魔王顕在5
「キャアアオオオオオオオオンッ!」
開かれたワイバーンの口から発せられたのは、身体が震えるほどの大咆哮。
ただ一鳴きだけで伝わる、圧倒的な強さ。魔物かどうかなど関係ない、純粋な生命としての強さが体に伝わってくる。相手は捕食者であり、自分は喰われる側なのだと、無意識に感じてしまう。
スピカの本能が訴える。こんな奴に勝てる訳がない、早く逃げなければならない、と。
五月蝿いそんな事は端から分かっている――――理性で本能を抑え込むが、そのために僅かながら時間が掛かった。
「があああああっ!」
その僅かな時間があれば、ウラヌスにとっては駆け出すのに十分だったらしい。
先陣を切ったウラヌスはワイバーンに肉薄。大きく拳を振り上げながら跳び上がり、下げていたその顔面に殴り掛かる!
小さな生物が繰り出した物理攻撃を鼻先に受け、ワイバーンは顔を顰めながら仰け反った。ウラヌスの一撃は自身の十倍はあろうかという巨獣にも有効らしい。
とはいえ有効なのと効果的なのは別問題。ワイバーンは頭を仰け反らせながら、すぐに下を向き、そして大きく口を開けた。
パチパチと、火花を散らしながら。
「不味い! ウラヌス逃げて!」
咄嗟にスピカが声を上げ、ウラヌスはそれに従い走り出す。
もしも逃げなければ、ワイバーンの口から放たれた炎により、ウラヌスは一瞬で黒焦げになっていただろう。
「オオオオオオオオオオオッ!」
口から炎を吐きながら、ワイバーンは頭を揺らす。鞭のようにしなった炎があちこちに飛び散り、獣の死骸などに引火。火の手を上げる。
ドラゴン種の多くは、体内に『火炎袋』を持つ。この火炎袋には極めて発火点の低い油が溜め込まれており、ドラゴンは敵を攻撃しようという時、この袋の油を咽頭の辺りから噴霧。霧状になった油で満たされた口内で歯を擦り合わせ、火花を起こす事で火炎を吐き出す。
火花を起こすのは奥歯。この歯はぐらぐらと揺れる構造になっており、力強く吐息を出すと自然に他の歯とぶつかり火花を散らす。
これがドラゴン種特有の技『ブレス』だ。炎を吐くという他の生物では見られない特徴は、強敵揃いの自然界でも有効な力。この特技により彼等は世界の様々な場所で頂点に君臨したと言えよう。
「くっ……!」
此度ワイバーンが吐いた炎のブレスも、周りにあるものを次々に焼き尽くしていく。獣の死骸、人間の亡骸、捨てられた装備……なんでもかんでもお構いなしだ。
あちこちで燃え盛る炎により、スピカは身動きが取れない。スピカの武器は弓矢なので、炎越しに攻撃する事自体は可能だ。しかし巨大な獣相手に有効な武器となると、爆弾や油など、可燃物ばかり。炎の中で使う事は勿論、取り出すだけでも危険がある。
「ギキャアアオオッ!」
更にワイバーンは尻尾を振り回し、逃げるウラヌスを叩き潰そうとする。
ワイバーンの尾は長く、ざっと十メトル以上はあるだろうか。振り回す速さも凄まじく、スピカの目には殆ど動きが捉えられない。ウラヌスも寸でのところで躱しており、一瞬でも動きが鈍れば避けきれなくなるだろう。
そして尻尾を叩き付けた後の地面には、まるで刃物で切ったかのような傷が刻まれている。直撃したら、きっと人間ぐらい簡単に真っ二つにしてしまう。ウラヌスは筋肉のお陰が身体は丈夫だが、しかし『人間離れ』した硬さでもない。当たれば、即死は免れない。
炎と尻尾。どちらも人間など簡単に殺せる、恐ろしい技だ。しかも魔物化し、破壊衝動に飲まれたワイバーンはこれらを滅茶苦茶に繰り出す。自身の疲弊など眼中にない激しさは、それだけで見る者の足を止める。
