狂いし魔物5
スピカが向かったのは、燃え盛る防壁、ではなかった。
魔物と呼ばれているミノタウロスだが、正体はただの牛だ。炎が立ち昇れば怖がり、離れようとするだろう。興奮状態もあり、本能的に落ち着ける場所を探すに違いない。
例えば、防壁の傍にある広間。
火事のお陰で地上が明るく照らされ、防壁の窓から覗けば目当ての場所は見付けられた。加えて破壊された家々がその行く先を示す。
「さぁ、どうなるかな……!」
スピカは目星を付けていた広間に辿り着き、すぐに辺りを見渡す。
広間の範囲はざっと五十メトルほど。中心には浅そうな池があり、周りには柵が設置されていた。
乾燥地でありながら池があるのは、湧き水が此処から出ているのかも知れない。市民にとって憩いの場として使われていると思われる。
今から此処で戦いをするのはスピカとしても申し訳ないが、流石に、被害の少ない場所まで誘導しようという嘗めた考えは持てなかった。
「……来る」
スピカはある方角を見遣る。
最初は、小さな揺れだった。しかし段々と、時間が経つほどに揺れが大きくなっていく。
より正しく言うならば、揺れの源が近付いてきているのだ。猛烈な速さで。
「モゥオオオオオオオオッ!」
雄叫びと共に広間の一角にある家の塀を砕き、巨大な牛――――ミノタウロスが姿を表した!
ミノタウロスは大きな角を振り回し、周りにあるもの全てを攻撃している。相当強い力で暴れているのか、スピカが見ている前で身体の傷がどんどん増えていた。しかしその痛みで顔を顰めていたり、或いは呻きを上げたりもしない。
極度の興奮状態は痛みを忘れさせる。人間でも死闘を繰り広げた直後は、内蔵が外に出ていても気付かない事があるという話だ。ミノタウロスの興奮も、その水準に達していると思われる。無論これは自分の怪我に全く気付かないという意味では、極めて好ましくない状態なのは言うまでもない。
また身体は部分的に黒ずんでいて、火傷を負っているようだ。ミノタウロスは火災を広めた元凶であるが、自身もその火に焼かれたようである。
決して万全の状態ではない。だが、試験相手としてはこれで丁度良いだろう。
「さぁ、魔物の強さとやら……見せてもらおうか!」
スピカは弓を構えながら、ミノタウロスに宣戦布告を行った。
ミノタウロスは大して頭の良い動物ではない。人間の言葉を理解する事は出来ない筈だが、単純に物音に反応したのか、ミノタウロスはスピカの方を見る。
そして猛然と、スピカ目掛けて突撃してきた!
牛の仲間自体は自然界でもよく見られる。食味の良さから歴史上頻繁に人間に狩られ、絶滅した種もいるからか、野生の牛はそこそこ攻撃的だ。スピカも幾度となく襲われたり、或いは食糧として襲ったりしてきたが……今まで見たどんな牛よりもこのミノタウロスの突撃は速い。身体能力が大きく増大している(或いはたがが外れている)ようだ。
しかし直線的かつ等速の動きを読むのは、極めて容易い。
「ふっ!」
衝突寸前のところでスピカは横に跳び、ミノタウロスの攻撃を躱す。避けられたとミノタウロスもすぐに気付いただろうが、大柄でガッチリとした体躯は小回りが利かない。ミノタウロスはしばし真っ直ぐ、スピカの真横を通り過ぎていく。
そのまま逃げられる、というのがスピカにとって一番厄介な状況だ。突進時の速さからして、人間の足ではどうやっても追い付けない。
だが、その心配はいらなかった。
ミノタウロスは大きいながらも弧を描き、スピカの方に戻ってきたからだ。牛というのは草食動物であるから、どんなに攻撃的な性格でも基本の戦略は『逃げ』。肉を喰らう肉食獣と違い、敵を倒しても何も得をしないのだから逃げる方が合理的なのである。しかしこのミノタウロスはわざわざ戻ってきた。間違いなく、スピカを打ち倒すために。
魔物と化した事で、性格が大きく変わったのがこうした行動からも窺える。そうした情報も『魔王』と戦う上で役立つ。
そして真っ直ぐ向かってくる状況は、攻撃を加えるのに非常に良い。
「(何時もなら、危険過ぎて使わないけど……!)」
スピカが取り出したのは、一本の薬瓶を先に付けた矢。落ち着いて、不用意に瓶を刺激しないよう弓に宛てがい……放つ。
瓶の中に詰め込まれているのは、ドラゴンの『消化液』を材料にした溶液。
