狂いし魔物8
「(さぁてこれからどうする……!?)」
ウラヌスに抱えられたまま、スピカは思考を巡らせる。
ウラヌスには体勢を立て直すための退却と説明した。実際そこに嘘はない。魔物相手に抜かした腰は未だ力が入らず、お世辞にも戦力になる状態ではないのだから。
しかし、では体勢を立て直したら、今自分達を追ってきているミノタウロスを倒せるのだろうか?
スピカにはそうとは思えない。
「(あの魔法の力、思ったより厄介かも知れない)」
燃焼する油は、ミノタウロスに大きな火傷を負わせる事が出来なかった。
水で洗い流されただけではない。恐らく魔法で作られた風が、その身体を保護しているのだろう。頭突きで血を流している事から考えるに、普段は展開していない筈だが……致命的な攻撃を前にした瞬間、咄嗟に纏っているのだ。ウラヌスに蹴られた後だというのに平然としているのも、風の守りがあると考えれば合点が行く。生半可な攻撃ではその身に届かない。
スピカの武器である弓矢は、遠距離攻撃こそ出来るものの威力が足りない。目などを撃ち抜けば猛獣相手も怯ませられるが、動き回る小さな目を狙うのは至難の業であるし……頭から血を流しても平然としている奴の事だ。目玉を射抜いても構わず突っ込んでくる可能性がある。
力不足のスピカでは、例え万全の状態になっても戦力にはなれそうになかった。
されど、全く手がない訳ではない。
「(爆弾を使った時。あの時だけは、こちらの攻撃が通じた)」
油で燃やしても耐え抜いたミノタウロス。その身体に唯一焦げ目を付けたのが、スピカ手製のフェニックス爆弾だ。
爆弾により生じるものは、熱や光など色々ある。しかし一番に記すべきは『爆風』だろう。ミノタウロスは魔法で風を起こしているが、どんなに不思議な力でもその強さには限度がある筈だ。フェニックス爆弾はその限度以上の爆風を起こし、風の守りを吹き飛ばしてミノタウロスの身体を焼いた……と思われる。
つまりあの風は、魔法の力以上の力をぶつければ剥がせるという事だ。例え原理不明のインチキ現象でも、絶対無敵の力という訳ではないのである。
とはいえ最大火力であるフェニックス爆弾ですら、ちょっと火傷を与えただけ。致命傷に至らしめるには、これを大きく超える威力の爆発が必要だろう。そんなものが果たしてあるだろうか?
「……ウラヌス! 防壁に向かって!」
「む? 防壁の何処だ?」
「何処でも! とりあえず近い場所から探す!」
ウラヌスは目をパチクリさせながらも、防壁目指して夜の町中を駆けていく。
此処は要塞都市。軍が支配する大都市だ。
流石に、一軒家が建ち並ぶ住宅地に大仰な武器はないだろう。だが防壁には隣国からの侵攻に備えるため、様々な武器や兵器が保管されている筈だ。その中には大砲の弾を飛ばすための、大量の火薬も備蓄されていると思われる。
どの程度の火薬があればミノタウロスの風を破れるのか、それは分からない。しかしスピカのフェニックス爆弾でも、その威力は二十数倍の重さの火薬と同程度の威力だ。言い換えれば小瓶に入れた溶液の二十倍以上……両腕に抱え込む程度の火薬があれば十分。杜撰な管理をしていない限り、火薬庫にはそれ以上の火薬がある筈。
問題は、その火薬が防壁の何処にしまわれているのか、という点だ。余所者であるスピカはそれを知らない。防壁に辿り着いても火薬がそこになければ、壁際に追い込まれたのと変わらないだろう。
しかし仮に火薬がなくとも、悪い事ばかりではない。むしろ状況は好転する公算が高いとスピカは考えていた。
「(防壁には兵士がいる筈!)」
軍の施設である防壁内には大勢の兵士がいる。彼等であれば火薬庫の場所を知っている筈だ。
勿論火薬庫の位置は国防上大事な情報であり、いくらミノタウロスが現れたからといって簡単には教えてくれないだろう(むしろ混乱時に大事な情報を教える兵士など不安でしかない)。しかし兵士とは、言い換えれば戦うための訓練を受けてきた者達だ。どんな下っ端だろうと一人仲間に加わるだけで頼もしく、三人四人と集まれば怖いものなどない。
スピカ達だけでは勝ち目のないミノタウロスも、兵士達と協力すればなんとかなるかも知れない。運が良ければ王国で三番目に強い騎士・カペラとの合流も期待出来る。
壁際に追い込まれる事など、これらの利点に比べれば些末なものだ。
「ブゥウモオオオオオンッ!」
まさか、それを理解した訳ではないだろうが……ミノタウロスの咆哮に、スピカは嫌な予感を覚える。
素早く後ろを振り返り、スピカはミノタウロスを注視。何をするつもりか見極めようとする。
とはいえミノタウロスが振るう魔法は風だ。空気の流れなど目に見えるものではない。ただの気休め、或いは自己満足のつもりだった。
しかし結果的に、スピカはミノタウロスの『行動』を目の当たりにする。
「ブモオオオオオオオオッ!」
咆哮を上げたミノタウロス。
するとその左右にある家が、突如として捲れ上がったではないか!