「(これじゃ近付けもしない……!)」
舞い上がる炎の熱さに、スピカも近付けない。尻尾の乱撃も脅威だ。
なんとも恐ろしい技の数々。だが、知識と冷静さがあれば、弱点も見えてくる。
一番の弱点は、炎の燃料である油は有限である事。種によって備蓄量は違うが、ワイバーンのような細身かつ飛行する種は少ない傾向がある。単純に格納場所が確保出来ず、また空を飛ぶため体重を軽くする必要があるからだ。一度吐き尽くせば、次の炎はすぐには吐けない。
魔物化による破壊衝動に取り付かれたワイバーンは、延々と炎を吐いている。自分を殴ったウラヌスを焼き殺してやると、執念を剥き出しにしていた。ウラヌスはそれを知ってか知らずか、ぐるぐるとワイバーンの周囲を回るように走っている。
「ゴオオオオオオ、オ、オッブフッ」
一分もそれを続けると、間の抜けた音を出してワイバーンの炎は止まった。ワイバーンはキョトンとしながら何度も炎を吐こうとするが、根性を絞ったところで油はもう出てこない。
ならばとワイバーンは尻尾を振り回す。乾いた大地にまた幾つも傷跡が刻まれたが、それと同時に土埃が舞い上がる。
周りで燃え盛る炎により、土が一層乾燥した結果だ。自分の手で昇らせた土煙に、ワイバーン自身が困惑したようにたじろく。破壊衝動により冷静さを失った結果、自ら混乱の原因を作り出していた。
その間にウラヌスはスピカの下まで戻ってきた。
「いやー、危なかったなー」
「迂闊に跳び出すからそうなんのよ……怪我はない?」
「うむ!」
元気よく返事をするウラヌス。元気なのは分かったが、反省しているとは思えない。本当に分かっているのかと、スピカは訝しむように見つめた。
――――さて、これからどうしたものかとスピカは思考を巡らせる。
ワイバーンの炎は尽きた。ならば距離を取って攻撃し続ければ、この厄介な生物を倒せるだろうか?
そこまで甘くないとスピカは思う。普通のワイバーン相手なら、多少甘く見ても良かっただろうが……コイツは魔物だと報告されている。
何かしらの『魔法』を使うと見るべきだ。
その予感が正しい事は、ウラヌスが離れた事を知ったワイバーンが怒りの形相を露わにした時、確信に至る。
「ギ、キィィュゥイイイイ……!」
悔しげに歯噛みしたワイバーン。するとその身体を覆う青い鱗が、じわじわと赤味を帯びてくる。
やがてその鱗から、赤い炎が昇った。最初は小さな炎だったが、徐々に大きくなり、やがてワイバーンの身を包み込む。
気付けばワイバーンの身体は、全身に炎を纏っていた。パチパチと燃え盛る炎の熱さが、スピカにも伝わってくる。ハッタリや虚仮威しの類ではない、本物の炎だ。
「(これが、コイツの魔法か!)」
「キャィアアオオオオオオオッ!」
スピカの考えが正解だと告げるように、ワイバーンが咆哮を上げる!
瞬間、ワイバーンの身体の左右から突如炎が現れ、スピカ達目掛けて飛んできた!
「ぬぉっ!?」
「っ……!」
ウラヌスは驚きながら、スピカも唇を噛み締めつつその場から飛び退く。
あと一瞬遅ければ、飛んできた炎はスピカ達を包み込んでいただろう。外れた炎は地面に当たり、爆発するように霧散する。
驚嘆すべきは、その霧散した後の事。
乾いた地面に落ちた炎は、中々消えなかったのである。それどころか炎は独りでに燃え上がり、更に大きさを増していく。ワイバーンがあちこちに火を吐き、可燃物を焼き尽くした事で炎が勝手に消えている今、燃えるものなど何処にもないというのに。
そしてその勢いは、加速度的に増していく!
