魔王顕在6
「っても、正面からぶつかる気は更々ないんだけどね!」
走り出して即座に、スピカは横に跳ぶ。
合わせるようにウラヌスは高々と、空に向かって跳んだ。獣染みた驚異的脚力は、自らの身体を数メトルもの高さに打ち上げる。
猛然と地上を走っていたワイバーンの視線が向いたのは、空飛ぶウラヌスの方だった。
優れた身体能力を警戒してか、或いは本能的に頭上を取られる事は不味いと思ったのだろうか。理由はどうあれ、それはスピカにとって思惑通りの行動だ。視線が逸れている間ならば、地上にいるスピカに魔法が飛んでくる可能性は低い。
スピカはワイバーンの側面に回り込むと、即座に弓矢を構える。
此度の矢は、一見して普通の矢だ。
しかし実際には普通の矢ではない。鏃が『錫』で出来ているのだ。尤も錫で作り上げた鏃の強度など、鉄製の物より遥かに劣るのだが。鉄の鏃を持つ矢でもワイバーンの鱗には傷も付けられまい。ましてや錫など、逆にこちらが砕けるだけ。
それはスピカも分かりきっている。分かった上で、これが効果的だと考えていた。
「ふっ!」
スピカはこの矢を素早く二本、ワイバーンの首目掛けて撃ち込む。
ワイバーンは首も鱗に覆われている。鏃は命中した瞬間に砕けたり、鱗の隙間に挟まったりしただけ。一瞬ワイバーンがスピカに視線を向けるも、脅威ではないと判断したのかすぐにまた無視される。
だが、その判断は誤りだ。
「キ、ギャッ!?」
突如ワイバーンは悲鳴を上げ、ひっくり返る。そして翼を腕のように使い、スピカの矢を受けた首を掻き毟り始めた。
先程放った錫の矢の効果が出たらしい。
錫というのは極めて加工が容易な金属である。鉄や銅と比べ、圧倒的に低い温度で溶け出すからだ。まだ製鉄技術を持たなかった古代人は、錫で道具を作っていたという。
ワイバーンの燃え盛る身体であれば錫は融点に達して溶け出し、鱗の隙間に流れ込むとスピカは読んでいた。低温で溶けるといっても、それはあくまで他の金属と比べての話。触れば普通に火傷するぐらいには熱い。鱗の間に入り込み、その肉に辿り着けば、手痛い火傷を負わせられるという訳だ。
「(これ、駆け出し冒険家だった頃に騙されて買ったもんで、捨てるのも勿体なくて持ち続けていたんだけど……人生何が役に立つか分からないものね!)」
自分の失敗が武器になり、スピカは不敵に笑ってしまう。
その笑みの意味を、果たしてワイバーンはどれだけ理解したのだろうか。のたうち回りながらも首だけを捻じ曲げ、スピカの方を見遣る。
視線を動かせば、合わせてワイバーンの周りにある炎も動き出す!
「っ!? これは……!」
魔法の炎が迫り、スピカはすぐに逃げようとする。だが炎の動きはあまりにも速い。どうやっても追い付かれる。
ならばとスピカは、懐から一本の硝子容器を取り出す。細長い形をしたその容器の中にあるのは、軍が用意していた火薬の一部。
休憩中に少しちょろまかしていたのだ。スピカはこれを地面に、迫りくる炎に叩き付ける。
割れた硝子片と共に撒き散らされた火薬は、迫る魔法の炎により着火。小さな爆発を起こした。
爆発の衝撃は、傍にいるスピカを転ばせる事も出来ないほど弱い。しかし重さのないもの……炎に対しては効果的だった。ごく狭い範囲に吹き荒れた爆風は、魔法の炎すらも消し飛ばす。
炎が消えた事に、ワイバーンは驚くように目を見開く。怯んでいた時間はほんの僅かなものだが、しかしそれだけあれば次の行動を起こすには十分。
ただしスピカではなく、ウラヌスが、ではあるが。
「隙ありぃっ!」
力強い叫びを上げ、ウラヌスはワイバーンの背後から迫る! 跳躍していた彼女は見事ワイバーンを跳び越し、その後ろに回っていたのだ。
後ろから迫るウラヌスに、ワイバーンは慌てて振り返ろうとする。しかし既に肉薄しているウラヌスの方が早い。獣染みた怪力を持つ彼女の手が、ワイバーンの尾を掴む!