突然の出来事に、スピカは何が起きたか分からず硬直。ウラヌスが抱えていなければ、きっと棒立ちしていたところをミノタウロスに突き上げられていただろう。
そして唖然としながら見つめていた事で、何が起きているのかを知る。
捲れ上がったのは主に家の屋根だ。要塞都市の家は煉瓦で出来た頑丈なものだが、屋根は軽い木材で出来ていたらしい。強い風が吹けば、捲れ上がりもするというもの。捲れた屋根は風に乗って遠くに飛んでいき……何処かに墜落。
そこで赤い閃光を迸らせた。
何かが起きた。何があったのかを知ろうと考え、赤い光がゆらゆらと揺れている事にスピカは気付く。
あれは炎の煌めきだ。
ミノタウロスが吹き飛ばした屋根は、火事の現場を直撃したのだろう。とはいえミノタウロスは狙ってやった訳ではあるまい。恐らく高まる攻撃衝動を堪えきれず、がむしゃらに力を放ったのだ。
「(つー事は……)」
嫌な予感が頂点に達した時、スピカ達が向かおうとしていた方角で爆音が轟く!
「くぁっ……!?」
「――――おおぅ!?」
爆音の大きさは凄まじく、スピカは一瞬なんの音も聞こえなくなり、ウラヌスは驚きに染まった声を上げる。
痛む耳を抑えながらスピカが前を見れば、巨大な爆炎が柱のように昇っていた。
説明などいらない。この光景だけで、何が起きたのかは大体理解が出来た。
スピカ達が向かおうとしていた火薬庫が、火災によって引火し、吹き飛んだのだと。
「どうするスピカ! あっちに行くのか!?」
そしてウラヌスからの問い。
スピカは、すぐには答えられなかった。
まさかそこまで火の手が回っていたとは。爆発が起きたからには、火薬は『消費』されてしまったと考えるべきだろう。無論こうした事態を想定して火薬は分散して置いている筈だが……問題はそこではない。
防壁と町を襲っている火災の出処は、確実にミノタウロスが『保管』されていた場所だ。今のスピカ達が向かっていた場所は、そこからかなり離れた位置にある。にも拘らず火薬庫が爆発を起こしている。つまり、相当火の手が回っているのだ。ミノタウロスが風で吹っ飛ばした屋根が、何処かの炎に偶々落ちたのもそれを証明している。
恐らく、ミノタウロスが吹き荒らした風で火の粉が遠くまで飛び散り、町の至るところで火災が起きたのだろう。一箇所二箇所なら消火も出来るだろうが、これほどの大火災では人手など足りまい。ましてやミノタウロスが暴れ回っているとなれば尚更だ。
火災を放置すれば町の全てが燃え尽きてしまう。死傷者が多数出るだけでなく、町自体が滅び去る。
かつてのスピカの故郷のように。
「(それだけは、させない!)」
恐怖を原動力に、スピカは思考を加速させる!
