③
「きりーつ、れーい。着席ー」
今日の日直の掛け声で朝の会が始まる。凛達二年生はA、B、Cまでの組があり一クラス三十名程だ。凛と港は二―A組で、学年が上がるごとに組換えがあるのだが一年の時から同じクラスである。今、季節は秋。残暑も過ぎて十月になった。凛はこの時期が一番好きだ。少し肌寒いが何をするにもちょうどいい具合の温度だからである。窓際の席から見える秋空がからりと晴れて美しい。凛はチラリと少し斜め上の隣の席に目をやった。空席である。
(今日は休みなのかな……)
「よーし今日は全員揃っているな。委員長!」
担任の宮川が出席を取り終えて、教室一同を教壇からぐるりと見渡した。
「はい」
学級委員長の花巻が真面目に答える。
「真壁は保健室にいるからプリント届けてやってくれ」
「わかりました」
「せんせー! 霜月さんが来てないんですけど」
女子から声が上がった。霜月、と名が挙がっておもわずぴくりと凛の肩が動く。
「霜月は熱っぽいので少し遅れてくるそうだ。多分このあとくるだろ。じゃあ他に何か変わったこと伝えたいこと、各委員会ごとにないか」
特に声は上がらない。
「ほんじゃま、十分後に授業が始まるから用意するように。いつもどおり個人的な話をしたいものは職員室に来いよ。じゃ、終了」
そういって担任の宮川は出席簿と書類をトントンと整えると教室から出ていった。宮川は教鞭をとって二十年以上になるベテランだ。担当は社会。昔は大型バイクをふかしながら学校に乗りつけてきた生徒や、隠れてクスリを吸ったりしていた不良を相手に大立ち回りをしたという、ちょっとした武勇伝がある。荒れた学校では木刀で殴りかかられた事もあるらしく「まさしく骨を折った」と笑いながら話す豪傑だ。授業では勉強内容から大きく外れ、豊富な人生経験を語って皆をわかせる。またその話に嫌みもなかった。宮川は問題のある生徒を抱える事が多かったので多少のことではひるまない。宮川いわく、「本人をどうこうするよりその根っこの方がややこしい」といって生徒の家庭事情などにも気を配っている。おかげで生徒や保護者からも頼りにされ、非常に受けがよかった。というか、宮川を含め凛達の学年はベテランぞろいなのだ。残念ながら安心できる教師に出会えるのは時の運と言っていい。生徒達はそれを一番よくわかっているから、このベテラン勢に出会えたことが嬉しく、自慢でもある。
授業が始まるまでの短い時間に凛は教科書を取り出し用意をする。最初の授業は国語なので担当の教師を待てばよい。その時ガラリと教室の後ろの扉が開いた。
「……おはようございます」
「あ、しもつきん、おはよー! 身体だいじょぶ?」
仲間同士だべっていた女子が挨拶する。
「うん、もう平気」
しもつきん、と呼ばれた少女はこのとおり、と手を振って返して凛の近くの空いている席にやってきた。
(い……いましかない!)
ドキドキとはやる心を抑えて凛は少女に話しかけた。
「し、霜月おはよう!」
「おはよう五島君」
席に座りながら少女が笑顔で答えたところで始業の鐘が鳴った。
コツコツと黒板にチョークで文字が書かれていく音が響く。凛は気づかれない様にチラチラと隣の少女の顔を窺う。
霜月渚。
六月の梅雨ごろ転校してきた少女だ。綺麗な黒髪を長くのばしていて、ちょっとした動作で髪が滝のように流れ落ちる。色白で、頬がかすかに赤い。少し切れ長の二重の瞳が整った目鼻立ちとよく釣りあっていて、はっとする美少女である。転入してきた初日から凛が恋する少女だ。
(夏服もかわいかったけどやっぱこの服だよなあ……)
凛の通う光が丘中学校は男子は他校と大して変わらない黒の学ランだが、女子はセーラー服である。ジャンパースカートやブレザーで溢れかえる他校の制服の中で市内唯一のセーラー服なのだ。黒地に襟は三本の白いラインが入っていてスカーフは白。夏服は白地でスカーフが紺色に変わる。清潔感があり、正統派の制服だとして男子から人気だ。他校の女生徒からも憧れられていて、光が丘がよかったとくやしがる子も多い。制服にはわずかに青みがかる黒地が使われることが多い中、漆黒の生地と白のスカーフの対比が美しく、色白の生徒には一層映える。渚もそんな生徒の一人だった。
女子達の噂話から盗み聞きしたところ、母子家庭であったのが、母親の再婚が決まり新たに引っ越してきたらしい。新学期に転校する予定が諸事情でずれこんだという。性格はおとなしく、現在は文芸部に所属していて同じ部の女子と一緒に行動を共にする事が多い。渚を一目見て「これは競争率高いぞ」と思ったが、意外にも男子の人気はそれほどでもない。大体が「なんとなく近寄りがたい」と言う。港の分析によると、
「本当の美少女って奴は下々には恐れ多い。澄んだ水に魚は住みにくいって事さ」
といい、実際女子からも女子同士の恋愛競争からはずされているらしく、「しもつきんはマジかわいいからなんもいえないわ」とのこと。
「えーではこの有名な牧水の詩を、出席番号六番!」
(給食では好き嫌いなさそうだったよな……)
「え、六番、いないのか? 六番……五島!」
凛はびくっとして慌てて立ち上がった。
「はっ、ハイッ! 何でしょうか!」
「しっかりせんか! 詩を読めと言ってるだろう! なにをぼうっとしている!」
国語担当、岩崎の怒号が飛ぶ。普段は柔和だが、授業になると手厳しいことで知られる。まわりからクスクスと笑い声があがった。隣の渚がそっと、
「この行からよ」
と耳打ちしてくれた。
「あ、ありがとう……え、えと白鳥は哀しからずや空の青……」
渚がニコニコと笑っている。
(うわ……かっこ悪すぎる……!)