されどその尾は燃え上がっている。ワイバーンの抑えきれない魔法が、全身を包み込んでいるのだ。勿論ウラヌスが掴んだ尾にも炎は薄っすらと燃えており、掴んだ手を焼く。
「あっちちち!? やっぱ無理!」
何か策があるかと思いきや、ウラヌスは悲鳴と共に逃げ出した。どうやら深く考えず掴み掛かったらしい。
魔法の炎は、やはり可燃物でなくとも燃え移るようで、ウラヌスの手はぼーぼーと燃え始める。慌ててウラヌスは手をぶん回し、爆風染みた風で消したが……迂闊が過ぎるというもの。
なんとも間の抜けた襲撃者であるが、ワイバーンはそれを見逃さない。熱さで苦しみながら片翼を振り上げ、ウラヌスを叩き潰そうとする。
ウラヌスがしたのはちょっかいを出しただけ、と言えばその通り。
しかしこのちょっかいのお陰で、ワイバーンの意識はウラヌスに向いた。全速力で接近しているスピカから、その視線は完全に外れている。
「(相変わらず考えなしなんだから!)」
ウラヌスへの悪態を頭の中で吐く。しかしその声色は、どうしても褒めるようになってしまう。
スピカはウラヌスと違い、攻撃の直前で雄叫びを上げたりはしない。叫べば自分の存在に勘付かれてしまうから。そもそも叫びは身体の力を高めるための『動作』のようなもの。道具を使うスピカに雄叫びは必要ない。
静かにワイバーンへと接近しながらスピカが取り出したのは、一本の硝子瓶。中に入っているのは白い粉だ。
ただしこちらは爆薬ではない。極めて強力な毒薬だ。キマイラ達をも倒したマンドレイクから抽出したもので、人間なら香りを吸うだけで昏倒、処置をしなければ死亡する。ドラゴンだろうと迂闊に吸い込めばたちまち死ぬだろう。
元々は対魔王のために用意していた危険物。備蓄は二本しかなく、そのうちの一本を此処で使う。勿論魔王に対する有効性を確認したいという思惑もあるが……現在手持ちにある道具の中で、これが一番殺傷力に優れる。燃え盛るワイバーンを倒せるとすれば、これしかない。
「キオッ……!」
足音などで、スピカの接近に気付いたのか。ワイバーンは素早くくるりと振り返る。スピカの間近にワイバーンの顔が迫り、大きく口を開けて噛み付こうとしてきた。しかし毒瓶を構えた今のスピカからすれば、好都合でしかない。
「これでも、喰らってな!」
捨て台詞と共に、毒瓶をワイバーンの口目掛け投げる!
