女神の願い②
卑弥呼を送り出した後も、女神の心は休まらなかった。 いつ魔王が誕生するかもしれないと気が気ではなく、保険として定期的に有望な魂をあちらの世界に送っていたのだ。
……もちろん、全員もれなくチート能力付きで。
そして時は流れ、日本の暦でいう一八九九年。 幕末の英傑、勝海舟を送り出した後――そろそろ卑弥呼の予言を忘れかけていた頃、女神はついにその文豪と出会った。
「それで、なぜ吾輩はここにいるのだ? まだ死ぬには困るのだが……」
立派な髭を蓄えた男は、困惑した様子で辺りを見回している。
「残念ながら、ここは死後の世界。そして、『吾輩は猫である』を作ったあなたに、頼みがあるの。私はこの世界を統括する女神。実は遥か昔、卑弥呼という預言者が、あなたが未来を予言すると言い残していてね」
「……ほう?」
その時、夏目漱石の内心は、驚きで満たされていた。 なぜなら、その「予言をする」という状況が、運命のいたずらか、いま自身の頭の中で構想を練っていた小説の内容と奇妙に合致していたからだ。
(面白い。ならば、吾輩が考えていた筋書きを話してやろうか――)
そう考え、漱石が口を開こうとした、その瞬間だった。
彼の意志とは無関係に、唇が動いた。
「……この後。吾輩、夏目漱石に名前が酷似した者が、あなたの使い魔である『猫』を助け、ここに来るだろう」
(――え?)
漱石の思考が凍り付く。違う。言おうとしていたことは、こんなことではない。だが、口は勝手に言葉を紡ぎ続ける。
「その時、その少年には、特別な能力を与えず、異世界へ送れ。彼こそが、魔王を討ち滅ぼす希望となるだろう」
言い終えた瞬間、漱石の心は、表現しがたい恐怖に支配された。 まるで何者かに思考を乗っ取られ、台本を読まされたような感覚。 だが、それ以上に恐ろしかったのは――その恐怖すらも、瞬時にして凪のように静まり返ったことだった。
まるで、見えざる巨大な手が、彼の感情を強制的に押さえつけたかのように。漱石は、抗う気力すら奪われ、ただ立ち尽くすことしかできなくなった。
一方。
女神は、驚愕していた。
正直なところ、卑弥呼の予言など、ほんの小さな希望程度にしか思っていなかったのだ。だが今、彼女は重大な事実に気が付いた。
(私……自分の使い魔が猫だなんてこと、彼に一言も言っていないわよね?)
運命のいたずらか。時代も場所も地位も異なる、卑弥呼、夏目漱石、そして女神が、「猫」という存在によって奇妙な一本の線で繋がったのだ。
その事実は、女神がこの奇妙な予言を信じるに値する、十分すぎる根拠となった。
「……わかったわ。あなたがそう言うのなら、信じましょう。それでは、あなたには報酬として、チート能力を――」
「いや、私は異世界に行かなくていい」
漱石が、再び口を開いた。 彼の内側で渦巻いていた、「異世界への知的好奇心」は、またしても何者かによって完全に封殺されていた。
「それよりも、魂を再利用して、新しい人間としてこの地球に生まれ変わらせてほしい。まだ、書きたいものがある」
彼は、思ってもいないことを、さも自分の意志であるかのように淡々と告げた。
女神は、人の心を読める能力を持っている。 だが、この時ばかりは、まるで何者かが分厚いカーテンで覆い隠したかのように――夏目漱石が内心では全く別のことを考え、恐怖しているとは、夢にも思わなかった。
「……わかったわ。稀有な魂の持ち主である、あなたの望みだもの。記憶をリフレッシュして、新たな人生を送らせてあげる」
そうして、夏目漱石の本心も、その裏に潜む何者かの介入も知られぬまま。 その奇妙な予言は、女神の心に深く刻まれることとなった。