凛は渚に失態を見られた恥ずかしさと、やさしく助言をしてもらった嬉しさとで板挟みの気分のまま一時間目を終えた。
すべての授業が終わり、帰りの会を終えて皆それぞれ部活動へと向かう。凛の学校は部活動は必須である。凛は所属している天文部の部室である理科室へ向かうところで港に声をかけられた。
「これ。返すって言った奴」
そういって古びたビデオテープを渡された。
「あとさ、朝言い忘れたんだけど明日空いてる? こづかいに不自由してないなら久々に薫風亭にいこうぜ。また年代物の映画雑誌仕入れたみたいなんだ。アンティークの星座早見表もあったって姉ちゃんが言ってた」
「ほんと!? いいな、見たい。行くよ! ……でも万年金欠の港は平気なのか?」
「姉ちゃんの一日買い物持ちと引き換えに懐があたたかくなったんだ。じゃあ明日駅前の噴水に一時集合な!」
わかったと凛がうなずくと足早に港は廊下を歩いていった。
薫風亭というのは隣町にある古い喫茶店のことだ。元々祖父の雪之助が贔屓にしていた店で、凛と港は度々連れて行ってもらったことがある。赤レンガのレトロな外観で、本来骨董屋だったのだが店主のきまぐれで喫茶店を併設する事になった。店には年代物の雑誌やレコードが自由に見られるようになっており、小物も飾られている。これが目当ての客がほとんどだ。元々売り物なので買うことも可能である。ただしアンティーク物なので値段は驚くほど高い。それでも人は集まるもので、店主も喫茶店のメニューを凝らすようになり今ではこちらが本業と言っていい。雪之助が亡くなってからも凛と港はこづかいを貯めては薫風亭に訪れた。同級生達が駅前の繁華街のファストフード店でふざけあいながらおしゃべりしている間に、二人は蓄音器から流れる古い曲をバックに自分の趣味に没頭する。中学生のくせに我ながら古風だと思うが親友との秘密の共有は楽しい。
(一時って事は午前中練習があるんだろうな)
それにしても久しぶりだ、とワクワクして凛は理科室に向かった。
「こんにちわー」
凛の声が理科室に響く。パチリと蛍光灯のスイッチを入れると暗かった教室がたちまち明るく照らし出された。ここが天文部。
凛以外、誰もいない。
実は天文部、凛一人きりの部である。――すでに入部した時、天文部を起こした三年生が五人いるだけで、部として認められる最低限の人数ぎりぎりだった。二年生は集まらなかったらしい。凛の同級生も入らなかった。そして三年生が卒業してしまったので、凛一人きりになってしまった。二年になった凛は美術二の腕をふりしぼって勧誘のポスターを描いたが、天文部に絵心がある者がいない事を知らしめただけで効果は乏しく、部活動勧誘会のステージで熱心にアピールしたものの、現在部員一名だけど熱烈歓迎! という現状に新入生は引いてしまい、見学に来る者さえいなかった。廃部を覚悟した凛だが、天文部の顧問である宮川が凛の熱心さをかって、かけあってくれたらしい。毎日の部活動日誌と記録に残る成果をだすことで存続を特別に許された。部室は歴史部と同室。歴史部は現在部員五人で瀕死のはずなのだが、彼等は事実上帰宅部のようなものなので活動に熱心ではなく、あまり会うことはない。
「来年の秋には引退なのに、ただの廃部じゃん……今からでも誰か入ってくれないかなあ。そんなに興味ないかな……」
古い木製の四角い椅子に座り、日誌をせっせとつけながらぶちぶちと文句をたれる。せっかく先輩が起こして、天文部があることに感激した凛である。できれば自分の卒業後も存続してほしい。でもそれには人数が必要だ。
(霜月が入ってくれたらよかったのに……)