毒瓶はワイバーンの大きく開いた口内に飛び込む。投げる時蓋は開けており、中身が口内にぶち撒けられた。
口に広がる粉っぽさに違和感を覚えたのか、ワイバーンはぱくりとその口を閉じる。そうなってしまえば、もう手遅れだ。香りを嗅ぐだけでも危険な毒が口いっぱい、喉にも鼻にも広がっていく。
ぐるんと、ワイバーンは白目を剥く。びくびくと身体を痙攣させ、口から涎が零れ落ちる。
どうやらワイバーン相手にも、マンドレイクの毒は有効なようだ。
「(良し! これなら……)」
勝利を確信し、万が一にも粉を吸わないよう後退しながら強く拳を握り締めるスピカ。されどその目は、即座に大きく見開かれる。
ワイバーンの身体を包む炎が、更に激しく燃え上がったからだ。ウラヌスがうっかり掴もうとした尾など、今では炎の方が大きいぐらいに。
断末魔代わりに魔法が暴走したのか? そう願ったのも束の間、白目を剥いていたワイバーンの瞳が再びぐるんと回り、黒くなる。身体の痙攣は収まり、よろめいていた足はまた大地を踏み締める。
涎だけは今でもだらだらと溢れていたが、最早そこに死の淵を彷徨う弱さは感じられない。半開きの口からはボフボフと音を立てて炎が吹き出し、息をする度に鼻から小さな炎が溢れ出す。肛門さえも、放屁ならぬ放火している有り様。全身から炎を噴き出す様相は一層力強く、意地でもこの世にしがみつくという『気概』が感じられた。
きっとこのまま待っていても、ワイバーンはもう倒れない。
奴はマンドレイクの猛毒を克服したのだと、スピカは理解させられた。
「う、嘘でしょ!? あの毒が効かないなんて……」
想定外の事態に、スピカは思わず声を上げてしまう。
ワイバーンはマンドレイク毒に耐性を持っていたのか? マンドレイクにも虫は付くので、そういう生物自体は確かに存在している。しかしこのワイバーンは毒を放り込まれた直後、明らかに中毒の様相を呈していた。毒に耐性があるとは思えない。
なら、考えられる可能性はもう一つ。
毒を克服したのだ。恐らくその秘密は身体に纏う炎。毒というのは意外と繊細な物質で、ちょっと加熱したり、或いは空気に長時間触れさせたりすると、すぐに毒性を失う事が多い。ましてや炎で直に炙ろうものなら、大抵の毒物はすぐに変性・無害化してしまう。調理の時食材をよく加熱するのは、そうした天然の毒物を無害化するための行程という側面もある。
マンドレイクの毒は比較的熱に強く、ちょっと焼いたり煮たりしたぐらいでは消えない。故にマンドレイクは非常食にもならないが、しかしマンドレイク自体が灰になるまで焼けば話は別だ。ワイバーンは魔法の炎で身体を焼き、マンドレイクの毒を無害化したのだろう。
等と言葉にするのは簡単だが、いくらなんでも無茶が過ぎる。身体から毒素が消えるまで焼くなんて、火傷どころの話ではない。いや、よくよく思い返すとワイバーンは口や鼻から炎が吹き出していた。つまり奴は、自らの身体を内側から焼いている。喉や鼻奥を物理的に焼く苦しさなど、スピカには想像も付かない。
それが無意識の行為なのか、意識しての事かは分からない。だがスピカが持つ中で最強の毒素が、今、無害化されてしまった。もうこの毒は通用しない。
「(どうする!? これは、一体どうしたら良い!?)」
自分が持つ中で一番効果的だった筈の道具が無力化され、スピカは次の作戦を考え込んでしまう。
諦めず常に模索し続ける事自体は、自然界で生き抜くには欠かせない行いだ。しかしワイバーンの前でやるのは愚策。
再び口を開いたワイバーンと、スピカは向き合っているのだから。
「しまっ……!?」
「キィイオオオオオオオッ!」
不味いと思った時、ワイバーンは既に動き出していた。
迫りくる鋭い歯。人間など簡単に串刺しにするであろう、剣山が如く代物が迫ってくる。口内で燃え盛る炎のお陰で、喉の奥まで丸見えだ。
明確な命の危機を前にして、スピカは自分の周りがゆっくり動いているように見えた。
