狂いし魔物6
「あ、れ?」
四肢が震えて、力が入らない。
立ち上がろうと奮起するスピカだったが、身体は言う事を聞いてくれない。ガタガタと震え、体重を支えるだけの力を出せないでいる。
受けた傷が大きかったから、ではない。確かに脚も腕も、ミノタウロスの放った水で肉を抉られた。だが骨には達しておらず、痛いだけで力を発揮するのに支障はない筈だ。
どうして立てない? どうして震えが止まらない? 困惑と焦りでスピカは身動きが鈍っていく。
それでも少しずつ、身体を起こしていたのだが……
ミノタウロスが一歩近付いた時、今まで込めていた力がすっと抜けてしまった。
「ひっ」
そして自分の口から漏れ出た、あまりにも情けない声で気付く。
怖がっている。
自分は目の前のミノタウロスに、どうしようもないほど恐怖を抱いているのだと。
「あ、あ、ぃ……」
後退りをしようとして、けれども背中側にある木が邪魔で一歩も動けない。勿論広間に生えている木の太さなど大したものではなく、少し横にズレれば簡単に避けられる。だが、今のスピカにはそれが思い付かない。恐怖に取り憑かれた頭は、思考が黒く塗り潰されていたのだから。
何故こんなにも恐怖しているのか。冒険家になって幾年、命の危機を感じた事など一度や二度ではないというのに。
しかしスピカはその理由に心当たりがある。それもこの戦いが始まる前から、ずっと。
頭の中にこびり付く魔王――――故郷を焼き尽くしたワイバーンの姿が、目の前の雄牛と重なってしまうのだ。
「(怖い、怖い怖い怖い……!)」
一度恐怖を自覚したら、もう抑える事も出来ない。全身がガタガタと震え、冷や汗が身体中から流れてくる。
ただのミノタウロスなら、きっと怖くもなんともなかった。何も知らずに『魔法』だけを見ても、妙なミノタウロスとしか思わなかっただろう。
しかしスピカは知ってしまった。このミノタウロスが魔物であり、魔王と似た存在であると。魔王であるワイバーンと関わりがあるのだという情報が、二つの存在を結び付ける。
魔王と思しきワイバーン。それはスピカの家を焼き、知り合いを焼き、家族を焼いた。
もう何年も前になる、幼少期の記憶だ。何度も何度も思い出し、脳裏に焼き付いた光景。あの記憶を思い出す度に、身も心もあの時のように戻ってしまうような感覚に見舞われた。
そんな訳はない。自分は大人になり、冒険家としても成長した。確かに恐ろしい生物であろうが、知恵と技術を用いれば勝てない相手ではあるまい。大人になると父と母の背中が小さくなったように感じるのと同じで、今会えばワイバーンもただのドラゴンとしか思えないと考えていた。
考えようとしていただけだった。
「(ああ、駄目だ……やっぱり、身体が動かない……)」
動かない身体が全てを証明している。自分は恐怖を克服なんてしていなかった。
いや、どうして克服出来たと思ってしまったのか。今までただのデカいワイバーンだと思っていた存在が、実は御伽噺の存在である魔王だと伝えられたのに。相手の実力に関する情報があったのに、今までの思い込みのまま動いてしまった。
今なら認められる。自分は受け入れられなかったのだ……ワイバーンを倒せない可能性を。
ただの強がりなのだから、本能がそれを受け入れる筈もない。だから身体と本心は怖がっていた。ウラヌスにはそれを見破られ、図星を突かれた事を否定したくてますます強がる。
それが強がりでないと証明するには、魔王を倒せると証明しなくてはならない。人間社会であれば、手心や善意によりその強がりを現実に出来たかも知れない。されど獣にそんな理屈は通じない。一片の容赦もなく、『現実』を叩き付けてくる。
だからこうして魔物に負けてしまったのだ。
「(私じゃ、無理なのかな)」
恐怖を誤魔化すために強行した戦いであるが、準備不足や情報不足だったつもりはない。対ワイバーンのための道具を使い、情報についても研究者から直に教えてもらった。万全だと思っていたのは間違いない。
しかしそれでも足りないのだ。
どうすれば良かったのか。後は何を用意すれば良かったのか。様々な考えが巡るが、スピカは意図的にそれを打ち切る。もう、考えたところで意味はない。ミノタウロスは止めを刺そうとしている。