町にいる兵士達は今、住民の避難と消火を優先している筈だ。彼等が全力で任に当たれば、被害は最小限に抑えられる。
だがミノタウロスが兵士達の前に現れれば、無視する事は出来ない。どう考えても魔物化したミノタウロスの方が火災よりも危険なのだから。兵士の人手はミノタウロスの方に割かれ、火災への対処は後手に回ってしまう。
そうなれば火災は止め処なく拡大し、町を焼き尽くす。故にスピカ達は兵士達に頼る訳にはいかない。
加えて、本当に兵士が総出で火災の対応をしているなら、防壁内の兵士は殆ど出払っているだろう。防壁の傍に行っても助けは現れず、ただ壁際に追い込まれるだけ。また火災が広がった今、迂闊に火薬庫に近付けば爆発に巻き込まれる恐れもある。
最早防壁を目指す意味はない。
「……っ、町の中心に向かって!」
「分かった!」
長考の末に方針を転換。スピカの指示に従い、ウラヌスはくるりと道を右に曲がる。
後ろから付いてくる足音から、ミノタウロスはスピカ達を追跡している。攻撃的になった事で、『見逃す』という選択肢がすっぽり抜け落ちているようだ。
それはそれで好都合。兵士達の手を煩わせないためにも、このまま誘導を続けたい。
走るウラヌスに運ばれ、スピカがやってきたのはとある大通り。店らしき建物が多数並んでいるが、人の気配は殆どなかった。明るさから判断するに大分火事が近いようだが、避難誘導をする兵士の姿も見当たらない。どうやら早くも避難を終えた区画らしい。ミノタウロス出現から然程時間は経っていないのに、流石は何時戦争に巻き込まれるか分からない町に住む者達と言うべきか。
巻き添えを心配しなくて良いのも、スピカ達にとっては都合が良い。好きなように逃げられる。
勿論逃げるだけでは勝てない。いや、魔物であるこのミノタウロスの場合、何日も逃げ続ければ向こうが先に自滅するかも知れないが……向こうの興奮状態を考慮すれば、ミノタウロスは寝ずに何日も動けるだろう。冷静な人間達はそうもいかない。体力が先に尽きるのは、恐らくスピカ達の方だ。
「(どうにかして倒さないと……何か、何か手はないか……!?)」
思考を巡らせるも、町中でこのミノタウロスに打撃を与える術は思い付かない。
周りを見渡してみても、どうやら今のウラヌスが走っているのは町の大通り。商店は数多くあれども、大半はパン屋や肉屋のような食料品店、或いは調理器具などの日用品の販売店ばかり。武具販売店もあるが、剣や弓でどうにか出来る相手ではない。
何か薬品があれば、上手く混ぜ合わせて爆弾や毒薬などを作れるかも知れないが……見える範囲に薬屋はなし。あったところで薬を選ぶ時間などないだろうが。
本当に、使えそうなものが何もない。ただの商店街だ。
スピカは表情を強張らせながら、それでも打開策を求めるが……残念ながらミノタウロスは待ってはくれない。
「モォオオオオオオオオオッ!」
一際大きな声な雄叫びが、大通り全体を震わせる。
今までとは何かが違う。悪寒を覚えるスピカだったが、腰が抜けたままの彼女は全てをウラヌスに任せるしかない。
「ぬぅ!?」
ウラヌスもまた嫌な感覚に見舞われたのか、ぶるりと震えてから跳躍。判断は決して遅くなかったとスピカは思う。
ただ、それ以上にミノタウロスが速い。
ウラヌスが跳躍した直後に、ミノタウロスがスピカ達の横を掠めていった!
「ぐっ……!?」
角が掠めたようで、ウラヌスの足に一筋の赤い線が刻まれる。加えてその僅かな接触の勢いでウラヌスの身体は空中でぐるんと回り、体勢を崩す。
どうにかウラヌスは両足で着地したものの、衝撃まではいなせなかったらしい。ざりざりと音を鳴らしてウラヌスは地上を横滑り。足に力を込めて踏ん張っても勢いを止めきれず、建物の壁に激突してしまう。
その際ウラヌスは身体の向きを変え、スピカを庇うように自分の背からぶつかる。全ての物理的衝撃を、ウラヌスは自ら受け止めたのだ。
「ぐぅぅ……!」
「ウラヌス!?」
「問題ない! この程度掠り傷だ!」
決してこれは強がりではない。そう言わんばかりにウラヌスはすぐに動き出す。だがやはり受けた衝撃は小さくないようで、動きが僅かに鈍くなった事をスピカは感じ取った。
確かに致命的ではない。戦いを継続出来るという意味では、掠り傷のようなものだろう。
されど、更に暴走したミノタウロス相手にこれは良くない。
「ブモオオッ! モゥオオオオオッ!」
