふたつ、飛び出してきた。人のような姿をし、二本足で立っているが、人間ではない。
「魔物だ!」
「ギマランだ!」
子ども達が叫んだ。
レッコーが、投石紐から石を放った。石は緑の魔物の片方へ飛び、その頭に直撃し、魔物は倒れた。
レッコーはそのまま、もう一頭の魔物に右手を向け、鋭く呪文を唱えた。と、レッコーの手の平から光の弾丸が飛び、魔物の胸を打った。
アイナは呆然としていたが、レッコーの行動を見てはっと我に返り、少年に倣って呪文を唱え魔力の弾丸を撃った。二発の弾を受けた魔物がよろめく。
レッコーは腰から小剣を抜き、魔物に駆け寄ると、その胸を貫いた。素早く剣を引き抜くと、魔物が倒れる。頭に石つぶてを受けた方の魔物は、すでに死んでいた。
アイナはその時初めて、レッコーが小剣を帯びていたことに気が付いた。もっとも、村から離れたところで過ごす羊番という仕事の性質上、いつも持ってはいるのである。ただ、それを抜いているのをほとんど見たことがなかったために、それが武器だということを忘れていたのだった。
少しの間、誰も何も言わなかった。
「カドル、『ギマラン』なんて、良く知ってたな」
ふと、レッコーが言った。
「前に旅人さんが教えてくれたんだよ。緑色の魔物で、魔法は使えないけど力が強いって……」
答えながら、カドルは恐々と魔物の死骸を見た。全身が短い灰色の体毛に粗く覆われているが、皮膚が暗い緑色で、また頭には体毛がなく、全体として「緑色の魔物」という呼び方がぴったりくる。見開かれた黄色い目が、禍々しい印象を与える。腰の辺りに何か獣の皮を巻き付け、また二頭とも太い棒を握ったまま死んでいた。
「レッコー、これは……」
アイナが、かすれた声を出した。
「どういうことなの?」
「だから、今度は本当に、魔族が来たんだよ」
レッコーが、苦々しげに言った。
意外と多芸なレッコー君。