頂点捕食者であるドラゴンは様々な動物を食べるが、動物の中には硬い殻や骨など、消化の難しい部位も多い。しかし巨大なドラゴンは餌も大量に必要であり、柔らかくて美味しい部分だけ食べるという贅沢は出来ない。仕留めた獲物は骨も皮も全て食べる。
そうしたものを消化するためか、ドラゴンの消化液は強力だ。種によっては、消化液を吐き出して攻撃してくるものもいるほど。まともに浴びれば火傷のように皮膚が溶けてしまう。
スピカは長年続けてきた旅の中で、ドラゴンの亡骸を度々目にしてきた。大抵は腐敗していたり、他の動物に食い荒らされて骨になったりしていたが、稀に新鮮な死骸もある。その新鮮な死骸から取り出した胃袋、更にその中にある胃液を取り出し、乾燥させたものをスピカは常に所持していた。
乾燥させた粉は安全だが、これを一定量の水に溶かすと、元の酸性を取り戻す。硝子瓶なら保存可能だが、割れたり漏れたりすれば大怪我必須だ。飛沫を浴びるのも危ない。
そもそも新鮮なドラゴンの死骸など、そう滅多に見付かるものではない。スピカが十年の旅で得た乾燥胃液の量は、硝子瓶にしてたったの二本分。そのうちの一本が、今スピカの放った矢の先にある。
貴重なそれは、強敵相手に相応しい一撃だ。
「ブ、モギィイッ!?」
割れた硝子瓶から溶液が飛び散ると、ミノタウロスは大きな悲鳴を上げた。じゅうじゅうと音を鳴らし、突撃していた足を止める。
間違いなく効いている。
何時もなら相手が怯んでいる隙に逃げ出すところだが、此度のスピカは違う。今回の目的は生き延びる事ではなく、敵を倒す事なのだから。
「(立て直す隙は与えない!)」
立ち止まるミノタウロスの側面に回り込むや、スピカは新しい道具を取り出す。
今度の道具は、またしても瓶に詰めた薬液。
それを思い切ってミノタウロスに投げ付けながら、スピカは大きく後ろに跳んだ。強酸で怯んだミノタウロスは鋭い眼差しをこちらに向けてきたが、攻撃するほどの時間はない。
スピカ渾身の投擲により、瓶はミノタウロスの身体に触れた衝撃で割れた
瞬間、巨大な爆発がミノタウロスの側面で炸裂した! 爆発の衝撃で、大人であるスピカの身体さえも大きく飛ばされる。もしも受け身を取らなければ、下手な転び方をして首でも折っていたかも知れない。だが、スピカにとってこの爆発は想定内。体勢を維持し、なんとか足から着地する。
とはいえ無傷、という訳ではない。
爆発と共に飛んできた、硝子の破片が自分に襲い掛かってきたからだ。
「くっ……!」
飛んできた破片に対し、スピカは両腕を顔の前で構える。彼女の着ている服は獣の皮で出来た頑丈なもの。飛んできた硝子片は服が受け止めた。
しかし完璧に守れた訳ではなく、硝子の先は僅かに服を貫き、腕に掠り傷を作る。また構えた両腕の隙間を通った小さな硝子が、スピカの頬を切り裂く。
痛みが至るところを走る。だが気にするほどの事ではない。
それよりも重要なのは、先の爆発の効果だ。
「(普通の動物なら、粉々に吹き飛んでるところなんだけどね……!)」
硝子を完全に受けきってから腕を退かし、スピカは正面を見据えた。
今し方スピカが投げたのは、フェニックスと呼ばれる鳥の羽根を原料にした爆薬だ。
フェニックスは天敵に襲われると、羽根の一部を飛ばす生態を持つ。この羽根は地面などに接触すると、『破裂』する性質があった。威力は小さなものだが音は大きく、天敵を怯ませる効果がある。
この羽根をとある魚から取れる油に浸し、劣化により粉々になるまで太陽光に何百日と晒す。これで薬液の完成だ。ちなみに油は溢れるまで波々と注ぎ、その後加熱して油を沸騰させる事で瓶から完全に空気を抜く。何故なら薬液は空気と反応し、巨大な爆発を起こすからである。
爆発するという意味では爆弾矢と似た道具だが、違いはその威力の大きさ。爆弾矢と比べてざっと数倍は強力な爆発を起こす。あまりの危険性に、普段は万一全体重を乗せても壊れない、頑丈な小箱に入れて封印しているぐらいだ。そして空気に触れるだけで爆発する性質上、布に染み込ませる、なんて真似は出来ない。
よって使用方法は投擲のみ。射程距離は矢と比べて遥かに短く、また速度がないため遠くの的に当てるのは困難。そのため対象との距離がかなり近くなければ使えない。近ければ爆風が使用者にも襲い掛かり、怪我を負うだろう。