攻撃を外したミノタウロスは、叫びながら暴れ回る。
スピカ達を見失ったようで、叫びながらあちこちの建物に体当たりを喰らわせている。大型動物とはいえ家畜の体当たりであり、普通なら店先の棚が破壊される程度だろうが……今のミノタウロスの一撃は建物の壁を貫通し、振り上げた頭で半分を吹き飛ばす。
まるで怪物染みた攻撃力だ。その秘密は、ミノタウロスの周囲を渦巻く粉塵が物語る。
粉塵がぐるぐると、ミノタウロスの身体に巻き付くように流れている。異様な空気の流れ、即ち風が生じていた。
ミノタウロスは鎧のように纏う風を、武器として使い始めたのだ。先の体当たりで高速を出せたのも、風の力で推進力を得たのだろう。
……精密な制御が出来るようになったのに、ミノタウロスはますます激しく暴れている。比喩でなく、暴走するように。
力の操り方は上手くなったが、力の放出自体は全く制御出来ていないのか。風の隙間に入り込んだ木片などが突き刺さったのか、全身に守りがあるというのにミノタウロスは身体中から血を流している。それがますますミノタウロスを興奮させ、興奮が力を高めるのか、破壊が一層激しくなっていく。
「(このまま、何もかも破壊しながら死んでいくのか……)」
スピカ達の存在が状態を悪化させたのか、はたまたこれが奴の寿命なのか。どうやら先の何日か生きるという予想は外れるらしい。放置しても、恐らく夜明け頃にはこのミノタウロスは死んでいるだろう。
だが、死ぬまでは暴れ続ける。目に付くものを全て攻撃し、衝動に突き動かされ……最後には自分自身もぶち壊す。
止めなければならない。
不意に、スピカの胸に浮かんだ気持ち。黙っていれば勝てるというのに、首を突っ込もうというのだから全く以て非合理的だ。何時もなら唾棄すべき思考であるが、しかし此度のスピカは迷いもしない。
「ウラヌス……なんとかして、アイツを倒すよ」
「うむ! 燃えてきたぞ!」
スピカの決意をウラヌスも躊躇いなく受けた。スピカとウラヌスは互いの顔を見合い、不敵に笑い合う。
さて、そうと決めたものの、未だ策はない。店だらけの大通りに、魔物一匹吹き飛ばす危険物などないのだ。
今スピカ達の周りにあるのは精々パン屋と武器屋と雑貨屋、そしてそれらの店に隣接しているそこそこ大きな倉庫ぐらいなもの――――
「おっ。何か閃いた?」
観察していたところ、ウラヌスがそう尋ねてくる。
顔に出ていたか。指で頬を揉んでみるが、上がる口角は止められない。
家を一つ半壊させた拍子に、ぐるんと振り返ったミノタウロスと目が合っても、スピカは不敵な笑みを崩せなかった。
「ウラヌス! あの店の横にある、倉庫に向かって!」
「分かった!」
スピカの指示を受け、ウラヌスは猛然と走り出す。
その速さは獣染みたものであったが、ミノタウロスの方が速い。
「ブモオオオオオオオオオッ!」
ミノタウロスが駆ける! ウラヌスはミノタウロスに対し直角に逃げたが、ミノタウロスは鋭い弧を描いて追ってくる。
ほんのつい先程まで一直線な走り方だったのに、今ではかなり小回りが利くらしい。これもまた風の力を利用しているのだろう。
ウラヌスは死力を尽くして走るが、ミノタウロスの方が速い。右に左に動いても、ミノタウロスはそれを完璧に追ってくる。最早、あらゆる面で負けており、振り切る事は不可能だ。
もしもスピカの判断があと少し遅く、走り出すのが遅れていたら……ウラヌスはスピカが示した建物の傍まで来られなかっただろう。
「っ……!」
言葉はなく、視線でウラヌスは次の指示を求めてくる。
建物を前にした事で、前に向かって逃げる事はもう出来ない。
右が左に逃げても、機動力を増した今のミノタウロスを翻弄出来るものではないだろう。そして建物の前まで来たが、扉には恐らく鍵が掛かっている。壊して中に入るにも時間が掛かり、ミノタウロスがウラヌスの背を角で突き刺す方が速い。
万事休す、と傍から見える状況。だがスピカは不適に笑う。
こうも思い通りだと、気分が良いのだから。
「――――上ッ!」
スピカの掛け声に、ハッとしながらウラヌスは高く跳んだ!
垂直方向への跳躍。いくら機動力が高くなろうと、牛の身体は空を跳ぶのには向いていない。そもそも考えもしないだろう。ミノタウロスは空中にいるスピカ達の下を通り過ぎ……彼女達が背にしていた建物に突っ込む。
その建物から、ぼふんっという音を立てて大量の白煙が吹き出した!