渚が転校してきた時、誘おうと思ったのだが男子一人の部に女子を誘う気恥ずかしさと、好きな子と二人きりになれるかもという下心で悶々としている間にさっさと文芸部にさらわれてしまった。三年が引退したら部長候補だという九条が誘ったのだ。九条は将来ミステリー作家になると豪語する大柄な女子である。ある日九条が渚に「私は江戸川乱歩が好きなんだ。霜月さんはどんな作家が好き?」とたずねているのを隣の席で寝た振りをしながら耳だてて聞いていた。渚は「サン=テグジュペリ」と答えて、九条が人間の土地は好きよォと言った後「いい趣味ね、文芸部に入らない?」と誘い、渚はこれに頷いた。凛にはサンなんとかという作家がわからなかった。後日、本屋でサンなんとかを探すと、作家の作品をみてなんてことはない、有名な「星の王子さま」の作者だとわかった。凛の家にも「星の王子さま」がある。作者だけ忘れていたのだ。
(ああ……早く「星の王子さま」の星を見ないかとか何とかいって誘えばよかったんだ……九条の奴ぅ……)
文芸部には女子が多く所属している。幽霊部員も多いようだが、女子が多いと渚もやりやすいのかもしれない。今更後悔しても仕方ないことなのだが。思わず日誌を書く手が止まる。はあ、と机に突っ伏した。書く事が思いつかない。秋はメジャーな星が少なく、観測したいものがあまりない。凛は冬の夜空が一番好きだ。なんといってもオリオン座やおおいぬ座など華やかで見つけやすい星座であふれている。寒さで澄んだ夜空に多くの一等星が輝き、街灯の明るさにも負けない。
(とはいえなんも書かないわけにもいかないし。ここ数日、月のことばっかで埋めてきたから他のことも書かないと、宮川先生にサボりだと思われるよな)
しばらく考えたのち、図書室から借りてきて返しそこなっていた本をとりだして、ペラペラとめくる。秋の空について知らないわけじゃないが、いい加減な事も書けないのでそのための参考文献だ。
「ええと……秋の夜空は南魚座のフォーマルハウトがただ一つの一等星であり、他に見るべきものはペガスス座の秋の四辺形くらいである――他にはくじら座にミラという変光星がありステラ・ミラと呼ばれている。その名は「不思議な星」を意味する。今のところ天体観測を行う程の対象はなし、と」
凛の学校にも天体望遠鏡が一つあり、古いが大人向けのしっかりしたものである。許可が下りれば屋上で天体観測をすることが可能だ。凛の望遠鏡よりレンズの口径が大きいのでより遠くはっきりした天体が観測できる。
「ま、しばらくは天体観測は無しかな」
日誌を書き終えるとロッカーから箒とちりとりを出し、理科室を軽く掃除する。どこの部もやっていることで、部活動の終了時間がせまると部長か副部長の「片付けてー!」のかけ声一つで部員全員が掃除を始めるのだ。部室が綺麗だろうと汚れていようと関係ない。部活の締めくくりを知らせる合図と様式美のようなものだ。
掃除を終え、凛が窓からグラウンドを眺めるとまだサッカー部は練習の真っ最中だった。定時であがれる部活は少ない。運動部の帰りが夜遅くになるのは常だし、音楽室からは吹奏楽部の演奏がいつまでも聞こえてくる。同級生は早く帰りたい、と愚痴をこぼすが凛から見たら羨ましい限りである。
(やることがあるってことは、幸せなことなんだよな)
いつか自分もわいわい部活動をしてみたい。一人きりの部だから先輩後輩もいない。三年への配慮や一年のまとめ役の苦労を考えたら一人きりの方がいいよ、俺も天文部に入ろうかな、なんて言われるけど天文部に移動してくる奴なんていない。最初に入った部活を抜けて他の部に入るなんて本当は出来やしないことなのだ。
凛は理科室を出ると部屋の鍵と日誌を届けに職員室へ寄った。顧問の宮川は留守だった。そもそも宮川の本来の顧問はテニス部である。天文部は兼業だ。おそらくまだグラウンドのテニスコートで指導しているのだろう。宮川は大学時代テニス部で汗を流し、その経験でテニス部顧問を務めている。宮川の机の上に日誌をおいて鍵を保管場所に戻すと失礼しました、と礼をして職員室を後にした。
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