すき間神
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
やー、見たさっきの看板? 「10キロ手前 右折」って、いろいろ手遅れっしょ?
車に乗っている身ならまだいいけど、はじめて徒歩とかで来た人なら、軽く絶望できると思うよ、この表記はさ。
――ドライバーになると、やたらおしゃべりになるな?
まあねえ。ひとりで運転するときは、黙っているよ。目の前で危険でへたっぴな運転されない限りは。
でも誰か乗せているときに、お互い、黙りこくったままって、少し辛抱ならない。
いまのようなツッコミどころや、雑学があれば話したいし、そちらからも話を振ってほしい。どうしても間が持たなきゃ、音楽をかけてしまう。高速を走る時だと特に、眠くなったりしたら「こと」だからな。
俺は音がしない空間が、あまり好きじゃない。特に音を出し得る誰かがいるにもかかわらず、静かにしたままというのは気味が悪い。昔に、ある体験をした時からな。
ん? 聞いてみたい顔をしているな?
まあ、しゃべることの一環にもなるし、ちょっと話してみるかね。
俺は小さいころ、短い間だが剣道を習っていた。
やめちまった理由はいろいろあるが、その中のひとつに、黙想の時間があった。
ご存じの通り、黙想は大仏様の姿勢みたいに、座って目を閉じ、足の上へ軽く手を組み合わせる姿勢をとる。
主な目的はイメージトレーニング。
稽古前には「ここをこうしよう」と目標を定め、理想の動きを想う。
稽古後には目標に達せられた否か、ダメならどこがいけなかったか反省する。
これをしないと稽古は漫然とした時間つぶしになり、黙想そのものも、足をしびれさせる作業にしかならない。師範が口をすっぱくして、そう忠告してくれたよ。
この黙想、師範が合図をするまで全員が続けていなくてはいけないんだが、俺はほぼ毎回、ちゃんと決まりを守ることができなかった。
目を閉じているとさ、不意に誰かに身体を押されるんだ。
横から後ろから。ときに上から、真正面から来たこともある。座ったままでは、とても耐えきれない強さでもって。
その力のまま、俺はこてんこてん転がってしまい、和を乱したとして師範に説教されていたんだ。周囲のみんなが笑いかけるのを、師範が制してくれたことはありがたかったけれど、恥をかいているのには、違いない。
これが幼心にかなりこたえて、やめる意思を伝えることになる、一カ月前のことだった。
これまで以上の力で背中から押され、なかば吹き飛びながら、かろうじて両手を着けた日だ。
俺は稽古が終わり、皆が片づけを始める中で、師範に呼ばれた。
案内された別室での一対一。そこで師範はこっそり俺に教えてくれた。ひょっとしたら俺は「すきま神」に憑かれているかもしれないと。
「古来、神様を招く方法はいくつかある。そのうちのひとつが『静寂』。つまり、音を立てず、静かにしていることだ。
音が満ちる、という表現があるのは、その場のすき間を埋める行為ゆえ。埋まらなかったすき間からは神様が忍び入ってくることがあるのだ。もっとも良いものばかりとは限らないが。
人そのものも、スペースをとる。人が多ければ、剣道に使っている講堂のような広い場所かつ黙想のときなど、音がない時でなければ、まず現れる恐れはない。
逆に人が少なければ少ないほど、わずかな空間にもすきができる。そしてどうやらお前は、そいつらに好かれやすいタチと見た。
できる限り、大勢でにぎやかなところにいて、一人にならざるを得ない時には、何かしら音を出すといい。たとえ足音程度でもな」
実をいうと、このとき。俺は稽古以外でも、家の湯船に浸かったり、布団へ横になったりする際にも、姿の見えない力に押されることがあった。
師範に助言をもらってより、俺は湯船の中で何度もお湯を肩にかけ流し、布団の中で寝返りをしきりに打つよう、心掛けたんだ。
すると、あの力が干渉してくることはめっきりなくなった。
それでも油断していると、ちょっと音を立てたくらいでも、おかまいなしにやってくることがあってさ。どうやらすきま神によっても、許容範囲が違うようだと、うすうす察するようになった。