「モッ!?」
突然の白煙に、ミノタウロスは驚きの声を出す。逃げるように後退りするが、突っ込んだ勢いで小屋を作る板は内側に向かって破れ、今やミノタウロスの動きを妨げる。
「ブモオオッ!」
我慢ならないと魔法の風を起こすミノタウロスだったが、その判断は失策だ。風により小屋が吹き飛ぶのと同時に、一層大量の白煙が辺りに舞ったのだから。
最早ミノタウロスの姿は完全に白煙の中に閉じ込められた状態。分厚い白煙の所為で周りの景色は覆われ、外の様子は窺えない。ミノタウロスは混乱しているようで、白煙の中の右往左往している様子が外からは『影』の動きで見える。
ミノタウロスは知らない。この舞い上がる粉がなんであるのか。
その正体は『小麦粉』だ。スピカが向かっていたのは町に入った時、ウラヌスが寄り道していたパン屋だった。
パン屋の傍には小麦粉の倉庫があり、ミノタウロスはそこに突っ込んだ。突撃時の衝撃と纏う風により袋はズタズタに切り裂かれ、中の小麦粉が風で舞い上がる。それが辺りを満たす白い煙の正体という訳だ。
「ブモゥ!? ブモオオオッ!」
小麦粉を吹き飛ばそうとミノタウロスは風を起こす。確かにそれにより小麦粉は飛んでいくのだが……白煙は薄まらない。むしろどんどん範囲を広げていく。
「……思った通り」
その様子を眺めながら、ウラヌスと共にとある民家の屋根から見ていたスピカは独りごちた。
ミノタウロスは魔法の風を起こす。どうやって風を起こしているのかは、全く分からない。
だがどんな理屈で風を起こすにしろ、風を起こせば周りの空気を吸い込む事は変わらない。風というのは空気の流れで、もしも流れ込まなければ、そこは空気のない『真空』になってしまうのだから。
ミノタウロスは必死に前に風を吹かせているが、その結果ミノタウロスの後ろから新しい空気がどんどん流れ込む。後ろとはつまり、壊された倉庫のある側。まだ舞い上がっていない小麦粉がたくさんある場所であり、ミノタウロスがやっているのはただ小麦粉を舞い上がらせるたけの行いだった。おまけに守りとして展開している風の影響で、小麦粉が全身をぐるぐると包んでいる始末。
今のミノタウロスは小麦粉塗れだ。小麦粉による煙は拡散しながらも、密度は殆ど下がっていない。
「んー。でも、これでどうなるんだ? ただの小麦粉だぞ?」
その様子を同じく眺めていたウラヌスが、疑問を言葉にする。彼女の疑問は尤もだ。小麦粉をいくら吸い込んだところで、普通は死ぬものではない。体質によっては小麦粉が毒になる事もあるらしいが、今も『元気』なミノタウロスにそれは期待出来ない。
しかしスピカは小麦粉の危険性を、もう一つ知っている。昔、とある冒険家から教わったがために。
「知ってる? 小麦粉って、燃えるのよ」
「む? そうなのか?」
「そう。とはいえボーボー燃えるもんじゃないけど……でも舞い上がった粉になると、よく燃える。しかも空気と程良く混ざり合っているとね、一気に燃え上がるの。まるで爆弾みたいに」
だから密閉された室内で小麦粉や埃を舞い上がらせたら、どれだけ暗くてもランタンなどの火を付けてはいけないよ――――スピカにその知識を与えた冒険家は、最後にそう締め括った。
スピカはその言葉を胸に、嬉々として火矢を用意する。
矢の矛先が向くは、小麦粉の中大暴れしているミノタウロスの方。
横目に見ていたウラヌスの目が、僅かに細くなる。
「で? どうなんだ?」
「どうって?」
「まだアイツは怖いか?」
ウラヌスはミノタウロスの指さしながら尋ねてくる。
けれどもスピカの目に映るのは、ミノタウロスではなく、もっと強大で、もっとおぞましいもの。
「ええ、まだ怖い」
今度のスピカは正直に答える。
故にウラヌスは笑ったのだろう。スピカの顔に浮かぶ笑みを見ながら。
もう、スピカの手は震えていない。
「これで、少しはマシになるわね」
そう言いながらスピカは手を離し、自由になった火矢が空を駆けていく。
雄牛の猛り狂った悲鳴と爆音、そして夜明けを彷彿とする炎が噴き出したのは、それから間もなくの事であった。