「(爆弾がもう一個あったら、刺し違えるぐらいは出来たかも……いや、無理か。平然としているし)」
今思うと、風の魔法で爆風を相殺していたのかも知れない。最大の一撃も致命傷にならないのなら、何をどうしたところで勝てる訳がない。
勝ち目なんて、最初からなくて。
それが今になって、出てくる筈もない。
「ブモオッ!」
短い唸り声と共に走り出したミノタウロスに、スピカは腕一本動かせず――――
「だりゃああああああああっ!」
精々辺りに轟く雄叫びに、驚いてその身体を強張らせるのみ。
しかし雄叫びに驚いた理由は、ミノタウロスの声の大きさではない。
ミノタウロスの声ではなかったからだ。
「あアッ!」
「ブッ!?」
声が聞こえた次の瞬間、ミノタウロスに『何か』が激突する。大きさはミノタウロスより遥かに小さいが、その勢いは鳥のように素早い。
そして力も大きいらしく、ミノタウロスの巨体が宙に浮かんだ。ミノタウロスの身体はこれまた魔法による力のお陰か、空中でふわりと浮かんで体勢を立て直し、転倒こそ防ぐ。
しかし着地後すぐに反撃とはならず、ミノタウロスは攻撃者を睨む。対するその攻撃者は堂々たる仁王立ちで向き合う。
逃げも隠れもしない『彼女』の姿は、スピカの目にもハッキリと映った。
「ウラヌス……! なんで、此処に!?」
それが置いてきたウラヌスだと気付いて、スピカは驚きから思わず声を上げる。
流石にミノタウロスから視線を逸らす事はしないが、スピカの声にウラヌスは快活な声で答えた。
「うむ! なんとなーくこっちが五月蝿いと思ったから駆け付けたが、予想通りで良かったな!」
「五月蝿かったって、獣並の聴力……ってのも今更か」
彼女が色んな意味で人間離れしている事は、今までの旅で散々見てきた。今更驚いても仕方ない。
それよりもスピカとして問いたいのは、何故此処まで駆け付けてきたのか、という点だ。
「なんで、私を――――」
「むっ、一度下がれ!」
無意識に問おうとして、しかしウラヌスは大声でスピカの言葉を遮る。
改めてスピカに突撃する、ミノタウロスを前にしたが故の発言。
退避を指示されて、スピカは反射的に身体が動いた。へたり込んだ体勢だったため、お世辞にも素早い動きではなかったが、ミノタウロスはそれ以上に機動性がない。スピカの動きを追えず、頭から樹木に激突する。
普通の牛ならこの自爆行為により、失神、或いは目を回している事だろう。だがこのミノタウロスは全く平然としていて、これといって動きに支障は出ていない。とはいえ風の魔法で頭を守った訳ではないらしい。頭からだらだらと流れる血が、それを物語っていた。
魔物と化した動物は、怪我などで七日以内に死に至る。アルファルドが語っていたように、このミノタウロスも自分自身の攻撃により身体を傷付け、やがて死ぬだろう。
されど今すぐ死ぬとは思えない。身体に刻まれた傷は少なくないが、致命的ないし重傷は見当たらないからだ。内臓の傷は外からだと見えないので絶対とは言えないが……それを期待するのは、奇跡を願うのと変わらない。
今ここでミノタウロスを倒すには、直接止めとなる傷を与えねばなるまい。
「ほう! 血を出しても怯まないとは、中々気の強い牛だな! 戦い甲斐があるぞ!」
ウラヌスはやる気満々といったところ。どうせ彼女の事だから、自然に死ぬのを待つ、なんてのは考えてもいないだろう。
対してスピカは違う。
ガチガチと顎を震わせながら、スピカはウラヌスの服の裾を掴む。そして首を横に振りながら、否定の言葉を綴った。
「だ、駄目……に、逃げ、ないと……」
「逃げる? 何故だ? 確かにこの牛は強そうだが、倒さねば町の人々を巻き込むぞ? この町には美味い飯を振る舞ってくれた恩があるからな! 町を荒らす獣は我々で倒すのが報いる術だろう!」
ウラヌスはスピカの言葉を拒否。堂々たる姿で、自分の考えを述べる。
その答えにスピカは、しばし何も言えなかった。
強敵を前にしても、ウラヌスは何も迷わない。戦士としての強さを求め、戦士としての振る舞いを指針にしているから、どんな時でも自分を見失わない。
対して、自分はどうだったか?