強過ぎて使えない道具の典型だ。しかしいざ用いれば、危険に見合った威力はある。
普通のミノタウロスなら、首から上がごっそり消えているだろうが……
「ブモオオオオオッ!」
ところがこのミノタウロスは、まだ生きていた。身体は傷だらけで、所々焦げ付いているが、死ぬような気配はない。
あの爆発からどうやって生存したのか。理屈は分からないが、しかしスピカは非常識な状況を前にしても狼狽えない。確かに非常識ではあるが、此度の相手は常軌を逸した魔物である。生きている事は想定内。
故に、既に次の手は用意してある。
「なら、コイツはどう!?」
爆煙の中から現れたミノタウロスに向けて、スピカが投げ付けたのは爪先よりも小さな丸い粒。
これは『油玉』というもの。油玉の材料は海沿いに生息する大柄な海獣ポセイドンの皮脂だ。これを煮詰めた後薬草と混ぜ合わせ、天日干しして作り出される。
油玉自体は強い刺激で破裂し、油を撒き散らすだけの代物である。スピカが投げ付けた油玉も、ミノタウロスの身体に触れた途端に弾けて、その身体を油塗れにするだけ。しかしこの油は、海沿いの都市では最高の燃料として使われるほど高品質。極めて長時間、安定して燃え続ける性質を有す。弱点は燃え方が緩やかで『火力』が乏しい事だが、それでも肉を焼くに使える程度の熱は出す。生き物を殺すならこれで十分。
そしてほんのちょっとの火種で簡単に着火する。スピカが構えた火矢であろうとも、だ。
「ふっ!」
素早くスピカはミノタウロス目掛け、火矢を放つ!
矢はミノタウロスの胸の当たりに命中。分厚い筋肉に阻まれ、深くには刺さらなかったが、しかし火が燃え移るには十分。
ミノタウロスの身体は、油を伝って大きな炎に飲み込まれた。
「ブモ!? ブモオオオオオオオオッ!」
ミノタウロスの大きな悲鳴が、辺りに響き渡る。巨体を跳ね回るように暴れさせているのは炎から逃れるためだろうが、激しい動きにより空気が掻き回され、一層炎は激しさを増していく。
自然界において油断は厳禁だ。どんなに追い詰めたように見えても、生きている以上はなんらかの反撃をしてくるかも知れないのだから。ましてやこのミノタウロスが『魔法』の使い手である事は、魔王について説明を受けた際に目の当たりにしている。その破壊力が、人形程度なら切り裂く事も。
スピカもそれは分かっている。だから一歩二歩と後ろに下がり、スピカは少しずつ距離を取る。少しでも妙な動きを見せれば、すぐにでも次の対応出来るように。
それでも、強張っていた表情が少しずつ弛んでいくのを感じた。
「(まだ手はある。妙な動きを見せたらすぐに喰らわせてやる……!)」
先手を取れたお陰もあり、一方的に痛め付ける事が出来ている。炎の熱は今頃、確実にミノタウロスの肉を焼いている筈だ。
油断しなければ魔物と化したミノタウロスには勝てる。
流石にこんなにも簡単に魔王を倒せるとは思えない。だが大きな手掛かりになった。魔物といえども、火で殺せるという事が分かれば十分。
このままミノタウロスを倒したら、更に発展させた作戦で魔王を――――そう考えていた時だった。
スピカの身体に、何かが突き刺さった。
「……ぅ、い……!?」
走る痛みに顔を顰め、後退していたスピカの足が止まる。何が起きたのか? 困惑で頭の中が真っ白になってしまう。
だからこそ本能的に、痛みの方に視線を向けた。
そこは右腕だった。二の腕の辺りの服に親指ほどの大きさの穴が空き、そこから赤黒い血がどぼどぼと溢れている。穴は貫通こそしていないが、肉を大きく抉っていた。痛みの所為なのか、それとも傷の深さの所為か、弓を掴む手に力が入らない。このままではぽろりと落としてしまいそうなほどに。
スピカが攻撃を行うには弓が欠かせない。それを掴む手に力が入らないのは致命的な問題だ。だが、それよりも今のスピカの頭を満たすのは怪我の『原因』。
ミノタウロスは風の魔法を使える。
ならば風により腕を切られたのか? 真っ先に思い浮かんだ可能性は、しかし傷口を見るに違うとスピカは判断した。ミノタウロスの吹かせた風は剣のように人形を切り裂いたが、それでも布切れを浅くボロボロにする程度。あのボロ人形より遥かに丈夫な革の服を貫くとは思えず、何よりこんな大穴を作り出せるとは考え難い。
一体、何が起きたのか?