だから俺は、ちょっとしたきっかけが見つかると、誰かに声をかけておしゃべりするようにしている。
俺自身は、これでどうにかなったんだが、これまででひとつ、妙な事件があった。
小学校の高学年になってのクラス替えで、はじめて一緒になった女の子がいる。
彼女、えらく静かな子でさ。学校では必要以上の言葉を離さないし、行き帰りもひとりくさかったんだが、もっとおかしいのは毎日、傘を持ってくることだった。
晴れの日だろうと、おかまいなしにだ。しかも、その傘は俺たちの持つものより、ずっと大きい。
俺が使っていた、市販の大人用である70センチの傘さえ、ゆうに超えるサイズ。自作していたのかもしれない。
その彼女は学校を出ると、早々とみんなが帰るのとは違う方向へ足を向け、遠ざかって行ってしまう。家がそちらの方にあるのだろうと想像する一方で、俺は彼女がどこか、逃げているような印象を受けたんだ。
うずうずする俺は、親に帰りがけの買い物を頼まれた日、お店と同じ方向であるのをチャンスと捉え、彼女の後をそっと追いかけてみたんだ。
いくらも進まないうちに、彼女はあらゆる人工の気配から遠ざかっていくのが分かった。
家、車、舗装された道路。
自然と彼女の足は、当時まだ大々的に残っていた田畑のあぜ道へ向かう。
ここでようやく俺は、彼女の足取りで奇妙な点を見かけた。彼女は道の途中で何度か、不自然な方向転換を見せたんだ。
誰かが道の向こうから歩いてくるとき。垣根の向こうからコンバインを稼働させる音がした時。
彼女はすかさずきびすを返し、それが足元の悪い道中になろうとも、どんどん反対方向へ進んでいく。
もう学区の外へ出ている。いったい、何キロ先に家があるのか。そもそも、こんなことを繰り返しながら、いつになったら家につけるのか。
道のずっと向こうから聞こえる、軽トラックのエンジンとタイヤの音を聞きつけて、くるりと彼女は180度ターン。ちょうど俺が見える角度だったこともあり、つい反射的にそばの木々の幹へ身体を隠してしまう。
遠ざかる彼女をうかがいながら、ふと俺は思い至る。
――ひょっとして、彼女。音がないところを探しているんじゃないか?
やがてトラックが現れ、遠ざかり、かすかな音も聞き取れなくなる。
その間、なおも進んでいた彼女の周りには、いよいよ音を立てるものがなくなった。
彼女は手にした傘を開く。全身を隠せるほどの青い布の巨体が、たちまち彼女の手元に広がった。
しかし、長くは続かない。彼女はすぐ中棒のそばへ手を。みるみる傘は開いた身を閉じていく。中のろくろを彼女がしぼっているんだ。
彼女は頭上へ傘を掲げたまま。元より小柄な彼女は腰より下を残して、すっぽり傘の生地の中へ包まれてしまう。ちょうど、花のつぼみをひっくり返したような格好だ。
歩き方も変わる。これまで二足で歩いていた彼女は、両足をぴったり合わせて、ぴょんぴょんと跳ねていく。
最初は、何をふざけてんだと、遠目に笑っていたよ。でも、もっとよく見てやろうと、後についていこうとして、気づいたんだ。
ぴたりと閉じた、彼女の足。その合わせ目がいつの間にか消え、一本のぶっとい足になっているように見えだしたこと。
身体を囲う傘の生地も、ひと跳びごとにみるみる色が変わっていく。ほとんど赤と化してから、更に数とび。傘の前方から、何やら大きく赤い舌らしいものが伸びた気がして……。
「あっ!」
大きく、短く叫んで、俺はすぐ先ほどの物陰へ身を隠す。
ぱっと、彼女を囲う傘が赤から青へ。
開いた傘からは、彼女の身体が見え、足もまた二またに分かれている。
彼女がこちらをきょろきょろしている間は、緊張しっぱなし。だが彼女は、やがて前を向くと、もう傘を開くことなく、小走りで向こうへ走っていったんだ。
あの時、俺が見た姿は、話に聞くからかさお化けのそれだった。
以降も、彼女は欠かさず学校へ傘を持ってきて、校門を出ると、さっさとみんなと別れていたよ。
彼女がからかさお化けを呼んだのか。それとも元からからかさお化けで、彼女の姿をとっていたのかは分からない。
ただあの、静かな時間と狭い傘の空間こそ、すき間神たるお化けが、降り立てる場所だったんじゃないかと、俺は思っているんだよ。