復讐を求めてはいた。復讐のために様々な知識や技術を身に着け、復讐心で心を燃やしていた。
だけど、やっぱり恐怖には勝てなくて。
身体は大きくなっても、自分は未だ、あの小さな村に住む『小娘』のまま。ましてや相手は歴史を幾度となく揺るがしてきた魔王。復讐なんて、出来っこない。
「それに、コイツは確かスピカの仇の、なんかなのだろう? ならやはり倒さねばならんからな!」
なのにウラヌスは、残酷な現実を心の傷に塗りたくってくる。
胸の中で渦巻くスピカの感情が爆発するのに、その刺激は十分なものだった。
「……何よ、何よ何よなんなのよ! 出来っこないでしょ!」
「おおぅ? ど、どうし、むむっ」
突然声を荒らげるスピカに戸惑うウラヌスだったが、素早くそのスピカを脇に抱えると、その場から飛び退く。
ウラヌスとスピカのいた場所に、ミノタウロスが頭から突っ込んできたのだ。
ウラヌスが跳んだ事で攻撃は空振りに終わったが、しかしその際突風が二人を襲う。ミノタウロスの『魔法』が発動したのか。お陰でウラヌスは空中で体勢を崩し、スピカ共々地面を転がっていく。
素早く立ち上がれたのは、ウラヌスの身体能力があってこそ。されど回避してくれた事への感謝より前に、スピカの口からは感情に塗れた言葉が漏れ出る。そして感情が爆発した今の心に、口を止める力はない。
「そうよ! コイツは、コイツを生み出した魔王が、私の両親の仇! でも、こ、コイツを、前にしたら、怖くて……」
「あ、やっぱり怖がってたんだな」
自分の考えていた通りだと分かり、満足したのか。ウラヌスはちょっと嬉しそうに指摘してくる。
もう、スピカにはそれを否定しようという気持ちはない。正直に、自分が感じていた気持ちを認めてしまう。
「そう、よ……怖かった。でも、それを認めたら……仇なんて取れないと、思ったから」
「……ん?」
「だから怖くないって、気の所為だって、考えて。でも、私のやった攻撃が効かないアイツを、見たら、や、やっぱり、怖く、なって……」
思い出せば、それだけで恐怖が心を締め付ける。
こんな状態では戦えない。立ち向かうなんて出来ない。
恐怖なんて覚えなければ、魔王だろうと魔物だろうと、冷静に立ち向かえた筈だ。だけど自分の心が弱いから、こんな事になってしまった。
姉や兄を殺されても動じない、ウラヌスのような強い心があったなら……ないものねだりまで始めてしまう自身の軟弱な心に、嫌気が差してくる。
俯き、目を伏すスピカ。そんな彼女にウラヌスは、首を傾げながら声を掛けた。
「なー、部屋で聞いた時も気になっていたんだが」
「……何?」
部屋にいた時から気になっていた事。ウラヌスの問いたい事柄が分からず、スピカはじっとウラヌスを見る。
無論、二人の問答など理性を失った獣にとっては聞く価値もない。ミノタウロスは再び突進を仕掛け、ウラヌスはこれを寸前で躱す。相手の動きを見切った、理想的な動き。恐怖を感じていては決して成し得ない。
スピカがそう感じる中で、ウラヌスは問いを投げ掛ける。
「怖がる事の、何が悪いんだ?」
スピカの身体を縛り付ける感情への、根本的な疑問を――――