冒険家の先輩から聞いた事がある。人間というのは命の危機が迫ると、抑えていた能力が解放されるものだと。周りがゆっくりに見えるのも、そうした力の一つらしい。
尤も、ここからどうすれば生き残れるのか見当も付かないが。
だから考えるのは、ワイバーンの倒し方だった。
「(奴を倒すにはどうすれば良い?)」
思考を巡らせる。
自分の手持ちの道具では、ワイバーンに致命傷は与えられないだろう。毒は炎で無効化され、爆弾や弓矢は頑強な鱗に邪魔されて肉まで届かない。
しかし言い換えれば、肉に届けば有効打を与えられる筈だ。溶けた錫が鱗の隙間に流れ込み、ワイバーンを苦しめたように。ならば手持ちの爆弾でも、鱗の下にある肉に直接打撃を与えれば、致命的なものになるのではなかろうか。
そう、例えば腹の中で爆弾を炸裂させるような方法で。
「――――」
考え付くのと同時に、スピカの身体は無意識に動いていた。冒険家として日々過ごしていた経験が、思考を巡らせずとも必要なものの場所を思い出せるがために。
腰の袋から取り出したのは、爆弾矢……の先に付けるための爆薬。保管のため袋に包んだ状態のものを無造作に、ワイバーンの口目掛けて放り投げる。
安定性の高いそれは、普段ならちょっとやそっとの事では爆発などしない。特別性の鏃が、殻などの硬いものに接して火花を散らして初めて炸裂する。それだけの『熱さ』が必要なのだ。無害、とは言わないまでも、普通なら食べたところでどうなるものではない。
だが、このワイバーンの身体の中はどうだろうか?
身体中が燃えている奴の胃袋の中は、一体どれだけの熱さなのか。そして『肛門』からも炎が出ていた事から考えるに、消化器官すら炎に塗れていると思われる。
火薬が炸裂するには十分な環境だ。
……それを確かめる前に、スピカの下に槍よりも鋭い歯が届くだろうが。無意識に爆薬を投げた身体は、そのための動きに注力していて、逃げ出す事が出来ない。
「ぬぉおおおおっ!」
もしもウラヌスがいなければ、という前置きは必要であるが。
ウラヌスは勢いよくスピカに蹴りを放つ! あまり手加減はしていなかったようで、スピカの身体は大きく真横に蹴り飛ばされた。骨が折れたかも知れない痛みに悶える暇もなく、スピカは地面に転がる。
ウラヌスはウラヌスで、蹴った反動を利用して反対側に跳躍。ワイバーンの噛み付きは空振りに終わった。
直後、くぐもった『爆音』がワイバーンの内側から響く。
合わせてワイバーンの胸部が、一瞬大きく膨らんだようにスピカには見えた。爆弾矢で使う爆薬はそこまで高威力でもないので、単なる錯覚だろうか。
しかしワイバーンが受けた打撃は、錯覚通りのものかも知れない。
「キ……カ……ガ……!」
大きく口を開け、呻くワイバーン。口からは大きな黒煙が吐き出される。
全身を包む魔法の炎が更に勢い良く立ち昇る。迫りくる死に生存本能が刺激された結果だろうか。しかし胃袋で炸裂したであろう爆弾は、もうそこには残っていない。いくら炎で熱したところで、ズタズタになった身体が一層傷付くだけ。
ついにその目が白目に変わる。ただしひん剥いた結果ではなく、湯だったがために。
やがてワイバーンは倒れ伏し、その身体から力が抜けた――――瞬間、スピカ達を囲っていた炎が消えた。まるで今まであったものが幻だったかのように。
無論、散々こちらを焼こうとした炎が夢幻の筈もない。恐らくは『発動者』から力が失われた事で、炎を維持していたものが失われたのだ。
そしてこの魔法の炎は、使用者であるワイバーン自身すら制御出来ていない。それが消えたという事は、
「……死んだ、の?」
尋ねるように独りごちるスピカ。尤も、誰もその問いには答えてくれない。
しかし倒れて動かず、香ばしい匂いを立ち昇らせるようになったワイバーンを見れば、答えは明らかというもので。
「いよっしゃああっ!」
高々と拳を突き上げたスピカの雄叫びが、戦場に響き渡るのだった。