「ゥモオオウッ!」
その答えはミノタウロスが次に起こした行動が示した。
大きな咆哮を上げるや、ミノタウロスを包んでいた炎が急速に萎み始めたのである。
油が燃え尽きたのだろうか? それはない。海獣の油は極めて燃焼効率がよく、一度燃えれば数分は火を灯す。いくら暴れた事で空気をたくさん送られたとはいえ、こんな簡単に消える筈がない。
とはいえ、それは空気で消そうとした時の話だ。他のものを使えばもっと簡単に消せる。
例えば水。
ミノタウロスの身体の表面をだらだらと流れるほどの、大量の水があれば消火は簡単な事だ。
「な、にそれ」
ただし、目にしたスピカがそれを受け入れられるかどうかは、全く別の話であるが。
今やミノタウロスの身体は、まるで土砂降りにでも遭ったかのようにびしょ濡れだ。火だけでなく油も流され、もうその身体は燃えていない。
雨が降っていない事は、同じ場所に立つスピカが証明する。一体何処から水が来たのか。確かに近くに池はあるが、ミノタウロスはそこに近付いてもいない。
それでも池の方に無意識の視線を向ければ、水の出処は明らかとなった。
確かに水は、広間の中心にある池から来ていた。さながら嵐の中のように、無数の水滴が空を飛んでいく。
ミノタウロスは『風』で攻撃をする。スピカはそう考えていたが、しかし想像を膨らませてみれば、風というのはただ攻撃だけに使えるものではない。ものを運ぶのにも役立つものだ。それこそ、スピカ達が砂漠を帆船で渡ったように。
しかしミノタウロスは家畜だ。人間ほどの賢さはない筈である。本能でそれを成し遂げたのか? それとも炎を消そうと試行錯誤する中でやり方を見付けたのか?
だが一番の問題は、理由はどうあれ恐らくもう炎は通じない事だ。
そして運んできた水は、攻撃にも使える事をスピカは思い知らされる。
「ブモオオオオッ!」
ミノタウロスが吼えた瞬間、『何か』がスピカ目掛けて飛んできた!
まるで矢のような速さで飛んできたそれは、スピカの足に命中。すると足の肉を抉り、大きな穴を開けたではないか。
腕にされたのと同じ攻撃だろう。前と違うのは、今度のスピカはその目で攻撃の瞬間を見ており、またミノタウロスの『技』も目撃している事。それ故に、スピカは自分の身に何をされたのかを理解する。
「(み、水だ……! 水を風で飛ばしてきたんだ……!)」
水と言えば、当たれば弾けて飛び散るもの。それをぶつけて攻撃する、と言ってもピンと来ないだろう。
だが高い崖などから落ちた水滴は、当たると中々の衝撃をもたらす。ただ自由落下するだけで痛みを感じるほどの威力を持つのだ。魔法の風で水を飛ばせば、高速で投げ付けた石のように対象を傷付けられるという事か。
「くっ……この……」
肉を抉られ、力を失った足が崩れ落ちる。
すぐに立ち上がろうとしたが、それよりもミノタウロスが行動を起こす方が早い。
突撃してくるミノタウロスに、スピカは咄嗟に立つのを止め、弓と腕を構えて守りの体勢を取る。
もしもその体勢を取らなければ、ミノタウロスの突進の衝撃で、内臓が潰れていただろう。尤も両腕を構えたぐらいで、何倍もの体重差がある相手の一撃を耐えきれる訳もなく。
「ぐぁっ……!?」
ミノタウロスの突進を正面から受けて、スピカは呻きを上げる。その身体は宙に浮かび上がり、そのまま後方にふっ飛ばされた。
空中では体勢をどうこう出来ず、飛ばされたスピカは広間に立っていた木の一本にぶつかる。
「う、げほっ、げほっ……!」
全身に走る衝撃のあまりの大きさに、思わず咳き込んでしまうスピカ。身体が痛みで末端まで痺れ、上手く動けない。
その間にも、ミノタウロスはゆっくりと狙いを定め直していた。
ミノタウロスが見逃してくれる事はないだろう。鼻息を荒くし、目を血走らせている姿を見れば、追い詰められたスピカでもそんな期待はしない。今の一撃は後ろに吹っ飛ぶ余地があったから、痛みだけで済んだが……ここでもう一発体当たりを受けたら、もう逃げ場はない。
立たなければ今度こそ止めを刺される。
「こんな、こんな奴に……負ける、もんか……!」
スピカは両手を地面に付け、立ち上がろうとする。顔に闘志を滾らせ、鋭い眼差しでミノタウロスを睨みながら。
そして立ち上がろうとした時に気付く。気付いてしまう。
自分の手足が、凍えるように震えている事に――――