「不味……」
嫌な予感がして逃げ出そうとしたスピカだが、一手遅かった。炎はまるで意思を持つように広がり始めたのである。
通り道にいた兵も、動物も、炎は容赦なく飲み込む。生きたまま焼かれる獣と人の叫びが、四方八方から聞こえてきた。耳を塞ぎたくなるが、しかし炎は今も拡大している。余所見をすれば、今度は自分が悲鳴を上げる番になるとスピカは察した。
全力で走り、どうにか炎に包まれるのは回避。ウラヌスもちゃんと避けたようで、ウラヌスは自身の背中を、叩くようにスピカの背にどしんとぶつけてくる。
無事を確かめ合い、安堵の息……を吐きたいところだが、スピカは逆に息を飲む。
二人は炎に囲まれてしまっていた。半径五十メトルほどの、趣味の悪い闘技場の中のようだった。
「凄い炎だったな! うねうねーっと動いたぞ!」
「凄いで済ませられるアンタも中々のもんだと思うわよ」
スピカの言い分を褒め言葉と受け取ったのか、ウラヌスはにこっと笑う。その底抜けの明るさが、今のスピカには必要だ。
何しろ同じく炎に囲まれたワイバーンと、スピカは向き合っているのだから。
「(こりゃまた厄介な魔法だ事……)」
燃料も可燃物もないのに燃え続け、更に生きているように走る。これが魔法の炎でなければなんだというのか。
どうやら魔法というのは、風を操るだけのものではないらしい。ワイバーンのように炎を操る存在もいる。種によって異なるのか、個体によって異なるのかは不明だが……炎の魔法は、ミノタウロスが繰り出した風の魔法より破壊力では上のようだ。掠めて燃え移るだけでも致命的になりかねない。
しかしその破壊力には、大きな代償があるらしい。
「キ、キキャァアアッ!?」
ジタバタと大地の上でのたうち回る、燃え盛るワイバーンを見れば明らかである。
「(コイツも、魔法の力が制御出来ていないのか……)」
戦う前から、ワイバーンの身体には焦げ跡が出来ていた。恐らく自らの魔法により負った傷だと思われる。
火傷というのは極めて痛い。一度でも火傷した者なら、誰もが知っている事だ。ワイバーンも相当な痛い目、下手をすれば死んだかも知れない火傷を負った筈である。
なのに、いくら炎が吐けないからといって、自発的に魔法の炎を纏うなんて考えられない。
ミノタウロスの振る舞いなどから考えるに、魔法というのは感情に呼応して勝手に出てしまうものかも知れない。ミノタウロスの場合、その魔法は身を守るのに役立ったが……ワイバーンの場合、発動するだけで自分の身体が傷付く種類のようだ。
火傷を負いながらも生きているので、少なくとも『前回』の魔法は、ワイバーンを燃やし尽くす事はなかった。しかし此度もそうなるとは限らない。ワイバーンを焼き尽くすまで、あらゆるものを炎は燃やしていく可能性がある。
勿論、スピカ達人間も焼き尽くすだろう。骨の髄まで、灰も残らずに。
「……上等。だったら素早く、倒してあげるから」
強気な言葉を口に出す。それは決意であり、逃げ出したい気持ちを抑え込むための呪文。
周りの炎が大きくなり、熱波を飛ばしてくる。炎天下の日差しよりも強烈な熱さを浴び、だらだらと汗が流れ出す。あまり長くは戦えそうにない。
ならば短期決戦に持ち込むしかない。スピカは武器を構えながら戦いの基本方針を定めた。そしてどうやら短期決戦を求めているのはワイバーンも同じらしい。
「キィィアアアアアアアアアッ!」
燃え盛るワイバーンの猛烈な突撃に合わせ、スピカとウラヌスも立ち向かうように走り出した。




